あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
10/01 土 3.0   ぶだはっまで(自転車往復だけど)
往路については、RUNにしてこのくらいに換算しても、納得してもらえるだろう…京都の地形事情を知っていれば。
「RUNと仕事の合間にいかに学問するか」であった旧あるくだっしゅのテーマは、現在「学問の合間にいかにRUNするか」という逆転現象が起きている。まぁあれこれ、大変っす。
10/02 日 12.0   東山界隈。久しぶりぶりすぎて道を間違えた。
しかしそれは「アミダちゃん&ホ〜ネンちゃん」の思し召しであったのだという奇跡。
思えば先月18日にも、同じようなことが起こった。他人様からすれば「単なる偶然」「あほらしい」ことでも、本人にとってはとんでもなく感動モノだったり、精神的起爆剤になったりするものだ。うひょひょ。
10/03 月 0.0   最近、へんな頭痛がすることがしょっちゅうある。
バッファリン飲めばなんとかなる程度なのでいいけど。
年取ると、あれこれビミョウ壊れてくるもんです。
10/04 火 0.0   「マラソン」は、いろいろな場面で何かを延々と続けることに例えられる。
最近のわたしの場合、それは「修論資料探索&コピーマラソン」である(-_-;)
そういえば、英語教育の「アルク」にも、「○○マラソン」てなカリキュラムがあったなぁ。でもって、わたしのHN「あるく」は「アルク」に関係あるん?とか聞かれたこともあった…
「関係ねぇよ!」と、ついつい回答がお下品になってしまうのは、質問者が超むかつくやつだったからだ。あ〜ヘンなこと思い出した★
10/05 水 3.0   ぶだはっまで(自転車往復だけど)
「それほどでもないだろう」の予想を裏切った大雨!こっそり借用していった「RUN用カッパ」は、自転車の場合帽子をかぶってから着ないと危険極まりない「目隠し状態」になることが判明。アブナイアブナイ(*_*)
バイト先のある男性社員は、「宇治−京都(電車で30分程度)」の通勤が「シンドイ」という理由で、京都市内に転居し、現在自転車通勤(30分)をしているそうだ。首都圏なら、「電車で30分」なんてのは誰もが羨む理想の状態であるのに、こちらでは「自転車で30分」が基本路線でそれ以上はキツイと思うらしい。通勤事情やその感覚というのは、土地によってこれほどまでに違うものなのだということに新鮮な驚きを感じる。
…と、かくいうわたしも、かつては往復4時間の通勤をこなしながら、「徒歩30分で職場へ」という環境を空想してさんざん憧れていたのだが、それが現実になってみると、その30分でさえも「ダルイなぁ」と感じることしばしば。当時「30分」なんてのは最寄駅までの徒歩所要時間だったのに。こんな細かいことも「運動不足=デブ化」の一因であることに間違いない。気候も良くなったし、せめて徒歩通勤を復活して「スキマ時間の有効利用」を生かしてダイエットのひとつに組み込みたいものだ。
10/06 木 14.6   国会図書館(関西館)〜京田辺
「祝☆45歳」の日にふさわしい「祝園」という地名の界隈をRUN(偶然)
これが同じ京都か?と思うほど、ひろびろノビノビした精華町界隈。あの有名な「わたしの仕事館」もジロジロ見てきた。
10/07 金 0.0   怪舎員時代、「品プリ」「高プリ」等をVIP待遇のノリで利用していたワタクシであるが…
京都暮らしの今これから、「カンプリ」の上客になろうとしている。
最新型の機種で1枚5円☆…ジーコジーコ、アホほど時間がかかる上に1枚10円なんていうシステムを変えない大学コピーなどもう使えまへん。
予定時間の半分で作業終了。こんなことなら2倍量の資料を持っていくか、それともちょいとRUNしてから出発してもよかったな〜。シッパイ。
10/08 土 10.0   いぇ〜ぃ!千本五条から千本北大路まで、タクシー使うと1680円もかかるって知ってるか〜い?…って、知らないくてもいい人のほうが多いんだけど。トホホ…(T_T)
京都の道路は、千本と言ってもまっすぐ千本を上がれない事情があるので、遠回り=メーターダチャガチャUPしちゃうのだ(T_T)
休日・観光シーズンの京都市内において、「時間きっちり」に目的の移動を確実に果たす手段は、@タクシーA自転車BRUNC市バスの順序となる。バスよりRUNのほうが早い場合もあるとゆ〜のは、冗談ではナイ。マジである。
