あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
2/01 日 4.7   今日は適当な散歩程度だったが
ちょうど1年前の今日は、比叡山に登っていた…そしてふと気づく☆(゜o゜)ハッ!
「ある事実」に見舞われそれを「苦悩」と感じたとき、どうするか。方法として、ひとつには『逃避』がある。「逃げるが勝ち」とも言われる通り、問題内容によってはそれが正しいことがあるのも事実だ。しかし今ひとつには、その事実に身を置いたまま、それを『人生の修行』であるととらえて正視し、解決の糸口を手繰りながら生き続けるというあり方がある。1年前の今日、わたしは比叡の薬師チャンの前で"ことばにして"これをひらめいた。一方を実現させられない以上、「どちらが良いか/良かったか」の判別は安易にすべきではないが、苦悩というものは正しく対峙することで、じぶんの中の「より深みと重さのある人生のエッセンス」として昇華されていることが多いように思う。こうなると、苦悩と感じられることは「無いに越したことはない」どころか、人生にとって望んで欲するべきテーマであるようにすら思えてくるのである。「よりよく生きる」ことの表現を、物質的・外見的な美しさ豊かさに求めたり、立派なことを語りながら実は都合の良いように楽な方へと向けているだけの人間や、言い訳やウソで逃げ回るような人間が得をしているように思えるこのご時世ではあるが、『結果・報いは、かたちを変えど同じ次元から抜け出せていない問題として、自身に再び必ず巡り来たる』。…ホレ、オメ〜ノコトダヨ!(-_-)…イミフメイナヒトリゴト。
『逃避か修行か』…ことばにすればごくフツ〜でアッタリマエのことであるが、実体験上、真に深刻にこのような現実に出会うことは実はなかなかないものだ。それがわが身にあるということに幸福を感じること、すなわち『Welcome trouble,Welcome stranger.』の精神こそが大切であるのかもしれない。その成果が現れるまでの心的葛藤はただならぬ醜態であり煩悶である。しかし敢えて、これは「人生にとって一度や二度は必要な作業である」ということを呈したい。すべてを越えたとき、恥ずべき姿を見せたであろう経緯のひとつひとつは、自他共に確信と説得力のある『訓』として自らに培われているであろう。…「強い者ほど細やかな風に泣き、みっともないくらいの恥を誇りに思うものだ」…by長渕のごとく。
…ということを、1年後のじぶんが言える「体験」を経過していたことに、本日ふと気がついたのである。んでもって…の上の、今の学問だ。そりゃ〜字面理論を追ってるだけよりも成果は出るわな。ヨシヨシ(~o~)
2/02 月 11.0   知恩院さんあたりウロウロ程度。
ぶだはっ図書館に行こうとするも、本日休館日(明日も!)…よって、『家学問』の時間を充実させるべくコースを短くしたのであった。
今日ぶだはっ図書館に行けば、おそらく道元ちゃんの『典座教訓』や和辻の『沙門道元』を借りていただろう…これを、ライバル法然ちゃんがひがんで念力で阻止したか?てなことを考えて、「法然ちゃん、さては邪魔したねぇ?」と聞いてみたが、もちろん法然ちゃんはそんな愚問に答えるわけがない。知恩院さんは今日も相変わらずの威厳と静寂を保っていた(~_~;)
…てなわけで、今日は法然ちゃんのオボシメシでしっかり新課題に取り組むことになったわけだが(?)、そのテーマたるやコッテコテに法然ちゃんの思想とは反対の『唯識思想』であったりする。法然ちゃん、どっちにしてもザンネンデシタ〜ヽ(~o~)/
『浄土教学』は、選択するかどうするか、考え中っ!でぇす。
2/03 火 11.0   知恩院さんあたりウロウロ程度。
12歳で「いいお嫁さんになるヨ!」と言われ、
20・30代には愛すべきオヤジたちに「魅力あるねぇ」と微笑まれ、
しかし…40になったらタダの『デッケツ』!になったのであった。あぁ諸行無常★(-_-;)
