あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
6/01 日 30.3   ネットを開くと、「これでもか!」というくらい「アンチエイジングネタ」の広告が飛び込んでくる。
このPCの使用者が、「47歳半年のオンナ」であることをキャッチしての所行だろう。
「○歳に見えない!」
「赤ちゃんのようなプルプル肌に!」
…で、それが何か?
…実際の年齢に見えないことは、恥ずかしいことではないですか?年々変わっていくことがそんなにイヤなことですか?失ったものがあるならば同時に得ているものがあることには気づきませんか?
ワタクシが怖いのは、そうした不毛な情報にいつまでも翻弄されるままの人間でいること、必要以上の化学的外部刺激を受けることでむしろ「じぶんがもっているものが壊れされる」ことです。
6/02 月 10.0   「この歳になると、具合が悪いと思って医者に行っても
『歳のせいでしょう』『わかりません』
で、意味ナイことが多いわよねぇ。」
…これ、職場のオバちゃんの井戸端バナシ。
「そやし、わたし、最近左の目ェに黒い点が浮かぶんやけど、めんどくさいし放ってあんにゃわ。」
「えぇぇぇぇっ?!」
「それは医者いった方がええんちゃう?」
「せやろか?」
…どうやら、ノンビリ構えすぎているらしいことが判明。明日にでも眼科行ってみるべか。
もう何十年も、わたしは「わたしの目」でものを見たことがない。
裸眼であれば、決してここまで生きられなかっただろうと思うほど視力が悪く、コンタクトやメガネを常用している。つまり、わたしの眼はもはや、それ以外の感官機能の自主的なバランス調整と近代科学の恩恵によって「つくられた」ものであり、ある意味「借りもの」のような感覚で扱っているのである。
なので、多少のトラブルがあっても「元々いつ起こってもおかしくないことだ」程度の認識で、他人のほうが焦って心配してくれるほど、本人は悠長な構えでいたりする。
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仏教において、「無所有(むしょう)」ということが重要視されている。「わがもの」と思うからこそ、それを失うことが恐ろしく、ゆえに他の何かを害してでもそれを守ろうとする。元々「わがもの」でなければ、それは客観冷静な視点…ある種のいい加減さ…を保てるのであり、そこにストレスなどの悪い感情は起こらないのである。
多くの場合、これは財産や親子親族の関係性に例えられて説かれるが、このたびの一件にて、こと一個人の肉体的機能においても、それは言い得るものであるとの感に至る。わたしは、ひじょうに些細なしかし貴重なところで「無所有」を所有(←ちょっと誤謬?)していたようである。ありがたきかな。
6/03 火 1.0   日焼け・シミの原因である紫外線は、皮膚に直接日光を浴びるより、瞳孔から入り込むことによる影響の方がデカイというのは定説。
よって、検査薬でランランに瞳孔拡大、回復は夕方、と言われてRUNに出るなんぞアホの骨頂(-"-)
本日の距離は、病院から家まで、目を糸のように細めてダッシュしてきた分のみにて終了!
「人間ドック」ならぬ「アイドック」さながらの丁寧な検査診察と解説…これまで行った医者の中で、受診時間が最長だったような気がする…いや、ホンマに下京は名医が多いわ…ってか、ワタクシ、つくづく「医者運」がヨイ(*^。^*)
結果としては案の定…「異常ナシ」なのではなく、「あるにはあるが、これを自覚症状としてとらえることができることに驚く」という内容。耳鼻科・婦人科ほかのジャンルでもしばしば言われてきたことなので今さらなんとも思わないが、どうやらわたしは肉体的な異変に対して妙にビンカンであるらしい。ついでに言うと、瞳孔を拡大させる薬の効き方(反応時間)もメッチャ早い!ということであった。もっとも、かの小野田少尉が「細胞レベルでガンを感じた」事例があるくらいだから、こういう人はある程度は存在するのだろう。あえて言えば「動物に近い野生児」…ある意味「生命力の強い」タイプであるのかもしれない(-_-;)イイカワルイカ…。
ともあれ、網膜剥離だのなんだのという緊急事態とは明らかに違うことがわかって安心はした。仮にあと少しで失明なんてことになっても、それはそれで生きようはあるが、見えている状態が続くにこしたことはない。さりとて、あらゆる意味で有限しかも残量僅少であることには違いないこの能力を、ムダに使うことのないよう今後は一層心がけを強くしていきたいものだ。
6/04 水 15.0   「コドモを盾に」
…実は親本人の欲やワガママを通したいために、コドモをダシにする場面というのは、家庭内外問わずよく散見されるところである。
しかし、文字通りの様態を晒してまちを行きかうというのは、いかがなものか。
これは、ベビーカーや自転車のカゴで子どもを運ぶ親のことである。
あたしゃー子供を持ってないから、あくまで客観的な印象で述べるだけで、「アンタになにがわかる!」と言われりゃそれまでだが、それでも敢えて言わせてもらおう。
「人や車が目の前に飛び出してくる」ことが珍しいことではない道路上を進むとき、自分より先にそれに接触する危険性が「愛すべき我が子」にあるということに対する恐怖感・緊張感がまったく欠落しているように思われてならない親というのが、最近とみに多いように感じる。
我が子は「自分のもの」であかもしれないが、「自分のモノ」ではない。すなわち、宅配便や買い物袋と同じ「荷物」でないのである。
