あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
4/01 月 5.0   新年度スタート。
「もう後がないぞスペシャル」のスイッチ入れ完了(-_-)
ヒロ寺平も802からCOCOLOに引っ越した。
わたくしも見習って、「心がけのお引越し」を試みるのである。
「じぶんは何を選ぶべきか」…その答えは、とうに出ているのである。最近流行のことばを借りれば、まさに「断捨離」の概念こそが今のわたくしには最も必要なところだろう。メインは「修論」。
しばし浄土学研究も封印。その他興味をそそる分野もしかり。着手したかったらさっさと修論アゲなはれ!というところか。
しかし…そのように決意した生活スタイルにあって、一番「該当案件」になりそうなRUNは特別扱いにて除外せず。RUNは「わたくし全体」をサポートする必須事項だからである(-_-)
4/02 火 20.0   COCOLOは中高年リスナーをターゲットにしたFM局…だからしかたないが、小田とかユーミンとかサノモトとかカーペンターズ、ポールマッカートニーとかの、ユルメ&フルメの曲の連発ってのはどんなもんかと…(-_-;)
「朝だけどゆったりと」」vs「朝だし気合一発!」の考え方の違いか?正直なところRUNのお供にはイマイチな構成だなぁと思う。まぁ、ヒロ寺平も慣れてくればもう少しテンションあがるかな?
「随犯随制」というのは、遠くオシャカさん在世時の仏教教団におけるルール制定から基本となっていたことだ。すなわち、「○○というワルサをした人間がいる」という事実があり、それが運営上支障をきたすと判断されたゆえに「○○は禁止する」という条文になって成立した、その繰り返しと積み重ねによって、時に爆笑を誘うようなアホらしさや、ヘタなAVや官能小説もマッツァオなリアルに猥褻な内容の規則までが「律蔵文献」として残され、現在の研究者たちのアタマを悩ませ(楽しませ?)ているのである。
…先日、生活保護者の浪費通報条例を制定した小野市と市長が、マスコミ(ワイドショーレベル)から概ね批判的な評価を受けているようだ。司会者オズラやいちいちエラそうなテリー等、理想論や弱者擁護論を振りかざしてゴウゴウと市長を責め立てているが、望ましくない規則を制定せざるを得ない「現実がある」ということ、また、生活保護というものがどういう目的と基準をもって制定されているのか、しっかり関知している上でのことではないだろう。どんな問題でもその時々に、ウケ狙いのために生半可な正義感と優しさを道具にして騒ぐのはいい加減にしてほしいものだ。
誤解を恐れず言えば、生活保護を受給するというのは本来的に「恥の行為」である。やむなくそれを受けることになっても、それが「恥」であった時代には、なんとか早くそこを抜けだそうとか、世間から非難を受けないようつつましく過ごそうとか、自ら「制御」する感覚が伴っていた。それがいつしか「権利」「当然」の側面の強調によって崩れ乱れた事実が散見される今、「制御」の機能が公的な方向に移転しても仕方ないことではないか。
以上、拾ったテレビ・逆向けた畳・雨がリアルに響くトタン一枚の屋根・斜めに数センチの隙間の空いた窓・裸電球の照明・沸かし器ナシ・汲み取りトイレもスレスレまで処分せずの家で、佃煮だけの食事しばしば、もらった服そして景品の文房具で定時制高校に通うことすらシブイ顔をされた上で生活保護を受給していた世帯で少女時代を過ごした人間の主張。
4/03 水 15.0   最近、二条〜四条の鴨川は仕事の休憩時の可視エリアなので、RUNで通りたくない感じ。かぶるから。
で、結局、従来通りのコースがベストっちゅ〜ことになるわけです。知恩院さんのアミダちゃんにも毎日会えるし(*^_^*)
通勤通学等を急ぐ道すがら、「おっ!」と目を奪うような桜の風景のようなものが、実は一番嬉しかったり特別な感慨があったりするものだ。
今年のワタクシの場合、それは「木屋町通」の桜並木だった。おそらくは「観光用」を意識して設えられたものであろうが、そこを「通勤で見る」ということの醍醐味よ。ウヒヒ。
…てなことを考えてたところに、なんとも絶妙なタイミングで旧BOSSからの「桜ネタ」。かつてさんざん利用していたJR相模原駅に咲く桜に関する「イワク情報」であった。ところがドッコイ、頑張って記憶を呼び覚まそうとしても、「相模原駅に桜」の風景がまったく蘇らないのである。藤野駅の一本桜はマジマジ思い出せるけど(-_-;)
人間、「その時そこにあるもの」がどれだけ貴重なものであろうがなんだろうが、それを「見る目」すなわち機根が及ばない限り、まったく「無」に等しいのであるのだと実感する…っていうか、そういうネタはゴマダンゴ食べてる時代に披露しておくれやす!ってか….もっとも、それも「聴く機根」が整ってなかったから、当時は馬耳東風だったのかもしれまへんが(^_^;)
このような話は、仏教学において「唯識」と説かれるジャンルに属する。今回の例について言えば、何事も「じぶんが見ようとしているものを見たいように見て解釈している」ということである。この意味において、相模原駅ないしはそれを含めたわたしのその時代の人生というものが、どれだけ「今のじぶん」とは違う世界のものであったか、ということを思い知らされるのである。今現在、RUNや通勤の途上に「ふとしたホッ☆」をしばしば発見し心穏やかになる機会を得ているのは、「ここが京都だから」なのではなく、「わたしがそういうわたしになったから」なのであろう。無論、これは比較的に良し悪しや優劣を判定すべきものではないが。
4/04 木 18.0   「顔を立てる」ということばがある。
ある組織集団内もしくは他人との円滑な関係性を保つために、それが必要な場合があるということは否めない。
しかし、「まずはそれがすべての目的」となって、言動や仕事を左右したり、逆にそういう扱いを受けることを当然として生きているような人たちというのはどうにも…はっきり言って「バッカじゃねぇか?」と思う…もとい、「気の毒なことやわぁ」と思う。オダヤカニ、オダヤカニ(-_-;)
…アンタがいちいち「顔を立てる」を乱発するほど心配しんかて、あの人の顔は首から上、まっすぐ立ってついてますがな!