ヘタすりゃ「それだけのこと」で1年卒業が延長になる書類を前に、お金のことはアーダコーダ言ってられないので、本日の選択は@。ただし帰りはRUN。
「精神的緊張orストレスで嘔吐する」てな現象を初体験した。まぁ、わたしもずいぶんデリケートなレデェーになったのねぇ☆…ってぇか、これは今回に限り、研究書作成にどれだけテンパっていたかってことだと思う(-_-;)…胃のむかつきは、そのあとマックシェイクとポテトをウマウマ食べられたので、病気とかでないことはたしか。ホッ。
計画書は、「やるぞ!」という気合のみをA3フォーマットにたたきつけて(書いて)提出してきた。とりあえず締切には間に合ったのでその点は一安心。しかし勝負はこれからだ。
…といいつつ、なんだか明日はノーンビリRUNしたいなぁなんて休息モードを画策している(*^。^*)
10/09 日 19.5   やっぱし山系RUNはいいねぇ(*^。^*)
といっても今回は数十メートル程度の小関峠ですが…現状のあるくRUNにはちょうど良いリハビリっす。
田園地帯や琵琶湖の景色の開放感みたいなものは、京都市内(洛中)では味わえないものである。洛中は、かつては「旅先」であったがゆえにそれが得られただけのことであって、現住所となった今では感触が違う。早い話が、「相模原橋本上溝界隈をぐるぐるしている」のと同じようなものだ。通勤定期券も所持していない今、ついつい「電車移動」というものから縁遠くなっているが、よりよいRUN意欲と成果を創出するために、今後は積極的に「市外脱出RUN」を検討したい。
10/10 月 15.5   奥多摩にけっこう高い数値のセシウムが検出されたと…至極残念だ。
何故か(今のところ)、そうした騒動や大きな余震系の揺れには縁遠い京都の地にあることを申し訳なく感じたりもする。しかしだからこそ、「何事もない場所に生かされている」こと自体を生かしていかなければならないのだろう。
仏教学の小難しいレベルにおいて、「無表業」というのが説かれている。何事も「これあるがゆえにかれあり」すなわち、ある原因によってしかるべき結果がもたらされるとゆ〜ことである。そこには、「サボったから怒られた」とか「食べすぎたから太った」なんていう風に、短期間にわかりきった顛末になるものもあれば、「その時にはいいか悪いかはっきりいえない(もしくは正しいと思う)」ようなことが、長い年月を経てから「予期せぬ結果」になることもある。「無表業」というのはこの後者をさしたものだ。
「豊かである」「快適である」ことを求めたうえでの「正」が、ここにきて「非」であり「否」になった、その典型例が「原発」とその影響だろう。「無表業」は、たしかに人々の生活の中に「潜伏」していたのである。それがもたらした結果は、あまりに深くそして広く人々を不幸に陥れている。怖いことだと思う。
…時に、わたしはかの「学生運動」というものについて考える。何の主張があったかは知らないが、そこに「暴力」が介在した以上、それは「正義」として全肯定すべきではない要素を包含する。「学ぶことは素晴らしい」はずのことを、「アタマがよくても角棒振り回すようになるんじゃダメだ」という評価にすげ替えた人間たちがそこにはいた。「勉強なんかより早く世に出て働くこと」を勧めたい貧乏人の親にとっては、子どもに進学を断念させる「渡りに船」」の風潮を作っていた。素直に従った者ほど、今、厳然として存在する学歴社会や格差社会の被害者になっていることが多いのである。大局的にみたとき、この「罪」は誰が作り出したものか。むろん、それだけとはいえないことは確かだが、彼らは当時、暴力行為をもって世間に迷惑をかけ、ある年代の就学事情を狂わせたというだけでは済まない「無表業」をつくったのであると私は思う。「反省せよ!」「総括せよ!」は、君らが社会に対していう言葉ではなく、その陰で影響を受けきた者たちが君たち自身に向けていう言葉である!できればアミダちゃんにも懺悔しなさい!ってか。
この点、まったく腹立たしく思うストレスを抱えつつ、わたしは「ある意味では君を超えており、そして君を越えよう」と心の底から思う次第である。(ここで表明しても意味不明なコメントでした。)
10/11 火 0.0   近年、「ヒカリパワー」で人間の暮らしは向上しているが、あるくはやはり「イカリパワー」で人生を向上させるタイプなのかもしれない。…でも年も年なので、みっともなくならない程度に小出しでいこう。
そういや卒論も「いかりパワー」。修論も同じようなことが源泉のテーマである。RUNのほうも、「急速デブ化」に対するイカリパワーをもってじゃんじゃんやるぜ!
