あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
1/01 火 0.0   のど激痛中心のカゼにより一切の運動なし。まぁまぁエライこっちゃなスタートで…(-_-;)
っつ〜か、そもそも「年末だ」「年始だ」ということがあんまり気にならないタチなので。
「新年」に代表されるあらゆる儀礼的行事というものは、良くも悪くも「本音」より「建前」「形式」がスマートにこなされて初めてそれらしく成立するものである。イヤでも「やるべき」ことはやらねばならないし、逆に、その気があっても「控えるべき」こともあるのだ。
とかなんとかいいつつ、年明け早々、スッゲー笑える失敗をしていることに気がついた!その内容はともかくとして、そのことに関しての考察・コメントは、下品なので公開しないが、「あくまで個人の本音」としていつぞやどこかの誰かに役に立つこともあると思うので、秘密メモには留めておくことにする。…よくよく調べてみると、それほど一般常識からして恥ずべきミスでもないのであったが。
それはさておき、今年は「やるぞ!」…何を?っていうのも、秘密メモに留めておくことにする。…よくよく考えてみれば、その内容はここ数年まるきり同じようなものであるし。
1/02 水 10.8   まだのどいたい。でも知恩院さん。
まったくヒョンなきっかけから恒例となった「数珠ブレスレット」を更新。今年はちと奮発して「白檀」を。う〜ん、ええニオイやわぁ(*^。^*)
「調子悪い」はずが、どうしたことか「のど」を除いてはまったくの絶好調!体からはなにやら悪いものがイッキに抜けたみたいな軽快感にあふれ、ここ数年に珍しいほどなんでもなんでも「やる気ギンギラギン」なのである。あくまで個人的な感覚なのだが、この「不調/好調」の境目は、あの献血にあったような気がしてならない。調べてみると、献血をして体調が好転する実感を持つ人はかなりいるらしく、わたしもそういうタイプということか。いちおう誰かのためになることが、速攻でじぶんのためにもなるのはまったくもってお得な気分。半年に一回の習慣にしようと思う。
1/03 木 11.8   まだまだのどイタイ。でも松尾大社とか清凉寺とか。
世の中、不景気不景気というが、この京都界隈の観光人口を見る限り、10年前よりはるかにケーキがようおますなぁという勢いを感じる。
「字は体を表す」あるいは「態を表す」とも言えるだろうか。
ひとの書く文字というのは、その人の性格や気質、その時の心境のようなものを驚くほど素直に表現するものであるとわたしは常々感じている。そうした手書き文字を目にすることの多いこの時期には、月並みなあいさつ文の中に潜んでいるそんな「気」を感じることができて興味深い。
1/04 金 10.0   ほのかにのどイタイ。しかし北野天満宮&伏見大社。
申し訳ないが、伏見大社の参拝者はどういうわけか「ガラが悪い」ように感じる。毎年のことだ。
何回かテレビで見て「おもしろそう」と感じていた「太鼓の達人」のゲーム機を見つけたので、やってみようと順番を待っていたら、後ろにいたガキに先を越されてしまった。またさらに待ってまで…というほどのこともなかったので帰ってきたその道中、ふとこの手のゲームをやったら「達人だったはずの達人」がいたことを思い出した。おとなだけど、こどものころのままで遊べる気心の知れた間柄だった貴重な「達人」を失って早くも4年。
遊びネタでその存在を思い出すほど、時間が過ぎたということか。
平日昼間の閑散期に、敲きに行こうと思った。2人分、点数を稼いでやろう。
1/05 土 0.0   ノドほぼ完治。しかし念のためRUNなし。
2013年RUNは、明日スタートじゃ。
「夢は必ずかなう」とか「努力は必ず報われる」とかいうコトバが、いたずらに肯定されまくる昨今、確かにそういうドキュメント報道や映画ドラマも数多いがその一方で、「世の中そうそううまくいくことばっかじゃないっすよ」ということをガツンと伝えるドラマが頑張っていることを大いに賞賛したい…ずいぶん間をおいて『ダブルフェイス』の続編を視聴して、つくづく思った。
それにしても「WOWWOW」ってところは、スゴイ作品ばかり続発しているものだ。
1/06 日 14.0   なぜか下鴨神社。
今までまったく興味対象外だったポイントにピピピッ♪ときた!
