あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
5/01 水 0.0  
5/02 木 0.0  
5/03 金 0.0  
5/04 土 0.0  
5/05 日 0.0  
5/06 月 0.0  
5/07 火 0.0  
5/08 水 0.0  
5/09 木 12.0   パーリ語漬け。SKTより楽に思えるのは、これが「俗語」だからか。
本来「ナムアミダブツ」であるところが、口にするとき「ナンマンダブ」になるような変化がそこにはある。
まぁ、どっちがどうとかいうことなしに、両方マスターしやんとアカンねやが(-_-;)
ネットニュースで、「植物には聴覚がある」という新研究情報…視覚・嗅覚があることは以前から認識されていることらしい(゜o゜)ウヒャー!
…無論、人間のような言語を交換するということではなく、音響振動に反応するというレベルでの話のようだが、何らかの形で「通訳・翻訳機能」が働けば、人間との会話も不可能ではないことになるということか。
そういやサカモト教授がそんな試みをしているというのをテレビでみたことがある。…っていうか、それ以前に「樹木や草花が語りかける/会話する」ということについて、ある種の肯定論を持っているワタクシとしては、こういう情報が科学的に証明されることはありがたい。だが、これ以上詳しく書くと「不思議ちゃん」になってしまうので省略。
5/10 金 6.2   バイト中、汗ダクだろうがニンニク臭かろうが「お差し支えナシ!」なラッキーディというのが、たまにある(^o^)
つまりは昼休み、鴨川RUNしても、ニンニクからめてラーメン食べても、オールオッケェ〜ということなんドス♪
…本日のチョイスは、もちろん前者o(^o^)O
「昼休みRUN」なんぞ、鶴見川(鴨居)以来のことだから、なんと23年ぶりのこと(゜o゜)オモエバ、トオクヘキタモンダ…
ここのところ、国民栄誉賞を受賞した長嶋&松井の話題があれこれ盛り上がっていた…それ自体どうでもいいことなのだが、唯一興味を惹いたのは、かの有名な「長嶋の擬態語」に関すること。「バシッと!」「ズバーンっと!」等々、ムチャクチャながらも真意を伝えようとしている長嶋のそれらを、松井は見事的確に受取り再現することができた、ゆえに、今日のような大物になったという話である。
このテの話には、様々な良心的誇大解釈や虚飾が織り込まれることを留意すべきであることは言うまでもない。しかしそれを差し引いても言えることは、たとえそれがどれだけ曖昧だったり抽象的・遠巻き的であろうとも、「わかる人・わかるとき」には通じる、逆に、それほど緻密に思いを文章やマニュアルにしても、「素質や時機を伴わない人」には永久に伝わらない、ということであろうと思う。
ワタクシについていえば、「妙好人」の遺したことばたちがこのことに該当する。もはや古語化し、しかも方言バリバリの「つぶやき」の集大成であるそれらが、単なる文章理解の域を超えて「わかる」のは、わたしの心境や状況が彼らのそれと合致したタイミングに起こるのである。
最近では、この数年、何十回と目にしてもイマイチしっくりこなかった「吉兵衛さん」のひとことが「キターーーーーーッ!」となって感動しているところ。
何十人にもからなる「妙好人」の何百のことばは、これまで様々な学者たちに研究されているが、たとえば大拙博士や水上先生が「才市推し」であり、柳先生が「源左推し」である等、それぞれに入れ込む対象には違いがある。「感性」すなわちタマシイをもって傾倒するには、それぞれそれなりの背景的共通性があるということのようである。
ちなみにワタクシは、「肉体能力的」に清九郎、「感性的」には市太郎・庄松・新蔵・七三郎・源左あたりにグッとくる。
就中、『市太郎語録』は、ぜひとも入手したい一冊なのであるが、まずは「京都・為成館」なる出版社が、もはやどこにも存在していない。国会・府立・市立図書館・大学図書館・古本サイトのどこにもない。幻の一冊となっているのが至極残念なのである(T_T)
5/11 土 0.0   スタンプラリー
「名水ポイントめぐり」だったにもかかわらず、名水を一滴も収集して帰ってこない愚行(-_-;)
まぁ、雨やったししゃぁないか。
5/12 日 8.0   桂川
ようやく、ナマくまモンに接触することができました(*^。^*)キャハー♪
過去の履歴(ヨウツベ等)からみて、大阪に出没するくまモンは、初期に活躍したバージョン(個人的に"ヘンくま"と呼んでいる)であることが多いので、その点がちょっと心配だったが、きちんと「カワイイバーション」が登場してヨカッタ♪ちょっと足は長めだったけど。
ステージでは、おやくそくの「くまモン体操」が披露された。たいていの人が写真や動画を撮影するのに夢中だが、「ナマ」で見ているからにはのチャンスにそれはもったいないことだ…と、しっかりナマの目で「静観」しようとしたが、かってに体が体操をしていたのであった(^。^;)…練習したわけでも覚えようとしたわけでもないのに、フルマスターしている事実に我ながら驚愕(゜o゜)スッゲーッ!
