あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
5/01 木 13.0   「人間は社会的動物である」…アリストテレス。
それがたとえ「負の性質」を帯びていることであったとしても、「自分は社会において○○である」という認識を自他共に共通して持てることは、ある種の安心感とアイデンティティの確立のためには必要なのであろう。
従来であれば、常識・道徳論や精神論のみ基準に、批判や排除の対象にしかなり得なかった様々な「ひとのありよう」が、医学・生物学といった科学的見地とその判定が参入することによって、ある意味「正しく認知」される事例が増えているのは喜ばしいことである。単なる「怠け者」「根性なし」が「うつ病」に変わり、「ホモ」「オカマ」は「性同一性障害」に、「集中力のなさ」や「コミュニケーション能力の不足」は「発達障害」に…と、つまりは「病人」「障害者」とされることであっても、当人はもとよりその家族そして仲間にとっては、まずは素直にその「事実」を認め、その上で「だからどうするか」のポイントを与える機会となるからである。
問題なのは、それらの「ポイント」があくまで前向きにその先を生きる指標でなくてはならないということだろう。いたずらにその「特性」を前面に出して、世間からの「憐み」「同情」あるいは世間への「たかり」のみを引き出そうと働きかけるだけのものであってはならない、また、新たな差別感を引き出すようなことになってはならないということである。
5/02 金 13.0   大丸京都店紳士フロア周回コース付き。
…当然これは距離には換算せぇへん。
紳士服売り場にて「ポロシャツ探し」。
制限時間20分!(゜o゜)ワーォ★
最終決戦の「バーバリーvsポールスミス」では、P店員が「お見比べ」と称してB売り場に商品と共に同伴してくれたおかげで、無用な往復RUNの手間が省けた(*^_^*)
さすがは京都一のセレブの贔屓店ダイマル、CSセンスにかけては一級レベルである☆ちなみに肉屋では「モリタヤ」がそれに該当する☆
5/03 土 18.7   「そんな権力と名声、財力はいらない」
中途半端な時点でそれを得た人間の恐ろしさ、愚かさ。
かの小倉昌男先生が、そのビジネスにおいてあれほどの成功を収め、かつ人々に乞われながら、いわゆる「自叙伝」「ビジネス論」の類の書を現役時代には著さなかった、そのご意志をわたしはとても尊敬している。
それはまた、かの妙好人源左にも通じるところあり。
その勤勉さを讃えようと町が表彰をしようと話を持ちかけたところ、源左いわく「そんつぁんもんはいらんがや。生きてリャいつ囚われの身になるかもしれんでのう、なんまんだぶ、なんまんだぶ…」
5/04 日 18.4   琵琶湖に熱帯魚が舞う。
レガッタ大会なるものに遭遇。
わりと好きなタイプのスポーツだ。スカッシュの次にやってみたい種目になった(実現性は低い)。
さほど頻繁に出かけるわけではないが、琵琶湖とワタクシは非常に相性がヨイ。
そもそも、現在の「京都人化計画」には、琵琶湖の存在が不可欠であった。換言すれば、琵琶湖が「京都住み」を確定させた主要素のひとつであったのである。
しかし琵琶湖から引かれている水道水はマズイ。
5/05 月 20.9   今では「名物」と称される各地の「○○餅」なるもの、往時には「道中で小腹をすかせたときにはお約束」の食べ物であったのだろうと思う。
それは、今でいう「コンビニのおにぎり」のようなものだ。
鳥羽の「おせきもち」は伊勢・赤福のパクリ?ただし、餡は粒あんであり、その田舎っぽさがひとつの味わいでもある。出町のふたばも、これまた気取りのないボリューム感ある豆餅。その立地からして「ある程度大量に、並んでも買い込む客」は当初からあったものと思う。ただし、現在のように「食べログの口コミ」ではなく、長旅に必要なエネルギー源として。
しかし、素朴さ・田舎っぽさの最たるそれは、上賀茂神社の葵餅ではなかろうか。「餅」という名称そのまんまやん!という歯ごたえは、今となってはユーモラスな存在感である。
5/06 火 37.8   たぶん一生通らないだろう(御免こうむりたい)ルートを走る。
排ガス、化学的異臭のダブルパンチ。
本当は奈良がゴールのはずが、玉水で停止。「多賀の神さん」に、「あんた、何してまんねん?」と問われたのであっさりリタイヤした(不思議ちゃんワールドの記述)。
5/07 水 20.5   人により、バケツの容量が違うだけ。
そのバケツの許容量からあふれ出せば、だれでも「アレルギー」になるのだ。
比喩は面白いが、とてつもなく恐ろしい定義である。
人生47年と半年で、「そろそろあふれまっせ」のシグナルが出はじめたらしきワタクシのバケツは、ちいさいのか大きいのか。
今では深刻な「そばアレルギー」も、ワタクシにそれが発覚した小学3年生当時は、世間の理解はまだまだ浅く、「そばでアレルギー?」と半ば嘲笑の的のような扱いであったように記憶している。しかし、じぶんだけはそれを「明らかな恐怖」として認識し、以来、「何がじぶんに災いをもたらすか」というテーマは、食料や物質の微細な部分にわたって常に検証・留意されてきた。特に30歳過ぎからは、食品添加物、せっけんや洗剤、シャンプーに至るまで、かなり配慮してきたつもりでいる。