あまりに「気が合った」ので、なんや、今年の恵方はこの方向か?と思って調べてみたら、それは「南南東」…って、まったく逆だった(-_-;)
うちからの位置でいえば、それはピッタリ「東寺」にヒットするのだが、それにはあまりピンとこないところを見ると、今回の「下鴨ピピピッ」は別の理由があるのかもしれない…。まぁ科学的根拠のないちょっとした「ゲンカツギ」なわけだが、こういう直感みたいなのを大切にする感性みたいなものは大事にしたいと思うのである。ピピピッ♪
1/07 月 8.0   ご用あれこれ。
「甘えボケ」でさえなければ、この国は世界一やさしい…というか、この財政難に「落とし穴」だらけにも思えるほどの制度が満ち満ちている。
昨今、私生活におけるあれこれを、なんでもかんでも「ブログ」や「ツイッター」で公言する人々や、「弱者が強者」のような扱いをした報道が増加しているせいで、そうした「甘えボケ」の多さが自然に把握できる。本来、「真剣に求職しているのに職がない」人々にやむなく給付されるはずの「失業保険を受けている」としながら、全国一周の旅をブログ化していた人物もいたし、「生活保護」を受けなければならないほどに困窮しているはずの家庭で、まだまだ通信料が高額なスマホを1人1台保有している光景を目にしたり…嘆かわしいことである。
「現在、そうした状況に陥っていることを恥と思う」感覚を、必要以上に背負い込んで悲観することはないにしても、「あって当たり前」とか「もらっても恥じることはない」というような考え方があまりに前面に出すぎて開き直りにもなろうかという事態にあることは問題であろう。わたしは、少女時代に生活保護で助けれられた数年、そして授業料全額免除で通った高校…自身にまつわるそれらの過去の体験を、それを越えた今、じぶんの人生の中においては誇りある出来事としているが、社会的通念上でみれば、いまだに「あってはならなかった恥ずかしい時代」であるとの認識を変えていない。
1/08 火 11.0   「京都」というまちはホンマにふしぎなまちやわ。
これだけのせまい範囲にもかかわらず、通り1本を境に、次々と「違う顔」が現れる。早朝や夜間には感じることのできないことである。
バスでも40分、歩いても40分なら、「歩いていく」のを選ぶのはアタリマエ…新しいバイト先初日の通勤を往復した結果、そういう結論に至った。「四条を下がると」「堀川を越えると」「烏丸を越えると」等々のポイントで切り替わる風景を存分に楽しみたいものだ。
1/09 水 3.0   試しに、今日は自転車で行ってみた。
よって、本日の距離は昼休みの商店街散策と銀行お使い分のみ。
「よりにもよって」の時間帯に、「よりにもよって」のコースを自転車で…というのは、通勤途上災害が適用になるならない以前の問題として危険であることを感じた。巷間、サラリーマン(勤労者)は「戦士」に例えられるが、京都のまちの通勤時間帯はまさに、足軽や騎馬兵、戦車が縦横無尽に行きかう「戦乱モード」さながらである。自らの勝利(スムーズな前進)の為には、ある程度身勝手で危険を顧みない図々しさが必要。しかしそこには同時に、負け(事故やケガ)のリスクが大きく伴うわけである。少なくとも「自転車通勤」を常態化することはやめた方がいいだろう、と一度の体験で実感した。
かくなるうえは、当初の計画通り、通勤徒歩時間を「英独中」を中心とした語学学習のチャンスとして有効活用することにしようと思う。うまくいけば、かなりの成果がきたいできるというものだ。(-v-)ニヤリ。
1/10 木 10.0   久々、南方面。六地蔵まで行こうかな?と企んだが、やめといた。
しまった、太鼓の達人チャレンジを忘れてきた(>_<)
朝から、イヤなニュースがあった。
元ナンタラ連合のリーダーが逮捕されたという一連の話。こんなのは、チンピラともヤクザとも呼べない。悪ガキが成長せずにそのまま歳だけ食った、単なるノータリンだ。一時期、こんなアホを持ちあげて主演映画まで作ろうとしていた連中の猛省を乞う。
しかし、同じくニュースで見た、今年の福男レースの模様は面白かった。いつもの勇猛果敢・スピーディなRUN姿はもちろんながら、驚いたのは、トップグループにいるのに、いきなり手水舎で足を止めてお浄めをしはじめた若者がいたこと。別の方法で目立つための意図的なパーフォーマンスにしては作法がしっかりしていたから、少なくとも思いつきの「付け焼刃」でないことだけは確かだろう。また、3番福には史上初めての「お年寄り(といっても48歳)」が入ったということ…「オッチャンかて、やるときはやりますねんで!」な勢いだった。
いろんな意味で、まだまだ健康でたくましく頼もしい男がたくさんいるのだということを感じることができてヨカッタと思う。
普段は、なんでもないそれぞれの生活を、マジメにたんたんと生きぬいている人々が、年一度程度の「ハレの舞台で見せるハレの姿」に表す素直な感情や笑顔に、なんともいえない安心感と喜びを感じる。「なんでもないけれど」を積み重ねた人の姿の中にこそわたしたちが本当に知るべき「真実」や「真理」は秘められているのだとつくづく感じるものである。世間を騒がす事件を起こしたとか、驚異的な能力があるとかいう「特殊な人間」を扱ったり、カッコよく括るキーワードの呪縛から離れて、もっと深淵でたくましい人間の生の姿を地道に追求し始めたらどうだろうか、マスコミの諸君。無理だろうから、こっちで勝手にやっとくが。
1/11 金 3.0  
1/12 土 10.0  
1/13 日 13.1   三十三間堂
思えば、「京都たびびと」のはじまりのはじまりのポイントはここだった。
そのとき感じたこととはまったく逆のある直感。逆でありながらその本質は全く同じであり、しかも以前に増して深い。わたしの宗教的思索も少しはレベルが上がっているようだ…って、15年も経ってたら成長してくれてないと困るのだが。
1/14 月 0.0   くまモン、ごめんね!