加護亜依だの小向美奈子だの酒井法子だの、普通ならやらない「お騒がせ」をしておきながら、それでも「また芸能界へ」という話がチラホラする理由は、「才能があるから惜しい」なのだそうだ。…ではいったい、彼らのいう「才能」とは何なのだろう?ということを冷静に見つめると、それは「歌がうまい」とか「芝居がうまい」ということではなく、ひとえに「お金になるかどうか」の基準に関わっているだけであることがわかる。すべてはその評価と、それにつるんでいる連中の思惑にはまっているだけのことで、これでは本人たちが真に「人として生きることを立て直す」ことにはならない。これほど気の毒なことはないと思う。
…数か月前、802の番組で、「人生における才能とは、"発信力"に他ならない」とのリスナーの投書に対しDJヒロ寺平は、「それは違うと思う。ネットやツイッターなどでそういう文化ができていることは確かかもしれないが、今、君がそのままに毎日を一生懸命生きている姿こそが、周囲に影響を与える大きな発信力であり才能であると思う。」というコメントを発した。「マジ、この人、カミだわ」と思った。「お金になること・話題になること」が才能であり成功なのではない。全くあたりまえのことを看過して、人は迷いすぎているのだ。
…あの震災直後、「僕にはこれしかできない」とうそぶき、お笑いタレントや大物歌手が持ち芸を披露しまくったが、そんなものが一瞬のワイドショーネタでしかなかったことを今回私たちは学んだと思う。そんなことより、整然と給食の列に並ぶ被災者や黙々と瓦礫や土砂を取り除くボランティアたちの言葉なき映像に、私たちは感動とともになにか大きなものを教えられただろう。これこそ、真の「人としての才能とその発信」であったと思う。忘れてはいけない。間違えてはいけない。そして、私たちはひとりひとりすべてが、「才能ある存在」であることに自信を持とう。
10/12 水 3.0   ぶだはっまで(自転車往復)
スピード化・合理化、そして個人自由主義時代。抑圧多き昔に比すれば喜ばしいことも、度が過ぎれば「ひと」ではなくなる。
仏教と同時期にインドで盛んであった「ジャイナ教」では、「何が真であるか」という問題に対し、常に「○○においては」という限定条件を付けて説く基本思想を持っていた。このことは、価値観が多様に認められる現代社会においてとても大切な感性であろうと思う。
丁寧に成すべき物事を、自分にだけ都合よい簡便なツールや手段で済ませたり、自分の都合と希望だけを中心に、それらが周囲の関係者に対しどれほどの迷惑・不快感を与えるかも考慮せずに行動する…そんな言動が、日常生活やごく基本的な人間関係のやりとり上において、最近多く散見される。その人自体にはそれが「ベスト」なのであり、かつ、その人間性全体を疑うような大げさなことでもないが、視点を「関係者に対しては」「世間や社会の目からみれば」という風にとらえると「なんじゃそりゃ」という評価があることをまったく考慮していないという「甘えの実態」が浮上するのである。
誰も、人に憎まれあるいは不快な思いをさせようと意図して行動することはない(京都の「イケズ」みたいなものは例外かもしれないが)。しかし、「自分にとって有効と思う」ある行動や要求を起こす前に、「ひとにとっては」「仲間にとっては」「社会にとっては」「世間一般の目から見て」等々の範囲でその利益不利益を考えることは少なくとも「おとなの言動」である以上必須のプロセスではないかと思う。逆に言えば、そうしたことも前提意識におけないような者は、世間や社会を語る「おとな」としては認められないとゆ〜ことだ。
あ〜、今日も忙しい!(T_T)
10/13 木 0.0   伊良湖とゆ〜ところで、トライアスロン大会があるらしい。
昨日、千本北大路で出会ったおじさんのTシャツでわかったことだ。
ちょっと声をかけて「RUNの距離」を質問したら「20キロ」だそ〜なので、本格的なトライアスロンの縮小版みたいなものなのだろう。このレベルなら、今から挑戦してもなんとかなるかな〜?と妄想を抱いた次第であるが、問題なのは「スイム」である。プールでもいつの間にか2本くらい隣のコースに入っているほどの「わかめ泳ぎ」を克服しないことには(T_T)…いやまてよ?会場は海なのだから、かえってこういうほうがメリット大かも?…んなわけないか(-_-;)
10/14 金 10.0   「しなやかさは強さに勝るのです」…by『自力整体』の先生(DVD)
けだし、名言である。
しかもこれは、「肉体」に関してのみ言えるということではない、幅広い人生訓でもあろう。
カチカチの体で運動をするということが、どれだけリスクの高いシワザであるか、というゆ〜ことは、かねてよりその危険を想像してきたことだっだ。可動域が広いか狭いか…そのわずかな差が大ケガや故障の原因になるであろうことは、日々のRUNで気が付いていたからだ。それでも当時は、「より長く、よりたくましく」が先に立って、入念なストレッチや柔軟化への努力が実行できなかった。それもこれも、「若かった」ということで許される範疇であったからだろう。
しかし今後は、「ただRUNできればそれでよいか?」ということが重大なテーマでもある。すでにわかりきっているリスクやその回避策への努力を看過して得られる「強さ」には何の意味もないし、また真の「強さ」ともいえないだろう。
最近は、この「自力整体」にかなりマジモードで取り組んでいる。体のほうも「やわらか系」の形状記憶を要求するようになってきたらしく、気が付けば職場でもふと足腰を伸ばしている。RUNだけでは得られない(むしろ破壊して修復できないままであったかもしれない)筋肉全体との対話が可能になったようだ。シメシメ。
10/15 土 12.4   歌舞伎と講演会…なんとインテリジェンスな休日!