もっとも、保育園の入園案内に「毎日お弁当を持たせなければいけないのですか?」なんていうQ&Aが恥ずかしげもなく掲載されるようになるほどに、現在の「子育て観」は変化しているのかもしれないが。
極言すれば、このような感覚には既に、昨今世間をにぎわす「虐待」「育児放棄」の萌芽が潜んでいると考えて差し支えないと思う。
6/05 木 13.0   スーパーに、青梅が出始めた。
しかし、漬け梅用」と記載されているだけで用途がビミョウ。
しかも容量も書いてない。
はて、今年の梅5`は、いつ、どこで、購入されることになるか…タイムリミット近し。
6/06 金 22.0   「あのオバちゃん、何をあんな急いだはるねん?」なRUN。
すなわち、まったくの普段着で疾走したのである。
実際、すれ違う多くの人が、わたしが何かを追いかけてんのか?的に、「振り返り」をしていた。
RUNスタイルではない姿でマジRUNしたのはこれで3回目だ。
@18歳、バイト帰りにバスを逃して工場から本厚木駅まで(制服)
A35歳、小田急が止まって町田から自宅まで(カジュアル)
B本日。
勢い余って五条越え、京都駅前まで行ってしまってひとまず小休止。
…ところで。
京都タワービルの1Fには、いくつものお土産屋さんがあるが、このフロアの「35年前の画像」をリアルに思い出せるひとは、どれくらいいるものだろうか…。
現在、エスカレーターの設置されている場所は販売員や在庫置きのスペースで、そこをグルリと取り囲むように対面式のショーケースがあった。八ツ橋などの箱菓子類はもちろん、友禅の小物、陶器、人形、小さなケースに入った金の五重塔や清水寺、そして当時定番の三角のペナントや提灯…まさに「修学旅行生」をターゲットにした商品群を眺めているうちに、どうした経緯があったかまでは思い出せないが、なぜか販売員のお兄さん2人に気に入られてしまったわたしは、販売員スペースに呼び込まれ、一緒になって同級生の接客をしたのであった。
小遣いは5000円、しかしすべてを使うことなど自ら許せなかった家庭の事情があって、わたしがここで買ったのは三角のペナントと和風の人形の絵の入った小さな額縁のみ。皆があれこれ買い込む中、そのままいればおそらく感じたであろう「みじめさ」を、図らずもあのお兄さんたちが払拭してくれたかたちとなったのである。手伝ってくれた御礼に「ナイショやで」…と、細く丸められた京都イラスト地図を手渡してくれたことは、少女ならではの恥ずかしさとありがたさが混ざったような複雑な色合いをそのままにした懐かしさを今もなお呼び起こす。
あのお兄さんたちも今では60代にはなっているだろう。この土地にはもういないかもしれない、この世にいないかもしれない、しかし今も変わらずこの町にいるかもしれない…だとすれば、今、時を隔ててこのまちに暮らしているわたしが、既に何度も彼らとすれ違っている、もしくは、まったく別の場面で再会を果たしている可能性はあることになる。果たしてわたしはその時、彼らにあの時の感謝の気持ちを表現するに値する接し方ができているだろうか…。
…「ひとにはあたたかく、親切に」という。
これは得てして、今の自分にとって大切な人…家族や友人、仕事仲間、お客様…を踏まえているものであるが、実は「自分は忘れた(気づいていない)が、過去に親切にしてくれた人・助けてくれた人」、さらには、「これから先、親切をいただける人・助けてくれる人」をこそ想定し、心に据えて日々ふるまうべき教訓なのではないかと思ったりする。そういう穏やかさをもつことで、世の中に「イヤなもの」を見る機会はぐんと減っていくのではないだろうか。
…タワービルの1Fフロア。
もはや、エスカレーター周辺に断続的に見える黄色いラインだけが当時の姿の片鱗である。しかし、そこで出会った人との記憶は朽ちることなく、むしろ様々に光をさしながら、わたしをやわらかく包む。
6/07 土 26.0   いわゆる「おぼっちゃま・おじょうちゃま学校」が京都にはかなりある。
たかが「送り迎え」くらいで、「全身トータル数百万」と思しきオシャレをしたオカアサマを見かける。
実際、その世界に住まう女性によれば、母親同士の「服飾品値踏み」の目線バトルはすさまじいらしい(-_-;)
別に、それが良いとも悪いとも思わぬ。
確かに「良いモノ」は見栄えも良く、本来推し量ることのできないはずの人格さえも高尚なるに思わせてしまうところは得であることには違いない。
ともあれ、「それができる」人がやっているのだから、好きにすれば良いことだ。
「もしその時、あの震災のような大きなトラブルが起こったら…」ということを、ふと考える。
ハイヒールを履き、ブランドバッグを持ってお上品にふるまっていても、いざとなればそんなものは何の役にも立たない…というのは、究極的には真実だろうが、現実としては「単なるビンボー人のヒガミ」とも言えるだろう。そういう人にはそれなりに助かる人脈や手段が用意されているはず…たとえば、一般人がイライラしながらバスを待っている最中にベンツが迎えに来るとか、配給の水に列をつくらずとも自宅にミネラルウオーターが運ばれてくるとか、そんな風になっているのだろうと思うのである。
「ズルい」「キタナイ」のではなく、それが現実。レベルや内容が違うだけで、庶民が「カップめんやペットボトルを備蓄しておいて助かった」ということと本質は何も変わりないのである。