そうだ、確かにワタクシのオシリはデカイ!小学生の頃一時期、「ホッテントット」という人種民族の姿が流行ったころは、イジメのネタになりゃぁしないかとビクビクしたこともあったが、それを除いてはむしろこの特徴は良い評価に傾いていたのであった。しかし、「オンナとゆ〜より一個の人間」としての価値が問われる(平たく言えばバアサンになる)年頃に差し掛かると、それはただ物理的にデカイだけのものになるのである。魅力どころかバスや電車の座席を人より多く分捕るような社会的迷惑に及ぶ懸念もある。今後、ヒップの縮小化はワタクシの重要なダイエットポイントになりそうである(-_-;)
そういえば、過去唯一「おまえ、おしり小さくなったんじゃないの?」と、オヤジたちにシンパイ(もしくは悲観)されたのは、富士登山競走に向けてバリバリ山RUNを敢行していた頃のことだ。それに倣って霊山護国の坂をモモあげRUNスタイルでやってみた。なるほど、これはおしりのキンニクにズンズン響く、いい感じだ。
今後は、このわずかな登坂を有効活用していこう。少なくとも、おしりがジャマでテレビが見えないなんて〜ことは言わせないくらいにはなりたい…かなぁ?(~o~;)
2/04 水 17.0   京都シルバーコース☆
課題1、中観思想クリア記念にカットバシ!o(~o~)O…シカシ、マダマダツヅキガ…
映画のCMで、「あきらめなければ夢はかなう!」とか「元気をもらった!」とかゆ〜てる女子。その夢を断念した結果になった人間のことばには、はっきり言って説得力がないどころか空しさが広がる。
いつまでもそれを言わせる方の愚かさと、言わされるほうの哀れを感じる。
これもまた、固執迷妄の中にある言語表現の輪廻と報いなる哉(-_-;)。
「あきらめる」とは元来、仏教における『如実知見・諦観=明らかに見る』が転じて起こったことばである。今ある事実がどうであるか、なにができてできないか、ということを正しく見よ、ということを示したものである。夢や希望は現実の積み重ねを前提にするものであるから、実は「あきらめなければ夢はかなう」のではなく、「あきらめれば夢はかなう」というほうが究極的には正しいのであるとわたしは思う。等身大に自己を見つめながら着実に進んだ一歩一歩は、目指した相対評価上の達成をみなくても、たどり着いた「その場所」がじぶんのみた夢であったという満足感を得ることができるのである。
2003年富士登山競走、ゴールまであと10メートル近くを残す地点で、あと数秒のカウントダウンが始まった。しかしその場所で、ウデをブンブン振り上げながら「あきらめるな!頑張れ!」を連呼するイッキさんの姿に出会った。このときのことばは「あきらめない」であったのだが、わたしには「今精一杯頑張っている自分を捨てるな!」すなわち「あきらめろ」が真意にある「あきらめるな」として聞こえたのである。事実上、時間内ゴールは不可能な位置にあったあのとき確かに、カウントダウンの声によってわたしの動きは一瞬緩んだ。本来出せる力を弱めたのである。それを復元させる力があの「あきらめるな!」にはあったのだ。相対評価上「完走」にはならない登頂ではあったが、わたしには最後まで全力を尽くした納得のいく「あきらめの上での完走」となった。この充実感は、相対評価上に語られた「夢」なんぞ、いとも簡単に修正転換できる力があるのである。(この一件は、ことばの表裏一体性と深みを実感する出来事として貴重なものでもあった。)
一般に「あきらめる」という語は良くない方向性をもったイメージで扱われている。よって、「ことば酔いの人々」はこれを否定した「あきらめない」を乱用し、影響されまくっているのであるが、やみくもな「あきらめない」が先走りした結末にはろくなことがない(ローン地獄・ストーカーなんぞは典型的事例)ということ、翻って「あきらめる」ことの真意をもっとしっかり観察考慮していく必要性があるだろう。かのCMの女子も、"その時"をあきらめた結果オリンピックに出て、"この時"をあきらめた結果今があるのであるといえば、むしろ人生全体がすがすがしく感じられるではないか。