…なので、現在「まじヤバクね?」な兆候が現れ始めたことも、「やるだけのことはやってきた結果」として静かに受け入れることができるのである。とはいえ、これ以上の症状が出ることは避けたいので、ここから先、今まで以上の工夫や知恵をはたらかせる必要があるだろう。
@まずはアクリルたわしを作成・使用することで、食器洗いの洗剤をほぼゼロに近づける。
AアセルファムKは一切排除。間違って混入商品(微糖缶コーヒー等)を購入してしまった場合、迷いなく捨てる。
Bいわゆる「トクホ」商品の一切を無視。
Cやせる…諸症状が発生する面積(体積?)そのものを減らす。…これが一番やっかい(-_-;)
5/08 木 22.0   ほぼピッタリ(ラブラブイチャイチャの距離ではない)の位置にあって、ひとりには明らかに聞こえる音が、もうひとりには聞こえない…
「どっかでオッチャンが木魚叩いてお念仏したはる」
「?????」
(4/22の記述に関連)
…というように、逆にわたしからしてみれば「????」となるほど、世間の人の耳は聞こえていない。っていうか、明らかにわたしの耳は「聞こえ過ぎている」のである。そのことに具体的に気が付いたのは怪舎員になってからのことで、それ以前はあくまでワタクシとって「フツウのこと」であったのである。このギャップが、「ヘンなひと」という世間の評価の一端を担ってきた可能性は高い。本件は、過去に受診した聴力検査という科学的検証でも証明されていることなのでもあり、かつ、今は亡きターボも同様の特性があったことからして、
@遺伝的な脳構造の特性
A上記@の特性をさらに加速させるような生育環境(詳しくは書きたくない)
が所以するものと思われる。
しばしば、いわゆる知的障害者が町中で「耳を塞いでいる」場面に遭遇するが、もしかすると彼らにもなにかしら同様の「聴こえすぎ現象」が起こっているものとわたしは推測している。とりあえず、あっても何の足しにもならない、というより、おそらく何かとストレスの多いはずのこの特性ではあるが、「面白がっているレベル」にあるだけマシか。
一方、このような特性を仏教学的見地からとらえたとき、それは「六神通」と呼ばれるうちのひとつ「天耳通」に相当する。図らずもワタクシの研究テーマはこうした「仏教的ミラクル」に類する検証である。古代、「奇跡」「超能力」としか考えられなかったゆえに宗教性を帯びた「個性」を自ら体感しているとすれば、これは非常に貴重な研究資源であり、根拠であり、アプローチの原点である。だからモタモタしてても挫折できないんじゃわ。
5/09 金 14.0   「硬い布団派」「柔らかい布団派」
…好みにより、また自身が抱えている身体的事情により、「どちらが良いか」ということは一概に決めつけられないそうだ。
しかし!
ワタクシに関しては、明らかに「硬い布団派」であることが、この1週間ほどで判明した。
ちなみに、現在使用している「敷布団」は「ヨガマット」である(*^_^*)
どうやらワタクシは、寝ている時にも「戦っている」フシがある…(-_-;)
あまりに柔らかい(厚みのある)布団だと、沈みこんでいく体を何とか元に戻そうとしている、もしくは「沈むなら徹底的に沈んでやる!」的な、要らぬ力を発揮しているようなのだ。
いずれにしても、じぶんのカラダのクセや重みをそのまま布団に受け止めさせる結果となっていたことが、歪みをさらに増長させ、細かいながらあらぬトラブルを誘発していたらしい…と感じられるのである。
ヨガマットを敷布団代わりにしたのは、実に「たまたまそうしてみただけ」のことだったのだが、その翌朝から背骨や首がスッキリ爽快になり、腰や腸脛靭帯の具合が快調になったのだから、こりゃやめられんわい!ということで現在に至る。当然、この効果はRUNやウォークの時の「体のパーツの落ち着き具合」としても実感されるところである。
…幼いころ、しばしばCMで目にしていた「フランスベッド」は、『アルプスの少女ハイジ』のクララや『キャンディ・キャンディ』のイライザのベッドとリンクして、ワタクシにとって「お金持ち=お嬢様のモノ」の象徴、憧れでもあったが、現実には「臥薪嘗胆」さながらの設営こそがワタクシのカラダにとっては「幸福な寝具」であるようだ(-_-;)ザッツ、ビンボーショ-。
ちなみに付言すれば、飛行機のビジネスやスーパーシート、列車のグリーン席、プレジデントの後部座席、某社役員室のイスなんてのも、わたしには「安楽」をもたらしたことがない。才能や能力を云々する前に、カラダそのものがそれらを拒否するレベルの人間のようである(-_-;)ザッツ、ビンボーショー。
5/10 土 12.0   京都市においてもこの4月から、市営地下鉄・市バス共に値上げされた。
しかし!
しからば同じく値上げして当然と思しき「フリーパス」の類は、お値段据え置き(-"-)
観光客に媚びる京都市…もとい、観光客様あっての京都市ならでは、といえるだろう!