…地震や異常気象など、それに伴う各種インフラがストップしたときの対処方法をわたしが真剣に模索し始めたのは、かの「2000年問題」のバカ騒ぎを契機としている。決してキレイごとでは済まないであろうパニックの中を、いかに冷静に、そして他者に依存する負担を少なくして自分の身を守るか。周囲に呆れられながらも職場の机下に「山道具一式」をしのばせ、日々の通勤をRUNスタイルとRUNで押し通して過ごし続けてきたのは、そうしたことへの対策と力の向上のためでもあった。つまりこれが、わたしの財力と知力と体力で準備可能な「手段」であったというわけである。このことも、前段における「他人に何と言われようと、助かるものは助かる」という意味で、何らの違いがあるものではない。
さて昨日、「まったく普通のかっこう」でRUNを決行したことは、はからずもそのことを改めて考える実験ともなった。
最近は、「まぁここまで来たらいつ死んでもアリでしょ。」という意識的変化もさることながら、せいぜい6キロ四方圏内にすべての生活コンテンツがそろっていることもあって、以前のような緊張感が薄れ気味である…結果、案の定、ザックは到底RUNに耐えうる形状ではないことが判明し、なおかつショルダーベルトが破損した。もとよりこれは「価格のみ最優先」すなわち、その気なればもう少し良質なモノを入手する財力も商品知識もあるのに、それをしなかったシロモノである。たまたま「実験」でこうなったが幸い、「万が一」の時にこれが起こっていれば、それは「できることをしなかった代償と後悔」となったであろう…。
…先に記したように、現在のわたしにはもはや「何が何でも生き延びてやる」というほどの意欲も価値もない。さりとて、いざとなれば「なんとかならないか」となることは、人間の本能として必至の感情であることも承知している。
しかるに、そこに肝要なのは、「ここまでやってこうなるなら仕方ない」ということがその時本気で思えるか否か、なのである。
つまるところ、「よりよく生きる」ということと「よりよく死ぬ」ということは、ことば上まったく正反対でありながら、そこに含まれる意志活動は差分なく同時同等であるといえよう。些細なモノを選び、買うという行動ひとつにも、そこには自身にとって過不足なく等身大であることが求められる…そんな責任感と納得性は、いずれの場合にも必要なようである。
6/08 日 25.0   …っつーわけで、
カリマー20リットルを購入した。
ヨドバシの好日山荘にて。
実は御池にもそれらしき店があり、品ぞろえもなかなかなのだが、いかんせん店員の感じが悪すぎて購買意欲が持てないのである。
まぁ、7年前から変化ナシのあの雰囲気は、ある意味たいしたもんではある(-_-;)
このほかは、ほぼ「二条詰め」
やればやるほど深みにはまり、もはや溺れつつある「唯識」をかたずける準備本格スタート。
しかし今日の場合、階下に「ぶったん」がいて、ホノボノイヤシ〜な気持ちになれた(*^。^*)ブッタン、マジカワイイ☆
「仏教学は宗教学とは違う。ゆえにそこには一切の信仰心を排除してかからねばならない」
…というのは、まったくもってその通りの原則である。
ただし、それは文字通り「原則」。まずはすべての私見や雑念を排してその世界に身を投じることは必要であるが、結果としてそこで獲得した知識や考察は、すべからく「天下万民のありよう」に反映されるものでなければならないはずである。つまり、「仏教学」はどのように屁理屈を並べ立てようが、究極的には「宗教・信仰のよるすべ」というところにその存在意義があるという関係性を排除しきれないのである。
「人間存在のすべての根源は『アーラヤ識』である」等々と「知って」「話した」ところで、それは単なる理屈であり、既刊本の読み聞かせの範疇。そういう「単なる知識の垂れ流し」をヨシとしてしているままのボンサンや、それを復唱することでなんとかなったような気がしているヤツは、しょせん「その程度で済む」くらいの苦悩や欲望ひいては人生経験しか抱えていないということが言えるように思う。言ってみれば「客観的・他人事」のレベルなのである。まぁ、本当はそのくらいの方がシアワセなんだろうが…しかし、もし仏教学研究がそういう性質でしかないのであれば、わたしは高校時代ギリシア哲学の一片を聞きかじり、落胆した30年前と同じ挫折感を味わうことになってしまう。「そうではない」と確信するところに、いつまでもこの領域を捨てられない思いが投入されているのである。
いわゆる「名僧」として現在に名を残す僧侶の説法には、まったくと言っていいほど「仏教界のみ」に通じるような難解な定義や用語が用いられていない。ツカミは世間の事件やはてまた嫁姑の問題でありながら、聞く人が聴けば「これは○○のことを言っている」とわかる形式…つまり、学問上○○と言われるところを、ものの見事に「俗世の言語」に翻訳して自然に語りかけているのである。わたしが知る限り、その筆頭に挙げるべき名僧は好胤先生であるが、彼の著作や言行録を紐解くとき、その人生には戦争をはじめとした劇的な諸体験の中における喜怒哀楽を一個の人間として素直に生き抜いたところが読み取れる。本当の意味での「知る」「見る」「わかる」そして「語る」ということが、どういうものであるかを教えられるところである。むろん、好胤先生も幼少より薬師寺に仕え、龍谷に学ぶなど、学問的知識はおありであったが、それをそのまま「如是我聞」とせずにふるまえたのは、単なる知識を越えた「人間力」に秀でていたからであろうと思われる。