まず第一に見るべきは、相対評価を排除したじぶん自身。着実な「あきらめ」の蓄積の成果として、「あきらめない結果」であったようなじぶんが現出する…遠く、突拍子もない将来を模索する前に、現実逃避やごまかしのない今のじぶんというものをしっかり把握し、表現する毎日でありたい。
2/05 木 20.0   @京都シルバーコース☆
Aお買い物RUN(ジャスコ)
3980円の靴(オシャレ版)は高いか、安いか?…わたしには高い。しかしRUNシューズでこの値段だとシンパイになる。
この10年のRUN生活で、わたしの金銭感覚的価値観は、決定的に「オンナモード」から乖離されてしまったよ〜だ(~_~;)
別にたいした問題とも思わないが。
苦節1ヶ月?…ようやくK様が自主的に「このジャージパンツはもうアカン!」とヨレヨレズボンを廃棄する決意をした。よって、その新規入れ替え品を購入のため、本日は余計にRUNしたわけである。
本当は、全体のコースを西側に向ければいいのだが、ど〜ゆ〜わけか、わたしの「気」は西方面と相性が悪いようで、桂川や渡月橋を頭にイメージしてもさっぱり意欲がわかないのである。
嵐山や嵯峨野は好きなんだけど、おそらくそこに至るまでのコースがイマイチ(車や人が多く、空気も良くない気がする)のが原因なんだろうと思う。
2/06 金 20.0   学問買い物ごちゃ混ぜコース。鴨川・堀川丸太町・千本・西大路・ジャスコ・五条グルリン。
それにしても、オトコモノのシャツのサイズってのはめんどくせぇ〜ぃ★(-_-;)
結局ビンゴな品が見つからず、実質上「京都カラマワリコース」になってしまった★(-_-;)
『摂大乗論』を3年ぶりに再借出。他、『典座教訓』『沙門道元』『カント』『禅と生命科学』
かなり、先週の映画『禅』に影響されているよ〜だ(~_~;)
ところで…「洋服の青山」では、Yシャツを3枚10,500円で売っている。たくさん欲しい時にはありがたいだけで気がつかないのだが、1枚だけでいいとなると5400円ということになってしまう。「2枚買うと1枚プレゼントみたいなもんですわ♪」と店員は気楽なことを言っているが、これって厳密にいうと「公正取引ナントカ」に引っかからないか?店側としては、いかに客単価を上げようかという苦肉の策なんだろうが、この定常的価格差はなんだか納得イカナイんである。
そのへん、バーゲンの一定期間以外ガンとして値を下げないイセタンあたりのほうが気分的にはスッキリするかもしれないのぅ…(~_~;)
2/07 土 0.0   えいえい!ヘイヘイ!永平寺にゆく!ついでに東尋坊もみた!えちぜん鉄道に「顧客対応」のモデルケースをみる!
観光における「日本三大ガックシ」は、札幌の時計台・土佐のはりまや橋・そしてあろうことかこの京都の京都タワーであるという(~_~;)。しかし、ワタクシにとっては東尋坊もそのひとつ、って〜か、京都タワーと入れ替えたい気がする「迫力のなさ」であった。
TVや写真で見せられてきた「スリコミ」は、実物以上のイメージをつくっていたことを実感(~_~;)…シカシ、マタイキタイ。
なぜか今の今までほったらかしだった「泣きムシ道元ちゃん」について、先週の映画鑑賞以来爆発的な興味がワクワク。既に3冊ほど関係書籍を読んでみたが、なんでここに気を回さなかったのかっていうほどスゴイことがアレコレある。んでもって、今日はその本拠地である永平寺まで出かけたのであったが、やはりここには知恩院さんや金剛峰寺、両本願寺や身延とはちょっと違う「気」が流れていたのである(-_-)ウ〜ン、イイカンジ!
しかしひとつ失敗…雪で毎年痛んでしまう瓦の補修をお助けくださいという寄付金は一口1000円とゆ〜良心価格(しかもかなりのおまけつき!)…なのを知ったのは帰路についてからだった。あぁ、とんだ忘れ物をしてしまった、と他のところでは決して思わないことを後悔している。よって、そのうち、「ヘイヘイ!永平寺の瓦を助けましょうウルトラ大会」を決行しようと決めたのである!o(~o~)Oヘイヘイ!
2/08 日 19.1   妙見さんめぐり…昨日は禅宗、今日は日蓮宗。…その気になれば毎日、日本宗教まみれになれるこの京都はありがたい土地である!
