あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
1/01 金 45.0   ひと足お先に、ご勝手京都マラソン(*^。^*)
迎春モードで5時間チョイ。
 「飢餓状態」にあるほうが、人間の行動力(生殖力含む)は増大するものだと言われるのは本当らしい。
 30日夜以降〜本日夕食までの間、わたしが口にしたのは缶ビール3本、ファミマのホットコーヒー(L)2杯、スギナ茶マグ2杯のみ。これで、昨日今日のRUN並びに臨時バイトをソツなく…っていうより、むしろサエた感じでこなしたことで、実感することができた。体の中にある血液やエネルギーが、「しかるべきところにきちんとある」という感覚は、快感である。
 このままあと数日、このプチ断食状態を続けられそうな気がしたが、しゅ〜る之助も帰ってきたし、やめとくことにした。でも、また機会があったら試してみよう(*^。^*)
 
1/02 土 10.3   東寺さんコース
臨時バイトがあるので、メチャスピーディーに!(>_<)
…しかし、マジでペース速くなってる…(゜o゜;)
 臨時バイトとは…単なる「洗濯オバちゃん」である。オシャレにいえば「リネンサプライ」、そやけど今日はベッドメイキングもあるので「ハウスキーパー!」ってか(*^。^*)テヘッ。
 京都では、年末年始ほど忙しい「接客業」がヤマモリあるので、その気になれば臨時収入を得られる絶好のチャンスがあちこちに転がっているのだ…って、今回の臨時バイトは「人助け」みたいなもので、「お金のため」ということが一番なわけではないから、なんとなくスガスガしくこなしているんである。
 初日はいろいろな意味で「ドヒャーッ!」な面が多かったが、慣れてコツをつかんでくると、実はこういう仕事も向いていたりして?なんていう気になってくるから不思議なものだ。…といいつつ、仕事は本日が最後であるし、正直な話、あまり延々やるのはヤバイかも?という気がしている(-_-;)
 理由は、洗濯に使う「洗剤」。ボールドとかいうめちゃ匂いのキツイやつがアカンのである。家に帰ると、手や服に匂いが移っているのがちょっと…それどころか、昨夜など髪の毛にまで匂いがついていて、このままでは「化学物質過敏症」になるんちゃうか?という不快感テンコモリなのだ。一般人は、このような物質に晒されていることに無感覚なのだということが改めて恐ろしく感じられる。翻って、わが家ではその意味での危機をフツウに回避できていることが改めてよくわかった(^。^;)ホーッ、アンシン、アンゼン☆
 「Do You kyoto?」というキャッチフレーズの下、京都市では様々なエコ活動が展開している。それは主に電車・バスの利用促進等に目立つところであるが、毎日これだけ多くのシーツやおしぼりが飛び交う地にあっては、むしろこういう隠れたポイントにこそ啓蒙されていくことが望ましいのではないか?それこそ、京都人が大好きな「さすがは京都」「京都初」の取り組みになるんではないか?と思うのだが…ちなみに、うちの洗濯洗剤は「ミヨシせっけん」どす。
 
1/03 日 23.0   知恩院さん・下鴨・天神さん・松尾大社グルリ☆
松尾さん、左から右へ?(個人的メモ)
なぜかGETしてなかった下鴨さんの学業守りようやく入手(*^。^*)
 五条坂をラクラクスイスイ登った感触は、まるでサンタイモード(゜o゜)スゲーッ!   
 なにか一味違う、今年の観往RUN(*^。^*)…が、そんなことばっかりではしゃいでるバヤイではない!(>_<)
 
1/04 月 22.0   まったくもってマイナーやけどなぜか気になる神社へ…のコース☆
図書館の開館遅すぎ!
大学も市立も6日からって、休みすぎやで。国会と府立は明日からやけど。
…てなことで、今日もチョイ距離長めにいった(*^。^*)
 大丸の入口(四条通側)に、なにやら白くてキレイなお菓子屋さんがあることは知っていたが、それが京都には一件しかない「ガトーなんちゃらハラダ」という店であり、そこのチョコレートがけラスクがメチャウマであることを先日ようやく知った。体の水分を吸い取るような気がする乾いたお菓子(クッキー・スポンジの類)は一切NGといいつつ、そこにチョコレートや生クリームがかかって湿り気を帯びている場合はOKという、ヤヤコシイ趣向を持っているワタクシにとってまさにビンゴ!な商品と出会ってしまったのである。
 全部で8枚あったチョコレートラスクが、2日でなくなった…ということは、2日で食べてしまったということだ、とアタリマエのことを、ささやかな胃もたれ感と共に振り返ってみたりする(>_<)
 いやしかし…歩いても20分ちょいの場所に、このようなウマウマ菓子があるということは、ちとヤバイ。5枚で800円程度のミニパックがあるというのもヤバイ。ウホホホホ(*^。^*)←ナンダ、コノワライハ?
 
1/05 火 22.0   桂コース☆
今月、平日で20出せるのは、たぶん今日が最後だろうo(-_-)ガクモン、シューチュウーナノサ!
この2年で、論文のターゲットがグンと広がっている衝撃(゜o゜;)
閲覧計画をしっかり立ててからでないと国会図書館行きはムダと判断し、ひきこもり作業に変更(-_-;)
 実際、このタイミングで国会を逃すと、次のチャンスが作りづらくなる気もするがしかたあるまい…。
(↑なんか、この文章だけ読むと、選挙に立候補する人の話みたいだ(*^。^*)アハハハ。)
…なんでもネットで検索&情報GETが可能になったように感じる現在にも、まだまだ「タノモー!」と門を叩いて拝見しなければならない文書というのはあるものだ。ここが京都だからまだマシなものの、地方ではひとつの研究を果たすためにどれだけ費用と時間がかかるのだろう…と思うと、福井の某市に住みながら(しかも家族に内緒で)スッタニパータを極めようとしている学友の向学意欲には、心からの敬意を表さずにはいられない。せめてINBUDS上では全部閲覧が可能になる日が、早く来てほしいものだ(-_-;)ブツブツ…。
 ところで、今日、PM2.5メッチャひどないか?窓の外が真っ白けっけやで!(゜o゜;)
 
1/06 水 20.1   桂コース☆
昨日が「今月最後」であったはずの20キロ越え(^。^;)
禁煙やダイエットを決意したものの…のパターンと同じやん!
これも、良書を読んだ影響である…たまたま偶然に遭遇した『弱虫ペダル』。
なにかのドキュメントや哲学書とかでないところがワタクシらしい…(^_^.)
 一昔前は「マンガを読むとバカになる」とか言われ、あくまで低俗な娯楽であったマンガであるが、最近ではヘタな学者のウンチクやコメントよりもはるかに「深く感じさせる」ものが多く、ひとによっては「人生を変えるきっかけ」にすらなり得る作品が多くなったように思う。先日読んだ『犬神もっこす』や中村あいさつ(インディーズ)の作品に続き、今回の『弱虫ペダル』に一気に引き込まれた。
 自転車競技がテーマの作品であるが、そこに描かれる「走りへの心境」「風景の感じ方」みたいなところは、旅RUNと称する長距離を愛好するワタクシを共感させるポイントがとても多く、感動的ですらある。
 これまで、旅RUN中にしばしばすれ違う「自転車野郎」たちの姿を見て、なんとなく憧れを持ち続けてきたが、まちや自然の中を延々駆け抜けるときに感じるものは、その手段が足であってもペダルであっても、究極的には同じなのかもしれない…と思った。だとすれば、スピードによる危険性やテクの重要性(ややこしさ)そして経費的な面から言っても、あえて自転車世界に入り込もうとしなくても十分ではないか?とも…まぁ、チャンスがあれば、体験してみたい世界ではある!いやぜひ!(*^。^*)
 