「やるべきことを全うする」「あるべき姿を振る舞い通す」…「人の美しさ」とは、実はそんなところにあるものなのだ。橋之助や壱太郎の演技、かたや客席でええ着物来て気取っていながら居眠り全開の芸妓(off)を見て学ぶ。
人生には「なんでこのタイミングにこんなことが?(良い意味で)」ということがあるものだ。わたしには、自分の思想思考の変化発達過程の重要なポイントで、ふと現れては安心と確信を与えてくれる「ある先生」の存在がある。10年前には「仏教思想そのものについて」、そして今回は「浄土の思想について」。
仏あるいは菩薩というもの、空を飛ぶ・光を放つなどの奇跡を現実逃避的に延々待たずとも、曲がりなりにも地道に真剣に人生を生き抜く中に現れる「ご縁」の中にこそ、その姿をあらわすものなり。ありがたきかな。
10/16 日 13.4   タイトルや大義名分だけゴリッパで、その実…ということはよくあるものだ。
特に、宗教団体系・大企業系に多く見られる現象である。
「民俗芸能と化した」…というにも足りない「単なる信徒のお祭り」。そこには宗教的教説も威厳もなにもあったもんじゃない。
「来迎」とか「浄土」とか、浄土教の重要なところを軽くつまみ食いして人集めするの、やめておくなはれ。
会社でコッソリ「配達ヤクルト」を飲んでいることがバレた(*^。^*)キャハー。
しかし、古くから廃れないこの健康飲料をば侮るなかれ。現在ちまたに蔓延する怪しいサプリなんぞ比較にならない効果なのである。近頃、「なんか抜け切っていないなぁ」と感じていた「体の中の毒っ気な感じ」がスイっと抜けて快調極まりないのである。これぞ「免疫力ウンヌン」のガンバリかと。残念ながら脂肪は落ちないが、これはボチボチRUNにお任せしよう(^_^;)
「死にたくない」「年を取りたくない」にはそれほど執着していないが、「生きている以上、できるだけベストコンディションで動きたい」という気持ちはある。ヤクルトは、その一助なのであ〜る。
10/17 月 0.0   「バイトのおじょうさん(原文ママ)に、ヤクルトの1本も飲ませる休憩も与えないとはなんという職場だろうか。だから○○か○○○○に紹介状を書いてやると言ったのに」…この日記を読んでいなければ知りえない話題に関してマジ反応メールをよこしたオヤジ1名。飽きもせずストーカー、もとい、ご愛読感謝☆
いやいや、早くも2年になろうかとしているバイト先、なんだかんだと要領よく適当に息抜きくらいはできてますので。○○だの○○○○に行ってたほうがよほどタイヘンだったわさ。
それにしても、80も近いオジイサマにとっては、まだまだわたしも「おじょうさん」☆そういうところはそのままボケておいてくだれ〜(^_^.)
昨日の文章、英語でいうところの「C=補語」、サンスクリットでいうところの「Ac.=対格」」、早い話が日本語の「誰に」にあたる部分を省略していたために、読む人によっては「無断でヤクルトを会社あてに配達させ、コソコソ飲んでいたことを社長に怒られた」という解釈を可能にしたわけである。いやはや、不特定多数に公開する文章というのは難しいものだ(^_^.)
正確には、「そんなもの飲んでると太るぞ!」と言った「しゅ〜る之助」の監視を回避するために、会社でヤクルトを飲んでいたことがバレた、ということであって、コトはそれほど重大ではないのである。わたしの場合。(社員さんのほうに目を向ければ、日本の会社とは思えないような労基無視の最悪雇用環境だが)
10/18 火 0.0   「さらば!ジーパン」宣言。
あるくだっしゅ、45歳。これまで「気楽だから・安いから」と乱用しまくってきたジーパンといよいよ決別することにした。
@アメリカの農作業着が発端というジーパンなるもの、活動的には見えるが、その実仕事やスポーツそのものには機能的ではないと思う。(特に水濡れに弱いということは重大なウィークポイントである。登山などには厳禁であるとされる)
Aよほどのスタイルや背景が伴わない限り、一般的に「オバサンにジーパン」は似合うもんではないと思っていた。
B怠惰から生じる類の「これでいいや」によるファッションの乱れとだらしなさの根源は、何につけ「ジーパンを基本」に据えていたために起こることであった。
C「かっこつけよう」ということとは違う、基本的な「見栄え・清潔感」の問題として、中年以降にジーパンはバランスが悪いアイテムであると思う。
Dそもそも「デカケツ」「ブットイアシ」のわたしに、似合うものではなかった。それをごまかし、開き直れたのは、まだ「若さ」があったからゆえのことである。そのずーずしさは、すでに反省されるべき時期に来ている。
E要するに、飽きた。今はヘタするとジーパンより安いのに「いい感じ」に見えるパンツはたくさん売っている。
…あくまで、個人的見解です。RUNは、これまで通り「機能重視」なので、スカート付のスパッツとか、「見栄え」を気にした方向性を持たずにガンガンいきます。
10/19 水 3.0   ぶだはっまで(自転車往復だけど)
☆教授に食事に誘われた☆
…と、これだけでは、2日前同様、「あらぬ疑い」をもたれるかもしれないアヤシイ文章ではないか★クワバラクワバラ(^_^;)
食事と言ってもそれは「昼食」であり、なおかつ学食のランチのことであり、さらには外国人留学生と一緒という、きわめて明るくすがすがしく健康的なお誘いである!
しかし、午後から「昼抜き直行」でバイトに向かわねばならぬ身ゆえ、この「ありがたく価値あるお誘い」を断らざるを得なかった。ショートカットなのに、なぜか後ろ髪をグイグイ引っ張られる思いで千本を南下したのである。それもこれも、「今日は一刻も早く行かねば!」とキョーレツに思うノルマがあったからなのだ。
あぁそれなのに、バイト先に着いてみれば、ノルマを果たすべく準備されているはずのブツは未着!「明日くるらしいわ」とアッサリ。フッてきた事情が事情なだけに、今日ばかりはスゲェェェェェェェむかついたぜ!