世間一般に「ハイソ」とか「セレブ」とか言われる人々が集うジャンルの業界で、まったく場違いなオバちゃんがバイトをしている。今まではTVや雑誌、人のうわさ話の見聞レベルであったところに現実にまみえてみると、「そんな人生で楽しいのかねぇ」というような、ある種ビンボー人のヤッカミとも思われるコトバがひっくり返るどころか、ますますその実感を強める日々となっている。
権力や名声のある人物・事物に対する気味の悪いほどの傾倒・迎合、そしてそれを基準としてつくられる自己の一切の価値基準…つまりは、そこにまったく「タマシイ」というものを感じないのである。
キルケゴールの『死に至る病』に説かれる「絶望の世界」のひとつを、まざまざと学ぶような環境に、大いなる有意義さを感じることはあっても、決してハマりたくない、そしていたずらに影響されたくない人生観である。
4/05 金 19.7   本日はアミダちゃんが先、南禅寺・哲学の道。
この界隈の桜もマジスッゲー!なのであったヽ(゜v゜)/トクシタキブン。
実は昨日、アミダちゃんをスルーしていた。一昨日、あまりに感じ悪い…っていうか冷たぁぁ〜い表情で見つめられて怖くなったからだ(>_<)ヒョェ〜ッ。
しかし、その理由が判明し、反省もしたので、今日は朝イチで懺悔のご挨拶をば。仲直り完了(*^。^*)
建仁寺境内でボンサン(修行僧)の朝清掃の光景に遭遇。やる気があるのかないのか、動作がなんとなくだらしなく雑でがっかりした。比較するのは申し訳ないが、最近しばしば御池通り某ポイントで見かける「まちの清掃オバサン隊」のほうがよほど真剣な表情と腰の入った動き…まさに拝みたくなる存在だ。
かの宗派において、清掃をはじめとする生活所作は悉く「作務」と呼ばれる特別な修行のはず。「今やるべきことを全身全霊でやり遂げる連続の中に、真の自己形成は成立する」という目的があると聞くが、形式も背景事情もまったく関係ない中で同じ仕事をしているオバちゃんたちのほうがよほど「ホトケの境涯」に近づいているように感じるのは、気のせいではないだろうと思う。
4/06 土 19.4   本日のアミダちゃんは知恩院さんではなく、嵯峨清凉寺のミニアミダちゃん。
嵐山から桂川のコースを振って、三条通まっすぐ(広隆寺遠隔参拝つき)
伝えられるところによれば、比叡での学問に飽きたらず、まちに降りてきた法然ちゃんが「庶民の救いを求めるナマの姿・光景」に衝撃を覚えた最初の地がこの嵯峨清凉寺。
法然ちゃんはここで、どんな光景を見たのだろうか…それが、写真撮影に夢中な観光客やウオーキングオバちゃんなどが歩き回る現代の光景であったら、おそらく浄土宗は発生せず、続く親鸞ちゃんの真宗もなく、「今ここにいるわたし」もいなかったのである(-_-)シミジミ…。
この土日は「花散らしの雨」だ…と、多くの人に嘆かれているようだ。
しかし今朝、COCOLO(ヒロ寺平ではなかったが)から、「桜が散るのは雨風のせいではないのだ」という面白い話が聴こえてきた。か弱く見える花びらは実は意外にも丈夫でしぶとい。しかし自らの寿命が来たときは、周囲の環境に任せてアッサリ散っていくというのだ。つまり、もともと「散り頃」のタイミングの今日明日に降る雨や風は、桜の花にとって「加害者」ではなく、時宜にかなった「往生の誘導役」となるのである。
「桜」を「ひと」に置き換えても、実に意味深く聞ける話であった。
さて、わたしの「往生の誘導役」となるのはどのような事なのだろうか。ガンか心臓病か脳卒中か事故か…いずれにせよ、それに不必要な抵抗をする根拠も必要もないくらいには「既に生きている」という実感と覚悟は持っているつもりだ。
4/07 日 23.9   昔々はたぶん親戚だったと思う人々の住む集落界隈へ。
好き嫌い、恨みつらみ…30余年の時とともに、そんな感情も消滅しているが、さりとて今さら関わりたくないオヤジの遺伝子を、妙に意識せざるを得ないあれこれが外見上その他人生上に浮上している今日この頃。
本日の「たぶん親戚」も、そっち側の話だ。
「世が世なら」というコトバで始まる「先祖とその末裔」のネタというのは、よく話題になるところである。ここで「戦国武将の子孫」とかいうと、ミワ先生に「たかが大量殺人者の子孫ってことじゃない!」と一喝されそうなところだが、わたしの場合はそういうジャンルとはちょっと違う系統にある…っていうか、ある意味、そういうのよりもっとヤバイ系かもしれないのだが(-_-;)