1/07 木 3.0   しゅ〜る之助弁当用のご飯が炊けるまでのRUN(*^_^*)
光徳グルグル。
しかし、周回ってのは何回やっても好きになれない★(-_-)ブーブー!
 全身の筋力バランスが整いつつある最近、逆に、これまでそのバランスを崩してきたらしい箇所の違和感が大きい。特に、背筋がかなりヤバイ感じがするのである。
 折しも『弱虫ペダル』で、自転車は背筋が鍛えられるということを知り、ますます興味をそそられるが今すぐ実行できることではないので、代替手段を講じなければ・・・(-_-;)バランスボールハ、イカガナモンデショウ?
 「走っているから」といって安心できるのは、カラダ全体におけるほんの一部の機能の強化や維持についてであること、それが逆に一般より早く破壊へと向かう可能性も秘めていることを、つくづく実感する今日この頃・・・実際、老人の足腰の強さというのは、その部分自体より背筋力の状態に左右されるということであるから、その意味でも課題として大きいものがあるのである(^_^;)
 
1/08 金 3.0   二条C、ムナシキ往復(T_T)
大学の返却BOXは外付けではなかった…(^_^.)
 ちなみに…市立図書館の返却BOX、市役所前駅の改札にあるのんは、年末年始に一時撤去されるとゆーことを、今年初めて知ったのであった(^_^.)
 
1/09 土 21.0   天王山越え、学問大仏の乗願寺つきで柳谷観音。
…独鈷水よりお目当てだったメグスリノキ茶リニューアルとかで売り切れ中!(゜o゜;)オーマイブゥゥゥ!
山越え…ってほどの山でもないが、道中、元ちとせ、岩崎宏美、BoA熱唱モード♪
カラオケRUNができるとゆーのは、ワタクシにとって「テンションMAX」を証明する指標でもある(*^。^*)キャハハーッ!
 適度な登り下りのあるコースで、前部のモモに「遊び」とゆーか「ユルミ」とゆーか、要するに「余裕」ができていることをしかと感じたのであった。同時にその分を、後ろのモモ筋と内側筋がフォローしてる…ワタクシとしては「おぉっ、なんということだ!」というほどの驚きに満ちた感覚であり、なおかつ、これがここ数か月の「おつとめ」による成果に他ならないことを考えると、まったくもってスゲー展開!と言うのほかはないのである。
 モモの筋力のアンバランスについては、富士登山競走を意識した山RUN時代から痛切に感じていることであった。実際、15年ほど前にはこのサイトの掲示板に「内マタの筋肉が鍛えられる方法知りませんか?」と投稿したこともあるし(ムナシキ回答ゼロ)、御徒町のアートスポーツの人をこき使って、「養成マシーン」のようなトレーニング器具を取り寄せさせたこともある。しかし、「できなかった」のである…それがどうよ?な、このスピーディな進化!(゜o゜)メッチャ、スゴイネンデ!
 つまるところ、「ついに時は来たり」ということなのだろう。「その気」と「時間・場所」と「手段」がうまく合体すると、効果というのはこれほど大きく早く現れるということだ。
 
1/10 日 27.0   桂コース☆+ラー研
おみくじによると、ワタクシの今年の吉方は「東南」らしい…しかしそれは風水的に「最大凶」な位置にあって、どっちがホンマやねん!な1年なのである。
…って、実際そこまで深刻にこだわってるわけではないから、どーでもえーやん!で、いつもと同じコース。
 堺正人と大泉洋(いとこのマサオにクリソツ!)を見たいがために視聴セットしておいた『真田丸』で、タップリふたりの姿を堪能した(*^。^*)ゴチソウサマ!
 それとは別に楽しかったのは、「イワドノ」が連発されていたことだ。旅RUNでさんざん遊びまわっていた界隈にあったあの岩殿山が…である。今さらこんなことに感動していること自体、どんだけ歴史の知識がないのかバレバレになるがー(-_-;)
 
1/11 月 25.0   珍しく山科コース☆天智天皇陵つき
五条まっすぐやし…はマチガイ。三条ズンズンが正解(-_-;)
まぁテキトウに距離伸びたからえーけど。
 ワタクシのRUNポーチ並びに旅RUN用ミニザックは、いずれも16年超の使用に耐えたスグレモノである。今やその色アセやほつれ加減のスゴさは言うまでもない状況にあるが、これを新品に替えることにはものすごい抵抗がある。RUNブームの今、デザインも機能性も良い商品はゴマンとあるが、既にわたしの中ではすっかり擬人化された友人であり同志である彼らの代わりを果たせるものがあるようには思えないのである。「ここまで共に」の思いは、見た目の悪さなどというどうでもよい客観的評価を関知せず超えるものである。笑いたくば笑え。
 ポーチはともかくザックの方は、背面のファスナーがヤバイ。しかししばらくの間は、中身を風呂敷包みにして鈴をつけてでも、このザックを使い続けようと思う。わたしにはまだ、彼らが「お役御免を乞う声」が聞こえないのだ。まだやれる。ザックの不備が命取りになるようなRUNコースを踏まねば良いだけのことだ。ある意味、彼らの「老い」は、同じように年齢を重ねたわたしの「無謀なRUN」を抑止するための変化であるとも思える。わたしが彼らに押し込んできた無理矢理を請け負い、必死に肩腰にしがみついて走ってくれた彼らは、寡黙でありながらわたしのRUNを誰よりも知る、かけがえのないRUN友なのである。
 