そして、「時間制限アリ」が前提のバイト・パートが、明日は朝から出勤しないと間に合わない状況を作っておいて、ごくアタリマエのように平気でいられることにもスゲェェェェェむかつく!全体として、「企業・会社として必要な最低限の仕組み」が一切存在しないことが判明した。バイトだからいいけどね。ふ〜っ(ーー゛))
10/20 木 0.0   仕事をしていると、「何かに呪われている」…と思うほどに、段取りがうまくいかないことは、たまにあるものだ。
ひとつの準備が整ったと思ったら、今度は全く違う備品が足りないという事態発生★結局、月曜日も朝からやんか〜っ!と相成りました
(ーー゛)
しかし、「朝から勤務」で休憩時間があったおかげで、「今度こそマジ最高!」な魚屋さんが見つかり、ラッキー☆なこともあったわけで…
人生、悪いこともイイことも半々ってのはホンマどすな(*^_^*)
まったく同じ文字を書き続ける作業をした。業務上の秘密で詳細は省略するが、それは「相当な人から相当な人」に贈られる物品に巻きつける熨斗紙であるからして、それなりに緊張感はあるのだが、何十枚も続くうちに作業そのものは単調になり、ふと「夕飯のおかず」だの「明日(仕事休み)の研究作業の段取り」など、雑念が浮かんだりしてくる。
しかしそうした余計なことを考えるとほぼ確実に、その時筆を走らせた一画が乱れて全体のバランスを崩したり、満足いく書き味でなくなったりするのだ。
思えば、生活行動の中の「ミス」というのは、必ず「今この一瞬にやるべきこと」以外の何かに心を奪われたときに起こるものである。自転車に乗っていてカゴの荷物を気にして転倒するとか、足元に最も注意すべき山を歩いていて、花に目をとられ滑落するとか。あえてRUNに関していえば、ラップタイムや完走記録にこだわるあまり、一番肝心な「自分との対話」を忘れてトラブるなんていうのも含まれるだろう。ホンの一瞬の雑念が、その時ばかりでなくその後の人生自体を狂わすような元凶になることすらあるものだ。
仏教でいう「苦悩のモト=煩悩」は、ずいぶんと難しく大げさに語られることが多いが、突き詰めば結局のところ、人の一瞬一瞬の中にこそ潜んでいるものであるといえる。煩悩というものが現実に姿を現した時、それは「横着」とか「みっともない」「恥ずかしい」と表現される姿を露呈する、と考えるとわかりやすくなるだろう。…「今、あるべきこと・なすべきこと」を見極めず、余計なことを望んだり無駄なことをしたりということを防ぐことこそ、「真に完成された価値ある時間」すなわち達成感と幸福を感じる蓄積へとつながるのだ。
10/21 金 3.0   エコという、現実的で合理的な思想を前にしても、「熨斗紙・包装」というものは消滅しない。
日本人古来の特性である「つつましさ」というものが「包ませる」につながるようで興味深い。現代的な概念上からも作業の手間からも、正直なところメンドクセェものではあるが、別の視点でいえばなくなってほしくはないことでもある。
…って、そのおかげで11月は数千単位の包装に追われることになるんだよぉぉ(T_T)
なので、休暇は取りやすいうちに!(*^。^*)
「包む」ことによって、その中に「込める」ものがあるという感覚を表現しているのではないか…包装や熨斗には、実は「すっげーこだわり」がギッシリのしきたりがある。慶弔によって包みの端が右上か左上か、あるいは上下いずれか、なんてことまで気にしなければならないのだ。しかしその「意」を理解すると、それは日本人の保ってきた「心のきめ細やかさ」が為せるわざである、と感心するとともに、図らずもその継承の一端をになっているという責任感が湧き上がり、単純作業もおろそかにするものではないなと思うところである。
こうした仕事での体験を含め、最近は「日本の良さ」というものをあらゆる方面から学ぶ機会に多く恵まれている。年齢的な「安らぎへの欲求」も大きいかもしれないが、同時に「京都で暮らす」という事実がそれをますます増幅させているようにも感じる。
本日の、「無料で一流狂言鑑賞」も、そのチャンスの一つだ。ウッキキ-(*^。^*)
10/22 土 14.4   「ご当地ラーメン」ブームというのは、あの「ふるさと創生・1億円ばらまき」や、新横の「ラーメン博物館設立」の時期に端を発するものらしい。バブルがはじけて、派手にふるまえなくなった庶民に新たに発生した「チープなブランド志向」とでもいうべきか。
「京都ラーメン」という称号も、おそらくはその一端として出来上がったものかもしれない。
ただし、この「京都のラーメン」は、ブームやブランドなんてことばを借りずとも、もとよりレベルの高いものであったと思う。
大衆食堂・屋台・電車やタクシーの運ちゃん、酔っ払い…ラーメンの正統派をいくようなキーワードをその歴史の陰に彷彿とさせる店ほど「名店」となっているのが、京都ラーメンにおける魅力のひとつでもあると思う。
いわゆる「人気ラーメン店」と「愛されるラーメン屋」には、決して埋めることのできない大きな隔たりがあるように思う。たとえば「麺屋武蔵」「六厘舎」「ラーメン二郎」あたりが京都に出店しても、それは単に「話題の店」「人気店」であるだけで、「第一旭」「新福」「ますたに」のようにはならないだろう。実際、「ラーメン王」なる人が絶賛したという京都洛中の某店も、この3店に感じるような「不動の名店」になりえる要素を感じないままである。