ピンクレディー以来…いやそれ以上の「物覚えのよさ」である。最近では「妙好人ネタ」くらいにしか働かない能力が、他で発揮できたことに、なんだか可能性を感じてしまった。この調子でパーリもマスターできるとイイのだがぁ(-_-;)
5/13 月 3.0   オイオイオイオイ。
1年以上、「ここがいいんだけどなぁ」と思っていた距離と仕事内容の会社が、いまさらパート募集始めたやんか!(-_-;)
タイミング悪すぎ。
ここ2件、「パート形態で採用するのは初めて」という職場ばかりにあたっている。
「パートとはこんなもの」という位置づけのコンセンサスがないところよりも、ワラワラと「パートさん」を使い慣れ、使いまわしている会社にうずもれてモクモク仕事したいのだが…何をかくそう、わたしにはすっごい適性のある仕事内容だし。コミネBOSSは「そんなことないよ!」と否定していたけどね。
本当のことをいえば、今のところを蹴っ飛ばして応募したいくらいだが、そうもいくまい。
ただ、その募集広告を見て、一気にモヤモヤが取れてスッキリしたような気がしているのは精神的に大収穫だった。「働く=お金」の手段は、バイト・パート程度の求人なら、いつでもどこにでもあるのだという至極アタリマエのことが、改めて知らされたような気がしたからだ。
ある場所で仕事をしていると、そこで「できるだけ長いこと安定して働きたい」と思うのは人の常である。そういう気持ちが働くからこそ、不条理な話にも頭を下げたり、くだらない雑談にも付き合ったり、はてまたセクハラ・パワハラまがいのことにも目をつぶるのだ。逆に、ある種の「愛社精神」のようなものが働いて、ムダや不正や矛盾を許せなくなったりもする。そうした気持ちが強すぎると、いつしか「じぶんの働く場所はここしかない」というような、意味のない束縛感を生じるのである。パート仲間Mさんに「あるくさんはマジメすぎるしアカンのと違いますか、私はテキトウで何にも考えてませんし」と言われた…ある面で問題はありつつも、現実上の意味ではそれこそが、パート身分であり、かつ現在のわたしにあるべきスタンスなのだろう。
今の自分にとって、何を差し置いても集中すべきは「学問」なのであって、その配下に「仕事=お金(学費)」すなわちバイトがある。必要以上のストレスやくだらない負荷がかかりすぎるようなら、そんなところやめちゃえばいい!くらいの気持ちでいることにしよう…と思ったら、すっかり気が軽くなったのである。体重は重いままだが。
5/14 火 3.0   パーリ漬け
なんとなく、明るい兆し(*^。^*)
わが一族どこを見渡しても、大学院なんぞに行ってる「高学歴者」は唯一ワタクシだけである…それがたとえ「通信」であろうとも。(わたし以前には吹けば飛ぶような4流私大出がようやく2名程度)
どうだ、スゴイだろう!と言いたいのではなく、「その程度の暮らし」をすることでよいはずの遺伝子しか持ち合わせていないワタクシが、そのような現実を生きているということの「ムリヤリさ」「無謀さ」というものをつくづく感じるのである。
洗面所の排水管がつまって水が流れない…というので、ホイホイと歯ブラシ(もちろん使い古し)やらへアピンやらでヘドロを取り除き、アッという間に修繕完了。
即座に「さすがの遺伝子!」とホメられたのは、わたしが「配管工(をはじめとするドカタ親父)の娘」であるということを示唆したものであった(^_^;)
…たしかに、排水管の掃除をはじめ重量物運びや荷造り、魚のおろし、細かい縫い物、料理などを、「好きキライ/得意不得意」の表現すら必要としない「自然のふるまい」としてこなすことができる。ちなみに人の耳掃除や顔そりも好きだ☆…まったくもって「親の子そのもの」なのである。
それはおそらく、大学教授の子弟が読書好きあったり、大物役者の子弟が同じく大物の兆しを見せることと同じなのだろう。ただわたしの場合、それがあまりに些細なことでありすぎ、一般的にいうところの「才能」の範疇には含まれないだけのことだ。