もし、勝手ながら想定している「先祖の仕事」が正しいとすれば、わたしが今関心を持って研究しているジャンルとそのテーマは、まさに「さもありなん」な発展的展開をしていることになる。遠く時を隔てた「カエルの子はカエル現象」という感じ?(^_^;)
4/08 月 7.6   ベリーショートコース。
東寺界隈。
ふと気がいた。
そういやここのところ、自力整体をサボっている…(-_-;)
公園でストレッチをしてみて愕然。
カラダの固さが元に戻ってるぅぅぅ〜(T_T)…40年以上もの時間をかけて形状記憶されてきたカチンコチン状態は、いったん改善されても油断すればアッというまに元通り!なのであった。
もはや「RUNだけ」では、ワタクシの考える「健康」は確保できないことが明白な以上、これは一刻も早く改善せねばねばねば(ーー゛)
4/09 火 18.0   「人間の可能性は無限大」と言われる。確かにそのとおりである。しかしそこにはやはり「限界や条件」というものがあるということを知らないのは不幸のモトである。
例えに、わたしについていうならば、今から警官になれるか、電車の運転手になれるか、舞妓になれるか、リオ五輪マラソンの候補になれるか、あるいはこれから子どもが持てるか、孫の顔が見れるか…等々の問いやその回答が該当する。
しかし、「限界や条件」を見据えたうえで可能性を図るならば、既存の常識や一般論を打破するような展開を遂げることは無理な話ではなくなるのである。
「限界や条件を覚知する」とはすなわち「自らの現実を見極める」ということに他ならない。そもそも「幸福感の根源」というそのものが、このポイントに尽きるのではないだろうか。
数少ない貴重な友達である「クマゴロウ(仮名)」が、ついに力尽き果てようとしている…「もう動けへんし、長いことないねん」といいつつ、ママは体をさすり続けていた。呼びかけるとチラリとこちらを向くのだが、それまで。
しかし、その眼は限りなく穏やかで清らかであり、まるで「ついにこの世のすべてを見通した」とでもいうかのような怖さすらある…過去、幾度かの類似体験上、このような眼のありようは、死を迎えようとする時期、生きるものが誰しも持つものなのかもしれないと気づかされる。言い換えればある種の神々しさへの畏怖を、人は「かわいそう」「かなしそう」等と、遠巻きかつ「上から目線」の評価に翻訳しているだけなのかしれない。
数年前、ふと気が付いて出会ったクマゴロウとは、ふと気がついたらいなくなっていたという別れ方でいい。しばらく「クマゴロウ」のカーテンは覗かないようにしようと思う。
ちなみに「クマゴロウ」とは、あるホームレスの掘立小屋の片隅で飼われている犬のことである。月並みにいえば「最低最悪」とされるはずの環境下に過ごしながら、「泰然自若」な姿に感心させられ、ひいては「ひとつの生」における幸不幸というものを考えるヒントをわたしに与え続けてきた。
「完全なる幸福も、完全なる不幸もない」…トルストイの名言(『戦争と平和』)を知るより早く、まったく同じことを「クマゴロウ」はわたしに教えていたのである。偉大なる教師であり、そして仏である。南無阿弥陀仏。
4/10 水 8.2   ベリーショートコース。
東寺(スルー)・東西本願寺界隈。
12年前の「第一印象」通り、私は東本願寺のほうがスキ。
何の先入観も前提も期待もない状況で、ただ突然目に入ってきた瞬間に「ビビビッ!とくる」ようなものというのは、大なり小なり、遅かれ早かれ、そして良かれ悪しかれ、じぶんとの間に何らかの大きな関係性を持たせる存在なのではないかと思っている。少なくともわたしの経験上は言えることである。
その事例のひとつが、知恩院さん・東本願寺。いずれもその当初は、「史上最低の宗教」だと思い込んでいた浄土教系の寺院が、「京都に来るたび気になる」ものであったことがじぶんでも不思議でならなかった。「立派な門構えに圧倒されただけ」という言い訳は間もなく無効になり、興味は次第に門の奥へと入り込んでいった。
…そうして今では、すっかり「浄土教マニア」となったわたしが過去の経緯を振り返るとき、「解明不能だった直感」は、偶然やこじつけではなく、必然であったのかもしれないと思うのである。
4/11 木 21.0   人生において、ひとつの「誤解」も持てないことは、哲学的・宗教的には幸福であっても、現実的・俗世的には不幸であるといえる。
「煩悩を捨てた」「悟りを開いた」とうそぶく者も、所詮はそんな「誤解」の上に自己満足しているだけのことだ。