この京都市内の観光実態を眺める限り、「不景気」とは何ぞや?というのが率直な印象である。「…だはんでぇ」「…じゃねぇべ?」「…しとるけぇ」等々の言語を使用する地域からここまで遊びに来られるということ自体、決して「貧しいわけではない」と言えるだろう。それらを踏まえても、「旅にかかる費用」が100円200円上がったところで文句は出まい。
市の財政が云々しているさなか、消費税を口実にした便乗値上げはまたとないチャンスであったはずを、アッサリ逃してアホちゃうか?と思った京都市民は、おそらくわたしだけではないだろう。
ちなみに10数年前、「市バス1日乗車券」は700円から500円に値下げされている。そういうことをする一方で、市バス運転手のリストラだなんだと、「この地で働き暮らす人間」を脅かすことをしている矛盾。こまかく見ると京都市もずいぶんおかしなまちである。
5/11 日 46.1   桂川界隈+草津(温泉のない滋賀のほうの)
昨夜をもって「東野ワールド」封印!(-_-;)
あれよあれよという間に18冊(作品数としてはそれ以上)を読破してしまったが、「とりあえずここまでにしとくか」と思った次第。
…そのきっかけを与えたのは内村鑑三と松尾大社。
仏教学研究への拍車をかけたのが「ホトケサマ」でなくて「カミサマ」系であるというのもヘンな話だ…とはいえワタクシ的には十分脈絡があるストーリーなのだが。
「かつては交通の要所であった」と言われながら今はさっぱり…という地域は多い。たとえば京都北山の雲ヶ畑や鷹峯、南の納所(淀)の河岸がそれであった、なんていうのは全く信じがたい話だろうし、今では繁華街の一部的存在になっている三条大橋・三条小橋あたりもそのイメージは浮かびづらい。
滋賀草津も、東海道と中山道の合流地点としてかつてはにぎわったのだろうが、今ではまったくその面影がない。地元では、その史実をもって町おこしを図ろうとしているらしく、「いかにも」な風情を醸し出すために随所の家屋や道路をそれらしく改築…その努力は理解できなくもないが、「なーんかわざとらしい感」だけが漂ってくるように思えるのはわたしだけか。
その点、京都の「古さ」を感じさせるあれこれは、「別になにもしてへん。元々古いもんがそのまま残ってるだけどす」という、ある種の開き直りとプライドの残存物、すなわち「ただそのまんま」の状態が人々の評価の対象になっているケースが多く、落ち着きと威厳があって違和感を持てないところが素晴らしいと思うのである。
「つくられた古さ」はしょせん新しいのであって、本来そこに積み重なっているはずの歴史的情念とでもいうべき重さがまったくない。単なるテーマパークなのである。その点、京都には、「既にないはず」のあれこれを、個人個人の趣向と感性で見つけ出すかたちでの「昔」があちこちに見え隠れしている。「旅」や「観光」というものに、単なる「物見遊山」以上の意義と価値を求めている者にとって、この差は大きいと思うのである。
…昨日は「京都サゲサゲネタ」だったので、今日は「アゲアゲ」にしておきました(*^_^*)
5/12 月 12.0   クドカンも好きだが、ウチカンも好きだ(*^_^*)
クドカンとは宮藤官九郎、ウチカンとは内村鑑三のこと。いうまでもなく。
今、この時期にウチカンの『宗教座談』が文庫化・初版出版されたことの意味は大きい。
少なくともワタクシにとって。
つくづく、キリスト教と浄土教の共通性を感じるとともに、「宗教的体験の行き着く先」というものが、どんな宗派思想を問わず一致したものであると思わされる。…時代は、ワタクシに味方し始めた(*^o^*)ビバ!
『アナ雪』なる映画が大ヒットしているらしい。その大きな要因ひとつに、どうやら松たか子の唄うテーマソングのノリ(詞)があるようだ。
「自分らしく」「ありのままで」…今では腐るほど耳にする、いわゆる「ポエムコトバ」であるが、件の歌詞をはじめ巷間に乱用されるそれらについて、ワタクシにはこれほど抽象的でいい加減な事象はないと思える。確かにそれは人の生き様にとって重要かつ最善の真理であろうが、だからこそスローガンのように「言葉や概念だけが先走りする」ことがあってはならないのであって、それが「今時点でのすべての人」に許され奨励されることのように汎用されている現状にはある種の危惧さえ感じるものである。
「自分らしく」「ありのままで」等々なるものは本来、人生における数々の苦難の中を煩悶・葛藤・沈思熟慮しながら生き抜き、ようやく獲得した「感」「観」…本来言語表現を許さぬ境地…を、敢えてコトバにするとこうなる、という極めて高次元の位置づけにあるべきものであろう。何らかの失敗や逃避あるいは我儘な主張を、反省や検証なく「そのまま」でいることを翻訳したものではないということを誰もが銘記すべきところである。また、極言すれば、そのような境地は確実に「宗教的体験」すなわち神仏の存在の想定なくしては成しえないところであるということも付言しておきたい。換言すれば、「じぶん以外・じぶん以上」のなにものかによって、わがふるまいのすべてが赦され救われているという精神的大前提がもたらす安心感なくして、「ありのまま」なる生き方は完遂できないということである。
映画や小説、果てまた「そのような境地に至った数少ない人」の文言を丸受けして、一時的に陶酔しその気になっているだけの「ポエマー」がいかに多いことか。かかってくるならこいや!…というほど、実はこの嘆かわしい現状にワタクシは怒っているのである。
5/13 火 13.0   マーシーは廃人。
マンシーは偉人。
原宿でキャラグッズがバカ売れするほどの価値があった田代まさしも今は昔。
一方、時間的には彼の3倍以上も昔の存在であった清沢満之の思想は現代にも普遍的な価値を保ちつつ静かに継承されている。
「価値」ということばは様々な意味合いに語られるが、その真義には天と地の差があることも多い。上記の場合、前者は「惑わされるため」、後者は「惑わされないため」にそれぞれの役割を果たす「価値」があるといえるだろう。
この俗世を生きるにあたり、両者ともなくてはならない必要素であるとはいえる。ただし最終的な理想としては、「後者を相対的に感得するために必要なのが前者」という位置関係を知ることが肝要であろうとは思う。
…大谷の企画展は毎度ながら地味で小規模ではあるが、龍谷とはまた一味違った魅力と威厳に満ちていて魅力的である。
日本浄土教の代表格は、「浄土宗(鎮西派・知恩院)」「東本願寺(真宗大谷派)」「西本願寺(真宗本願寺派)」と言ってよいだろう、たぶん…と思うのは、京都住みとしてそのすべての総本山が徒歩圏内にあるがゆえの私見・偏見かもしれないが、同じ阿弥陀仏信仰に端を発しながら、良くも悪くもそれぞれに個性を持った集団となっているところは常々興味深い。
ほとんどの信者の場合、「先祖代々」の慣わし(寺請制度のせいで)として、いわばほぼ強制的にいずれかに属しているのだろうが、本来的には、「じぶんにとってわかりやすい、やりやすいところは何処かな?」という選択肢を与えられていて良いはずのものである。
幸運なことに、そういう家風的シガラミのないわたしは、浄土教各宗派をどのようにお料理しようともお差支えなしの好条件に恵まれているが、そのことがかえって「決定打」たるポイントを見つけづらくさせている一面も否めないのである。母校報恩の見地からすれば間違いなく知恩院であるし、マンシー、カラス、センショウさん、シュウガクさん等々、思想研究的には東であるし、サービス精神もとい布教の質の良さをみれば西がダントツであるし、加えて中村屋は仏光寺派、妙好人庄松は興正寺…モー困っちゃうぅぅぅなんである。まぁ、どこに帰属しようなんて決める必要もないような気がするんやけど(*^_^*)
【ところで】
この記事を書く前にふと開いたヤフオクのページに「セリーヌ」のバッグが出ていた。「ラゲージ」と呼称されているらしきデザインのバッグがドバドバ掲載されているので、おそらくこのシリーズが最近の流行というか人気の的になっているのだろう。
しばし、十数万の価格と共に平然と並んでいるその商品写真を眺めたのだが、ワタクシにはどうしてもこのデザインが「欲望むき出しのロボットがヨダレを垂らしている顔」に見えて仕方ないのである。率直に言って気持ちワルイ、もちろん頼まれても持ちたくない、そんな感じがしてならないのであるが、一般女性にはこういうのが「ステキ!」ということなのだろうか。おそらく「その感性おかしいんじゃない?」なのはわたしのほうなのだろうが、共感者は必ずいるはず。
5/14 水 13.5   烏丸御池チョイ上ル(東側)にある漬物屋にて、陳列棚にちょこんと座っている「とび助」発見(゜o゜)ワオーッ!