くまモンに会いに行く予定だったが、雨のためパス。
1/15 火 10.0   バスコース事情研究。朝は心配するほどの混雑はなさそうだが、夕方は「話にならねェ!」なことが判明。
205だの206だのという「観光チックな路線」とは違う、コテコテ地元生活モードの番号のバスを利用して、あれこれ考えるようになったことが、今さらながら感慨深い。
@往復とも「歩く外国語スクール」
A安全第一で自転車往復
B往路バス・復路歩き
…通勤方法ランキングとしては、こんなところか。
1/16 水 10.0   松田先生いわく、「女性のファッション流行というものは、40代50代のひとがそれをマネするようになったら終わり」と。
まことにもってその通りでおじゃる。
最近、「ショートパンツに厚地のタイツ」というのが流行っている。活動的でかわいらしいと思うが、白髪まじりで顔にもシワの目立つ初老の女性がそれを…というのを見てしまった。本気で似合うと思っているのか、それとも流行を追わずにはいられないだけか…。
個人の自由の問題をとやかく言うべきではないのだろうが、あまりにもスゴカッタ(>_<)
40代半ばの女性というのは、ファッションについて「一番困る世代」であるのかもしれない。若い流行は恥ずかしいところがあるし、さりとて50代に近い「バリおばちゃん風味」では、くすみすぎて元気ない感じ…という具合に。
わたし自身この問題については、普段着より早く(数年前)RUNウェアについて「?」が発生し始めた。30代には「超マジかっけぇ!」とホレボレしていた色やかたちが、悉く「なんかダサクね?」となってきたのである。単なる感覚の問題か否か、迷うところではある(-_-;)…(一部、ワカモノ風表現で表記してみました)
1/17 木 14.0   雪だというから西山RUNを断念したのに晴れてるやん(ーー゛)
しかたないので結局フツウコース。ちょっとスキマ時間でけたんで、髪の毛切った。スッキリ〜(*^_^*)
掃除もしたし、ノリコさんとも久々にプチ井戸端。あれがダメならこれがあるさ、な感じでまとまった1日。…あ、もちろん学問も本日の計画はクリアしましたがっ。
じぶんはもちろん世の中にいる人すべて、この一瞬一瞬を生きている。ある人は「しなければならないこと」を、またある人は「したいことを」、そしてあるひとは「しなくていいこと・やるべきではないこと」を…。それらはすべて、目に見えて犯罪性を帯びない限り、他人には判別がつかない姿でしかないし、あれこれ評価を下すべきことでもない。要は、じぶんが良識を持って考え、ある程度の妥協をしながらも承知し納得したことをやっているのであって、その自由も責任も、すべてはじぶん自身に課せられているものなのだ。
この時代、特に女性には様々な「生き方」が許され認識されるようになった社会的風潮は喜ばしいことであるが、逆にそうなったからこその新しい「乱れ」が起こっていることも事実である。結婚・家事・育児・仕事・趣味とか、または「女として」「母として」とか…基本的にそのひとつを全うするだけでも難しいところを両立させたいとか、あるいは三立・五立をも望むこともある。それが単なる「欲張り過ぎ」であることを反省せずに「自由がない」だの「じぶんの人生」だのほざくアホが増えたということである。「子育てしていると遊べない・オシャレができない」「仕事をしていると出産子育てができない」なんていう至極当たり前のことがストレスと呼ばれ、やがてその声が大きくなると「重大な社会問題」になる。世の中や政治というのは、「民衆の声」を基本に改善発展していくものではあるが、それがあまりにも「低レベルな欲望」を発端にしているということには、腹立たしい思いがする。
ある時期急速に変容した「女性の生き方の選択の自由化」とは、「女性は結婚して子供を産んであたりまえ」という凝り固まった概念からの解放というところに本来的・本質的な意義があったのだと思う。それは「結婚する・子供を産む」と同位置に「一生を仕事に捧げるあり方」が認められるというだけのことであって、「あれもこれも全部」を求めさせることが目的ではなかったはずだ。
しなくても良い結婚をし、産まなくても良い子どもをつくり、あるいは、辞めてもよいはずの会社員であり続けることを「じぶんで選んだ」以上、それぞれにまつわる欠点や問題は、喜びや利益と共に受容されながら、万全を期して努力され続けるべきことなのである。選んだはずのことへの不安や不満が、他への目移りになっているだけのことが両立であろうはずがない。このあたりのことが、はき違えられたり、視点をすりかえられたりしていることが、最近はよくあるように思う。
わたしの世代は、そんな「人生の選択」をする重要な時期に、まだまだ一定の「思潮的拘束」があった。それでも現在、職業人として人生を全うしようかという人もいるし、そろそろ孫が…なんて顔をほころばすような人もいる。少なくとも今よりは「選ぶ覚悟」を強いられただけの心構えがしっかりしていたように感じる。「自由」ということが勝手に一人歩きして惑わされる現代よりも、地に足の着いた生き方ができた点では、良い時代だったのかもしれない。
…とまぁ、同世代でありながら、まったく対極的な生き方をしてきたノリコさんとのプチ井戸端は、なかなか有意義な考察のきっかけになったのであった。
1/18 金 5.0   怪舎員時代はずいぶん活躍した「勝負スーツ」を、約2年ぶりに着用。「デブ化」しているとはいえ、しっかりハマってくれて助かった(*^_^*)
(しかしやや限界に近い…RUNモチベーション高まる!)