1/12 火 21.0   北山コース☆
「東京でいえば青山」な雰囲気…とかつては思っていたが、最近は結婚式場だらけでイマイチ。
しかし、本日ここをコースにしたのは、式場探しとかではない!わざわざ言わんでもわかるってか!(^_^;)
ハラダの激ウマラスクをきかっけに、「ガトーショコラ」に興味シンシンになってしまったアブナイ日々(^_^;)
…しかし、その「名店」と思しき2店が、昨年末で閉店していた…ワタクシがそれにハマることを制止しているような感じ?…逆にアリガタイことと思わねば(*^。^*)チョーシコイテタラ、デブデブニナルデ!
 思っていたことがその通りになるのは「運が良かったから」、ならないのは「ご縁がなかったから」…そういう風に考えられるようになると、驕りや過剰な自意識あるいはイライラや怒りというものがほとんどなくなって楽なものだ。また「思うようにならなかったこと」は、それがもし実現した場合(あるいはムリに実現させた場合)、最終的にはその人にとって最悪な状況を迎える結果になるのかもしれない…と考えると、わが身に起こるすべては「それでよいのだ」ということになる…「人間万事塞翁が馬」とはまさに名言である。
 そんなことを基軸にじぶんの人生を振り返ると…古くは、生活保護のケースワーカーの反対を押し切って定時制から全日制に再入学したことも、片時も教科書を離さず勉強しTOPを守りながら結局大学に行けなかったことも、あらゆるオイシソウな転職のチャンスを蹴って20年一企業に勤め切ったことも、クルマの免許もコドモも持たなかったことも…すべてすべてが、わたしの人生として「それでよかったからだ」ということになるだろう。何があって、そして何がなくても、今、こうして50年近く「生きてこられた」ことが、その何よりの証拠である。
 今回、興味を持ったそのタイミングにガトーショコラ2店閉店とは、まったくもってわかりやすい「ご縁」であった。実際、そんなことのために時間やお金を使っている余裕はないのだし、なにより、そんなことを趣向に取り入れてしまったら、体重をはじめとした健康管理を害することは明らかだからである。あぁーよかった!…と、小ネタで締める(*^。^*)
 
1/13 水 22.0   嵐山コ−ス☆車折神社・ぶだはっ広沢校つき。
SMAP解散?誤報であってほしい(T_T)…ちなみに、クルマサキにSMAPの赤い棒はなかった…(ザックリ見た限り)
夢の丹波アズキGET!たぶん、あの幻の馬路産やと思う(*^。^*)
これを、地元の名水と和三盆で炊けるぜいたくは京都住みならではやんねぇ(*^_^*)ウヒョヒョ。
 二畳庵先生著『易の世界』には、ちょっとした占いコーナーが付録されている。例によって「受け取りによってはいかようにも解釈できる」範疇のことではあるが、さすが中国何千年の歴史に影響を及ぼしただけあって、それなりに「ギクッ」とくるコメントに行き当たるのが面白い。
 先日、あることを念じながらエイヤッと占ってみると、「虚を捨て実を取れ」という卦がが出てドキリとさせられたばかりである。そこには「学問」「服飾」というまさにビンゴな言葉があって、「ちょっと、わたしのこと見てました?」って感じだったのだ(-_-;)…言われてみれば確かにその通りであって、直ちに意識の軌道修正をしたのは言うまでもない。
…ところで。
 最近、ある知人としゃべっていてつくづく思うようになったことがある。その人のアタマん中を絶えず渦巻いている悩みのタネは、「家の購入」「子作り」「美味しいもの」「オシャレ」のいずれかに終始しており、その枠を出ることはほとんどない。すべてが「欲しい欲しい」につながる内容なのだ。ぶっちゃけ、気味の悪さを感じることがある。世の中結局、有名大学を出ようが一流企業に勤めようが、「手に入れたいコンテンツは皆同じ」なのだ。そのレベル内容が、収入その他の条件によって違うだけ。情報に影響され、お金に支配され…豊かになればなるほど、むしろビンボー人より激しく深い何かに拘束される人生になっているみたいで、ある種の落胆を感じる。
 わたしのようなドアホ凡人からすれば、せっかくそこまで順当で優秀な経歴をもつのだから、もう少し奇抜さというか独自の知恵というか見識というか…な人生模様や展開があってよさそうなものだと期待を込めつつ思うのだが、それがない。結局、世の中に既存の定義に己の欲望を反映させ、実現しようとしているだけに過ぎないのである。「個性」だの「自己実現」だのごたいそうなことを口走りながら、その実、「食べる・着る・住む」というまったく根源的なステージ内で「勝つ」ことに腐心しているだけなのである…つまらなくないか、それ?
 図らずも「型にはまれなかった」ことの多い人生となったわたしには、今となってはそのほうがよっぽど自由で面白かったように思われる。負け惜しみなく実感するところである。
 「虚を取り実を取れ」…わたしにとり、「虚」とは一般世間が言うところの「豊かさ」「美しさ」「優位性」のようなものであり、「実」とは、どこをどう見ても「それはわたしだからできること」の追求と顕現にあるのだと思う。この際、「ヘンジン人生」を全うしようではないか!学問も、RUNも、生活のいろいろも(*^。^*)アミダチャンガ、ワラッテミテクレテイルヨウナキガスル。
 
1/14 木 0.0   「廃番」になったはずの時計が、ネット上にはあるという不思議(-_-;)
しかも、注文後30分で在庫確保のメール着信。
お店に出ていたものを「ない」と言ったことがミエミエに判明(ーー゛)怒っ!
 最近、「仕事」に対する意識が低い、すなわち「プロ」が少なっている気がする。換言すれば、物事をすべてイチかゼロかでしか判別できない、また、問われたことに対して「即答」することが「デキル」ことだと勘違いしている人が増えているのではないか。あるいはそれ以前の「やる気」の問題か。
 誰もが簡単に最新で正確な情報を入手できる時代にあってなお「プロ」であろうとするためには、「それ以外、それ以上」の何かが備わっていることが必要であり、またそのために努力することも仕事のうちであろうと思われる。マニュアルに則ってコトを運ぶことが原則ではあろうが、それではうまくいかないケースは実際数多い。そういう時、いかにベストな対応ができるかが本当の仕事なのであり、そこで主力となるのは「ひとの知恵・配慮」である。それが大いに発揮できるか否かが、「CS」の本質にあるのだと思う。…と、これは怪舎員時代から変わっていないわたしの見解である。 
 半年ほど前、「それはもう廃番ですね」と即答されたとき、「さすがは時計売り場のプロやな!」と、感心しつつ状況を受け入れた。ヨドバシ…少なくとも過去、町田店で「根っからの時計マニア」のような店員の快い対応を受けた記憶が「ヨドバシは大丈夫」という認識を植え付けていたせいもある。しかしその信頼は、大いに裏切られた。残念なことである。
 …とまぁ、とにもかくにも、カシオのスポーツウオッチは再びどころか5たび、わたしの腕に収まった。当初8000円していたものが今では4500円…26年の間に、「もっとステキでカッコイイ」ものが続々出てきたからだろう。しかしこれが今なお廃れることなく販売されている事実は、それらを越える魅力があるということを示している。ヘビロテしているひとが、わたしの他にもいるはずだ。「愛好会」でも作りたい気分になる。
 