いまや死語化したのかもしれない「家庭的」…わたしに分相応の評価は、図らずもそのあたりに落ち着くべきであったのだろうとつくづく思う…それをそのまま目指すにはあまりに困難の多い環境にあったことが災いして、とんでもないところに到達してしまった感があるが、「終始コドン」である存在として、こんな「突然変異型」のありようを試すことは、わが一族の「秘められた可能性」の顕現化になるのかもしれない。ここまできた「外的要因の影響」に逆らわず、このままやってみよう。
5/15 水 0.0   わたしは今、人生最大の「アホ」と遭遇し、その下で仕事をしているのかもしれない。
しかもそれが、コワイモノなしで傍若無人にふるまっているとなると…アナオソロシヤ。
いつしか暴力事件でも起こしそうな危険なにおいがするだけに、扱いは要注意なのである。
あまり過激&下品にならないように一言で表現すれば、「アダルトチルドレンな男」というところだろうか。まぁそれが判明した以上、同じ土俵に立って云々するのはレベルが低すぎるのでこれ以上何も語るまい。
…ということで、話題を変えると…
「有名人になると知らないうちに親戚や友人が増える」というのはよく聞かれることだが、かのY教授も例外ではないようだ。
それは実際の「縁故」や「過去の接触・つきあい」を盾にとって近づくだけのことではない。その業績や成果に直接関係のない趣味などの日常生活上の些細なあれこれを持ち出して、関係業界が接触を図ろうとする動きがあるということを、間近に見聞してウンザリしたところである。「スゴイことをしたスゴさ」そのものではなく、その威光を借りて自分たちの利益や評価を引き出そうとすることは、商売上あるべきセオリーなのだとしても、あまりに浅ましすぎるように思う。
かのY教授が、「おかげさまで私は研究に集中できていますので問題ありませんが、周囲の人がいろいろ大変だろうと思います。」と、さる場所でコメントした一言を、わたしは単純に家族や大学関係者を対象にしただけのものかと思っていたが、実はあれは、「そうではない周囲の人々」のタカリ感覚に対して発したイヤミもふくんだものであったのかもしれない…と感じたのである。
5/16 木 15.0   その人の書く「文字」を見ると、その人の性格というか、少なくともそれを書いた時の心境のようなものが直感的に伝わってくる。
それは超能力でもなんでもなく、何らかのかたちで「文字」というものに深く関わってきた人には自然にできることなのだろうと思う。
わたしの場合、幼少のころ書道をしていたこと、常軌を逸した人数と回数の「文通」、並びに個人的なノート筆記の体験がその因縁のひとつかもしれない。
たとえば、法然・親鸞・空海・日蓮などの「ご真筆」なるものを拝観するに、ある人は「熱情の中にも鍛えられた情緒安定と冷静さ」を感じるし、ある人には「激情型だけど疲れやすい」とか…この際、だれがどれとは言わないが、そうした特徴は見て取れるのである。
遠く、怪舎員秘書時代においても、直接出会う前に目にするその人の書類上のサインなどで、想像した「性格」はほぼドンピシャだった。
「恵まれた育ちをした大らかさ」「体験・訓練によって培われた大らかさ」「自分本位の大らかさ」「気が小さく臆病者だけど、業績的に出世してしまった」「マジメであろう・見られようとしている」「マジヤバイ」…等々。これも、誰がそれであるかは言わないでおくが。
ヒント、M・O・H・A・I・?の順。…ゴマダンゴならワカルダロウ(-v-)
なぜ、そんなことが言えるのかということについて、今一歩踏み込んだ実例を持ち出せば、それはかの「ターボの文字」を引き合いにしなければならない。
既述のごとく、かれは軽度の知障者であり、特別な訓練を受けたこともなく、単に覚えた文字を必要に応じて書く程度のことであったから、その意味では「彼の素のまま」のありようが表現された文字であったということになる。ところが、そうして綴られた数々の文字というのが、わたしが学習のノートなどに書くそれとまったく酷似していたのである。
僭越ながら、それは一文字一文字が大変几帳面であり、正確さに留意されたものであり、読みやすくまとまりがあり、わかりやすく言えば一昔前の「ガリ文字」の模範のようなものであった。会社の業務日誌でも「文字が大変きれいですね」とコメントとされ、彼だけ特別にハナマルをもらうほどであったのである。