世間に投げ出された生身の人間が、あらゆる物事から受けるいたぶられ、さげすまれ、軋轢、そして葛藤し苦悶する、そんな「痛み」をどうするか…それが宗教のもつテーマであり、目的そして方法論である。世に存在する人のふるまいそのものに互いの学び合いがあり、上下強弱の立場関係は本質的にあるものではない。好悪問わず、あらゆる人々の言動や所作がすなわち「仏教」なのであり、仏教学はその種々雑多なありようをどうにかして言語化した「いちおうの表現のひとつ」に過ぎない。その意味では現在、TVドラマや映画、小説や歌などに同じ役割を果たしているところが散見され、しばしば驚かされるものである。キンキラの袈裟に払子を振り回す「権威」でそれを説くことに納得しない人々があるのもしかたないだろう。今や、彼らのありがたいご説法の方が、ドラマより極端な虚構の体をなしている面があると言えなくもない。
ともあれ、じぶん自身、「仏教学を研究して、さてどうするか」…言ってみれば、「人生におけるアイウエオ」をようやく学んでいる人間が、それをどう展開していくか、そろそろ進路を具体化して目標を定めるタイミングだ。誠に厄介なことに仏教学とは、したり顔の教師からラーメン屋の店員、はてまたルンペンまで、応用範囲が広すぎるので、策定には迷うことしきりである。
仏教は、メシのネタではない。生きるネタなのである。
6/09 月 15.0   「お前はまだまだ女ってものがわかってないよ…」
オッサンが若いもんに向けてエラそうに語る言葉の「よくあるシリーズ」の代表格である。
しかし、そんなことを言うやつに限って、一度はモノにした女を取り逃がしたバツイチであったり、「オレはわかっている」という根拠が、過去に付き合った女性の人数であったり、キャバクラやクラブのホステスとの付き合いであったりするもんである。
その実、部下の女性社員すら持て余しているようなのも、こういうタイプに多い。
…汝、案ずることなかれ(-"-)
これは、かの田嶋女史が聞けば、即座に目を吊り上げて怒り出す、「女性差別発言」の一種でもあろう。そこにはまず、「女」を固定的な概念でひとまとめにして語ろうとする傲慢さがあり、さらには自らの秤によってしか女性を認識できない排他性がある。様々な時代や文化、環境背景に生きる存在感を考慮しない、無責任な「戯言」に過ぎないのである。
無論、現実問題として「女性が男性より劣り、フォローされてナンボ」という面が多々あることは否定しない。それに伴う「男性の上から目線発言」もある程度はあっても致し方ないだろう。しかしそれは、「男にも女に劣るところは多分にあり、ある場面では女性の方が圧倒的優位である」という逆の立場からの事実や認識もあることを前提にいうべきところにある。
とにもかくにも、くだらないことで自分に優位性を持たせようとするアホな中高年というのは、いつの時代にも健在のようだ。最近は、若い世代の方が賢いというべきか、何を聞いても「そうなんですね…」という返答をすることで収める場面が増えているように思うが、そういう輩は彼らがヘタに反論したり追求しようとする態度を避けているだけであることに気づかず、発言が納得され、感心されていると勘違いしているのであろうな。「先に生まれた者」として、本当に言うべきこと・聞かせるべきことは、ほかにたくさんあるというのに、哀れなことよ。
まっ、アホなおっさんに理不尽につぶされないように頑張ってくれたまへ、サラリーマン諸君。
6/10 火 10.0   「最近、みんな自分に素直になった気がする」
「大人ぶって苦い顔をしている人より、わがまま言って笑ってる人のほうがまわりを幸せにするのかもな」
…by NTTドコモ
ヘーヘーホーホー、そうでっか?(-"-)
でもって、その「素直」になってやることが、大のオトナが雑踏の中やジャングルジムのてっぺんで「UFO!」のポーズすることでっか。
ヘーヘーホーホー。
まるで「バカッター増殖」の推奨みたいなCMでんな。
かつては天下の国家(的)企業が、なんとも低俗な思想に陥ったもので。
ことばの意味や使用法というものが、時代によって変化すること自体は、寛容に受け入れていく必要があるとは思っているが、ものごとには限度というものがあるだろう。
当たりかまわず自分の思い通りの振る舞いをすることを「素直」と称し、それを承認するのだとすれば、日本人の国語能力や社会意識、そして大人の成熟度というものはずいぶん低下したと言わざるを得ない。こんなものは単なる「野生」の発現に他ならないからである。
若い世代の風潮に迎合して、バカをやっている大人が増えることは、確かに見かけ上楽しく幸せかもしれない。しかし、「苦い顔をした大人」があり、それが抵抗感や教訓をもたらすことで結果的に「幸せ」になるという経路が人生には往々にしてあることを忘れてはならないだろう。
元来、人における「素直さ」とは、幼い成長期にあっては異世代の教えを心身に受け止めようと努力をするところにあり、長じては、己の欠点や過去の罪を真正面から見つめ、「あるべきよう」を認める力をいうのであるとわたしは考える。子供が歌のように九九を覚えること、車に轢かれずに家に帰ってこられること、大人がつまらない諍いを起こさなくなること、年老いて世の中を静かに眺められるようになること…「素直さ」とは、人が生きる上でそのいのちを守り、和を守り、整然と穏やかな空気を作りだすものであって、突飛で破壊的なありようを呈するものには当たらないのである。
その意味で、最近、素直な人は増えるどころか減っている一方なのではないか。少なくともこのCMが主張しようとしている「自分に素直に」からは、歩きスマホ、デキ婚、離婚、育児放棄、虐待、通り魔、ヤクチュウ…等々の諸現象がイメージされる。あれっ?もしかして「素直」というのは近頃「否定的概念」を帯びるように変化した?だとすれば、こりゃわたしの勉強不足でスミマセン。