1/15 金 26.0   淀コース夜RUN☆淀コース
(なんやかやで昨夜からプチ断食モード)
夜は足が浮腫むというが、それでもRUNシューズガバガバな最近(*^。^*)
 NBのW960シリーズ23.5、EEを愛用…っていうか溺愛しまくり続けているわたしであるが、ここのところその靴に足首のグリップの甘さを感じ、なおかつ全体に空間ができ過ぎな気がしている…夜はそれほどでもないだろうと思いきや、昼間の感覚とさほど変わりはない。浮腫みを起こすような水分が、わたしのカラダから抜けまくっているということだろうと思うと、ひじょーにウレシイ(*^。^*)…「体から水分が抜けている」を字面だけでみれば、「いやーん、シワができそう!」な感じがするが、今のところむしろ以前よりツヤツヤツルツルな肌感を維持できているようなので問題ナシ!である。
 話はまったく変わるようだが、変わらない…わたしは、一般平均よりかなり長い大腸をもっていることが検査によって判明しており、また思春期よりこのかた、一般平均以上のバストも維持してきた(もはや自慢気もワイセツ感も漂わない年齢なので遠慮なく書かせてもらう!)。それ自体、健康不健康を左右する問題ではないのだが、「他人より多く持っている」ということはすなわち「他人より多くトラブルを抱える体積を保有している」ということであって、その意味で「ガン罹患率」などが高くなるという認識を持っておくことは必要だという医師のアドバイスを記銘している。要は、余計なものを体内に貯蔵していることがどれほど危険なことであるかということである。
 よって、あっても「むくみ」程度にしか働きのない水分が体から抜けているという今の状況が、どれだけ健康的でラッキーな状況であるかということをつくづく感じざるを得ないのである。
 「いつ死んでもかまわない人生」を歩みたいと思いつつ、「少しばかり留意すれば逃れられる死」は避けたい…ビミョーなワガママ感のあるわたしの生死観は、日々起こるビミョーな変化のキャッチと考察を逃すことなく続くのである(-_-)

1/16 土 12.0   ふつうに鴨川☆田中神社つき
百万遍に引っ越してしまった「つけ麺マン」を半年以上ぶりにいただく…今度はアツモリで頼もうと思ったくらい、初期状態からぬるかった(>_<)…が、やはりウマイ!
 『弱虫ペダル』の中でもしばしば登場していた「プレッシャー」ということば…ここでは、レース中、後から追いかけてくる人の熱気や勝負魂のようなものが、その姿を見るより先に伝わってくることを意味していた。感覚的にはとてもよく理解できる表現である。
 おそらくこれは、極めて動物的・野性的な感覚に属するもので、いくら鈍くても背後に誰かが立てば気配を感じるのと同様、その範囲がどれくらいの距離にまで及ぶかの長短が人によって違うということなのだろうと思う。長ければ長いほどその人は動物的な感覚がある(残っている)のだということだ。あるいは、自転車やRUNなど、自然の中に放り込まれるような環境に置かれることで鍛えられる(呼び戻される)感覚であるということができるかもしれない。
 なお、この感覚は、女性より男性の方が圧倒的に鋭い…というのは、わたしのRUN経験上感じていることである。鴨川などのコースでは、たまに「抜きつ抜かれつ」の状態になることがあるのだが、その前後の空気に籠る「熱さ」は女性の比ではない。まったくオトコってぇやつは…と面白おかしくなってしまうのだが、この「動物的熱さ」こそ、ここまで世の中を動かし支えてきた原動力!なのでもあると思うと、頼もしいことでもある。
 …って、そういうプレッシャーを男同様にガツンガツンに感じているワタクシってのはいったい???(*^。^*)???

1/17 日 21.0   桂コース☆
掃除とかあるので早いめに切りあげた(*^。^*)
 「"今"、何かがおかしいと感じるなら"今"を疑え」…慣らされた通例や概念が間違いであったということは世の中に多々ある。運動のジャンルでいえば「給水」や「ウサギ跳び」など、リアル世代からすれば「何さしてくれてんねん!」な転換もその好例のうちであろう。
 以前であれば、そこに疑問を持つ自体「変人」扱いであった「食」や「環境」についても、真の意味での安全や健康を追求する人々が増えるにしたがって、徐々に「今ある状況を覆す」ようになっているのは喜ばしいことである。この気運が高まれば、残念ながら現在隆盛を極めている各種の商売はその価値を全く失うことになるだろう。
 20年以上前からその「変人生活」を続けてきたワタクシには、洗剤から食材の選択など、既にじぶんなりの「ベスト条件」がほぼ整っているように思ってきたのだが、ここへきて、まだまだ「落とし穴がある」ことに気づかされている。しかもそれが、「食」における最も根本的な「調味料」にあったことは、まったくもってアチャー!なことであった(-_-;)。
 この半年の間に、長年「これなら…」と思ってきた塩を変えた。次に、スプーンやパールでOKとしていた砂糖を変えた。そして今一番の難関は「アブラ」であって目下研究中。ひとり住まいの時代には、1本買ったら1年保ってしまえるほどの使用量だったのでさほど問題にならないことであったが、今はそうはいかないのである。なんせ、同居人が「油小路=アブラノコウジ」という二ツ名をもち、実際、その血液は油でできているかと思うほどの「オイルマン」だからだ(-_-;)
 
1/18 月 10.0   雨の止み間をぬって、ダッシュ系(*^。^*)
30年以上前の『よーい、ドン!』(NHK)、『おんな駆け込み寺」』(TBS)以来、実に30年以上ぶりに朝ドラなるものをマジ見した。
その理由が、「よしもとの辻本が出るから」…こんなわたしになるとは、想像もできないことであった(^_^;)
けど、なんや、あのチョイ出で終わりいうのんは!…これからどんどん出はるんかな?
 失敗や悩みを抱えやすい人というのは、なによりまず「自分がそういう生き方やクセ」を持っているからだ…というのは、真実である。たとえば、「太っている・痩せている」というのは、それぞれにそういう食べ方や量、趣向などがあるからだということになる。だからといって、なんでもかんでもが直ちに修正改善できるかと問えば、そこには大小高低のレベルがあってそうそう簡単にはいかないことも多いが、「それが問題とわかっていて、かつ、なんとかできると思える」ことなのであれば、意識を持って努力することは可能であろう。
 包丁を使う時、なぜか(*)「ネコ手」ができないわたしは、指先を傷つけることが多い。また、どうしたわけかコンロや鍋を扱う時の「チョイやけど」が多い。このあたりは、今後さらに手元の動作が危うくなる世代に近づくことを考えると、致命的な習性ともなりかねないので克服していきたいと考えるところである。
 逆に、スイーツや揚げ物など「なくてもかまわない」くらいの食志向があったこと、また、いわゆる「添加物」に神経質に関わってきたことは、ここまで健康状態に大きな問題を抱えずにこられたことについて、大いにプラスに働いてきたことであると思う。決して「細い」とは言えないまでも、お供え餅のような病的な肥満になったことはない経歴は、その証左だと思っている。偶然とはいえありがたいことであった。
 ところで…人間、真剣に集中してアンテナを張っている問題には、自分の意識や努力を越えた「何かの力」が支援してくれるような気がしている。有効な情報の入手・マイナス要因遭遇の回避など、奇跡的ともいうべき出来事はこれまで数多くある。直近でいえば、「ガトーショコラ」の一件がそれに当たるだろう。言い換えると、「失敗や悩み」はそれに覆われることで、せっかくの転換のチャンスや知恵を見逃す「負の魔力」みたいなものが働きかけているのではないだろうか。よくよく注意したいところである。
【(*):注記】18歳のときアルバイトしていた料理屋で「キャベツ千切り」を担当していた当時、わたしは「ネコ手」ができていた。しかし、あまりに大量(10個以上)のキャベツと格闘している間、疲れのせいか油断のせいか、ネコ手をしている関節部の皮膚をこそげちゃうような切りキズをつくって大騒ぎになった事件が発生したのである。おそらく、このときの記憶が、「むしろネコ手のほうが怖い」という感覚を深層に植え付けてそのまま現在に至っていると思われる。
 