ちなみにこのスーツ、29歳で購入したものだから、既に「17年モノ」である。決して高いお品ではないのに、この始末…なんだかだとわたしにはこうした類の衣類が多い。
一度買ったら「10年単位」で長持ちする傾向のあるわたしのファッションライフであるからして、これから先購入するものはヘタをすれば「死ぬまでOK」なものとなろう。ついては、16日にも記載した通り、「今買うアイテム」には「おばあちゃんになってもなんとかイケル」ところを考慮しながら…となる。「日本で1・2を争うか」と自負するほど「着物姿」には自信タップリなので、できれば「洋装」よりも「和装」にシフトしたいタイミングではあるのだが、いかんせん生活状況が伴っていない…まさか着物や作務衣でパートにでるわけにはいかないしねぇ(-_-;)
実は、「40過ぎたら和装ライフ」は20代のころからのわたしの夢であった。実現の時期は遅れたが、未だ諦めてはいない目標でもある。なんとか叶えたいものだ。そのためには、自己主張バリバリでOKな生活スタイルを早く確立すること、これ必須条件。わたしの「学問せなあきまへん!」は、こんなところにもその根拠があったりするのである…勇猛精進。
1/19 土 22.5   電車に乗ってRUNスタート地点に移動する…という、久々のパターンで八幡〜桂川〜五条
このコースをRUNするたび思うのは、「伏見界隈」と「多摩川・府中界隈」の風景が近似していることである。かつては完全に心境がワープしていたものだが、最近はそんなこともなくなった。わたし、東京にいたんでしたっけ?って感じだ。
とはいえ、過去に通勤RUNをタップリ堪能した「川の風景」にまみえると、自然とテンションが上がるのは不思議なことだ。一般道路と違って空気もきれいだし安全性も高いから、そういう意味でのストレスがない分、パワー全開で楽しめるのかもしれない。
1/20 日 13.4   鴨川〜今年の「気が合うスポット・下鴨神社」
正確には、その手前にある「河合神社」がなんともイイカンジの気を漂わせているのであるが。
今まで、な〜んとも感じなかったその場所…ちなみに河合神社は「美人になるカミサマ」がいるらしい。今までと違って、少しは「見た目に気を付ける」ことを心がけるようになったわたしに、カミサマがご加護を与えようとお呼びくださっているのか?…
1/21 月 5.0   バイト先を7回往復した結果、ようやく「こんな感じで?」という過ごし方が見えてきたような…
ひっじょう〜に危険だが、やっぱし通勤は自転車がベストかもかも?(朝RUNとお弁当作りをするという前提で)
それはさておき、京都生活6年にしてようやく、「まともなクルクル寿司店」に巡り合った♪お昼、なんとなくフラリと入ってしまったのだが、ネタよし・シャリよし・店員の空気読む感バッチリ☆
「京都で海鮮」については、すっかり諦めていただけに、これはスンゴイラッキーな発見だった。(4皿食べた!)