今日は全く違うネタをRUN中に脳内作成していたのに、ドコモのおかげでこんなんなってもーた。
6/11 水 16.0   3次元感覚の欠如。
日常生活上はエエコトなし…っていうか、ちょっと問題アリかも?な気がしてきた(-"-)
事件の目撃証言などで重要となるのは「身長○cmくらい」とか「「○メートルくらいの距離」というような「現象を数値に置き換えた」ものであるが、どうやらわたしのアタマの中には、そういう想定ができる「ものさし」が存在していないようなのである。「大きかった」「広かった」程度では、まるでポエムの世界で話にならんわな。
その代わりに覚えているのは、その人がしていたネクタイの柄だとか、散歩させていた犬のリードの色だとか、もしそれが事件の犯人の目撃証言になるとしても、「捨ててしまえば無罪っす」になるようなことばかりなんである。
ワタクシの認識能力や記憶力は、ひとえに「画像」にたよるものであって、そこには秩序性や整然さがまるでない。
言ってみれば、カメラで撮った画像データを整理せずにPCの「ピクチャフォルダ」に放り込んで放置しているようなものである。「いつ・どこで・どうして」のインデックスがなく再生には基本的に時間がかかる。しかし何らかの刺激でひとたびそれが蘇った時には、一般の人より微細な光景が再生されている…というのは、怪舎員時代に周囲から驚かれたいくつもの実績があるくらいである。
今では、これはある種の「特性=病」であるということがわかっている。無理や努力でどうなる次元のことではないようだ。なんだかんだ言って、これでここまでを生きて越えてきたことを受容しつつ、こうした特性が生かされるかたちでのありようを模索していきたいと思うのである。
6/12 木 13.0   「丸いものは赤い箱に、四角いものは青い箱に」
…そんな、まったくもっての「単純作業」こそが、ワタクシの本領発揮ができる職場であるとずっと思い、公言してきたが、怪舎員時代には誰に言っても一笑に付されてきた。
…今、まぁまぁそれに近い状態のバイトをしてみて、「単純な中にある面白さや深さ」をしみじみ感じ、やはりあの「思い」はホンモノであったと思う日々。
たしかに…本気でそのような仕事だけをしようとしたら、内職か、知的障害者の授産施設か、あるいはガチな農村・漁村か、海外現法に行くしかテはないだろう。
グローバルだの損益だの、見たくれやコスト・利益を追求することのみが「仕事」で、コピーやお茶くみや掃除は厄介な「雑務」に…いつからこの国は、こんな風になってしまったのだろう。
いたずらに嫌って蔑んで排除した物事から、いよいよしっぺ返しが来た…そんな気がする今日この頃。
外国人を活用する云々の前に、国内での職業意識と評価法を改善すべきだろうが(-"-)
昨今の就職難の問題も、その原因は国の政治や景気にばかりにあるわけではないような気がする。
皆が求めているのが「仕事」であって、「働く」ということではない…そのあたりの、暗黙の裡に変化した「日本人の仕事観」が災いしている面が大きいように思うのである。そこには、本来の意義よりまず先に「自己実現」などという我儘勝手極まりない観念が植えつけられるようになったことも影響しているように思われる。かつてはよく耳にした、「おつとめに出ている」という言葉が死語になっていることもそのような風潮を象徴するものであろう。
「働く」とは「ひとが動く」と書く。動かすのはアタマだけではない。手も足も指も…相手が上司や部下に対してであれ、お客様に対してであれ、あるいは夫や妻・わが子に対してであれ、意味も価値も同等であるはずである。また、リタンキーや認印の押下、商品の陳列、ごみの収集、野菜を刻むことからオムツの取り換えまで、すべて等しく「働く」ということであり、それに忠実に取り組む限り、「得られるもの」は同じである…「違う」と考えるのは、それを「金勘定」にのみ換算しているから見誤っているだけのことだ。
人間、生まれてしばらくすれば、必ず「世間で働く」ことになる。以降、定年や体力の限界まで延々と続くその日々の評価は、「生涯賃金」や「地位や栄誉」によってばかり図られるべきものでない。
それが「人として生きるすべ」であった以上、「ひととはどういうものか」「世の中とはどういうものか」ということを、自分のタマシイで感じ、知り、ひいてはそこで培われた思い…優しさや厳しさというもの…を正しく還元できる力を備えたかどうかにこそ、真価が問われるべきポイントはあるように思うのである。その意味においては、TVニュースやビジネス誌で「シッタカ状態」であるだけの輩より、いわゆる「3K」にまみれて生々しい人間のありようそのものを思い知らされている人たちの方が、人や社会に対する評価力は正当で力強く、優位性が高いであろうことを付言しておこう。
6/13 金 23.0   職務機密上、詳細を書けないのが残念だが、
わたしは現在、「あるものをつくる」という表現が最も相応しい作業をメインにしたバイトをしている。
要求内容は事案により量も内容も様々だが、今日の分はメチャすごかった!(-_-;)
「大変ならSOSを」「助っ人はいつでも出動します」と、親切なフォローは常々頂いているのだが、それを乱用してはワタシがすたる!d(-_-)…とばかり、バッキバキに張り切って作業した結果、「翌日お流れナシ」でノルマ達成!