うちに帰れば『典座教訓』『摂大乗論』『アビダルマ』…ワタクシの場合、インド宗教界にまでまみれることができる。なんともありがたい環境である!(~o~)
京都市内のとある中学生との交流(もちろん淫交・援交なんてことはナイ)で、彼らが「京都の空気はキタナイ」と嘆いていることを知った。たびびとだったときには気がつかなかったが、日常暮らしてみると確かにそのようなポイントは多い。
今日はそのひとつと思しき「福王子」界隈をウロウロした。結果、深夜にゴホゴホ★…そういやわたしは、排気ガスには弱いタイプなのだということを久々に思い出した。
徳光は、人情あふれる涙もろいアナウンサーであるというのがおおかたの認識であるが、これをあろうことか実の息子が、過去の家庭内における彼の実情をネタに覆して笑いを取っている。父親に対するウラミツラミを公開処刑でもしているつもりか。『成功者を持ち上げておいて、突き落とす』マスコミのパターンには、面白おかしいほどマッチしているケースだけにその登用も頻繁になっているようであるが、なにがどうあっても「そんな父親」のおかげで今稼いでいるような自分があることをまったく無視した「七光りの悪用」、愚行であり、それを許す上に『涙の魔術師』とまでタイトルをつけるような浅はかなマスコミには改めて怒りを感じる。(本業が中途半端でショット的なギャグしか出せないようなお笑い芸人を司会におくのもイイカゲンやめてもらいたい。)
せめて、「こんな親だったけど、じぶんはこうなった」くらいになった人間を採用して話を聞かせて欲しいものだ。親へのうらみつらみをもつことなど、決して珍しい話ではない。こどもというのは、そんな怒りや不満を軸に成長するものでもある。怒り・不満をそのままに垂れ流しているのは、まだまだ精神的自立が達成されていない証拠であり、すなわち父親を客観的に語る資格はない。
2/09 月 20.0   祝☆2課題完成!
千本直行ぶだはっ行き+京都ゴールデンハーフ♪
(下長者に1000円のゲタ発見!( ..)φメモメモ)
『モモクリ3年カキ8年』と同様、仏教学研究にも『唯識3年倶舎8年』っちゅ〜のがある。
要は、そのくらい難しいですよ!っていうオドシみたいなもんなのだが、そのうちの唯識の基礎的なところが一応終わったんであるヽ(~o~)/
2005年10月以来、現在までちょうど3年…といっても学問書とにらめっこしていたわけじゃない…どころか煩悩まみれの空白期間であったのだが、どちらにしてもここにたどり着くための修行としての価値があったようにも思えるのである(-_-)。
数珠持ったり経文ブツブツ言ったり、難解な教説用語に接近することだけが仏教的行為なのではない。イヤというほど現実にまみれて苦悶葛藤し、それでもそれでもと生きる姿そのものがホトケへの道なのである。
ここ数ヶ月、課題に則して研究したあれこれは、宗教・仏教におけるなんたるかが、結局はと〜っても大きなところで繋がっているのだとゆ〜ことを、改めて感動的に実感できるものであった。広範には、キリスト教・回教・アミニズムあたりの世界の宗教も究極のところでは同じ価値があるし、日本の鎌倉戦士ニチレンジャーも、ホーネンちゃん、エロエロ坊主親鸞ちゃん、泣きムシ道元ちゃんあたりをビシバシ攻撃しまくっているような場合ではないのである。
今日はそんな連関を思い浮かべながらRUNしたのであるが、途中、これまで10年近く、どうしても結論できなかった『イッチャンテカ』『無種姓(五姓分別)』が、どういう人のことを言っているのかがひらめいてしまったんである!(゜o゜)ハッ!