「運も実力」…これは、さる世界で超有名人となっている中学の同級生の「名言」。これを目にした当初は、なんとな〜く違和感・抵抗感があったものだが、最近「それもいえる面がある」と思うようになった。人間、必ずなにかしらの素質や能力を持っているものだが、問題なのは、それが生かされる「時代」「環境」「人間関係」といった「チャンス」を的確につかめるかどうかという点に、大いに左右されると感じるからだ。
それに照らせば、ここまでの46年のわたしの「運」は、ちょうど半々くらいで生かされも殺されもしてきたように思うのだが、「今現在」に関していえば、「かなり恵まれている」状況にあるように思う。かくなる上は、その「運」によって生かされるべき「実力」をどれだけ発揮し向上させるか、全てはじぶんの心がけと努力次第であろう。
1/22 火 15.0   「ジーパンをやめる」宣言をして約1年くらいか…それまでさんざん「なくてはならないアイテム」として愛用してきたが、それがなくなってもとりあえず困ることはない。っていうか、「ないなり」の改善や進化があってよかったと思う。
今後取り組もうとしているのは、黒・グレーなど暗色の排除である。RUNウェアの違和感を発端にしたこのプラン、またまた楽しい展開が望めそうだ…(*^。^*)
「それがない」「得られない」…確かに不満になったり苦悩になったりすることだろう。しかし人間というもの、「それがなければ生きていけない」と絶対的にいえるのは、水とか空気とか、数えてみれば意外と少ないものである…ほとんどの物事には、妥協しても許され、あるいは代替案があり、むしろそういう方向転換をした方が、良い道や新しい可能性が開けてくることもあるものだ。
某問題について、ワイワイガヤガヤと「コドモが発言」しているのをTVでみた。たしかに彼らは「当事者」であるから、その意見や思いというものは無視されて良いわけではないが、「高校生の純粋な気持ちを踏みにじる」だの「心の傷をいやす」だの、「てめぇら何様だ?」という言語表現を聞くにいたり、こんなものは単なる感情論・感傷論として、議論の土俵に採用したり尊重したりするようなレベルにはないと感じた次第。これが時間を割いてしつこく報道される意図がわからない。
しかし一方、そんな「コドモの姿」が一考に値すると捉えられてしまうほど、オトナの対処もだらしないところである。「そうなったのだからしかたない」とコドモを圧倒するだけの「本質」を伴った策がどれだけとられているのか。暴行教師や校長への断罪、それを暗に認めてきた学生たちへの反省を求めるなど、具体的なことはなにひとつ見えないままに、名前だけ変えて内容の同じ入試をするというニュースだけが飛び交っているが、意味わからん。
また、会見の高校生は「受験というたった一度のチャンス」と、これまたドラマチックな表現で危機を嘆いていた。アホかと思う。どこまで自分らが徹底して「悲劇の主人公」になれば気が済むのか。勝手に可能性や道を狭めてカワイソぶってるだけやんか。言っておくが、高校生の受験チャンスなんぞ「たった一回限り」ではない。何を隠そうわたしがその生き証人のひとりである。
本当に「そこ」しかいないというなら、現在の諸問題を承知の上で受験するもよし、急いで同種の別学校へ志願するもよし、環境が改善されるであろう数年後に「そこ」を受けてもよし、この際諦めてほかの道を模索するもよし。…それらは、懸命に生きようとする人間であるならば、一度や二度は経験する挫折や妥協なのである。たまたま「世間が騒いでくれている」ことに勢いを借りて惑わされ、「あるべきじぶんの本質」を見失うことのないようにしてほしいものだ。
1/23 水 15.0   東寺さん方面+バイト往復。
最近、鴨川岸が「バイト先界隈にかぶる」ようになったので、敢えて鴨川をコースに入れなくてもイイかな、という感じである…って、なんてゼイタクなんでしょ!(*^。^*)
「京都暮らし」について、かねてより抱いていたイメージ通りの日常を過ごしているような気がする今日この頃。四条・錦・河原町・寺町といった、「いかにも京都」な風景にまみえることがごく自然かつアタリマエになったこの感覚…まったくもって「ムフフ♪」の極みなんである(*^。^*)
うまいこと、このバイトが続くとよいが…。
「社長が部下をいじめ、部下は家に帰って妻をいじめ、妻は犬をいじめ、犬は猫をいじめる。猫はネズミをいじめ、ネズミは社長のスーツをかじるのです。」とは、わが敬愛するキミマロ先生のネタである。この構図をアタマに描くとき、わたしはすぐさまある人物を思い出す。京都という土地や人に関わり始めての最初期に知り合いになったその人は、巷間言われるところの「イケズ京都人」「排他的京都人」の典型のような人物で、悪しき先入観通りに「京都人からの洗礼を受けた」ように感じたものだ。しかしわたし自身が実際に「どっぷり京都暮らし」をはじめてみると、そんな人物の方がむしろ珍しいのであるということがわかるようになり、翻って、なににつけ「京都人のプライド」を振りかざすその人物も、実は「京都に憧れ、また京都を恐れているヨソサン」の意識が強いだけなのではないだろうかと思うようになったものである。バカにしたネズミにかじられないようにせいぜい気を付けておくれやす、というところか。(実際、すでにかじられたことがあるが本人は気がついていないだろうね。)