「訓練経験のない知障者」と、「それなりに修練を積みながらも自然に書くわたしの文字」がまったく同一…という事実は、前述の「性格」や「感情」を表すということはもとより、それ以前に「持って生まれた資質」すら表現されるに至る、ということが言えるのではないだろうかと思う。それ以外に、ターボとわたしの文字の酷似を説明する根拠が見当たらないのである。
…文字は個性であり、また、直感的な次元で「見る相手」に文章以上の何かを伝える役目を果たす重要な機能を持っているのであろうと思う。その意味で、誰もかれもがPCのデジタル文字で物事を伝えるようになった現在のコミュニケーションの軽薄化や一面的なありようと、そこから来るある種の危惧を感じざるを得ない。少なくとも、「それぞれの味わい」を楽しんできたわたしには、ひとつの趣味というか、特技を失った、重大な現象なのである。
5/17 金 10.0   マンションのごみ収集場に「ブランドバッグ」がいくつも捨てられていた。
思わず袋から取り出して眺めてみた(*^。^*)ヘヘッ。
形状まったく問題なし…要は、「モノを入れて運ぶ」という本来的な用途を果たすには、まだまだ十分耐えうるものであった。
が、どうしたことか表面の色があせていて「見栄えはゼロ」。ブランド品というものが「使う」というより「見せる」ことに価値のあるが故の「ゴミ扱い」なのであった(-_-;)モッタイナイ。
巷の「ブランド商品志向」というのは延々冷めやらぬ現象のようである…人生46年半、未だかつてビトンだのヘルメスだのというモノを一切所持したことのない(っていうか、負け惜しみなしに価値をまったく感じない)わたしも、実はある部分では、とっても「ブランド志向」であることを知る人は少ない。
たとえばRUNシューズはNB一点張りだし、ブラはワコールのスポーツタイプ常用だし、蜂蜜をはじめとする食材はどれだけ値が吊り上ろうが絶対国産だし、市販のシャンプーは使わないし…等々、つまるところ、「他人から見えない」あるいは「知る人ぞ知る」のジャンルに限って、強いこだわりがあるんである(-_-;)
これらの消費行動を促し続ける基本コンセプトは、
「なんだかんだ言ってもカラダが資本」。
ビンボー育ちが形成した「ケチケチ」や「美的センス欠如」の類が影響したことではない…とだけは言える。おそらくは、RUN生活を始めてから確立した、ワタクシの揺るがないポリシーなのだろう。
5/18 土 23.0   2個目の「からし蓮根」GET。
それは30年以上前、「コレラ」だか何だかを発症させて大騒ぎになった食品。
そんなコワイ記憶もあり、そもそも手に入れるチャンスもなかったので、まったく食べたことがなかったにも関わらず、食べ出したらヤミツキ(^_^;)
ある程度の転居経験や旅行体験が多い人には知られていることだと思うが、いわゆる「「○○物産展」の類は、それがいくら有名デパートのイベントだとしても、「本当に地元で人気の定番メーカー」が出店しているわけではない。っていうか、限りなくアヤシイ場合のほうが多い。たとえば、東京あたりで開催される「京都物産展」に「おたべ」や「夕子」が並んでいたことはないし、「横浜名産」といいつつ崎陽軒のシュウマイが出品されていることは皆無であるというように。
今回の「からし蓮根」もおおかたそんなところだろう…と、「一応見てみる態度」で近づいたところ…「森からし蓮根」という看板を目にするに至り、これは珍しく間違いないモノだ!と思った次第。
なぜそのような判断ができたかといえば、それはひとえに「熊本県営業部長くまモン」の働きによる。「くまモン」がその旅行写真集で「からし蓮根づくり」を体験した、その場所こそが「森からし蓮根」だったからである(*^_^*)
単に地元PR(認知度UP)に貢献するだけでなく、そこに関わるあれこれに信頼性すら加味してしまう行動力ある「ゆるキャラ」…まったくもって、たいした存在である。
5/19 日 12.0   たかじんの「委員会」を降板してから、すっかり消息不明に(個人的に)なったカツヤには、『知られてたまるか』という著書がある。
それは、美味しいものを食べさせ、飲ませる店の紹介本であり、明らかにタイトルと矛盾しているのだが、気持ちはよ〜くわかる。
そんなお店を、わたしもみつけちゃったんだもんねぇぇぇぇぇ!(*^。^*)キャハー!