1/19 火 10.0   京都駅方面お手軽コース☆
購入4日で壊れた時計のベルト…古い在庫なので経年劣化と思われ(>_<)
修理依頼にヨドバシ行くはずが、じぶんで直せてしまったので9時半を待たずにRUNできたのである(*^。^*)ニャハッ。
 東京地方、またもや積雪フィーバー。町田駅や立川駅あたりの光景がしつこいほど流れて懐かしかったわん♪当事者であれば、間違いなく昨日は「全行程通勤RUN」で出社だっただろうと想像するとワクワクした(*^。^*)
 毎年毎年、異常だ混乱だとお祭り騒ぎになり、インタビューを受ける人は不満タラタラ全開であるが、東京というところは通常「何も起こらない」ことを前提にしたスピードとペースで動いているのだ。だからこその発展と繁栄なのだということ、ひいては自分の生活や豊かさもその上に成り立っているのだということが少しは考えられないのだろうか?と思う。1時間に2〜3本の電車しか来ない地域のそれとは違うのである。たまの異変やトラブルをそのままに飲み込んで、むしろ楽しめるくらいの余裕や余力がないひとが多すぎる。まぁ、そういう画一的なスタイルも、「都会」というものを形成する一要素であるのかもしれないが…しかし、それが「都会人」というものであるなら、早々に引退して京のイナカに引っ込んだわたしは、自身の人生として正しい選択をしたような気がする。
 また今ひとつに、もはや恒例化したこのような現象は、東京すなわち首都機能というものがいかにモロイ基盤の上に、いかにスレスレの経営をしているかということを示しているようにも思う。最近、消費者庁が徳島に、文化庁が京都に等々の「引っ越し事案」が浮上しているが、この意味では実に喜ばしいことであると思う。この際、とんでもなく何もない地方にそれぞれの官庁を移転したらどうか。でもって、インフラのトラブル時の情報伝達には、今や全国各地に散在する「ランナー・スイマー・自転車野郎」を使って飛脚のように仕事をさせるのだ…このわたしでも、大阪・奈良・福井・滋賀あたりまでなら1日の実働範囲内で配達伝達できまっせ!(*^。^*)イキナリ、コッカコウムインニショウカクヤデ!
 
1/20 水 0.0   そりゃーゼロっしょ。この雪では(*^_^*)
バイトへは「完全装備」にて…ふだんはダサくても、イザという時カンペキになるのがわたし流(*^。^*)
かの震災の首都圏パニック時に、「これが観往さんの言ってたことか!」と、嘲笑したことを反省しつつ、徒歩帰宅したり会社に寝泊まりしたりした人から、後日「いまさら謝罪」のメールが着信しまくったことを思い出す…すなわち、ワタクシのこのスタイルは「スジガネ入り」のライフポリシーなのである!b(^_^)
 …っていうか、この雪道をピンヒールで歩いたりスマホいじりながら歩いたりと、危機管理能力が貧しすぎる輩のなんと多いことか。実際、ハイヒールで尻モチついてるオバチャンを目前で見かけ「どうもないですかっ?」と、とっさに声をかけたが、心配したのは体というより「こんな日にこれでいいと考えるアタマ」の方だったりして…(>_<)
 それはさておき、今日の降り加減からすると、帰り頃にはズッシリ積もった雪が…とワクワク期待していたのだが、あれよというまに元通りになってしまったのは残念だった。雪景色にまつわる思い出には喜怒哀楽様々にあるが、今回蘇った記憶の内容は、たとえば通学途中の「墓地ラッセル事件」とか、巻機や川苔や比叡の雪山登山など、結果的にメチャ楽しかったジャンルの出来事ばかりであった。じぶんの基本的な心の持ちようが明るくなっているような気がして、これはエエコトや!と思ったのであった(*^_^*)
 
1/21 木 10.0   東寺さんコース☆
なぜか深夜2時にスッキリお目覚め(゜v゜)
…が、いくらなんでもこれは早すぎ…ということで、いつも通りの短距離コースにて。
 松山三津浜から船で1時間弱くらいのところに「中島」という島がある。20年ほど前、出張の隙間にナニゲに船に乗って出かけ、レンタサイクルで島1周をしたのであるが、どうしたことか昨夕、その記憶がズンズン湧いてきて、「ぜひ再び!」な気分で盛り上がった☆
 まったくの偶然ながら、その島はトライアスロンが開催されている(いた?)ような環境であるから、ザックを背負ったオバチャンがスタスタ走り回っていても、住民にはさほどの違和感を持たれることはないであろう。ムフフ…と、早速行程を調べたところ、交通費にしても所要時間にしても、東京出発の場合のそれとそれほどの差がないことに愕然としたのであった(特に後者)。距離は半分のはずなのにフシギ…これは今回の件に限らず、どの地点を目的地に定めても言えることなのがさらにフシギである(-_-;)
 話は変わるが、かつて「暴走RUN」と称して頻繁に出かけていた房総半島は、1日あれば海沿いをほぼ半周できるくらいの規模であった。そんなことで、「勝浦」「白浜」など地名の一致するポイントの多い紀伊半島に興味シンシンで、いつかはこっちも半周くらいしてやるべー!と息巻いていたのだが、具体的にプランを練ろうとしてようやく、それが房総の比ではないスケールの大きさであることを自覚したのであった(-_-;)…単なる「地図バカ」と言われてしまえばそれまでだが、過去の体験上の物事を基準にして、未知なることを都合よく解釈しようとしてしまうことは案外多いもので、これもその典型例であろうと思われる。RUNプラン程度のことなら笑い話だが、場合によっては思わぬ失敗や危険を招くことになり得るから、注意していきたいと思う。
 まぁつまるところ、四国も紀伊半島も、それはそうそう気軽にはできないスケールの旅RUNとなることを再確認した次第。いやー、西日本は広いでっ(*^。^*)
 