取り扱っている「あるもの」とは、実に多くの部署や関係者の間を行きかうシロモノなのであるが、同じ内容であっても担当する立場によって「見え方」が全く違うことが明らかな、とってもスリリングな刺激ブツ♪
わたしの立場では、もちろんその内容に直接関与することはできないのだが、「チラ見」「傍観」で十分というか、「だからこそ有益」な財産を密かに残しているような価値があるように思っている。ある意味、時給800円、こちらがお支払すべきでは…てな感じ。
自慢じゃないが、「手作業」「指作業」に関しては、慣れればこっちのもん!とばかり、そのスピーディーな流れをつくる「神ワザ」を連発させる才能を昔から保有しているワタクシには、ココの作業はゲーム感覚で取り組める面白さもある。就業以来史上最高の量を単独でこなし、本部を驚かせた記念に、本日は「オイケdeビール」☆わが功績をたたえるかのように、それは「6上」すなわち製造最新日時であったぞよ!(>o<)プハーッ、ウメェェェ!
6/14 土 19.5   今まで「まぁフツウ」だったはずのラーメンが
今まで「スッゲー!」だったはずのラーメンをぶっちぎり
このあたりじゃ一番ウンメー塩ラーメンになった…(-_-;)
ビバ!塩元帥ヽ(*^。^*)/
「変わらずにいること」が、吉と出る場合と凶となる場合と…
世の教訓を、一杯のラーメンから学べるまちというのは、そうはなかなかないであろう。
京都は、不思議なまちだ…(-_-;)
6/15 日 23.2   琵琶湖・堅田にデデーンと建っていた観覧車・イーゴスが跡形もなく撤去されていた。
ベトナムに引っ越したらしいが…ホンマにまた動かせるんかいな?
ちょうど、わたしら世代が「愛をささやく」のに有効活用されたであろうタイミングに最盛期だった世界最大のおもちゃも、動かなくなればただ寂しさを感じるのみであった。なくなって、風景は良くなったと思う。しっかし、今から12年も前に運転を終えていたというが、そんなものを再利用できるのかなぁ。
サビついた音出して回りそう…(-_-;)
かつては奈良のドリームランドをはじめ、比叡山にも東山にも、遊園地らしきものがあったらしいが、わたしが京都たびびとを始めたころにはすべて「廃墟」になっていたから、いずれもその寿命は短いものだったのだと思う。
みなとみらいの観覧車や富士急ハイランド、としまえんなどは、なんだかんだ言われながらまだまだ存命中であることを考えると、やっぱしこっちのほうは元気がないというか、そもそも適材適所な施設ではなかったというか、「無理して頑張っちゃった感」が否めないところがあるような気がする。
奈良ドリームランドに関していえば、わたし自身中学生の時、新潟からの修学旅行でコースに入っていた思い出の場所ではある。たしかに、よほど恵まれていない限り「そういうもの」に触れることのない地域に暮らす子供にはうれしかったようだが、元々横浜っ子だった転校生のわたしには、「なぜ、京都奈良の修学旅行にドリームランド?」という、徹底的な違和感があったことを記憶している(…とかいいつつ生まれて初めてジェットコースターに乗ったのはここだったのだが)。
田舎がムリヤリ都会化しようとする…というのは、今でもしばしば地域の問題として取りざたされるところだ。それは、「地域格差」といういかにももっともらしい命名を受けて、生きるか死ぬかのような騒ぎ方をされる場合も見受けられるところであるが、果たして実態はどうなのだろうか。確かに、医師不足などへの問題意識は重要だが、ショッピングセンターや遊戯施設などをそれらと一緒にして考える必要はないとわたしは思う。特に、「こどもの遊び」などは、本来子供たち自身が創出し思い出を刻んでいくものであって、大人が既製品や規格品を与えてなんぼの世界ではない。出かけた遊園地の数や写真を自慢にする子供より、田畑や山川しかない中で走り回った子どもの方が健全でたくましいはずだ。観覧車やコーヒーカップ、回転木馬など、実は高度成長期に早々にして「本当の遊び場」を奪われた都心部の子供たちに提供された「なぐさめの代替品」でしかないように思うが間違いだろうか。しかし、イーゴスのない堅田、モーター音やこやかましいBGMの聞こえなくなった遊園地の廃墟の風景の方が「もっともここらしい」と感じている人は、わたしの他にもいるだろう。