もしかしたらこれは、あの厚木の「赤天狗」以来の名店となるかも…である。
おっとととと〜!知られてたまるか!
5/20 月 0.0   日常的にメイクをするのは単なる「ムダ」であることが判明。
日焼け止め、生来薄づくりのマユ補強、色つきリップ、以上、終了!
めんどくさいとか、お金がかかるとか、そういうことではなく、どう見ても「ヘタに色づけしないほうが顔色も印象もイイ!」としか思えないのである。あくまで自己判断であるが。実際、あれこれベタベタ塗りまくると、「顔が重い」「顔が悪いものにふさがれている」不快感がビシバシなのであって、おそらくこれは皮膚からの「モウヤメテチョー!」の訴えなのであろうと思われる。ほとんどの女性にはもはや聞こえなくなっている声なのであろう。
もちろん「やるべき時はやる」のスタンスは維持するが、バイトもRUNも学問も、すなわち現在のワタクシを取り巻く日常環境に「やるべき時」はほとんどない。
5/21 火 12.0   ごく自然に足が向いた南方面。
東寺に接近するまで、今日が弘法市であることには気が付かなかったのだが…薬師ちゃんに呼ばれたか?
ついでに、おそらくは日本人最初の「SKTマスター」であるクーカイちゃんにもご挨拶。
おかげさまで、ワタクシのSKT・PARIもぼちぼちすすんでおりまっする。
ここのところ一気に、韓国人留学生数人と知り合いになった…彼らと会話するメリットについていえば、友好関係を深めるとか意見交換をするとかいう以前に、「自らが発する日本語」が極めて美しくなるということことである。聞きやすいスピードで明瞭に、「てにをは」を省略せず適正・丁寧に、隠語や俗語・流行語、擬音・擬態語を避けて…等々、それは自分自身の「あるべき会話能力」を反省し、改めて鍛えるチャンスでもあるということだ。
話は変わるが、本日「アーナンダくん」にある資料のコピーを頼んだ…「アーナンダくん」とは、同じ学部に属する「超×100000000」なイケメン君。15日記に「今、人生最大のアホと出会っている」としたが、思えばそれと同時に「今、人生最大の美少年と出会ってもいる」のであった…ジンセイ、サシヒキゼロデマッタイラ(^_^.)…で、あまりの美しさにこれまで声をかけることも躊躇していたのだが、本日必要に迫られてお願い事をした次第(*^。^*)キャピ!☆「接近step1」はクリア!ってか?
な〜んつって、ほぼ親子ほど年齢の離れた青年ゆえ、それは「ジャニーズや韓流を追っかけるオバちゃんのノリ」そのものなのだが、むしろ「カレシ」だのなんだのを意識するような関係ではあり得ないところがラクチンなんである。…マジで、あの子とくまモンは「ぜひ息子にしてみたい!」な存在なのである。ウキャキャー(*^。^*)
5/22 水 10.0   最近、炊事にまったくストレスを感じなくなった。
…って、今さら何を言ってるんだか?と問われるような意味でのストレスではない。
仕事をする「手」についてのストレス減少…という、極めて些細で微妙な変化を感じているのである。
これはひとえに、食器洗いの洗剤を「単なる石けん」に変えたから、であろう。
要するに、30代のほぼ10年を過ごしたスタイルに戻したっちゅ〜ことです。
少なくとも毎朝毎晩、「恐怖の界面活性剤」でフライパンの油と共に手の油分まで破壊するサイクルからは解放された今日この頃。
同時に、「なんだか手が軽い」「使いやすくなった」てな具合で、「手そのものの肉体的開放感」のようなものを感じるようになったのは不思議なことである。実際、「ウロコ模様」のようなカサカサもすっかりなくなり、しばらく手放せなかったハンドクリーム(これはこれで成分的にクセモノ)の類も不要となったのである。
あらゆる「化学物質」は人間の一般生活にあたりまえのように浸透し、決して切り離し切れるものではないが、それでも「できるだけ少なくする」くらいの工夫は可能である。しかもわたしの場合、いろいろな面でその選択をしたほうが「ヨイ」と心底思える結果を感じているのだから、このことはよくよく留意していきたいのである。
「何が何でも使う!」のは、せいぜい日焼け止めくらいだ。
5/23 木 10.0   人生初!じぶんの後ろ髪をじぶんで切る! (゜o゜)ナンテ、ダイタンナ!