「とび助」とは、かの佐川急便の旧キャラクター、公称「飛脚くん」のことである。
このマスコット人形…かれこれ20年くらい前になろうか、佐川急便が「彼に名前を付けてくださいキャンペーン」をはり、応募者の中から抽選でプレゼントされた、まさに「レアモノ」なのである。
ワタクシの家の「カワイイモノ倶楽部」の一員として暮らしているやつ、「祇園佐川」にひとり、某和服加工業P社にひとり…に引き続き、京都市内では4人目の「とび助」。
まだまだどこかに潜伏あるいはひょっこり顔を出している彼がいると思われるが、実態は不明。
ヤフオクなどでは相当高値がついているので、「いつかは売れる貴重品」のような扱いを受けているものも多数あるような気がするが、「人にかわいがられ、楽しまれる」本来の役割を果たしているような光景に出会うのはうれしいものだ。
ちなみにうちのとび助は、舞妓さん好きの25歳、東海道を一晩で走ってしまうというスーパーランナー…という設定でおます(不思議ちゃんメルヘンワールドの記述)
5/15 木 13.0   「くまモン好きなひと」
「くまモンおばさん」
「くまモンばばぁ」
…まぁ、なんと呼ばれて(思われて)いるかはともかく、「観往さん=くまモン」の公式は、職場関係者に幅広く浸透しているようだ。
もちろん自ら公言したなんてことはない。
ただ、フツーに「くまモントートバッグ」を持ち歩いていたことが、すべてのはじまりであったらしい…。
やっぱし、47歳のオバちゃんとの組み合わせとしてはインパクトでかかったんやろか(-_-;)
違う部署のイケメン職員が、出勤したわたしを待ち構えるようにニヤニヤしながら近寄ってきた。推定38歳…「カレシ」とも「息子」とも想定できない彼が何を言い出すのかと思いきや、
「ねぇさん、くまモンさんがえらいことになってますよ!」…と、『少年ジャンプ5/19号』を手渡されたのである(゜o゜)
そこに何が掲載されているかがわかっている、なおかつ、なんとかしてそれを読めないものかと思っていた矢先だけに、これはとてつもないサプライズ&ラッキーな出来事であったのである。ありがたく頂戴しお持ち帰り。
さらには、仕事中、「今、高島屋でくまモン展やってはる!」という写メ付きのメール着信(正しくは「大九州展」なるイベントあったのだが)。
そしてまた別の人から、同じく「高島屋に明日くまモンが来はるらしいですね!」と声をかけられ…
ともあれ、このように周囲から気遣いを受けることはありがたいことである。逆に言えば、「くまモン」がいなければあり得なかったであろうコミュニケーションの広がりに感謝感謝☆なのである。
…案の定、明日の「くまモン」は、事前に整理券をGETした人のみが近づけるとイケスカナイイベントであるし、そもそも終日仕事なのでNGである。くまモンには会えないのは残念だが、今日の帰りにくまモンが喜ぶ「熊本名産の買い物」はしてきた。おつからしレンコーン☆(*^_^*)
ちなみに、ジャンプの漫画は、くまモンにひっかけたネタではあったがひじょうにシュールで男性向きな面白さがあった。「くまモン人気」の派生型として、これはこれで楽しい(*^。^*)
5/16 金 13.0  
5/17 土 53.3   条件さえ整えば、このくらいの距離はフツーにいける(*^。^*)
ここでいう条件とは主に、気温・空気・湿度等々の外的要件を指す。
たとえそれがRUNに最適な環境であっても、自身の体力がなければ…ということは言うまでもない。
すなわち、ワタクシにはまだそれなりのRUNリキが残存しているということである。ありがたや。
もはや同世代でなければピンとこない話であろうが…
かつて大人気少女マンガであった『キャンディ・キャンディ』で、主人公キャンディが孤児院から引き取られたお金持ちの「ラガン家」のお屋敷の画像にクリソツな家を宇治で発見した(゜o゜)
見た途端にあのマンガの1コマをソッコーで思い出したくらいだ…この家のオクサマがかの画像を意識したか、もしくは設計者がそれを提案したか…ピンポン♪して真相を確かめたいと思ったが、今はそういう「余興」というか「楽しさ」を許さない「個人情報」の時代であるからして断念。しかし再びその場所を通る機会があり、なおかつ庭に家人が出ていたりした場合には問い合わせてみたいものだ。
…小学校では「オトコオンナ」「ボーイッシュ」、怪舎員時代には「3割男」と呼ばれて否定できない存在感を自覚していたワタクシも、少女時代にはそれなりに「おひめさま」「お嬢様」の世界に憧れていたものである。当然のことながら自らは果たすべくもない夢を、他の誰かが叶え、今生きているこの同時期に目にすることができた偶然は、不思議なうれしさがあるものだ。
5/18 日 12.9   この土地の景色は素晴らしい。
既に何度も記しているが、まさに「浄土」を思わせる西日の風景、神の存在を感じさせるような北山の風景…
この偉大な、そして威厳のある美しさに囲まれて生きながら、「俗」にどっぷりと浸かりこみ暮らすなど、なんともったいないことだろう。
さらに最近気が付いた…おそらく鴨川のある絶景ポイント)を庭のように楽しめる事情に恵まれたからこそのことだが…この土地には自然発生or人為的を問わず、「草花」の種類が多い。もっとも、怪舎員時代には野生の草花に多く触れる機会が少なかったから、相対的にそのように感じる部分もあることは否めないが、おそらくそれを差し引いても「実態」として多いと思う。
かつて「BOSS中島」に、野生の草花の名前を知る楽しさを諄々と説かれたときにはスルーしていたが、ここにきてようやくそんな意欲というか余裕が出てきた。今まで「ただ見るだけ」で、それは単なる「じぶんの中の記憶画像」に留まるのみであったが、名前を知れば、誰かに「伝える」「話す」ときに便利であることは間違いないし、そのことによって、「誰かと話す内容そのもの」が豊かで優しいものになるかもしれないと思ったりする。