外見や言動上、どれだけそれを見せようとしても無駄である。あなたの肉体は、内臓はもとより毛の一本、細胞のひとつに至るまで、「生きようとする欲望」にもがき続けているではないか。
人は誰も生きている限り、まずは根源的に「煩悩を皮膚で覆っている物体」に過ぎないのである。
その意味で、「煩悩」を様々な美しい言葉や形式に置き換えて「誤解」し、次々我がものにしていく人々を、羨ましく感じることがあるのである。
知恩院さん御影堂(現在は修復工事中)の屋根の上には、置き忘れたように二枚の瓦が乗せられている。
「今この姿は完成ではない」ということを示し、そこから発展的に様々な教訓を導き出しえる意義深い様態であるのだが、以前、このことをある青年に話したところ「それがなんですか?」と、アッサリ切り捨てられてガッカリしたことを思い出す。
おそらくは、そこそこに恵まれた生育環境の中で絶望的な挫折も苦悩もなく、「自分はここまで精いっぱい生きてきた」という自負に満ちているがゆえに、瓦の一枚や二枚に教えられる必要を感じる「人生上の問い」がなかったからなのだろうと思う。
考えてみれば、そんなところに思いを巡らすことなく「フツウに生きてます」という人の方がこの世には圧倒的に多いのであり、そうした人々の集まりの中で優劣や勝敗は俗的に評価されているのである。
そんな世で図らずも「生きているもの」に仲間入りし、「ホトケの教え」を盾に味方にあれこれ考察し、発言を繰り返すだけのわたしは、ただの「負け犬」そしてその「遠吠え」であるのだろう。
しかし…
今のわたしは、その「しかし」以降に続く諸々の思いによって生きている。これがわたしの人生最大にして最後の「煩悩」である。
4/12 金 8.1   ベリーショートコース。
サークルKの「ドリップコーヒー」を飲んでみた。ウマイ(*^。^*)
缶コーヒー+αの値段でこれだけの満足感が得られる商品がコンビニに登場しはじめると、いよいよ「スタバ」系の存続やいかに?という感じ。
もっとも、スタバや喫茶店のようなところは、「コーヒーを飲みたい」という一目的の達成のために利用されているわけでもないようだから、「住み分けと存続」は可能なのだろうが。
いずれにせよ、いまだに、「指さしオーダー」かつ、サイズ呼称も理解できていないスタバは、ますます縁遠い存在になることであろう(-_-;)
4/13 土 0.0   江の島・鎌倉あたりを相当距離徘徊したわけだが
「完全なるウォーキング」なのでカウントせず。
7年ぶりの鎌倉は「鎌倉であった」…一言でそのようにしか表現できないこの感触は、ひじょうに貴重なものである。
4/14 日 0.0   峰山霊園
最近、葬儀や墓(埋葬)への考えかたが変わってきていると言われている。
確かに極論すれば、それは「○○が眠る場所」などではなく、「遺骨」として物体化したものを気持ちよく処分・保管する場所というに過ぎない。それでも市営霊園などは「空き待ち」「抽選で確保」という盛況ぶりだそうだ。
納骨堂の扉の前に立ってみると、ドアがひょこっり開いて顔を出し、「やぁ久しぶり!新幹線できたの?700系?N700?ちょっと太ったんじゃない?走ってるの?」などと矢継ぎ早に話しかけられているような気がしてくるから不思議だ。
「なにをすっとぼけてるんだか。ターボが今でも電車を乗り回してあちこち遊びに行ってることはわかってるんだぞ!」「ひゃ〜ばれてたか!へへへ。」
…「死者との対話」とは、主観と客観、現実と妄想、過去と現在未来をないまぜにした「じぶんとの対話」に他ならない。墓地や墓というのは、形式や常識を超えて「生きて残った者の心のよりどころのひとつ」として、見えない価値を持ち続けるということだろう。
4/15 月 0.0   今日はマジで、まったくRUNなし。
4/16 火 0.6   走りたいというより、セブンのコーヒー飲みたいな、の誘惑により光徳公園。
「コンビニコーヒー」へのハマり具合がマジヤバイ。
「○○の○○はウマイ!」…という情報や事実は、わたくしにとって立派な「RUN目的地」になり得るのだが、モノが「コンビニのコーヒー」となると…である(-_-;)
「大原のセブンはドリップ加減が違う!」とか「山科のセブンは温度が絶妙!」とかいうような情報が流れ出せば違ってくるのだろうが、それはあり得ないし。
現在、「セブンよりウマイ!」と感じている「サークルK」ですら、走れば5分もかからない短距離では、「RUNとコーヒー」は都合よく結び付けられまい。
余談ながら、ローソンがドリップコーヒーをはじめないのはなぜだろう?単に遅れているだけ?