『イッチャンテカ』『無種姓(五姓分別)』とは、仏教にあっても「救われねぇヤツ」のことを言ってるのだが、今までは、それが何であるかわからなかったばかりに、じぶんの気に入らないやつとかムカツクやつを当てはめていた…が、違うんだなぁ…ハンセイ(-_-;)
では誰が?どういう人が?…ムフフ、かなり意外で厄介な存在ですぞぉ〜、これは(~v~;)。
…とまぁ、RUNしていると動いているのは手足の筋肉のはずなのに、わたしの場合は本にかじりついているより早く効率的に『ええこと』をひらめいちゃう確率が高い。不思議だ。…既に脳も筋肉化していて、連動的に冴えわたるようになっているとか?…マサカ!(゜o゜;)アワワワ…
2/10 火 11.0   知恩院さんあたりウロウロ程度。
勉強しすぎてアタマが筋肉痛、もしくは風邪?(-_-;)…チョイ頭痛ギミで知恩院さんまでにて。しかしバハリンで治るものまでホ〜ネンちゃんにはお願いしない。
昨夜まとめて見たドラマ『警官の血』、戦争モノや歴史モノではないが非常に深みのある作品であった。清張サマや勉サマにも匹敵する秀作☆
出演者に、渡辺謙サマの息子と思しきソックリ青年!(゜o゜)。謙サマの特徴をピックアップしてデフォルメしたような風貌に驚いていたが、これは「平岳大」とゆ〜、まったくの無関係別人であることが判明。イヤ〜、だまされた!(~_~;)
「ひとつの宗教しか知らない者は、宗教を知らない」(マクス・ミューラー)とは、けだし名言であるが、このことは他のあらゆるジャンルにもいえることであって(【注】)、例えば「1冊の道元しか知らない者は、道元を知らない」なんてところにも当てはまるんである(~_~;)。
『道元』のひととなりを説いた文献を一気に3冊読んで比較すると、その作者によって資料の解釈の仕方、歴史の読み方等々によって様々な『道元ちゃん像』が出来上がっていることに驚嘆する。著者が一堂に介したらバトルになるんじゃないかってくらい相違ポイントがあったりする。それらはそれぞれ、他者がある側面からみた『道元ちゃん』に過ぎない、『山折道元』であり、『和辻道元』であり、『高崎道元』なのである。さらにその中の1冊に触れただけなんていうのは、『孫引き道元』レベルなんである。いかにもそれが真実であるかのような扱いはいけない。何事も、客観的・一般知識的・雑談的に語るには十分なことでも、あ〜だこ〜だと我がもの顔で語りたい人間の多いこの時代には、要注意なポイントであろうと思う。
他者が語ること(賞賛することまたは排斥すること)が、すなわちその『本体・本人』の真実を深層まで正しく顕現させているものではないのだ。この姿勢は学問上にだけ必要なことではない。「誰かがそういっているから」「世間ではそうだから」「過去はこうだったから」等々の固定観念を排し、誠実に取り扱っていかなければ失敗する、その最たる存在・テーマは、『自分自身が見る自分自身』である。
【注】これは、「ひとつの仕事しか知らない者は仕事というものを知らない」とか、「ひとりのオンナしか知らない者はオンナを知らない(マァ、ヤラシイ!)」とか、イイカゲンな生き方を言い訳する連中が語るところにまで波及される話ではない。「ひとつ・ひとり」であっても、それを与えられている『自分自身』に真摯で地道な歩みがあれば、むしろアッチャコッチャ適当に手を出しては投げ出すよりはるかにまともに「世界を知る」ことに通ずるものがある。
2/11 水 0.0   昨日のアタマの筋肉痛ないしは風邪?への用心のため、お休み。
明日からの「暗記3days」に備えて、今日は別分野の読書をガシガシした。
わたしは現在、宗教・仏教というものをあくまで学問的、すなわち客観的見地に立って研究しようと志す一学生(または女子大生、キャピッ♪)である。…ということを重々前提に置いても、泣きムシ道元ちゃんの説くあれこれには、これまで触れた諸宗派開祖の教義よりはるかにズシンズシン響くものがあって困っちゃうぅぅ…ってか、オドロキと喜びにあふれているんであるo(>_<)o
偶然といえば偶然、必然といえば必然、奇跡といえば奇跡のようなタイミングで、なぜこのような教義に『今』出会ったのか、という不思議をつくづく感じている。典座教訓、随問記、まさに今のわたしには「タマシイで読める」内容である。付言すれば、道元ちゃんの教えは、『徹底的な孤独』『生まれてすみません』の心情的経過を越えた体験者には非常に入り込みやすいものがあると思う。
しかし、このようなことは宗教的あるいは歴史的人物や出来事に関してだけに言えることではない。今現実の人生におけるあらゆる人・物事との出会いにおいて、「いつ・どのような状況で縁を結ぶか」によって、同じ対象がまったく違う評価になることは多々あるものである。これは一般に、『運が良い/悪い』と表現されるところであるが、良い・悪いのいずれも、究極的には【今のじぶん】を作り上げた要素であることには違いない。そこを基軸にすべてを振り返れば、運が悪かったと思えたことが長い時間を経過してみると実は良い結果を導いていたという事実の発見に至ることもあるものである。刹那的・局所的な悩み苦しみに堕ちきることなく、どこかに光を求めつつ歩む先に、「わが道」は必ず拓ける。
2/12 木 17.0   京都シルバーコース☆
予想問題回答原稿の暗記、6題のうち半分クリア!