美容院に行けばなんだかんだと半日時間がつぶれるムダを削減!
ついでに経費も削減!…おぉ、これぞ「家庭的QCサークル活動」であるっ!(-_-)ドヤッ!
ギザギザだろうがなんだろうが、結局後ろで束ねてクリップで止めてしまう定番スタイルには影響ナシ!…と思ふ(-_-;)
なんの意識も関わる出来事もないのに、いきなり過去の知り合い(しかもそれほど緊密なつきあいがあったわけではないレベル)が登場する夢を見ることが、最近しばしばある。今日の場合、それは怪舎員時代の売店のオバちゃんであった。
いずれの夢も、そのストーリーの展開上表れる重要なキーポイントは「扉」であり、相手がその扉の向こうに行くか、あるいはじぶんが行くか、同時に進んでも、結局どちらかが踵を返す…のいずれかのパーターンが展開される。
あくまで個人的な解釈であるが…お・そ・ら・く、これらの夢に現れた人たちは、じぶんが「死ぬ」ことを知らせに来てくれたのだろうと思っている。あるいは、「わたしのほうが既に死んでいる」ことを知らせてくれているのかもしれないが(-_-;)
現在わたしは、「死後の世界=アミダちゃん浄土」ということを思想的に仮説していることもあって、そういう「別れのシーン」に対して必要以上の哀惜や恐怖の念もわかないが、そういうこととは別に、人間の持っている「最期の、あるいは本来的な、神秘性のある念」のようなものには「畏れ」というものを大いに感じる。
人間、忘れているようで「ふとした瞬間に思い出す人」というのがたくさんいるものだ。その思い出の内容の良し悪しは別として、「覚えている/覚えられている」の関係上、わたしも実に多くの人々との縁が切れずに残り、そして続いているということになる。こうした関係性を「現実世界」に否応なく引き戻そうとする仕組みが、かのFacebookなるものなのだろうが、わたしはそういうツールの真義が理解できない古代人である(理想的には、戦争のない世界平和へのツールともなり得る可能性は評価できるが)。
あくまで一対一の記憶やその情緒性の中で、会い・別れ、時に再会し、そして「夢で逢いましょう」…ひとのご縁とは、そんなもので良いのではないだろうか…なぁぁ〜んてなことを考えた折も折、20年近く前の数か月お世話になっていた旧BOSSのおひとりが、わたしの様子伺いをしている、という情報が別BOSSから届いてビックリギョ〜テン(゜o゜)ウヒャー!
っていうか、「そんなことを考えた」と同時に、「はい、正解です!」と答えてもらったようなこの展開。重ねて言うが、人の念やご縁とはげに不思議なものである。
5/24 金 0.0   深夜まで学問につき起床ギリギリ(-_-)
「22:00〜02:00の睡眠で成長ホルモンが!」…といわれるところを意識しているのだが、なかなかうまいこといきまへんな。
…しかし、46歳半で実践して、どこが成長するんだろう?身長ならえ〜けど、体重なら…(^_^;)
木屋町で「遠藤憲一」を見た!
テレビで見るより「優しくて柔らかそう」なイメージ。車いすに乗っていたせいか、思ったより「デッカイ&ゴッツイ」な感じでもなかった。
(…万一、体調不良で撮影ギリギリまで車いすに乗っている?とかだったらお気の毒なことです。)
役者3人、そしてわずか数分程度であろうシーンの撮影に、「どんだけ〜?」というほどのスタッフが遠く近くにワラワラと。カメラ・ライトはもちろんのことながら、傘・鏡(反射板?)、はてまた交通整理と思しきひとたちまで。
まったく関係も知識もない人間が見ても、地味でキツそう、役者以上に苦労が多く大変そう…と想像できる。日本アカデミー賞などで受賞した役者のほとんどが、そのスピーチで「スタッフへの感謝」に言及するが、あれはお世辞でも演出でもない、心からのことばなのだろうと感じる。
さて…「小橋のたもとで若いチンピラ風の男がケンカ」そして「スーツ姿で車いすに乗った遠藤憲一がそこに割り込む」…というシーンを含むドラマ(映画)の完成作品に、わたしは遭遇することができるや否や?…最近、ほっとんどTVを見なくなったので、ちょっと確率キツイ(-_-;)
5/25 土 20.0   一昨日「じぶん切り」した髪の毛の長さが、図らずも絶妙かつベストなコンディションでご満悦(*^_^*)ナカナカ、ヤルジャン!