1/22 金 10.0   東寺さんコース☆
なぜか深夜3時にスッキリお目覚め(゜v゜)
昨夜早寝したから当然かも…だが、正直なところ、ちょっとばかり職場環境の変動にキンチョーしているフシあり。なんだかんだいって小心者?(*^_^*)
 国家公務バイトの人事異動(早い話が1人辞める)で昨日、代替要員新規加入。一番気になっていたシフトの件は、まったく変更ナシでいけることになったのでヨカッタ。わたしの立場はあくまで「バイト」であり、一切は本部マターであるから、たとえばこれが隔日勤務とかの不規則シフトになったとしても「事情が変わったのだから柔軟に対応してください」と指示されてしまえばそれまでやと思っていただけに、これはうれしかった。聞けば、面接の時点で「あくまで今回抜ける人の代わり」という前提で話が進められていたらしい…このことは、この業務における「わたし」の存在が評価されていたことを表しているようでありがたいことしきりである(T_T)実際、「本部」と言っても実業務の詳細を把握している人は今や一人もおらず、ある種「重鎮化」している面が無きにしも非ずではあると自負しているところはあった…と調子に乗りすぎてはいけないが、「リーダー格」として位置付けられ「任されている」感が強くなっていた今日この頃だった。その自意識が勝手な思い込みではなく、どうやら本部もそのように思ってくれていたらしい配慮を感じる流れは、単に時給が上がるような評価よりも貴重なことでるように思う。これが正職員とかだったら、めっちゃテンション上げてバリバリ張り切っていまいそうなところであるが、そこは「あくまでバイト」として、今まで通り抑えるところは抑え、「腹六分目の取り組み」でやらねば…否、むしろある程度割り引いた意識づけでやった方が、妙な失敗や諍いを起こすことなく進むものであるかもしれない(*^_^*)
 ところで、
 新規加入の女性は、わたしとほぼ同世代なのだが、少しばかり身辺の事情を伺うと、これがまったく見事なまでに「その世代に典型の人生行路」すなわち、短大を出て数年お勤めして結婚出産、旦那の給料をやりくりして子育て、合間にパート…というご経歴を持つ人であった。世間的にみればそれがフツウで大多数を占めるのであろうが、わたしとしては「どこか珍しいひと」とお付き合いすることになったような気がしている。世間の「そういうものだ」のセオリーに沿って流れてこられたこと自体、どれだけ楽で幸運なことであるかとわたしは思うのだが、色々飛び出す話を聞いていると、そういう人にはそういう人なりの「このままでは…」とか「こんなはずでは…」が点在しているようで興味深い。シフトが一致することはほとんどないが、機会があればどんどん面白い話が取り込めそうで楽しみである。ただし、基本的に「まったくフツウ」でありすぎる人を相手に、わたしの諸事情は刺激が強すぎるように思うので、要らぬ不審や誤解を持たれないよう、「わたしネタ」は慎重に小出しで行こうと思ったのであった。こちらの方面でも「腹六分目がちょうどヨイ!」である(*^_^*)ニャハッ。

1/23 土 23.0   米原〜長浜
遠出でこの距離というのはイマイチ…今度の機会には、この倍はいきたいものだ(*^_^*)
滋賀県の最北部はもはや「北陸」であるということをつくづく感じた(*^_^*)
 「京都たびびと」の時代、関東とは明らかに違う、冬の空気の独特の冷たさをいつも感じていた。冷たいといってもそれは骨の芯まで沁みと通るような、むしろ快感を覚えるくらいのもので、わたしはこの空気に触れることを楽しみのひとつとして、延々とRUNをしながら戯れていたものだ。京都住みになって以降も、あーだこーだ言いながら実はこの気候が訪れる日が待ち遠しくてしかたない。
 ところが本日、それと酷似している「ほぼ北陸」な北滋賀の空気にしみじみと接し、これまでわたしが「初めて体験した」と思い込んでいた京都のそれが、とうに忘れ去っていた新潟の冬の日々にあったものと同じであることを感じたのである。つまり、「新しい」「独特な」等々と思っていた京都の空気に、わたしははるか昔の「郷愁」を呼び覚ましていたということになるのだ。
 遠く、日本の宗教界を拓いた法然や親鸞、道元、そして改革と戦闘の意志に溢れた日蓮までもがその晩年には、幼い日々を過ごした故郷へ思いを馳せ、実際その地に向かう旅をしている。人生にどんな経緯があろうと、ひとにはある種の「帰巣本能」があり、結局は「元いた場所」に真の安らぎを感じるものなのだろう。
 …なぁーんて、オシャレに決めたいところではあるがそうはいかんぜよ!なのが「一般的ではないわたし」のケースである。いくら空気がお気に入り・懐かしいといったところで、新潟暮らしの時期などまったくロクな思い出はないし、逆に人生最大の黒歴史のエピソードに満ち満ちているのだ。「なんちゃって北陸」の北滋賀には、「のっぺ」を即座に思い出させる「のっぺい汁」を名物にした食堂がメチャ多かったが、その品書きを見るのも決して愉快なことではなかった。極めて一個人・一家族の事情が発端であるからして、土地そのものを批判する気はもとよりないが、間違っても「また帰りたい懐かしい場所」ではありえないのである。にもかかわらず、わたしの中には「空気感」という不思議なかたちで、良い方向に気持ちを包むような記憶が残存していたというわけだ。
 思うに、消そうとして消せない「愛着」の気持ちというのは、諸般の人為的な事情が絡まない、まっさらなタマシイが好んで記憶し残しているところから発するものなのであろう。八方ふさがりの暗い日々とはいえ、わたしは知らず知らずのうちにかの土地の空気や気候に何かを救われ続けていたのかもしれない。家族がいるからとか幼馴染がいるからなんていう至極不安定なものよりはるかに大きな支えや安らぎの根拠が、偶然にもそこにあったのだろう。…であるならば、わたしは今、究極の意味での里帰りを果たしていることになる。なんのシガラミも抑圧もない「自由なタマシイの行き着くふるさと」を定義するに最小にして最高の条件がここにはある。心が感じるままの「ふるさと」を満喫していこうと思う。血縁地縁があろうがなかろうが、京都並びにその周辺の界隈は、わたしが最後に「帰るべき場所」であったのだ。
 
1/24 日 25.0   タカガミネアタリ…昨日のモノ足りない感をフォロー(*^_^*)
映画『キングスマン』は、洋画としては久々の傑作☆
ああいう映画にはお約束の「機敏すぎるカラダの動き」には憧れる…マネして林道の段差を乗り越えようとしたらズッコケた。現実はキビシイ(>_<)
 人生50年弱にしてようやく、英文法の「不定詞」を正確に理解解説できるようになった…というと、笑う人と感心する人、どのくらいの割合に分かれるのだろうか?まぁそんなことはどうでもよい。しかし実際、英語がペラペラな人でも…というより、そういう優秀な人ほど、「なぜ不定詞が不定詞と呼ばれるのか?」なんて唐突に聞かれたら、今のわたしのように回答できるのだろうか?とは思うんであるよ(*^_^*)ムフフ。
 わかってみると、多くの学生が英文法そのものより、その理論が用意している「用語」に躓いているのではないか?と思うのである。「to+動詞の原型」が固定の形式であり、どのような条件下でも「不変」であるのに、なぜそれが常々一定しない印象を受ける「不定」などという表現になるのか?…国語の能力がしっかりしていて、一々の文言を正確に理解しようとする人ほどひっかっかるのではないか?英文法をつくったやつの国語の点数はきっと悪かったに違いない。蛇足ながら、数学の証明問題においてしばしば登場していた「ところが」も、なぜそこに?という使われ方をしていたことは未だに謎である(-_-;)アレハ、ドウカンガエテモ「トコロデ、」ダベ?
 小中高の学校の勉強は、「なぜ?」「どうして?」を深く追究するタイプの子にはまったく向いていない、と改めて思う。「そういうことなんだ」と突っ込まずに受け入れ、先に進める素直な子…というより、要領のよい子が勝ち進むのである。人間の持っているあらゆる能力のうち、ほんの少しの要素だけを採用して、それが優れているか否かで評価が決められてしまっている。そもそも採用されているのが「ある数点の優位性」だけなのだから、それ以外の能力を求められることが圧倒的に多い世の中の問題がうまく解決するはずがないのである。また、「なぜ?」「どうして?」をおいてけぼりにするような扱いをするから、本来その姿勢が最も問われる大学研究のレベルに至って、コピペ論文を平気で提出するようなバカ学生が増えるのである。
 てなことは、今さらわたしが言わんでもわかっとるがな!…な世間一般の共通認識であろう。「勝った」はずの「優秀」な人間が、最も身近であるはずの人たちの繊細な心の機微を読み取れず、「無神経」「非常識」な振る舞いをすることは数多い。自分が事実として見聞した上っ面だけで、それ以上それ以外に秘められた部分に思いをいたせないのは、本人の素養もさることながら、学校教育の悪影響によるものなのかもしれないと考えると、気の毒なものである。
 