自らの「こころ」の置き場所を、そういう世界に求めるように生きることを、これから先は大切にしたいと思う。…金曜日、職場で起きた「ある事件」をきっかけに、しばしモンモンと怒り嘆き悩んでいたが、2日後にこういう結論に至った。
5/19 月 12.0   本屋にて、なぜかふと手にしてしまったウチカンの読後、ふらっと出かけたマンシー展をきっかけに触れた『精神主義』、
トドメはまたもや末木先生の著作☆
「なにげなくやったこと・思ったこととその結果」は、運命的に偶然か必然か。
必ずしも絶対の回答は出ない問いであろうが、ワタクシに限って言えば間違いなく「後者」である。
「あきらめなければ夢はかなう」のではなく、「あきらめたつもりでも、そのことを忘れていても、かなう夢はかなう」
…というほうが正しいのではないか?と、しばしば思うことがある。
ただし、その「夢」なるものが、どういう背景や条件下に発生したものか?ということには制限があるようである。「儲けたい」「有名になりたい」「尊敬されたい」等々、自らに相対的優位性を持たせようという欲望が根源にあるか否かが問われるということである。
人が本質的にもっている「適性」や「感性」は本来、常に「それが生かされ、正しく発揮できるように」そのひとの心身に訴えかける働きをしているのであろう。それを聞こえづらく、また認めがたくしているのが「俗世の欲」あるいは「世間の常識・道徳論」なのだと思う。しかるに、そうした俗世のセオリーに執着が少ないほど、ひとは己のそのままのありようを素直に感知し、それを「夢」「希望」あるいは「予感」と翻訳して認識することができるのである。
…流行を追わず、「かくあるべし」の人生コースを悉くはずし、すっかり「アウトロー」な存在となったワタクシであるが、だからこそ、最後の最後まで「ワタクシが真にかなえるべき夢」はワタクシに呼びかけ続けているのだろう。
5/20 火 8.0   ASKA逮捕。
特別な「ファン」というわけではないが、チャゲアスの曲はいくつもウオークマンに入っている…そんな世代だ(-_-;)
伊豆急全線RUNのときガンガンにテンションを上げてくれたのも彼らの曲だった。
もちろんそれは、わたしだけのことではない。プロポーズや結婚式、仕事のストレスを乗り越えた人…様々な人がそれぞれの場面に、切り離せない記憶を持っていることだろう。
巷では、CDや配信の一切を停止するとか言ってるが、それはちとやりすぎでは?と思う。
「クスリでキメてラリパッパー♪」なんていう歌詞があったわけではあるまいし。
こういう事件起こるたびにTVでは、今やクスリは誰でも簡単に手に入る…みたいなことこをさかんに言うが、コンビニや通販に売ってるわけでなし、チラシがポスティングされるわけでなし、「簡単に」という表現は少しばかり軽率ではないかと思う。実際には「望めば簡単に手に入る」というのが正しいであろう。入手のためには、その提供者に関する情報収集や購買行動など、ある意味強い意志と覚悟が伴わなければ成立しないのである。
ゆえに、使用者の「つい手を出してしまった」とか「弱い人間だった」とかいう表現も、周囲の同情や酌量を意図する言い訳であるといえることになるだろう。
ストレスや苦悩を解消しよう・逃れようとするのは、ひととして当然の行動であり、その手段を探すこともまた自然のことである。要は、その行為が「どういう方向にいくか」ということが問題なのだ。あくまで他人には理解しきれない個人内面的な苦悩やストレスの解消を、他人を害し負担をかけることを代償にしたとき、それが「罪」となるのである。
…ということを考えれば、クスリの使用がその筆頭に上がることはさることながら、法的に許されている酒、タバコ、カラオケ、はてまたRUNに至っても、「我を忘れ、壊す」ほどに取りつかれること、そこから招かれる結末は同質であるといえるだろう。むしろ、それらの方が明確に「罪の対象」とならないままにジワジワ継続するという点では、始末に負えないことであるかもしれない。
ASKAは逮捕の直前、ファン限定のサイトで自作曲を公開したという。
「自由になりなさい 楽になりなさい 誰かに そんな風に言って貰いたい」…そのために彼が求めたのは向こう見ずの悲しい手段であった。もし身近に、阿弥陀仏の教えがあり、それに触れることができていれば…と直感的に思った。最近、本願寺派は東京布教に熱心であると聞くが、ASKAの心には間に合わなかったか。残念なことである。南無阿弥陀仏。
5/21 水 13.0   昨日、ASKAの詞に「クスリでキメてラリパッパー♪なんていう歌詞があったわけではあるまいし」との記載に対し、『夢の番人』という曲のことを知らせてくれた読者がいた。(*^_^*)サンキューベリマッチョ。
早速、歌詞を検索したところ、「運び屋の白い粉袋の秘密で…」なんていう、たしかにヤバイ詞があった(゜o゜)
全体的に眺めても、何を言ってるんだかワケワケメ。曲のノリとムードに流されてなんとなく聞き過ごしすって感じの内容だ。
実際、この時もすでに「ラリパッパー♪」な状態で書いていたのかもしれないなぁ(-"-)
この曲は1993年、なんとあの『YAH YAH YAH』のカップリング曲(昔でいうB面)であった。なので、よほどのファンでないとリアルタイムには耳にしなかったかもしれないが、いつどのように発表されようが、その時点で「ヤバイ系」として指摘されたり問題視されてもよさそうなレベルに足を突っ込んでいるような気がしないでもない。しかし、「その時には問題にはならなかった」のである。