中途半端にバブルでセレブな人間たちの話というのは、実に退屈でつまらない…ではなく、世界の違う人たちとの話はかみ合わない、程度の表現に抑えておくべきかもしれないが。
現在の職場で、何かとした場面で話題に上がるのは「血液型別性格判断」の類。もとより科学的根拠などまったくなく、人により事情により千差万別のとらえ方が必要なジャンルであり、かつ、もはや冗談・雑談の世界でしか通用していないと思われていたことが、ここでは大真面目に語られる。就中、必要以上に奇人変人類に扱われていた「B型」であるわたしにとって、この状況はひじょうに不愉快で迷惑極まりないところである。
なんでもB型とは、自己中心の「オレサマ主義」と考えれば間違いないそうである。かたや、A型やO型というのは、「常に人の気持ちや協調性に配慮し、自己犠牲の精神に満ちている」のだそうだ(で、なぜかABにはコメントがない)。開いた口がふさがらない。どちらかと言えばそうした先入観で自己保身に終始し反省なき人生を過ごせるあり方の方がズウズウシイし、ある意味究極の自己中心なのではないか。A型だろうが0型だろうが、外見上は思いやりや熟慮、協調性を保っているようでその実、驚くほどに配慮なく非常識、上から目線でナニサマ状態の人間は、わたしが知る限りでもタップリいるのである。それらはすべて、生育環境、学習能力、社会体験、思考力等々、ないしは人間関係とその事情・経緯や感情的側面といった後天的な要因によるものであって、「生まれつき」などというのは議論の俎上に上るべくもない要素である。
以上、くだらない「定義」に対するくだらない反論。
4/17 水 20.3   桜も散りきった円山公園で、大のオトナが徹夜宴会?いつもそこでラジオ体操してるおばちゃんたちが困ったはりました(-_-;)
決して、悪いことをしてるわけではないのですが、みっともない風景でしたわ。
知恩院さんにて、やや久しぶりの阿弥陀ちゃんと、かなりディープに懇談。
同じ浄土系でも浄土宗と真宗には決定的な違いが一点あるが、わたしにとってはただ単に「阿弥陀ちゃんは阿弥陀ちゃん」である…やっぱスゲェ-わ。(^o^)
RUNとほぼ同時にはじまった「プチ趣味」のひとつである「ご先祖捜し」の1/4、すなわち「母方祖父系」がほぼ解明された。
7年前に旅RUNで、「それらしき場所」に行ったものの収穫ナシだったと思っていた場所がやはり実は「発祥の地」だったのであり、その後いかなる理由からか、やや南下し移住した土地では、いまだ「同じ名字がゴロゴロいる集落」として現存しているのである。7日記の「大原野コジツケ風味」とは違い、こちらの住民は濃かれ薄かれ血縁者であることが確実。わたしとしては、「いずれ旅RUN」の大きな目的地が、またひとつできたということだヽ(^o^)/ウヒョ〜!
こうなってくると、現在全く手つかず状態のままの浜松や、新潟のさらなる探求にも意欲がワクワク。ただし、近しい関係性をもつ「生存資料」がまだ残っている状態下での行動は、要らぬ疑惑や因縁を引き込む危険があるので「やろうと思うけどそのうちね」である(^_^;)。
ちなみに今回判明した1/4からは、遠く遡ると「どひゃ〜っ!な家系」の名前が浮上した!(゜o゜)アレマァ!