1/25 月 20.0   久我界隈コース☆ついでに道元入寂の地まで…って、ほんの高辻までやけど(*^_^*)
今、左足を出したから次に右足が出る。
「走ろうとしている自己」がある以上、それは当然のことである。左足を出した「前世」によって、右足が出ているという「現世」があるのであり、そしてまた左足を出すであろうという「来世」がある。その繰り返しが「輪廻」なのである。それ以上・それ以外に真実はない。恐々謹言。(-_-)
 「生まれ変わる前はお姫サマだった」も結構、「今度生まれるときは貝になりたい」もまた結構…「今ある生」をまとめて「現世」というならば、生まれる前・死んだ後の世界が「前世」「来世」となるのであり、それはすべて原因と結果によってつながっていることになる。この考え方が「今を穏やかに暮らす」よすがとなるのであれば、それはそれでひとつの立派な宗教的救いであるのだから結構なことなのである。しかし現実にはそういう思考回路をもつことで「今」を悲観的あるいは驕慢に眺めてしまうケースが多く、少なくともわたしにはモロ手を上げて賛同できる御説ではない。せいぜい雑談ネタで楽しむ範疇に留まる。
 バラモン思想を引き受けた上で展開された仏教思想、ブッダにおける「輪廻観」をどうとらえるかについては、学術的にも様々な解釈に分かれるところであって、それぞれに納得できる要素を含んではいるが、わたしの考える輪廻観とは左欄に記したとおり、「あくまで今現在の生における原因結果の繰り返し」である。院の入試でもこれを論じて不合格にならなかったところをみると、これはあながちブッ飛んだ思考ではないと思われる。
 ところで、『臨済録』『無門関』『碧巌録』など禅の書物をツラツラ拝読するに、そこから直感的に受けるのは、禅思想とはつまるところ「究極のデジタル人間であれ」ということなのではないか?…という印象である。「今ここ」にあることがまったくもっての「すべて」なのであり、その意味で過去・未来を問う輪廻観は少なからず否定される。「今ここ」以外のすべてが存在しないからこそ「自由で解放された自己」というものが真に実現するのである。些か危険な事例であるが、かつて「ヒトを殺してナンボ」の時代に生きた武士階級に禅が流行したことも、このデジタル思想が彼らの救いになった一面があったから…と想像したりする。
 話を戻して(-_-)…そういう風に考えると、各種の公案に対する師家さんの意味不明…もとい、難解に感じられる提唱も「そのままに」読み取ることができるのだ。ゆえに、浄土教あたりの法話における「○○というお話があります。だから△△のようにありたいものですね。」のような連関性や起承転結のある話が展開しないのは、至極当然のこととなる。仮にその系統の僧侶から「わかりやすい法話」が聞けるとすれば、むしろそれはおかしなことであるといえるかもしれない。
 仏教は徹底して「無我」を説く。これは仏教における三法印・四法印すなわち旗印のひとつであって、仏教を標榜する以上必ず含まれていなければならない要素である。「無我」というと「自分というものが消えてなくなる」とか「自分が娑婆を離れた異世界に移動する」とかいうような誤解をする人が多く、実際、勘九郎の演じた映画『禅』においても、最高の見せ場で蓮の花に乗って飛んでいくようなチープな表現がなされていたが、それは間違いである。自分の肉体や心はどんなに否定しても「ある」のであって、それが「どうあるか・どうあるべきか」が追求された末に生じる境地が「無我」なのである。禅では、「いま、ここに、ある」ことを根本に、【究極の有我】を知ることを目指すのであり、しかしそれがすなわち「無我」を知ることに通じている。…このように考えると、禅は確かに仏教思想のひとつであり、かつ、他のどれより極致的に洗練されたスマートな教えであるといえるだろう。
 …てな感じでいかがでしょう、道元ちゃん?というモードで誕生寺やら入寂の地やらを訪ねながらRUNしてみたわけだが、道元ちゃんが「そうそう、それそれ!」とうなづいたわけでも「ちょっとちゃうんちゃう?」と否定したわけでもない…道元ちゃんの「今」とわたしの「今」は違うのだから、それはアタリマエのことなのである。…てなことでどうでしょう、道元ちゃん?…以降、延々と問答のループになるのでここで終了(*^。^*)
 