今日行ったラーメン屋もしかり。「他店と違う」ことをアピールしたい気持ちがヒシヒシ伝わってくるが、たぶん定着しないうちに「いつのまにか終わっている部類」に入ると思う。千本はしょっちゅう通過するので今後の成り行きを観察しようと思う。
「京都で生き残る」ためには、何が必要か…図らずも、ラーメンを通してわかってきたことがあるような気がする今日この頃。それは、広い一般世間には通じないところにあるものかもしれないが、「京都では不可欠な常識」といえるかもしれない。
10/23 日 26.9   近江大橋渡り初め!琵琶湖RUNはさんざんやってきたつもりだが、思わぬ盲点だった。
やっぱし「あるくだっしゅRUN」は、「自然の中で25キロ超」からその真価を現す!という実感を久々に。
ここのところコツコツやっている「自力整体」は、カラダの柔軟度を高めるだけでなく、ここしばらく悩みのタネだったあるトラブルを解消していたことが判明した。
今にして思えばこのトラブル、数年前に出町の名医ヤマギワさんに指摘されていた骨格の特徴に起因するもので、そのまま構わずにいたらRUNはもとより日常生活にも支障があったかもしれないことであった。この1年の体調不良によるRUN意欲の激減と、その復活への「体の見つめなおし・つくり直し」の取り組みは、無駄どころか今後ために必要な時間であったようにも感じられる。
何をどうムリしても、ヘイヘイと動いてくれる「若いカラダの時代」は終わっていたのだということを、いいタイミングで知らせてくれた貴重な体験であった。今後は「情熱や希望がエネルギーに変換しにくいカラダ」をいかに動かすか、すなわち「機能主義の問い」を伴うあり方となる。…とかいいつつ、目標は「紀伊半島半周!」とか「永平寺に向かってヘイヘイ!」とか、「国道9号ぶっちぎり!鳥取砂丘への旅run!」とか、関東在住時よりはるかにスケールがデカイ(*^。^*)
10/24 月 0.0   「一番好きなもの、憧れているものは、手に入れないままのほうが良い」…だいぶ前、ラジオの投書にあった「あるおばあちゃんの教え」だ。確かに言えてる!と思うことはしばしば…な昨今である。
どんな物事でも、いざじぶんのものになってみると、思ったほどの良さがなかったり、不満が出てきたり、つまるところ「真実が見える」ということである。それが成長や発想の転換につながればよいが、挫折や苦悩のモトになることもしばしば。前者ができれば「オトナ」であり、後者であれば「ワカイ・コドモ」ということもできるだろう。
週3か4はフルタイムでバリバリ働き、1日はじっくり図書館で勉強(もしくは旅RUN?)できるようなライフスケジュールがいいなぁ…と、この2年頻繁に思っていたことが、現実になろうかという話が本日バイト先で持ち上がった。「うぉ〜!願ったり叶ったり!」であるはずなのだが、「午前中フリー&臨機応変に休日」が定着して2年も経過した現在、トータルで見てそのチェンジは本当に理想的な成果をもたらすものかどうか?ということが懸念されている。
学費や研究資金その他雑費の工面もさることながら、「少なからず仕事をしている」という社会的立場を維持することは精神的安定の面で絶対必要なのだが、学問的に「緊急MUST事項」が続々増加している現在、どういうやりくりが一番良いのか悩むところだ。
…そんなわたしにとって、「毎日学問漬けで暮らせる生活」というのが何よりBESTな理想であり憧れなような気もする。がしかし、それこそ「憧れているだけにしておいたほうが正解」の骨頂にあることだろう。あくまで、「人が人の中で生きる中で生じるあれこれ」を考えることを根幹にする仏教学研究においては、むしろ「所願満足」ではないあれこれを体験する中で接触する物事や考察こそが、その実証的根源となるはずだからである。実際、どんなオエライ学者先生のお説よりも、職場や世間の人々の何気ない言動に救いや真理を見出すことのほうがはるかに多いのだ。そのような「世間の人々のありよう」に沿わずして、難解な言語や解釈だけが往来する仏教学などに本質的な意味はないと思う。…と、そういうエラそうな主張を貫くために、わたしの「今」は最もふさわしい環境にある、というのが結論となるだろう。それにしてもこの業務シフト問題、ど〜するべぇか?…そうして話はまた最初に戻る、見事な輪廻である(T_T)
10/25 火 0.0   ヨウツベの動画で、山本太郎が言っていた。「自分の主張が、"アイドルの離婚だ結婚だ"と騒ぐレベルのマスコミの中で扱われるのはイヤだ」…ごもっとも。
ネットのニュースでも、「放射線残留」「トルコ大地震」「厚生年金基準引き下げ」等々と同列で、「女子アナ結婚」だの「三流女優の妊娠」だの「スキャンダルで生き延びているタレントのスキャンダル」だの、極めて低レベルのニュースが配信されている。マスコミの報道に偏りがあってはいけないが、この現状が「不偏性」や「広範性」であるというなら、これはとんだ誤りである。