怪舎員時代、 「実はワラワは公家の血を引く者、隠そうとしてもアフレイズルこの気品と優雅さよ☆」と、しばしば口からデマカセを言って仲間の笑いのみを取っていたネタは、あながちガセネタではないやもしれぬのでおじゃるよ。ひかえおろ〜っ!なんちゃってぇ〜ヽ(^o^)/アハッ。
4/18 木 20.1   昨年から行く気マンマンだった浄元忌を中止する決断。
理由@
法要開催時間に合わせたRUNスケジュールが立てづらい。
理由A
今月1日の自発コメントの反省による。
その代り、薪を背負った清九郎のゴールだった東本願寺さんにて懇ろにご供養申し上げる。いつでも掲げられている「見真」の文字が今日はいつになく強く目に入った。
それは正月、るしゃ君から贈られた「見据えよ」にも似て。
…光蓮寺並びに鉾立界隈を起点にした「セイクロードRUN」は、後日前泊つきの「旅RUN」として実行しよう。
わたしにとってはそのほうが、「清九郎のタマシイ」を心身すべてで感じるためには有効な手段であることは明白でもある。
「人間、いつなんどきフイッと死んでしまかもしれないし」というようなところを基本にすれば、今日この1日を思いつくままに生きるがよし、となる。
しかし大抵の場合、よほどの前提や宣告でもない限り、人は次の瞬間も数日後も数年後も生き続けている、という風に考えることが必要なのであって、その「来たるべき日々」のために何かの準備をしたり貯蓄をしたり節制をしたりするものだ。
正直なところ、本日の「中止」は、来火曜日に「回答指名」を受けること必至の語学翻訳が気になって…というのがそもそもの発端である。些細な、人によってはアホらしいと思うであろうそのことが、じぶんにとってはとてつもなく大きく意味も深い。
ところで、昨日の「公家子孫?」に引き続き、別の系統では「豪族子孫?」の疑惑が浮上。豪族と言っても突き詰めれば単なる「ドン百姓」に他ならないわけだが、現存する地元子孫の「百姓加減」がハンパない!という話からみて、ひじょうに信憑性が高い。逆にいえば、現地探索への足をますます遠のかせる事実が判明したわけだが、「セイクロード」だの「ヘイヘイ寺への道」だの「ようこそようこそ山陰道」といった企画が山積しているので、旅RUNの楽しみが消えたわけではない…っていうか、なんとか学問との調整を図って、このうちひとつでも早いとこ実現させたいものだ。
4/19 金 25.0   知恩院さんミッドナイト念仏。超々久々に「深夜出発」なRUN付き(^o^)
時間帯のチョイスは正解。位置的に「猊下的ポジション」確保成功☆
釈迦如来の前で「ナムアミダブツ」もなんか変な感じがしたが、ここはイベントのご愛敬ということで(^_^;)
念仏三昧というよりも、「只管打坐ならぬ只打木魚」の光景はなかなかおもしろかった(^_^;)
4/20 土 0.0   かぜひいた(>_<)
この1週間、調子イマイチな感があった、その集大成。
ミッドナイト念仏でトドメを指した…という結論。
しかし、「往生」せずに寝込んだだけで済んでしまうとは、アミダちゃんにお迎えいただくだけの素質がまだまだ足りないっちゅ〜ことかいな(-_-;)…ありがたく、あとしばらく生かさせてもらいます。ナムアミダブツ。
4/21 日 0.0   かぜひいた(>_<)2
4/22 月 0.0   ちょっと歩きに出た。
お弁当のおかずにする予定でストックしていた鶏肉が、なぜか腐っていたからだ…おのれ、マツモトめ!
お弁当をつくるのに、軽く30分以上はかかるからタイヘン…てなことを言うと、「なんでそんなにかかるの?」的な不思議顔をする主婦が多い。わたしゃよほど要領が悪いのか?と思いきや、よくよく聞いてみると、最近の主婦(お母さん)というのは「冷食フル活用の術」をもって時短を図っているらしい…たまご焼き以外はほぼ冷食、というパターンもアリだそうだ(゜o゜)ヘェェェ〜。
てなことを聞いたので、わたしもマネを…と、冷食コーナーに立ち寄ってみると、メインからサブまで見映えのよさそうな惣菜があるわあるわ…しかしどうしても、購入するのは「隙間を埋める青物類」だけになってしまう。なんでもかんでも冷食じゃ、なんだかツマラン気がするのである。
4/23 火 0.0   ぶだはっから北大路までウォーキング。
思えばかなり久々なルート。
北大路ビブレで、教授先生に遭遇(゜o゜)
ふとしたところでバッタリ!…というパターンが、どういうわけかきわめて多い。論文担当のこの教授先生とは、実は「公式・正式」な面談のカウントが単位取得に影響アリで重要なのだが…この際「バッタリポイント」ってのも認めてもらいたいもんです(*^。^*)
「偶然」+「興味シンシン」で、「ぷちストーカー」となったわたしは、まるで万引きGメンのようにカラのカゴを抱えて、教授先生の追跡開始。
「奥様からの頼まれモノ」とは思い難い、「ボクが今夜食べたいもの探し」のような商品選択から、今日は奥様ご不在と拝察いたしました。惣菜の揚げ物コーナーで延々お悩みのお姿は、なんだかとってもプリティ☆
授業指導では、厳しいことこの上ナシのお方でも、ただ一人の人間としてみた場合には、他の誰とも何ら変わりない「フツウのオジサン」であることに、ちょっとした親近感、そして日頃の緊張感が少しほぐれたような気がいたしましたわけでございます(*^。^*)ウフッ。
4/24 水 0.0   ジグザグと、いったい何通りあるのか、「確率統計の天才トモコ」でも3分はかかるであろう…な、京都大路小路を使った通勤ルートをあれこれ試して3か月。
ようやく「ココダネ!」なコースに定着した(*^。^*)
その姿と背景が、そのままドラマや映画に使えそうな、「いかにも京都」なコースどす。
しかし、全身雨ガッパで完全武装し、雨の中をバシャバシャ自転車飛ばすオバちゃんの絵ってのは、オシャレだったりミステリアスだったりするドラマの絵には到底なり得まい…(-_-;)
で、その帰り道、「寺×高」のあたりでほぼ確実に出会うようになったゴールデンレトリバーがマジプリティ☆(*^。^*)キャハー。
「あ、また会えたね!お疲れさま〜」と言ってくれるような気がするのだが、あくまでそれは心の声…ただし、「犬なんやし当然や」ということとは別の理由アリ。その犬、首の紐だけでなく、なんと口の周りもグルリと紐で縛られているのである(゜o゜)エッ?