ヽ(~o~)/ペース良い進行に気を良くして外に飛び出す!
しかし、今日はいつも携帯する『雲中くん(MP3またはラジオ)』を持っていかなかった。長いRUN生活においてこんなことは数回しかない。『雲中くん』を忘れたときにはRUNそのものを中止したくらいだ。それを今日持っていかなかった理由は、いうまでもなく『RUN中も暗誦』に徹するためである!(-_-)ブツブツブツ…ある程度声に出していたので、今日すれ違った面々にはさぞかし「あぶねぇヤツ」と思われたであろう。でもそんなの関係ねぇ!なんである(ー_ー)!!。
途中、出町の亀石を渡ったところで、『えき』と書いたケッタイな看板を立てて、駅員風の格好をしたおネェチャンが、何かの撮影をしていた。どうやらエキストラを求めていたようで、わたしを含む複数の通行者に「こんにちはぁ〜」と愛想よく声をかけていたが、『おみやさん』ほかの『京都サスペンスモノ』ならともかく、どう見てもお笑いまたはバラエティ系の番組にしか思えず、ヘタに顔を出していい笑いものになるのもじぶんがカワイソウなのでそのまま通過した。もっとも、「駅の待合」の雰囲気を撮りたかったらしい相手からしても、RUNスタイルのオバチャンなんぞに参加されては困るだけだったかもしれないが(~o~;)。ミユキ、ジョユウヘノミチハ、マダマダトオイ…ナンチャッテ!
2/13 金 17.0   京都シルバーコース☆
本当は、残り3題をアタマに入れてからの「暗誦RUN」にしたかったのだが、午後から嵐じゃとゆ〜ので、やむなく先日分の「復唱RUN」となった(~_~;)
最近、浄土宗関係施設がこぞって改築やら増築やらの工事にかかっている。ぶだはっの正門とか中庭とか二条キャンパス進出とか知恩院さん周辺とか。まさか、ここのところたびたび報じられる「奇跡的万馬券」を当ててるのは、浄土宗のボ〜サンたちなのか?…ソンナテイドジャ、マカナエナイワナ…(~_~;)
東山学園が近々浄土宗資団の仲間入りを果たすことと関係はあるのかないのか…下世話な話題ではあるが、宗教とお金の関係には、非常に興味があるんである!(~o~)
本日も、『雲中くん』ナシでのRUN。2日連続とはますますもって前代未聞である。しかし最近、MP3の画面が割れてしまう等の劣化が進んでいることもあり、いかに長持ちさせるかとゆ〜ことを考えるとこんな休みを与えるのもまたよし、であろう(~o~)。
しかし、アタマの中をグルグルさせたのは昨日と同じ文章であったのでいささか飽きてしまった。とゆ〜より、あまりにやりすぎて暗誦を越えて推敲状態に入ってしまったのである。先日記述したとおり、RUN中に冴え渡る脳がひらめく文章やことばは、PCの前で作り出した時の草稿よりも数段まとまりや美しさのあるものを放出する。んがっ、微に入り細に入り拘り出すと、未完の課題に着手できないので適当なところで収めておこうと思う。
帰路、まつもとの前で、ジイチャンやオマワリサマがティッシュ配りをしていたので、ラッキー♪とばかりに接近したのだが、スルーされてしまった(゜o゜)ガビーン!ナナナナンデェ?…「出会い系・風俗バイト系」のテッシュに関しては、無視されるようになって久しいわたしであるが、スーパーの前で配るものにまで見放されるとは何事ぞ!…とガックシした。
しかし、よくよく見ればそれは『振り込めサギにご注意を』というキャンペーンによるもので、配付対象は「いかにも」なオバちゃん、オバアちゃんであることが判明した。そう、むしろスルーされずに渡されることのほうが問題であったモノだったのである。少なくとも、まだわたしは「そこまで」いってない存在であることに安心しなければならない(-o-)ホッ。「無料でテッシュをもらう」には、若からず老いてもおらず…なビミョ〜なお年頃、損なお年頃なのね〜ん♪(フツウにもらえるのは、京都駅前に出かけたときのパチンコとサラ金のテッシュくらいだ…(-_-;)ドチラモ、ホンタイニハマッタクヨウナシ。)
2/14 土 20.0   京都ゴールデンコース☆
今日は、時間を追うごとに晴れるとのことだったので、6題完全制覇後「暗誦RUN」に出たo(~o~)O
2月半ばとゆ〜のに、春のような暖かさ!しかし、半袖で大汗かいているのはわたしだけだった(~_~;)…特異体質?