いくら豪華な体育館があっても、公共施設があっても…本来その土地にあるべきものを壊してつくられた町と人々の生活が、実は薄氷の上を歩くようなものであったのだという事実を、わたしたちは3年前に知らされたはずである。
6/16 月 15.0   ここの地域性(職人や自営業多し?)か、たんなる「高齢化社会」の風景か…
近くのスーパーには、平日でも昼間っから連れ立って買い物をしている夫婦がやたら多い。
奥さんからちょっと離れてウロウロしていたオッチャンが、平台の中から大きな冷凍エビフライのパックを見つけて…
「なぁなぁ…これ、アカンか?」と、「買って買って、食べたいなー」オーラ全開の視線で話しかけた。 
しかし奥さん、ひとこと。
「そんなん、あかん!」
オッチャンは、「だよね!」な感じで、パックを元に戻した…。
あー、めっちゃホホエマシイ!(*^。^*)
元々このオッチャンには、「アカン」と言われることを百も承知、ダメモトで話しかけた雰囲気があった。「わかってるけどかまわれたい」というところか。
わたしの世代以上の現役主婦というのは、多くの場合、結婚後は専業主婦として家に入り、ダンナの給料でやりくりしてきたベテランである。また、家庭に収まってその立場を全うする以上、「できることは自分で」という意識が強く、惣菜やレトルトなどの食材を使用することが「手抜き」であるという罪悪感を大なり小なり併せ持っているともいえる。男が「俺が働いた給料で食わせてやってるんや」という誇りを持つのと同様、女の側も「私が、わたしの知恵と工夫と手間をかけることで、この生活を成り立たせているんや」というプライドがあるのである。このバランスがうまく保てていることで、「共に健康で暮らす夫婦」というのは成立するのだろう。
オッチャンが「エビフライ」を手にして発した言葉は、ある意味、「かぁちゃんはまだまだ元気で頑張ってくれはるやんな?」という、ささやかな口頭試問であり、「アカン!」と奥さんが元気よく即答したことは、何にも勝る模範解答であったのだろうと思う。アッサリとパッケージを戻した手が、何よりそのことを物語っているように感じた。もちろん、彼らのやりとりはそんな深い意図があってのものではないだろう。しかしこういうことこそが、長年連れ添った夫婦がみせる「絶妙な愛情表現」なのだろうと感じ入るところである。
昨今、TVドキュメントなどで、夫婦や親子間の「手紙」を朗読し、お涙頂戴を狙う場面を多く見かける。「愛している」だの「かけがえのない」だの「絆」だの、誰でも理解でき、イメージできる言葉を借りてきて語りかけることでそれは成功しているようだが、あんなものは浅薄で一時的なやりとりが「感謝や愛情の表現」であると勘違いする、レベルの低い感受性の持ち主を増加させるだけである。
何気ない相手への語りかけや会話…それが冗談であっても悪口や反論であっても、その夫婦や家庭にしかわからないような独自の愛情や感謝、尊敬は日常のあちこちに含まれているものであろう。「バカヤロー」がそのまま「バカヤロー」ではないと受け取れる、そんな「気づきと感性」を相手に対して持ち続けられるか否かが、「夫婦として暮らす」ことの何よりの起点・基礎であり、秘訣であるような…そんなことを「エビフライ夫婦」から感じた次第。
6/17 火 10.0   「仕事でむしゃくしゃしてやった。女の尻を触ると興奮する」…by大阪国税局査察官(痴漢で逮捕)
…って、まったく脈絡のない動機と行動。ただ「触るのがスキなだけ」だろーが(-"-)
職業からして、それなりの学歴もある「カシコイひと」であるはずが、この程度…むしゃくしゃを発散する肉体的行動には、RUNが一番でっせ。
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6/18 水 10.0   トイレのウォシュレット。
使用している時はその仕組みが目に入るべくもなく、さりとてその場を離れて見ようとすれば、トレイは水びたし…(-"-)
発売当初、CMで見た「ノズルがシューッと出てきて水発射」の仕組みが、いまだに変わっていないことを知って愕然とした(゜o゜)マジッスカ?
ウォシュレットはさることながら、最近は便座が絶えず生ぬるい温かさを提供し続けるトイレが、
公衆の場においてもゾクゾク普及しているという事実には、驚かされる。
この、異常なほどに「抗菌ズキ」な日本において!