ブログやツイッターの普及に伴い、一般人有名人を問わず「個人のプライバシー」が美談やドラマチックになりやすくなっている。特に注目されるのは「○○なのにこうなった」とか「○○を克服した」とかいうジャンルのものだ。こうした「本人によって語られた真実」を根拠に、各マスコミの報道も過熱の一途をたどる。中でも最近にぎやかしいのは、「妻は病気で休業、支える夫は役者廃業で作家に、妻を支えて生きる」と公表したのもつかの間、妻の難病はあっという間に復調し音楽やりたくてウズウズ、作家の夫は作品1本であっさり役者に復活」という顛末。ほかにも、「芸人の女房として人生を全うする」といいつつ数年後に「ひとりの女としての人生を…」とか、とにかく、そのときそのときの「自分のありよう」を「正当化・美化した言語表現」にしすぎているのである。そこには、反省も恥も教訓もない。「もう結婚はありえない」と言いながら3度目が噂されている堀ちえみもこの部類だが、彼女の場合は離婚のとき「こんな失敗を繰り返して、私は人間失格です。」と涙で心情を吐露しただけまだマシかと思う。
彼らのこうした言動は、まるで宗教信者のような崇拝者(ファン=売上、個人の場合は迎合することによる連帯意識)の存在があるから成立している薄っぺらいものにすぎないのだが、これがあたかも人間全般に等しい「強さ」だとか「あるべき生き方」みたいな方向で良心的に報じられ続けることの害は甚だ大きいものがあると懸念されてならない。
「その他大勢」の庶民である人々の生活では、「難病」はなかなか治るものではないし、一度退職した仕事に復帰するなどほぼありえないし、離婚するエネルギーや苦悩、それに伴う世間の評価は並大抵ではない。ひとりで子どもを抱えて生活するなんてのは「自分」の人生をほとんど捨てるような覚悟がいるし、障害児などであればそれはなおさらだ。まさにこの世の地獄を思わせる「生きる苦悩の代表コンテンツ」が、ひじょうに「軽いもの」になっていることが、本当に「人のためになる」ことなのだろうかと思うのである。「頑張っているつもりでもどうにもならない」「思ったことが社会世間の常識や仕組み上、批判される/許されない」現実のほうが、世の中には圧倒的に多いのである。
まぁ、そのあたりのレベルで「勇気を与えられた」という人はそれでもいいかもしれない。その意味では、現代のこのような風潮もある種の「宗教的役割」を果たしているとは言えるだろう。しかし!こんなごまかしでは利かない人は、「来たれ、浄土宗へ!」やっぱ、800年続いただけの重みと確かさはありますぞ。(そういうわたしも信徒じゃないけど)
10/26 水 3.0   ぶだはっまで(自転車だけど)
佛教大学前の停留所で論文担当教授先生様に遭遇!…まさに「図らずも」なタイミングでこの先生とはこういうことがよくある。これも「ご縁」というものかのぅ。
たまにやってくるバイト君は、現役バリバリの高校生(けっこう成績優秀らしい)。ひょんなことから地図の雑談になり、話は「北方領土」のことになった。「え〜っと、北方領土の島ってなんでしたっけ?勉強したばっかりなのに!」と、思い出せないでイライラしているバイト君に、「エトロフ、ハボマイ、クナシリ、シコタン!」と即答できたのは痛快であった。基本的に地図の知識がメチャクチャなわたしは、「恥ずかしいので人前で地理の話をするべからず」と、しゅ〜る之助に厳命されているのであるが、たまにはこういうカッコイイこともできるんである(*^。^*)
仮にも「女子大学院生」としていろいろ配慮をしていただいている仕事場でのことである。「佛教大学」の名を汚すような醜態をさらさなくてよかったなぁ。ホッ。
それにしても…15歳の高校生あたりの時代というのは、この程度のことを「わかるかわからないか」「覚えているか覚えていないか」で点数をつけられ、それがひいては進学、さらには就職に影響していくものなのだということをつくづく実感した。むろん、「試されたときにできるかできないか」は、人間として大きな資質のひとつであろうが、それだけで良いわけではないことは明白だろう。「ワンポイント的な能力」に偏った評価や勝負に生き残った人々が作った日本社会がどういうことになったか。その顛末が露呈しているのが、まさに今、なのである。
10/27 木 0.0   近々、市内で無作為に配布される「あるブツ」は、このわたくしがその中間作業をこなしたものであります!
ふふふ…
怪舎員時代、どうしても得られなかったレベルの「充実感」「達成感」を、この小さな職場の手作業で感じている。世の中を変えるような、スケールのデカい仕事の一端を担っていた時代もあったが、その当時は、わたしが押したリターンキーが「誰かのいのちを奪う」ことにつながっていたかもしれないのである。そんな仕事のどこがカッコよく、素晴らしいものといえるだろうか。
自分の目に見える、手の届く範囲で、その経過も成果も見届け、ことによっては責任も負える…等身大の自分の中に「仕事」というものが存在している、わたしには理想的なことだ。たとえ時給が上がらなくとも。
10/28 金 0.0   もう「揖保の糸」は食べない(買わない)ことにします
「伝統の製法過程」を省略した味は、以前のものとは違うことでしょうしね!
関西は「黄砂」というものが毎年かなり激しく降る地域である。その季節になると半ば「お天気の一種」としてふつうに報じられるだけだが、この黄砂の中には「硫化ナンタラ」とかいう毒性の強い成分が含まれていることが指摘されてもいる。つまり、「知らされていないから知らない危険」というのは、むしろ関西地域のほうに古くから潜在していたことだとも言える。「いずれは・いくらかは」程度の影響しかないと思われる遠い地で福島の放射能の危険がどうこういうより前からこの関西の産物には不安があったんじゃあないでしょうかっ?