1/26 火 12.0   知恩院さんコース
いやいや、「禅」を熱く語ったところで、禅が一番最高イケテル!とか、そういうことではないですよ、アミダちゃぁぁん(*^。^*)テヘッ。
…なRUN。
M教授は「宗派には優劣順位があるはずだ」と仰せだが、「救いには、ひとそれぞれの適性や相性がある」というのがわたしの持論。理屈ではなくバッチリ経験上の結論ゆえ、これだけは譲れましぇん!(-_-)キリッ。
わたしは、「やっぱり、アミダちゃん」…って、こりゃ興正寺のキャッチコピーやん☆(*^。^*)
 「せっかく女の子に生まれたのだから、キレイにオシャレしなきゃもったいない」…このことばは、良くも悪くも時折、わたしの心を刺激する。
 幼少時より、「しようとしてできなかった」環境下にあったゆえに「そんなことどうでもいい!」と、例の「スッパイブドウの論理」で強硬にはねのけ続けてきたことが災いし、一般的な流行や美的感覚をモノにすることに妙な抵抗感を抱いたまま現在に至ってしまったが、ここまで来ると「それはそれ」としながらある種のスタイル・ポリシーが確立してしまっているのだから面白いものだ。「いかに安全か、いかに機能的か、いかにカラダに快適か」…これらの要素を満足させるアイテムは、かつては「山装備」くらいにしか見い出せなかったが、最近ではその3種の意識が先に立った上で「それでもオシャレ」が楽しめそうな服がひそかに市場を狙いつつあることをわたしはキャッチしている。既にそれを一揃え入手しているし、おそらく今後購入する各種アイテムはそのジャンルの製品に集約されていくであろう。「ちょっと変わっている?」な感じはあるが、年齢的には逆にそれが「オシャレ感」を醸し出すこと間違いなし…人生最後に大逆転!みたいな展開になるかも?である(*^。^*)カッカッカッ。クックックッ。ケッケッケッ。カキクケコー!…ッテ、「スエナリ」カイッ?
 …とかなんとかいいつつ、それとは別の意味での「女だからこそのハレの装い」については、やっぱりフツウに一度はやってみたいという思いはある。これまで、決してマモトなタイミングではなかったが、「成人式の振袖」「卒業式の袴」「舞妓変身(?)」「大原女変装(???)」はクリアできた。毎夏には浴衣も着られる。何年か前には七条の貸衣装屋が無料放出したウエディングドレスを2着ももらってきて着てみたが面白すぎた(-_-;)…とまぁ、こんな感じでもうだいたいOKかな?と思っていたのだがここへきて、「これはただ待っていたら永久にチャンスがない!」という、重要なものを忘れていたことに気がつきアセっているのである!(゜o゜;)
 そ・れ・は、「留袖」である。黒で全体を引き締めつつ、裾には金襴模様…中年女性が、落ち着きの中にも華やかさをまとえる、骨頂のおしゃれアイテムではないかっ(゜o゜;)オーマ゙イブーッ!ナゼ、イママデ、キヅカナカッタンヤ!
 別に、そのテの広告を見たとか町でその格好をしている人を見たとか、そういうきっかけはまったくないのに、いきなりフッと浮かび、「そういや忘れてた!」となったのが2週間ほど前のこと…これは、わたしの心の奥底からのアドバイスや!と都合よく受け取り、その決行に向けてボチボチ情報取集をはじめた次第である。実行のタイミングとしては「満50歳記念」あたりになるだろうか。よくよく考えてみると、留袖姿でまちを歩いていたり電車に乗っていたりする人を見かけることはほとんどないから、あれは「会場で着て/脱いで」の一瞬のオシャレということのようであるが、この際開き直って京都市内を「留袖道中」するのもアリか?あるいはそのセツナ感をそのまま目一杯楽しむのもアリか?はてまた、院の卒業式に出るのもアリか?(ナイわ!)…等々、既に妄想上留袖姿のわたしはワクワクしているのである☆
 まったくもってムダくさい話といえばそれまでだが、古い世代の人の遺影には結構「黒留袖」の上半身姿が多いやんか…と思うと、長い目で見たときには実用的に「一枚はあってヨカッタ」ものになるかも、である。もっともわたしの場合、遺影が入用になるような最期のシーンにはならないので(畢竟孤独死火葬場直行確定済)やっぱりムダといえばムダなのだがね(-_-;)…いーや、でも、やりまっせー☆ヽ(*^。^*)/キャハーッ♪

1/27 水 0.0   本日より3日間の激務に備えて体力オンゾン(-_-)
っていうか、単にサボっただけ(*^_^*)
 「マッチポンプ」ということばを久々に思い出した。
 一昨日、ついにワタクシの携帯にも「架空請求サギ」が入電したのである(>_<)リダイヤルしておかしな文言の音声が流れてきたのでソッコー切った。おそらくこれといった実害はないと思うが念のため…ということで着信した番号をネット検索すると、詐欺に関するサイトが続々画面にあらわれ驚いた。
 いくつかを閲覧した中に、「ぜひ情報をお寄せください」という呼びかけと書き込み欄がある…一見「親切・救済」のように思えるのだが、これを入力送信することで結局は何者かにIPその他の個人情報が流れていくわけやん、と思ったらゾゾゾ−ッとした(>_<)
 つまりは、個人情報の流出が最初の電話の時点では回避できても、それについてあれこれ調べたり書き込みなどをすることで、結局同じ顛末になるということ…この発信者とサイト開設者が「グル」だったとすれば、これは二重三重仕掛けれらた「ワナ」であることになるのだ(>_<)
 さらに疑い出せば…「被害に遭われた方・危険のある方のご相談や調停に協力します」というようなPRをしている弁護士や司法書士などその本人が、仕事をつくるために自ら仕掛けたものであるかもしれない…というのは、世の中決して清廉潔白な士業者ばかりではないことを考えれば、ありえない話ではないと思えるのである。
 わたしがこれまで現実に遭遇した「マッチポンプ人間」は、せいぜい会社内のおエライさんに目をつけられようとして、どうでもいいくだらない話を小難しく語っては自爆するような程度でしかない。当時は、そのずるがしこさに一々怒りを覚えていたものだが、今となってはカワイイモノだったわな(-_-;)
 
1/28 木 10.0   東寺さんコース☆
正直なところ、昨日1日で今週分のバイト労力をすべて使い果たした感(-_-;)フーッ。
 雇用身分がどのような位置づけにあろうと、「職場」における人事変更で自分が「先輩格」になった場合、それなりの指導力や注意力を発揮しなければならないものであるが、それが「まるまる10年ぶり」となると、なんともしんどいことである。ひとまず「任せてやらせてみる」場面においてこちらはまったく別のことをやっていたとしても、視線や神経の大半は相手に向けられ、常に「ふたり分」のエネルギーが要求される。相手は、まだまだツボもコツも心得ていないので、ちょっと目を離すとどうでもいいことに延々時間をかけているかと思えば、一番慎重さが要求されるポイントを簡単に操作してシステムをぶっ壊したりする(>_<)
 でもって、本部帰着が遅くなると「采配が悪い」みたいに思われるのはわたしやん…まぁこれも、あと数回のことやし、今だけ越えれば…ってことでふんばるけど。
 考えてみれば怪舎員時代には、こんなことが日常アタリマエだったんだなぁ…と思うと、そのストレスやエネルギー消費をなんとも思わず過ごしていたテンションというか若さみたいなものを感じて、我ながら「すごい日々を過ごしていたものだ」と思ったりする。
 しかし、現在それらに疲労感をモンモンと感じるのは、日常生活における「力点」の置き場が変わったからで、歳のせいとかブランクがあったからとかいうところに理由があるわけではなさそうである。
 一般的に考えれば、わたしはあと軽く15年は「怪舎員」をしていたはず…それを40を境にやめて生活はガラリと変わった。今、「ふたり分の負荷」を感じているのは、「ふたり分の人生」を楽しめているからだと考えれば、かえってありがたいことであるといえるのである。
 やろうとして誰もができることではない転換がそこにはあったのだ。今さらながら改めて感謝したいと思う。そのきっかけを与えてくれた京都の地に、琵琶湖に、玉之浦や御殿浜のオッチャンやオバチャンに、佛大に、しゅ〜る之助に…そして、表面上「最悪」「最低」と思えるようなすべての過去にも。
1/29 金 0.0   雨やし。
1/30 土 22.0  
1/31 日 25.0   北山界隈。
おーっ!偶然にもキリのいい500で締めや!(*^。^*)
走行距離 500.4  km