だいたい、公衆のトイレなんぞというものは、「うーどうしてもアカン!」というようなときに「あってよかった!」というレベルで十分なもので、極端な話、囲いと穴があればOKなはずである。実際、どうしようもないときは道端でも(男の場合)、草むらでも用は足りることは、登山や長距離RUNの経験があれば誰でも納得できることであろう。
「いつ・誰が・どんな風に」使うか全く予測不能な状況下にあっては、それがいかに直接自分の肌に接触しないか、いかに素早くその場を離れるか、ということのほうが、よほど衛生的で安全だと思うのだが、どうしたことかこのジャンルだけは時代に逆行した動きが進んでいるようである。どういう状況か確認できないノズルから出る水を使い、いかにも菌が増殖しそうな温度の便座に腰掛けることに、なぜかくも寛容でいられるのか?不思議なことである。その対策のためにか取り付けられている備品など、原点に返って考えれば「ムダ」以外の何物でもない。特に「税金で運営されている」公共施設にあっては。
とにかくにも、公衆トイレなどというものは、「ペーパーがついてるだけでラッキー♪」という程度、昔のように暗くて汚い場所のままでよい。あくまで「緊急対応」として、公序良俗と人間の尊厳を守るための最低限の設備であってよいのである。「いざというとき助かった」という体験は、もっと大きく深刻な意味での「いざというとき」の適応力を培っていることも忘れてはならないだろう。
…抗菌・清潔とかますびしい日本。
トイレではほんの数分の快適さのために、電気や紙や薬品を多用し、マメな掃除さえすれば済むはずの汚れの除去を一挙にはがす洗剤を使い、季節柄あるいは年齢的にあって当然の人体臭をごまかすための柔軟剤を使い…あくまで人間のみに都合のよい無駄なことを多発させている。自然界にとって「最大の菌」は、人間存在そのものなのであるかもしれない。いずれ「除菌」されないように気を付けたいものである。
わたしは出町の公衆トイレが好きだ(*^。^*)
6/19 木 13.0  
6/20 金 20.0    
6/21 土 19.9   「丹波の国」というのは「近江の国」と並んで、不思議な雰囲気がある…
あくまで個人的な、しかし個人的には重要な感覚。
っつーか、単に「イナカの空気が性に合ってる」ってだけの話かもしれないが(*^。^*)
6/22 日 5.0   梅干しに赤シソ投入。
今年は、梅もシソも熊本産だ。
くまモンが喜びそう(*^。^*)
6/23 月 10.0   「早く結婚しろ」と言われて傷つく女性。
「早く結婚したから」と言われて傷つく女性。
「コドモを産め」と言われて傷つく女性。
「コドモは産むな」と言われて傷つく女性。
世の中には、いろんなパターンがあるものですな。
自身並びに友人知人からの見聞おりまぜ、各項すべてを体験した者としては…
も−どーでもいい話です。
アホはほっとけの境地でしょうか。
こういうやつらは直球で指摘しても適当にごまかして逃げるだけやしな。「そういうつもりはなかったとか」…マジムカツク。
女性として生まれ育ち、生きてきたからには、「結婚・出産」ということは、どのような方向性であれ必ず意識する課題であります。
「それを選ばない・選べない」という状況にあるというのは、「女性の本能」に逆らう行為であり、そこには他人の理解できない葛藤や苦悩が介在しているもの…ある程度期限付きの決断事項であるだけに、それはそれは深刻なものです。
こうしたデリケートな問題にかかわるのは、たとえ親・親戚の間柄であっても注意しなければならないし、まして他人にアーダコーダ言われるなど、禍根以外の何物を残すものではないでしょう。
にもかかわらず、こういう余計なことを言うバカは後を絶ちません。スッゲーむかつくのはよぉぉ〜くわかります。
かくなるうえは、何を言われても毅然とスルーできるだけの「運命体力」を鍛えましょう。「あなたが今、ここにいる」という事実が、今までの人生上の選択や決断が正しかったことを、何より証明するものなのです。誇りをもって、くだらない価値観やヤッカミで攻撃するバカを無視しましょう。
バカはいずれ、自滅します。価値観の狭さひいては人間性の狭さに気づくべきなのは、彼らのほうなのです。
6/24 火 23.0   美奈子が病気になってダディが彼女に電話したとな。
ネットのニュースというのは、あれこれ細かいところまで深入りしたニュースが見られるところが良くもあり悪くもあり。
今回の場合は明らかに後者である。
離婚した夫婦が、その後もなんだかんだとコミュニケーションを取るという「そのカンジ」が、ワタクシにはイマイチ理解できない。まぁたいていの場合、二人の間にできた子どもあれこれの関係で否応なくお付き合いせねば…ということなんだろうから、それは「親としての責任上」いたし方ない範囲であるかもしれないのだがね。
「一度は愛し合い連れ添ったよしみ」という見方もあろうが、ワタクシには「結婚→離婚」という経緯を踏んだ二人には、「他人以上に他人」というくらいの何かを言動に表明するほうがスッキリ見えるんである。少なくとも、相手の病気や怪我くらいでコミュニケーションが取れるくらいなら離婚なんするなや、という考え方がワタクシの基本。
以上、貧乏・DV・扶養能力ナシの「父親」なるものと別れて33年、ものの見事に音信不通を貫く者としての見解。最低最悪の夫婦に生まれた子供の思考回路とはこんなものであろう。
…にも関わらず、近頃鏡をみるたびに、おでこから目にかけて「父親そのまんま」を見せられている、遺伝子の恐怖と戦う日々のワタクシであります(-"-)
6/25 水 0.0  
6/26 木 0.0  
6/27 金 0.0  
6/28 土 0.0  
6/29 日 0.0  
6/30 月 0.0  
走行距離 387.9  km