(ーー゛)他にも、かつてあれほどワンサカ騒がれていた「中国野菜の残留農薬」などが、「放射能のカゲ」に隠れて何ら話題に上らなくなっていることも、ワタクシはひじょうに不安を覚えるのであります。
いずれにせよ、このたびの「天日干し中止」は、時流や世論に乗っているだけの反応に他ならず、あらゆる面で利よりも害の方が大きい「パフォーマンス」に過ぎないものと感じます。この企業に本当の「顧客第一」の姿勢があるのかどうか。今後は、最近そのおいしさを知った「半田そうめん」でいきます。
10/29 土 8.8   まゆまろの晴れ舞台!(*^。^*)カワイー!
わたしの世界では、あれはカブリモノキャラではなく、それ自体マジで生きている妖精なのであるのよ☆
それに引き替え…
振袖女子の、音楽だけやかましい踊りや、プラカード持ちの女子のだらしない姿は、仮にも日本国あげてのイベントであり、なおかつ皇太子サマの目の前に披露されるものとしてはとんだダメージであったと思う。
濃いメークや着飾ることにかけては知識やトレーニングを積んでいるらしい現代の女子であるが、その反面、もっと奥深いところに備わるはずの「芯の女性らしさ」のようなものを失っているような気がした。思うにそれは、昨今否定的に評価されがちの「女らしさ」の追求の果てに培われるものであったように思う。それは、彼女たちより前方をゆく舞妓さんたちの姿勢や表情が醸し出す美しさと比較して一目瞭然であった。
「ゆとり教育」「男女平等」「自由と個性」の教育のなれの果てがこんな風になるのかという「なんとも言えない何か」が決定的に不足している風の集団には、単に晴れ着の美しさだけが印象に残るパレードであった。唯一人、「場違いでは?」というようなオバちゃんが赤い振袖で踊っていたが、彼女が目立っていたのはその老け方というよりも、「少なくともほかの女子たちにはないもの」を持っていたからであるように思う。
…って、んなことわたしに言われたらオシマイダヨ、女子諸君。
10/30 日 8.5   朽木に行きたかったが雨でやむなく中止(>_<)
しかしこの2日の「ウォーキング」で、かの「自力整体」の思わぬ効果が確認された!(*^。^*)キャッホー!
@頭を上から引っ張られているような意識で、A胸を張り、お尻をキュッと締めて、B同一線上に足を移動するつもりで…いわゆる「モデルウォーク」というものの基本姿勢は、単に美しく見えるだけでなくカラダ全体のバランスや健康を維持するために有効なものであるいうことは、これまでわかっていたけどできなかった。意識してやってみてもすぐ疲れてイヤになってしまっていたのである。
ところがだ!この2日、極力そのポーズを意識して歩いてみたところ、ぜ〜んぜん苦にならない(゜o゜)アレッ?スッゲー!  
どうやらこのウォーキングポーズの維持には、最近「自力整体」で獲得しつつある「足裏(モモ)部分の筋力」並びに「足モモ内側の筋肉」が大いに関係しているようである。もともと「RUNのため」「柔軟性のため」が目的であったことが、思わぬところによい影響をもたらしているようだ。
何事も、「ひとつ目標を定めて集中的に努力する」とき、そこには派生的に、合わせて3つくらいの「効果と意味」が生じるように思う。学問についてもRUNについてもこれまでそんな風に感じる経験がいくつかあったが、またもやそんな現象が現れたということだ。貴重な教訓である。
10/31 月 0.0   わが社は「一夫多妻制」?
店番をしているわたしは、ほぼ確実にお客様から「奥さん」であると思われている。郵便局員も各種勧誘員もその気で話してくるからややこしい(-_-;)
ただしこれは、店に出る女性すべてに等しい現象である。それにしても、通常店に出ている「店長」が「ご主人」であるとすると…(-_-;)(-_-;)(-_-;)ズイブン、オバチャンニミラレテイルコトニナルノダ。
その店の「準店主」のような姿に見えるということは、「店長の奥さんのオバちゃん」に見えるということのほかに、それだけ「店になじんだはる」「商品をよく知ったはる」の証明にもなるということだろう。なんだかんだと早2年、気が付けば確かに人並み以上の細かい商品知識もあるし、ある種のプロ意識もばっちりできつつあるように思う。不思議なことにこれらの「能力」は、20年も勤務していたはずの「怪舎」よりも、それ以前に働いていた数々のバイト先で身についたセンスや素養が発揮されているケースが多い。
不安定と暗中模索の日々の中にあったことが、遠く時を隔てて今の安定と持続力を作り出すという不思議。人間、どんなときにもどんなことにも、腐らず、いい加減にならず、地道にやっていくことにやがていつかは価値が現れるということなのだろう。
「どうせもらえない」が正解のような「年金」も、だからと言って不払いの怠慢を決め込んでいれば、それがどういう顛末になることか。時代や事情はくるくる変わる。毎月15600円、マジメに払いますえ〜(-_-;)フーッ。
走行距離 184.0  km