…かつて京都には、「四条(もしくは東寺)より下がると」「丸太町(もしくは今出川)より上がると」「千本(もしくは堀川)より西は」「鴨川を越えると」、それはすなわち「京都ではない」というセマーイ地域観が展開していたらしい。今でも、あるジャンルあるいは一部の人間にはそういう意識が生きている面があるようだ。もちろん、そうした「ムラ意識」が効を奏する生活や文化の場面もあるのだが、多くの場合はまったくもって前時代的でくだらないというしかない概念である。
しかし、「京都府」「京都市」でありながら、「そこ、京都やないし!」と言われてしまうような地域に生まれ育った人にとっては、それが大いなるコンプレックスになることがあるようだ。そうした不満の矛先は、さらに(明らかに)ヨソモノである「他府県からの移住者」に向けられるのは必至のこと。件の人物の「京都人のプライド」は、ある意味でわたしのような他府県民と同じ「京都に対する不安」の裏返しだというわけである。
最初の最初は、「京都人ってこんな人たちばっかりなの?」と、大いに不安を抱いたものだが、それがまったくの徒労であったことは言うまでもない。今や、一度縁を結んで付き合ってみれば、「冷たくもなく、さりとて入り込みすぎず」の、親密感と節度が絶妙なバランスをもった人間関係が成立し、「都会的でもなければド田舎的でもない」不思議で魅力的な友人知人たちばかりである。そいつから、「まだまだ本当の京都を知らないからや」なんていうオコトバが聞こえそうな気がしないでもないが、少なくともわたしの「京都人観」はそんな風に落ち着きつつあることを喜びたい。
1/24 木 15.0   やはり鴨川に行く気にはならへん…そやけど、知恩院さんまでまわる時間あらへんし…で、西へ。
京都西方面の風景は、特に夏の夕方、まさに「西方浄土」を思わせる美しさなのであるが、夜明け直後あたりの感じもこれまた幻想的でスバラシイ…と、今日発見した次第。
いやしかし、昨日から妙にアクティブなワタクシ…1日のはじめ、もしくは早い時間帯に、カラダを動かしてスイッチを入れるってのは大切でんな!
昨夜、アサリちゃんから「明日15:00〜17:00の間、佛大に"まゆまろ"が来るで!」との報。どういう主旨か知らないが、今日明日、京都市内の大学を巡回するらしい。佛大の場合、「ぶったん」がコラボで登場することは間違いなく、ひっじょ〜うに貴重なチャンスなのだが、最近「まゆまろよりくまモン」であり、なおかつ、「なんのためにバイトを週3にしているのか」という意義を省みると、「そんな理由のためにRUNして佛大へGO!」というのは明らかに間違いであると即断したのであった。エライ!
…とかいいつつ、「スギモト母」と小1時間対談してしまう(-_-;)…しかし「スギモト母」は、ひじょうにカワユク、肌も美しく、元気であり、話も前向きで明るいことばかり。それはある意味「法話」に近く、まことに有意義なのである。どこぞのお寺のオッツァンの話やら、怪しげな億万長者の人生訓を引いている部分もあるのだが、それらがみごとに「じぶんの中で消化されている」ので、ひじょうに説得力も魅力もあるんである。この京都で「これぞ仏なり」というような人物に出会うことが多くなったが、この「スギモト母」もまちがいなくそのひとりである。
そんなホトケに、「で、学校は、今年卒業か?来春は先に進まはるんやろ?」てなことを言われると、それは知恩院のアミダちゃんや東大寺のるしゃ君に言われたと同じくらいインパクトがある…しっかりやらねば。「ホトケは、いつでもどこでも、わたしを見ているのだ」(>_<;)ヒョエ〜ッ
1/25 金 3.0   RUNもせずに飽食の1日。少し気合入れてRUNできた数日分がチャラ(>_<)
昼は食べ放題イタリアン、夜は宴会…これもつきあい。
「カロリー計算」上はともかく、こんな「つきあい」の関係ができていること自体はうれしいことだ。
昨日に引き続き、わたしが「京で出会ったホトケ」として第1号・第2号・第3号に認定した(?)、Mさん、Hさん、Oさんとの夜宴会。全員「結婚歴なしのオバちゃん」であるという共通点以外、これまでの人生経緯や現在のライフスタイルも全く違うのだが、「どこか深いところでわかり合えてる」感じで、気兼ねなく何を話しても楽しく、そして深い。
彼女らが何気なく口にした「ひとこと」には、わたしの救いになり、あるいは学びになり…ということがとても多かった。よくよく考えてみれば、これだけの貴重な存在が、市内某所の一職場に集っていたということ自体が奇跡であるようにも思える。テンションMAXで、久々にナマチュウ5杯も飲んだ。モルツだったけどウマかった♪
1/26 土 31.9   京阪八幡市駅〜木津の大橋まで
図らずもそこは「木津川マラソン」のコース上。しかし、わざわざ参加費払って走るような気はしない。あくまで個人的な感覚だが。
探しまくっていた「エースコック・くまモン太燕円」を、木津駅近くのヤマザキデイリーストアで発見した(*^。^*)
バイトの面接前には「くまモン石けん」をGETし、今回はこのタイミングに…まるで「面接、頑張ってだモン!」とか「ジョギングおつかれさんだモン!」と声をかけられたような気分である♪
さすがは「熊本県営業部長」、ソツがない!