世の中というものは、その時高評価を獲得し称賛されている者には甘い…そんな風潮の典型のような気がしないでもない。「アバタもエクボ」じゃないが、無名の一般人がそれを言動すれば「異常」「変わり者」として批判や排除をしそうなことにも、有名人がやれば、もしくは母集団が拡大すれば「才能」「芸術」「カッコイイ」等々と見方を変える。
10数年前は「アホちゃうか?」の世界であった通勤RUNもしかり。
5/22 木 13.0   現在ワタクシは、小うるさい京都人が「京都」と認識する、いわゆる「洛内エリア」全般を通勤ルートに選定できる身である。
思えばそれは、大都会東京を縦横無尽に移動しまくれた怪舎員時代の状況に似ている。
往復80`超VS13`弱、なおかつ、電車(定期券付)vs徒歩のみ…これだけの差がありながら、道中に受ける刺激度数がさして変わらないように感じられる。
京都というまちが、いかに「あらゆるジャンル・階層・生活シーン」をゴッチャにして成立しているかの証左であろう。
いったい何通りあるのか…一生かけてもクリアできないような気さえする「碁盤の目をぬうルート設定」に、興味は尽きない。
5/23 金 13.0   ある経典…平たく言えばまったく同じ漢文の読み方が、「宗派」によって違う不思議…(-_-;)
それは、標準語と東北弁・関西弁の違いが、それぞれの風土環境にともなって必然的に起こったのとはチト違うような気がする。
「アンタんとことは違うんやわ」という「積極的差別化」とでもいおうか。
「いかに難しそうに、偉大そうに、美しく芸術的に聴こえさせようか」の競争の果てに出来上がったような感じがしてならんのである。
…これ、本日の通勤ウォークで真宗両派の『正信偈』を聞き比べた感想(^_^.)
もとより、経典なるものはホトケの言動やその称賛するところを綴った、いわば「伝記」なのであって、それをいくら読み聞きしたところで「病気が治る!」だとか「お金持ちになる!」「成績が上がる!」なんていう「直接的要因」とは決してなり得ない。
これは、9歳のときにその「疑問・仮説」が生じて以来40年、ワタクシが一貫して保持してきた体験的定義であり、ゆえに、「葬式で死者に経典を読み届けること」の無意味さも合わせて強弁してきたものである。
その趣意は基本的に変わることはない。しかし最近そこにちょっとした「解釈の余地」が生まれたのである。
…冒頭に記述した通り、経典のほとんどは「昔々あるところに…」で始まる、つまりは『桃太郎』や『白雪姫』等々と何ら変わりのない構成をもつ「おとぎ話」の類である。子供のころ、寝かしつけるための手段として親に絵本を読み聞かせられた体験を持つ人も多いだろう。つまり、葬式に読まれる経典を、すなわち「おとぎ話の読み聞かせ」と解釈すれば、そこには「どうぞゆっくりおやすみなさい」のメッセージが込められることになるというわけである。そのように考えれば、経典内容が本来持っている意味内容をそのままに、それを死者に向かって読み上げることが、ひじょうに情緒的でやわらかい、優しい「見送りの風景」として理解できるということになる。
「ほとんど歌謡芸能」というべき印象が強い真宗の「経典読み」に接して、このような新解釈を得るに至った次第である。
さすれば、「葬式にボンサン呼んでお経読んでもらって…」ということも、まるで無意味とは言えまい。それは、死者を思って生前に使用したモノや花を棺桶に供えてやることとまったく同レベルの「思いやりの行為」なのである。
いずれにせよ、その供給者側が「葬式をしないと浮かばれない」みたいな、恐喝のような理屈しか展開できないままであれば、現代人の葬式離れはますます加速するだろう。この時代、それは当然のことである。
5/24 土 5.0   他人から受けた批判や異論を認めない人は、「プライドが高いから」という評価を受けることが多い。
包括的に言えば、それは正しいだろう。しかし…
激しい劣等感やコンプレックスを抱えながらなんとか生きているつもりの人間が、さらなる批判や異論を受けることによって、己がつぶされてしまうような恐怖感のために素直にそれらを受け入れられないケースというのは、果たして「プライドが高い」という表現に値するのかどうか、疑問である。
否、外見的に優秀で有能であっても、その「己」を維持せんがために「張りつめている心の糸」を弾かれることに対する恐怖感は同様であるかもしれない。
おそらくそれは「プライド」などというものではない。「臆病」なのである。
生まれ持った性質、育った環境、今ある生活の事情背景…それぞれに、なんとかその中を生き抜こうともがいているのが人間というものである。当然、それらの意志や言動は随時に尊重されなければならないし、配慮もされなければならない。
しかし、いつなんどきにも何かしらの「集団」「関係性」の中にあって己の生をつないでいる以上、ある程度の妥協や迎合、節制というものが求められているのもまた事実である。
この矛盾した構図の中に、ひとの失敗や劣等感というものは生じるものであるが、現代社会は、それらをうまく消化(受け止める)ことができない人が増えてしまっているように思うのである。「うつ病患者」の増加など、それをつぶさに示す現象であろう。
そこには、親子家族関係のありようの変化、地域社会の崩壊、成果主義の企業構造…等々、社会学的なテーマが数多く潜んでいるような気がするが、ワタクシは自身の専門分野から、「宗教心の喪失」というものも採用して考察したいと思うのである。
「失敗しても、力が劣っていても、それを許し、またはフォローする」…人間関係性におけるこの機能が、世の中のあらゆる分野からそぎ落とされてしまっている。それはそれで、社会の発展と共に致し方ない部分があることは否めない。しかしそこに追いつけず取り残されてしまった「こころ」の拠り所は、もはや「宗教」にしかないのではないか。