@RUNするに、邪魔にならぬこと。
A学問や家事をするのに「ハチマキモード」で引き締まること。
B「祇園祭限界」を考慮すること。
@町をオシャレにRUNする若いお嬢さんの中には、すっげぇロングヘアを後ろで束ねて揺らしながら…てなひとも多いが、ワタクシの場合、その揺れや重さがひじょうにストレスになるのでNG。かといって、後ろで結べない中途半端な長さは、毛先が顔にツンツンしたり、帽子をかぶるとあちこちにだらしなく散ってしまうのでこれもまたNG。
A@と同じ理由で、仕事の邪魔になる長さはうっとおしい。程よい加減の長さをキュッと結ぶと、まるでハチマキを巻いたような感覚が頭部に生じて、やる気モードになる。
Bほんとうは、かれこれ10年ほど前にはしょっちゅうやっていた「五分刈りモード」が最もラクチンなのだが、祇園祭の宵々山見物のタイミングに「まとめてポン」と結い上げる長さが必要なことを考えると不可能なスタイル。しかも短髪の維持は経費も意外とかかるのだ。
5/26 日 10.0   ラジオ番組で、東京ではもはや「あの人は今」的な某歌手が、大阪の串カツや京料理についてウンチクを垂れていた。
なんでも、串カツは通天閣、京料理は鴨川等の「いかにも京都」な借景のもとで食べるから「ウマイ」のであって、それ以外の場所で食べるとイマイチなんだそうだ…。
TVだけでなく、ラジオにも、こういうくだらない話をする番組があるのだということを、日頃ヒロ寺平のトークに感心することをしきりなワタクシは知らされたのであった。
「語るに落ちる」とはこのことか…「いかにも」なことを述べているようであるが、食べる場所や器を交えて評価しなければならない料理なんぞ結局、実は「そのもの自体はたいしてウマイもんじゃない」と言ってしまっているようなものではあ〜りませんか。
実際、何回か食べた「串カツ」「京料理」とも、巷間もてはやされ高評価を受けているほどのおいしさをわたしは感じたことはないので、その意味でこの話はとても的を射ているとは思ったが。これらはつまるところ、新橋のガード下スタンドのビールや焼き鳥が「ウマイ」というのと、ほぼ同じレベルのことなのだろうということだ。
わたしはグルメ志向などではないが、RUNという趣味を得たおかげで、前提もドレスコードもお構いなしの「本当にウマイモノ」に数多く出会えてきたと思っている。それはヤビツや北山の湧水であったり、「高尾あんぱん」であったり、露店で買ったトマトであったり、雲取山荘の「きゃらぶきだけの信太郎弁当」であったり…単純なものばかりだが、他の何にも代えがたい「究極のごちそう」を味わえてきた、その幸福をしみじみ感じるのである。理屈をつけずに食べ、うまいと感じることが、なによりだ。
5/27 月 0.0   おもしろいことに気がついた。
ワタクシには何人か、目が飛び出るような年収や、親が超お金持ちな知人がいるのだが、「100万円のブランドバッグを持っている」というような人が存在しないのだ!