おそらくは、「吠えないように」「噛みつかないように」「やたらと道端のモノを食べないように」等々の飼い主の配慮による処置なのだろうと思うが、本来なら年中ハッハッと舌を出しているような動物の、しかも運動中の口を塞ぐっちゅ〜のは、虐待に近い行為なんでは?と思ったりする(-_-;)もっとも、そうされるだけのしかるべき事情があってのことだとは思うのだが、シロウト目にはなんだかかわいそうでならないのである(T_T)
人間の場合、たとえば大手術の後などに、患者が不用意に動きを取ることで容態が悪化する危険がある場合、医師は「拘束具」を着用させる。「本人のいのち」のための処置であっても、その行為を家族に承諾させ、念書まで取る。つまり、その人から「自由を奪うことに対する罪悪感」が大前提にあるということだ。また、町を連れて歩く子どもが、いかに大暴れしようが騒ごうが、猿轡をかませる親もいないだろう。…そういうことを考えると、いくら「ペットも家族と一緒なんです」と息巻こうが、究極的に「動物は動物」「人間の支配下」の存在でしかないのだなぁということになる。
まぁいずれにせよ、新しくできたこの「道すがらのお友達」を、わたしは「モギュモギュちゃん」と命名し、その出会いをささやかなお楽しみのひとつに加えよう。
4/25 木 12.0   用事もたくさんあるし、距離ヒカエメ。
「こんなもんかな?」と遠慮がちに値付けしてネット出品した「絶版稀少本」が、ソッコーで売れた(゜o゜)
予想通り、「ブックオフ一律10円モード」で買いたたかれるような代物ではなく、需要度はとても高かったのである…こんなことなら、も少し値を釣り上げておくんだったかな?と考えてしまうのは、人の世の常(^_^;)
しかし…株とかやってる人って、常々こんな緊張や損得勘定で喜怒哀楽しているのかな?わたしにはちぃとムリな世界だわ。
ただ、あくまで「余興」の域を出ない範囲で商取引のまねごとをする程度なら、これはある種の「ゲーム」的な感覚で取り組めて面白いものだと思う。4月にきっぱりやめたネットゲームの代わり?みたいなところだが、こちらは実利がある社会的行動だし有意義だ。
「ゲーム」といえばもうひとつ、バイトに出た日の「50円ゲーム」を始めた。もちろんゲーセンなどではなく、こちらもしっかりお金がたまるメリットアリの遊びだ。
それは、現在利用している市営駐輪場が相手。いままで「250円」だった料金が、ちょっとした工夫で「200円」になるということを発見し、すでに2回成功、100円が蒜山牛乳の空き瓶にチャリン☆という結果だ。「完全制覇」で月600円のモウケ(*^。^*)。もちろん「ダメモト」の企画だから目の色変えて必死になって…というつもりは毛頭ないが。
「ケチ」というより、「ムダの排除」「工夫の成果」という感じで、お金がたまるなら言うことナシやん。あるくだっしゅ、遅まきながら「コツコツ貯金の楽しみ」に目覚めたか?(^_^;)
4/26 金 0.3   20年ほど前、こんな感じのことがしばしばあった…というくらいの忙しさ(@o@)…1時間残業じゃ。
週3のばいとオバちゃんなんですがぁぁぁぁ〜っ!