必要なのは、失敗しても「安心して反省できる」「安心して後悔できる」、そしてそこから、もう一度新たに踏み出す力を得られる手段である。
それは、「失敗しても意味がある」を押し通し、あくまで個人内部に起承転結を求めるアソコでもないし、俗世に帰れば元通りの無の境地を教えるアソコでもないし、自助努力を徹底排除するアソコでもない。…無論、それらを全否定する意図はないが、本日のテーマに関してのみ言えば、それを解決できるのは「浄土真宗がピカイチ」であるという主張を呈したい。
5/25 日 33.0   京都リサパーの書店で、山積みだった「ある書籍」が1週間で半減したのは、単純に「売れたから」ではない。
…その理由を、わたしは知っている。(*^_^*)ムフフ。
こういうことは、あるようでない話…そういう事実に「遭遇した」ことについては、不快感というより「おもしろさ」のほうが強くて楽しいものだ。ニャハハ。
5/26 月 10.0   「神の領域に踏み入った」
…こんな言葉を、最近しばしば耳にする。
それは、かのIPSやSTAPなどの話題に付随している、すなわち「科学の発展」を意味するものである。ヘタをすると、それらの発見者を「神扱い」しようとしているフシさえある。
しかしそれは、あくまで「言語表現上のお遊び」に過ぎない。実際、神はそんな人間の傲慢さをお笑いになっていることであろう。
生老病死…まさに、「人間の四大苦」と称されるそれらを、人間の意志の下に支配しようとする技術や学説は、大なり小なり常に世の中を飛び交っているが、果たしてそれらが一般化したところで、すべての人間が絶対的幸福感と共存共栄的平和を勝ち取ることができるのか。答えは明らかに否であろう。それはかつて、抗生物質やワクチンが開発され「死の病であった領域」から開放された史実、農薬や品種改良の進歩に伴って「飢餓」から救わるようになった史実をもってしてもなお、人々がさらなる苦悩を抱き続けていることをみれば一目瞭然である。出生前遺伝子診断でいわゆる障害児を産むことを避けられたとしても、遺伝子検査で起こるべき病が予測できても、失った手足が再生できても、「それでも」何も解決はしない。それは、これらが「あくなき生への執着すなわち煩悩」を根底に展開されるものだからである。
したがって、そうした技術や理論がいくら開発されたところで、それは神仏の世界になぞらえることはできないし、まして、その発見者を「神」などということはもってのほかであるとワタクシは思うわけである。
「ひとのいのち」を右往左往させるほどの影響力をもった仕事やその成果というのは、ある意味では偉大であり脅威でもあろう。しかし前述のごとく、それが浅ましい欲望の達成欲求である以上、本質的には「ご飯をつくるお母さん」「学校で授業をする先生」「道路で交通整理をするガードマン」らと意義内容は変わらない、みな等しい「単なる役割分担」に過ぎないのである。
…わたしは思う。
小中学校時代、ひとつの学級・学校内にはさまざまな「係」や「委員会」というものがあり、誰もがそのうちのひとつの役割を担っていた。風紀係、給食係、飼育係、放送係…みな真剣に(適当に、の場合もあろうが)その係の任務を全うしようと、幼いながらの知恵と力でそれぞれの主張をしたり、働きをしていたものである。当然、彼らは「この上ない必死のガンバリ」をしているわけであるが、大人の目から見ればそれは、なんともつたなく、頼りなく、しかしほほえましい、そんな程度のことである。
これと同様、おそらく「神の目」「神の存在感」からみた人間世界とは、「子どもの学級会活動」を穏やかに眺めているような次元にあるのではあるまいか。医者は保健係、会社員は会計係、おかあさんは給食係、歌手や俳優はレクレーション係…そこには、不器用ながらも懸命に仕事をしようとする子供を見守る愛情があるのみであり、そこで誰が成功しようが失敗しようが、いずれも「不完全世界における微々たる現象」であると…。
「職業に貴賤はない」「誰もがかけがえのない存在」…なにかにつけ耳にする、これ自体は紛れもない真実である。しかしその一方で、ある業績を上げた者を神だの勝利者だのと宣揚する矛盾が世の中には厳然と存在する。これは、「神」というものに対する正しい観念の喪失が招いていることである。本来あってはならない「神の位置づけのひきづりおろし」すなわち、すべてを人間社会の枠組みの中で解釈しようとする人間の傲慢さが為せる業とも言えるであろう。
5/27 火 12.0   人体の健康と保全には、「科学」より「物理」。
13年前、さるメーカーの日焼け止めを塗ってトラぶった体験を発端に、ワタクシなりに観察・考察した結論である。
半袖や袖なし日焼け止めを塗るよりも、長袖を着た方が日焼けは少ない。サプリを乱用するより普通の食事量を制限する方がダイエットには近道…等々、これまで体験的に認知されてきたことに、最近新たな事例が加わった。
それは、とある事情から「お休み手袋」(別名:焼き芋屋のオバちゃん)をするようになって気が付いたことだ。これまで、季節を問わず荒れ放題、加齢も伴って非常に見苦しい状態だった手の甲のキメが、少しずつではあるが改善されているからである。
これまで、どんな謳い文句で宣伝された「○○剤」や化粧品を使用してもイマイチであったことが、たった一枚の布を覆うことで解決したというわけである。
スキンケアの基本は「保湿」であると言われている。そのために、各種メーカーはあれやこれやと「保湿成分配合」のクリームやサプリ等を販売している。しかし、今回、「手」によって証明された、「よりお手軽で安全な方法」を流用するとすれば、一番確かな方法は「顔にサランラップを巻いて寝る!」…これが一番手っ取り早いのではあるまいか???