1/27 日 10.6   年間パスポートのモトを取るために(実質上とっくに取れているが)京都水族館〜図書館〜つるむしゃ
「基本的にキライ」なイルカショーも見た。イルカショー、アシカショー、サーカス…いわゆる「動物芸」は、「楽しい・カワイイ」というより「かわいそう」なイメージが強い。
これは、幼少の頃からの感覚。ませたガキだったというか、「まるでシッダールタ少年のようだ!」というべきか…案外、「前世はイルカだった」というのが真相かもしれない(^_^;)
見方によっては、「拉致連行・監禁・虐待の結果」と十分いえることを披露しながら、「イルカも人間と同じということを、考えていかなければなりません」と、まるで映画『ザ・コープ』の主張をなぞるようなアナウンスを強調する矛盾。こういう場所では、イルカちゃんたちの見事な芸を「ひたすら見せて、ひたすらほめる」というスタンスに徹するべきだろうと思うのだが。
「同じ哺乳類」であることを盾にとってあれこれ言うなら、ウシやブタも同じ視点で考えなければならないだろう。さらにいえば、人間だって「自由を奪われ、つらい試練に耐えて、食べるために必死になっている」という意味ではイルカと何ら変わりない有り様である。こうしたことを考慮せずに、せまい見識をもっての思想を子どもに植え付けることは良くないことだ。
動物を捕獲して、それを食や生活の糧にすることも、芸を仕込んで見世物にすることも、まったく同様に「それぞれが生きるために必要」な行為、そして、どちらも「罪業」でありながら同時に「尊重すべき」行為なのである。肝要なのは、そうした「関わりの中で生き、生かされている事実」に対する認識と感謝を持つことなのであり、いたずらにある側面だけを採り上げて評価批判することには意味がない。これを仏教では「縁起」という。蛇足ながら付言すれば、これが昨今かますびしい「道徳倫理」の限界を越えた、仏教思想教育の重要性・可能性を訴えたい所以でもある。
…しかしまぁ、クジラ・イルカについては「文化的価値観の争い」の代表格でもある現代、しかもこの「国際観光都市」である京都において、よりにもよって「イルカショーが目玉」とする水族館ができたということ自体、なんとも大胆不敵な所行であろうと思うところである。
最近は、人間の側から海へ出て、クジラやイルカの本来の姿を「ウオッチング」するイベントが各地で展開されている。聞けば、ちょっとしたストレスやウツ的傾向が劇的に改善されるという。「自然のままに生きる姿」を見せまたは見ることが、何にも勝る感動となるということなのだろう。わたしとしては、そうした形態の方があたりまえになってくれることを望みたい。そもそも、京都というまちに、あらゆる意味においてムリヤリな存在であるこの水族館が、延々と盛況のまま続くような気はしない。
1/28 月 3.0   「きれいな人やなぁ」と…「定年後ヒマヒマ」というオッチャンにナンパ(?)された(゜o゜) 
ホメられて、気分良くしてしばし語らう…at鴨川。
世の中には、「クソババァ」「キタナイおばはん」という評価語もある中、たとえお世辞満点でも「きれいなひと」と言われれば、決して悪きはせえへんもんどす(*^。^*)ウヒョ。
「おヒマなら、佛大の通信教育とかどうですか?」と、PR活動をしたワタクシ。営業ポイント換算で2単位ください、学長!…ってか(^_^;)
ところで、そのオジサマいわく、生まれてこのかた何十年と関わってきた鴨川の風景は、どんどん「なつかしさ」が失われているらしい。確かに、たかだか10年程度の間の光景しか知らないわたしにも、その変化をそこここに感じることはある。中でも個人的に「ガックシ」だったのは、かつては「単なる土手」であった北大路通りに上がるポイントが、キレイに整備されてしまったこと。そこに一番関わり慣れ親しんだ時期の光景が変わるのは寂しいことであるということは、理解できるところである。
「鴨川も京都観光資源のひとつやし、どんどんお化粧せなアカンのでしょうね」というと、おじさんは笑っていたが。
ウケたついでに、「ここをあちこちいじるより、キレイにしてほしいとこはいっぱいありますよねぇ…」と、例として双ヶ丘の歩道橋の話をしたら、オジサマがウンウンと深くうなづいたのに驚いて尋ねてみれば、ぬわぁぁんとオジサマ、現在のお住まいは花園付近とな!…まるきり「端から端までお散歩」してることになるやんか!(゜o゜)ウヒョ〜、ホンマニ、ヒマナオヒトドスナ〜!…しかし、「この際、お散歩やなしにRUN始めたら?」とは言えなかった。佛大勧誘と違い、このマンマルがそれを言っても、説得力のカケラもないからである(-_-;)