おかげで、本日の「50円ゲーム」の勝敗が不明に。
「柳×蛸」「堀×高」「三×大宮」「三×新町」「高×西大路」「千×万」…以上5か所に用事がある場合の、最短かつ効率の良いルートを求めよ。
…という「問い」が浮上していたのだが、残業と雨と財布の残高のおかげで「堀×高」「千×万」以外はすべてオジャン。
といいつつ、それらが行われなくても何ら支障なく現在に至るということは、それらが考えていたほど必要なことではなかったということになる。「やったから得をする」ことと「やらなかったから得をする」ことというのは、実は常に同時に起こっていることなのかもしれない。すべては、じぶんがそのうちのどちらを選択するかという価値観によるのだろう。
4/27 土 20.0   雑事面における今後の展望について、おおよその結論に達する。
…って、「洗顔せっけん」は1個100円の固形石鹸でヨシとか、保湿は「シアバターのみ」とか、その程度のことです。
しかし、いちおうは女性の外見を持つ身として、「スキンケア」化粧」や「服装」の類が「雑事」扱いされてるというのは、オシャレな方々には信じられないでしょうな。
これでも、ありとあらゆる情報収集を経ての、「じぶんなりのベストチョイス」です。
まぁ、あらゆる意味で、あるくは「高級・高額なオシャレ」とは無縁の人間というこっちゃ。
そもそも興味の対象は「タマシイのオシャレ」…こっちには投資してまっせ!
4/28 日 29.0   @朝から中央郵便局へ注文商品の出荷(*^。^*)マイドアリー。
A愛宕山…実に久々の山(ただし早足登山・下山モード)
「山系筋肉」の衰え顕著。ヤバシ!(T_T)
気分的には「富士登山競走?イケルイケル!」なテンションだったが、現実は…たぶん「3合目リタイヤ」ってなレベルだろう(T_T)
年齢的な運動能力の変化を考慮したとしても、この現実はひどすぎる。これからの季節、暑さ回避のRUNコースとしても、朝RUNに「東山トレイルコース」を積極的に取り入れようと思う。かつて「55までは毎年富士登山競走に参加する!」という意気込みであったのだから、致命的な呼称も支障もないのに「今やめるわけにはいかない」…あ、富士登山競走そのものは、もはや引退しましたが。
4/29 月 0.0   天河神社&清九郎さんの墓参り。byクルマ
なんでもかんでも顔を出しちゃエラそうなことをのたまう「ヤマポキ」が、この清九郎さんにも言及していたとは…いまさら「現在の権威」の言を借りずとも、清九郎さんはただひたすらスゴイ存在なのである。
「○○が言ったからスゴイ」ではなく「○○が賛同してくれたから正しい」のでもなく「○○と同じだから大丈夫」なのでもない。
しかし世の中は、得てしてそれらを評価基準に動く。曖昧で無責任なものにしがみついて、ひとは「じぶんであること」を確認したがる。
追うべきものが違う。見る方向が違う。
それがどんなに小さく、みじめで、つまらないものに思われようと、まずは「じぶんでじぶんを見て、思い知る」…そうすることで、どんな偉人や名作の名言も、高尚な理屈も、自分の後を追従してくるものだ。その楽しみを知らないことは気の毒なことだと思う。
4/30 火 15.0   「期限切れを処分する」というのは、何も食品に限った話ではない。否、もっと大切なのは、自分の中に付きまとっている「ひとの言葉」や「持たされた期待」、そして「不安や不満」など、無意味なままに抱えているあれこれだ。
それらをあっさり捨てる。そして、進歩的に代替手段を画策する。
やってみると、案外簡単なことで、しかもグッと気軽に、身軽になる。
自分の「正しい」または「認識している事実」は他者にとって必ずしも同等の評価や価値・記憶をもつものではなく、そして逆もまた真である。本来的にその「根」が異なり、調和の見込みも平和的解決も見込めないことが明白なものに対し、それらを自らむやみに取り消したり迎合したりするのは過去そして今後の自分を見失うことになるし、或いはまた意見・反論して争うというのは、有効な手段に思えて実はもっとも無意味なことである。思えばこれまで、どれだけ多くの「くだらない事案」を抱えて生きてきたことか…どう考えても「これまで」より「これから」のほうが少ない残り時間が、「自由」であり「前向き」であるために、これらの「クズ」は早急に消滅させねばなるまい。
一昨夏、福原大先生がご教授下された「殺生」(五戒のひとつ)の解釈が、今ごろになってたいへん大きな意味を持ってワタクシに問いかける。
魚肉を食らい、肥え太るワタクシは間違いなく「殺生」をしている。しかし、それとは違う意味での殺生は、今後しない。そして、させない。
【話はまったく変わるが】
京都には、「そういう土地柄」のせいか、「よく連立維持できているものだ」と感心するほど芸術系の大学が多い。しかし、ここまで数年の様々な関係者や作品との出会いの中、極めて個人的感覚として「造形大」がピカイチな気がする。仏教学をやってなかったら、ここの通信学生になりたいくらいだ…わたしのデッサン力や空間処理能力は、一般とは別の角度で「新進気鋭」になれるほどブッとんでいるので、あながちアホな構想とは言えない(*^。^*)
走行距離 326.2  km