調子ノリノリで、三千院・比叡山までブッ飛ばしたい心境であったが、グッとこらえて…(~_~;)
『雲中くん』ナシ3日目。やってみると、これもまたアリかな?という感じになってきた。
BGMナシで、本日もRUN中お見事にブツブツ言いまくった。一般に、『ながらナントカ』は効率的でないといわれるが、それだけに集中できない状況での訓練とゆ〜のも現実的には必要なものである。寝転んで暗誦、ビール・チュウハイ片手に暗誦、『必殺仕事人』の粗筋とヒガシの姿を追いながら暗誦、RUNしながら暗誦…逆に、これで試験中の雑音くらいには影響されない集中力が完成するのである!しかし、「RUNしながら暗誦」ばかりでは、本番で「走らないと思い出せねぇっ!」てなことにもなりかねないので、快調極まりない今日のRUNであったが適当な距離で収めておいたんである。これより先は、「女教師風」「アナウンサー風」「警官・自衛隊風」「僧侶説法風」「クラブのホステス風」「昼下がりの人妻風」「アニメキャラ風」等々のシチュエーションを脳内に想定しながら、声色や動きを変えての暗誦を試すことにする!(~o~)
ヤマが外れれば試験対策としてはまったく意味のない時間であるが、やっていることそのものは「試験なんかとは別にこれを聞いてちょ〜だい!」とお願いしたいような論文(あくまで自画自賛)。実に楽しい。そしてじぶんのためになる時間である。
2/15 日 0.0   試験本番!またもや問題的中!完全再生に成功!ヽ(~o~)/
よりにもよって、一番最後まで悪戦苦闘した…にも関わらず、「よっしゃ!かかってきやがれっ!」と思えるまでの大作となった原稿にビンゴして、やりがいマンマンであったv(~o~)v
しかし、次回はそうもいかない感じなのである…(-_-;)ウ〜ン、タイヘンダ!
ぶだはっまで、最終暗誦ウォーク。
5.5キロを1時間半タップリンプリンにかけて移動した分は、とてもじゃないがカウントに含められぬ★(-_-)
オンナとゆ〜のは、「いつまでもカワイイ」とか「少女(こども)っぽい」なんてなことを言われると『ウッフフン♪』なんて喜んでしまうものだが、オトコとゆ〜のはそのような言われ方をすることに屈辱感を覚えるもののようである…とゆ〜のは、過去のあらゆる世代の男性とのおつきあいで感じてきたことである。(…って、深い関係を想像されては困る。単なる社会的交際上でわかったことだ!)