1/29 火 15.0   さらば!ニューバランスW96○シリーズ(T_T)…送別の意をこめて、嵐山界隈。
明日からは、W1040やっ(*^_^*)
新しいシューズを下ろすたびに、「この一足がダメになるまでに減量成功!」と念じてきたのに、カラダマンマルのまま早や3足目★(-_-;)
そろそろ、「エ〜かげんにせぇよ!」という感じなので、今回のシリーズ更新を機に、マジで行こうと思います(ーー゛)
よくもまぁ、このコロコロおばちゃんの衝撃に耐え、働きぬいてくれたW968よ。感謝感謝☆…と靴底を眺めれば、その減り具合がいつもと違う!通例、両足ともカカト外側がメチャ減りする傾向があるのだが、今回はカカト中心&前方もまんべんなく擦り減っているのであった…ここから推測されることはふたつ。
@これは、いかに「マジRUNモード」での使用が少なく、「歩き・普段使い」が多かったかを示すものである。
A何らかの要因(おおかたおデブ体型を起因として)、RUNのフォームが変化したことをしめすものである。
…結論は、かつてのRUNモードを復活させた結果、シューズがどうなるかを見るまで保留されることになるが、@Aのいずれにしても、「体重のかけ方・バランスどり」という意味では現状のほうが理想的なスタイルを保っているようにも思えて複雑である。まぁどうなりますことやら。春になる頃には、結論の兆候は出るだろう…っていうか、出ていないとアカン!ということで、やっていこうと思った次第。
1/30 水 10.0   「う〜ん、カラダの調子がイイカンジ!」の状態とは結局のところ、汗や糞尿など排出されるべきものがキッチリ出ること、かつ、体内の代謝のリズムがうまく運んでいること(たぶんミネラルバランスによるところ大)…という単純な仕組みで成り立っているものらしい。
ビバ!玄米食☆ヽ(^。^)/…おそらくこの数日の絶好調感の理由は、そこにあるとみた!
玄米は残留農薬がヤバイとかいうウワサがあるので遠ざけていたが、思いきってやってみると、お米に戻す気がなくなるくらい食感もいいし食後のモタレ感もまったくなしで、イイコトづくめのような…まだ「お試し状態」だが、この調子なら「質のいい玄米探し」をしようかと思う。
感覚的に、最近のRUNは「なんだかモタモタモードやなぁ…」としか思えない状態にあるのだが、距離の「数字」だけをみると、しっかり300`前後は出ている不思議。もっとも、ウオーキング分やら、雑用でチョコチョコ動いた分まで姑息に加算している上でのことなのだが、それらを差し引いても200`弱はRUNしていることになる。「毎月200やってれば、フルマラソンは完走できる」と聞いたことがあるので、ある程度のチカラはまだ残っていると思いたいが、実感としてはどうにもスッキリしないというのが正直なところだ(-_-;)
…なので!
来月からここの記録距離について、厳重なルールを設けることにした!といってもそれは、「旧あるくだっしゅ型」に戻すだけのことなのだが。
@仕事を含め、生活作業の移動において発生した距離は加算しない。
Aバイトの往復距離は加算しない。
Bウォーキング分を加算するのは、その場所が「山」であった場合、または、一度に10`を超えた場合(要するにハイキングモード)のみとする。ただし多少なりともRUNが意識されている状態で。
…要するに、「純RUN分」のみを計上する場としてここを復活させるということである。かつては、上記@〜Bを除外しても500〜600がアッタリマエな状態だった、それと比較して、現在のじぶんがいかに「アマアマモード」であるかが思い知らされることになるだろう…ムフフ(-v-)
1/31 木 10.0   昨日決定した「ルール」に照らせば、厳しく言って「ゼロ」、甘く見積もっても「5キロ」である。
が、今日はまだ「来月」ではないので、最後の「アマアマモード記録」なのであ〜る(^_^;)
本日の計算…
「比叡山RUN=学問+α」
…はかりにかければ、右項の価値の勝ち!ということで、しからばその「+α」をどうするか…が今日のお楽しみ分となったのである。
以前から、やろうやろうとしながらノビニビになっていた、ある「超大作」をミシンで作った♪(*^。^*)
失敗の可能性や、いずれは汚れてクタクタになること(諸行無常)を考え、「安い生地」に的を絞って選んだので、その点ではツマラナイ作品になったかもしれないが、まぁまぁな出来栄えである。「いずれまた」のときは、ちょっと奮発してもいいかも?
ちなみに「超大作」とは、文字通り「大きさがデカイ」という意味であって、ブラウスや作務衣を作ったということではない!
走行距離 313.1  km