100万円を一晩でホストクラブで使い果たしたアホは知っているが…(-_-;)ガクヒ3ネンブンダヨ…
それが今さら初めて、バイト先でそういう人に遭遇したのである。
まったくもって「異次元世界」に暮らす人の話に接触できるようになった今日この頃。ありがちな羨望や嫉妬なく、単純に「楽しい話」として聞けているのは、それらのアイテムがいかに「じぶんの人生にとって対象外」であるかの証左だろう。ただ、一度そんな品物を間近に見てみたいという思いはあったので、その意味では接近のチャンスが獲得できたことになる。
小3のころ、珍しく手に10円玉をいくつか握って歩いていたことがある。このままだと手が自由にならないので、サイフが欲しいな、と、昔よくあった「なんでも屋」のようなところで小さな小銭入れを買い、「さぁこれで安心」と思った直後、そこに入れるべき小銭がなくなっていたことに気が付いた(-_-;)…「何かに使える/何を買おうかな」とワクワクしていた数十円が、全く意味のないシロモノに姿を変えたのである。自由になる小銭を持ち歩くなどということはめったになかった当時、そのサイフは延々「無用の長物」と化し、いつの間にか消えていったのであった。
「バッグ・袋とは、手では持ちきれない、あるいは手に持っていると何かと不自由になるところを解決するために用いられるフクロである」…至極単純な定義がヒシヒシ実感されたこの出来事が、遠からず「良い意味でのトラウマ」となってその後のワタクシを形成した面があると思えるほど、今でも強烈な印象を残している記憶である。
人生において、「何に価値があり、何がムダであるか」ということへの判断基準は人それぞれであるから、「ただモノが入ればいい袋」も「おしゃれで見映えよく、ひとに自慢できる袋」も、それを選択し使用する価値観に優劣はない。その上で敢えて言わせてもらえば、とかく「財力」でその勝ち負けが問われるこの世にあって、「その事物が持っている最低限で本質的な役割」というものを常に見極め、それに納得できる目を持てるかどうかという「人間力」の面では、ビンボー人は常に一歩先を行くたくましい勝者ということができるのではないかということである。
5/28 火 10.0   ボンジンでいたほうがよさそうなボンサン、ボンサンになったほうがよさそうなボンジン。
世の中というのは、なかなかうまくいかないものです。
暴言を呈するとか、イライラするとかいうのとは違う…これまでにない類の「静かなる怒り」というものを感じた不思議な日。
それは、わが身の内にあって、一面で「諦観」を保ちつつ、一方で「情熱」となり「忍耐力」となり「エネルギー」となる。
5/29 水 0.0   五条通。
シナナン、ハマナン、スモウナンバー×2…しめて4台もの「あちらナンバー」が続くとは珍しい…と思いきや。
そのうちの1台の助手席に乗っていたのは、なんと8年ぶりくらいにはなろうかという知人だった!(゜o゜)
あちらの用件はわからないが(様子から見て出張のようだったが)、こちらの事情を列挙すれば、それはバイト帰り、中途に図書館&マルキ&マツモトに立ち寄り、ぶっちゃけ小路の信号を2か所無視してすっ飛ばし…の組み合わせがあってのち、五条通の信号待ちで彼に遭遇した…という次第。おそらくこれは、「何千万分の一」というような確率の、奇跡的な再会であろう…。
さらにいえば、8年以上ほぼ音信不通の間柄でありながら、一瞬にしてお互いがお互いを「知っているあの人」として認識したこと自体、驚くべきことなのである。
しかし…彼が「ブログもマラソンのも、見てますよ!」と言ったセリフが、謎である。誰が教えた?出頭せよ!…ドウセ、タロベエダベ。
5/30 木 0.0   パーリ漬け。
ただし、SKTのように「五里霧中」ではない。
不思議だ。
5/31 金 0.0   近所の女の子が、今年から幼稚園に入ったのだが、なかなかなじめないらしい。
ひとりっ子で、さんざん親に甘えていたからか?…まぁよくあるハナシやねと、思いきや。
なんでも、その幼稚園の給食が冷めているので食べたくない!というのが最大の原因らしい(゜o゜)
思わずつねってやりたくなるくらい、わがままでナマイナキなお嬢様だこと。
お母さんは、その事情をただ「困っている」だけのようだが、中にはそうした不満を幼稚園にガーガーがなり立てる「モンペ」もいるのだろう…と思うと、最近の「先生」というのは微に入り細に入り神経を使わなければならない、ストレスMAXの大変な職業なのだろうなぁと思う。
そういや最近、「レンジ対応」というお弁当箱が多いし、バイト先にもレンジがあって、持ってきたオニギリをわざわざチンして食べている人がいる。「お弁当は冷めているもの」ひいては「温めたお弁当など気味悪い」とまで感じるわたしには、信じられないことである。少なくともこの限りにおいて、彼らに「原発反対」を声高に叫ぶ資格があるのかどうか疑問に思う…ということまで、ついつい思考が発展してしまう。
極めて情緒的な次元でいえば、誰か(あるいは自分)が作ったお弁当や食事というものには、決して冷え切ることない「ぬくもり」が残っているものだと思う。そのあたりを感じながら「いただく」ところに、味わいがあるのではないだろうか。まぁ、単なる「電子レンジ嫌い」のツブヤキと思ってくれてかめへんのですが。
走行距離 164.2  km