窒息しそうだからやめとくけど(^。^;)
5/28 水 8.0   おまわりさんや自衛官…チャンスがあるならやってみたい(*^。^*)
しかし、それが無理であるのは、「年齢制限」というどうしようもない門前払いを受けるからだ。
わたしに受験資格がある頃の「おまわりさん」は、女性の場合スカートばきの「交通整理要員」でしかなく、興味はなかったのだ。
そういえば、今ではフツウになっている電車の車掌さんや運転手さんも、女性がそこに関わるなんてことはアリエナイことだった。
単に年齢や性別だけの話ではない。
家庭環境(両親か片親か、ひいては生別か死別かまで)、宗教、思想…今では御法度な項目が、堂々選考基準になっていた。
「ただ社会人として働く」だけのことに、あらゆる面でガマンとストレスを抱えてきたのが女性社会人だったのだ。
…ほんの2・30年前の話である。
時代に伴うあれこれの変化そのものを云々する気はない。それぞれ「そういう時代を生きてきた」のであり、「そういう時代だからこそ生きてこられた」、その結果として現在生きている人々は存在しているのであるから。
しかし、あまりにも価値観が激変した感のある、いわば「過渡期」にある現在、様々な社会保障制度には「年齢や性別による区分」を新設することが、むしろすべての人々の平等性が得られるのではないかと思う。
「女は嫁に行って子供を産んで家事をする」ことがフツウであった時代に、それに逆らわ(え)ない暮らしを選んだ人にいきなり「扶養者控除廃止=社会で働け」は無謀だろう。また、そのような時代に敢えて社会人生活を続けた人が今更「コドモを産む価値観」を押し付けられることも虐待的行為に等しい。男性に育休を与えて子守を任せたところで、一緒になってグズッて泣くのがオチではないか…。
扶養者控除を廃止するのは「男女雇用機会均等法」施行後に出生し教育を受けた者からを対象とする、年金はただいま現在の加入者で締切り、加入者には必ず払うことを確実に、それ以降の世代は選択制にする…そういう区分はあっても良いのではないかと思ったりする。法の制定というと、条件問わず「全国民に適用」することを当然と考えているから、話はいつまでも平行線のままダラダラして解決しない。「どちらかひとつに決める」から、該当しない者が「お荷物」「負け組」になるのである。
とにもかくにも…男も女も「同じ家庭科」を勉強し、女のバッグをアタリマエのように男が持ち抱え、夫が家事をすること、女が義務教育のように大学を出て好きな仕事を選びフルタイムで働くこと、父親が子供を抱いて保育園の送り迎えをすることがまったくアタリマエになった時代に生きている女どもに、それがアタリマエでなかった時代を生きた女が一方的に批判されバカにされるいわれはない。
わたしはこれを「ジェネハラ」と命名し、問題提起したい!負けるな!頑張れ!昭和40's世代の女子たちよ!
5/29 木 13.0   梅干し用の青梅情報getのために錦の某青果店へ・・・って、シャッター閉ってるやんッ(>_<)
・・・しかし、裏口は開いてて作業中だったので、課題は解決(*^_^*)ホッ。
梅酒用の梅は絶賛発売中だが、梅干し用のんは6月中旬とな。待ち遠しい。。。
5/30 金 13.0   3年前には確実にあったその場所から、みせは消えていた…(-_-;)
単なる遠回りになってもーた…と思ったが、古本屋でまたお宝ブツを発見したできたのでヨシとしよう(-_-;)
この10年ほど…どこの地域でも同じかもしれないが、「数年単位」でつぶれたりリニューアルしたりする店というのが多い。
なにかにつけ「伝統」とか「歴史」とかのキーワードでイメージされることの多いこの京都においても、この数年の間にいくつの店が消えたことか。「老舗」と言っても、成功しているのはほんの一握り程度。もはやつぶす気力もなく疲れ果て、買っても大丈夫か?と思うような商品を並べている店も多いのである。つまり、一般的に認識されている「京都の古さ」は「たまたまそうなっている」だけのことであるという冷静な見方が大切かと思われる。
元は日本の首都であり、本質的に何でもかんでも「新しもん好き」「日本初スキ」であったはずの地域性は、ふとした刺激によってしばしばそれを顕在化させる。よそから「後出しじゃんけん」だのなんだのと批判されようがお構いなしに、「リニアを京都へ!」の大看板を市役所にデデーンと構えてしまうあたり、それをうかがわせる典型であろう。
5/31 土 27.8   旧東海道、瀬田〜三条大橋
日露戦争の発端(インネン?)とも言われる、ニコライ皇太子襲撃はこの東海道・大津にて起こったのでありました。
ワタクシはこれを、生麦事件とゴッチャにしていたのであります…つい最近まで(-_-;)ハズカシ。
京都駅にて…
ボンサンが、口角泡を飛ばす勢いで熱弁をふるっている…はて、原発反対か自殺防止キャンペーンか、と思いきや、テーマは「リニアを京都へ!」
一言、「呆」。
走行距離 547.9  km