しかし、「ひとは図星を突かれると怒るものだ」との公式もある通り、ひとは認めたくない事実の指摘に怒るものである。そんなところから見ても、実態としてはオンナよりオトコの方が「いつまでも単純でピュアな子供心」をもち続けているものではないだろうか。
ここのところ、新しくなった携帯とそれで撮影した画像を加工する機器を入手したK様が、それをいじって喜んでいる姿をちょくちょく見ていると、まるでとなりのセイ坊がアンパンマンをいじってニコニコしているのと同じような「かわいらしさ」っていうか、「喜びの同感」を持つのである。
そんな風に考えると、RUNにおいても「レースに熱くなる」「競争に執念を燃やす」「距離の数字に拘る」なんていう傾向の強い男子に対して、年齢を問わず「うふふ、かっわい〜い♪」なんて視点も出来上がるのである。
思うに、「父性」とゆ〜ものは後天的、即ち自分が夫あるいは父親という立場が与えられてから、世間の「かくあるべし論」によって養成実践されていく傾向が強いのに対し、女性の「母性」というのはオンナとして先天的な能力である。これが正しく展開されたときには、かなり心の広いものの考え方ができるのかもしれない。そんな意味で「少年K様」の部分にも大切に関わって生きたいとは思うが、「たばこの不完全消火」「電気のつけっぱなし」「食べこぼし」は厳重に対処させていただきますぞ(-_-;)!少年といっても、実際はオッサン、放置を許すことでボケるのが心配だ。…「ハハ」ハヤサシ、シカシツヨシ!
2/16 月 20.0   次回試験課題は、問題からして五里霧中の範囲の広さの展開になる!うぉぉ〜タイヘンだ!RUNしてるバヤイではないくらいヤバイ!と昨夜は思ったが、やってみるとあ〜らフシギ、勝手に想定した6題中5.5題スイスイ完成してしまったヽ(~o~)/
よって、本日も快調に京都ゴールデンコースを疾走したんである♪ウヒャヒャ〜☆
夕方の時間、1分1秒を惜しんで急ぎたい気持ちはわかりますが、ちょっとばかり場所を離れた(ズレた)スキに、ひとのカゴ(カート)を押しのけてまでレジ精算の順番を割り込もうとするってのはいかがなもんでございましょ〜か?
わたしの記憶では、このひとは過去にも同じことをやっていたのと同じ顔だった。こういう人間を、わたしは憚りなく『くそばばぁ』と呼ばせていただきたいのでございます。
怒りMAXに達すれば、ワタクシは「ヤクザバージョン」の顔を持つオンナ、やるときはやらせてもらいます。ホトケの顔も三度まで…おめぇ、リーチかかったぞっ!(ー_ー)!!
距離・コースが同じRUNを毎日やっていると、その日その日の「コンディション」がいかにちがうものであるかとゆ〜ことが如実に把握できてヨイものである。最近は、行く先に会社が・仕事がという精神的拘束もないので、余計に「じぶんに素直な感覚」が得られているのだと思う。同じ20キロという距離が、冗談じゃねぇ!てないくらいに長く感じたり、「まぁまぁいい感じでしょ」てな風になったり、まったくもってモノ足りない感じであったり…おかしな機械や周囲の相対性に惑わされずに「じぶんでじぶんをつかむ」ことのできる、安あがりでありながら確実な健康のバロメータなんである。
で、ここ数日の調子はというと、はっきり言って20キロくらいじゃ余力バリバリ、おまけにRUN後にトマトがむしょうに食べたくなるとゆ〜、かつての『絶好調あるくだっしゅ』のテンションを呈しているのである。なにがどうしてこうなっているのかは不明だが、まぁ喜ぶべきコンディションなのであろうと思う。あるくだっしゅなら『もっとかっ飛ぶぜい!』とばかりに、この夕闇の中をまだ走り回っているんだろうが、「みゆき」さんは違う。せっせとまつもとに急ぎ、買ってはみたもののあまりに色の悪いカツオのお刺身を返品するような「安全への直感」を働かせながら、家事労働にいそしむのである。「あるくだっしゅ」と「みゆきさん」の違いは、内在するエネルギーをRUNのみに向けるかそうでないかに大きなポイントがあるのだ!
2/17 火 21.0   京都ゴールデンコース☆+α
時折、雪やコンコ&風ビュービューではあったが、道元ちゃん入滅の地が気になって寄り道した(~o~;)
お供の『雲中くん』復活。しょっぱなからチャゲアスの『僕はこの目でウソをつく』がかかり本日はやや爆走体制☆鴨川では、天候のせいか人気のまばらなのをいいことに、熱唱もーどに突入!
飛鳥はその歌唱において、「ハ行」が「カ行」に発音されることが多いが、あれは単なる『かっこつけ』だったのか、それとも「部分的言語障害」なのか…同じく「ラ行」の発音が不明瞭であるとのプロからの指摘を受け、かつ「手術」を「シュジュチュ」、「車掌さん」を「シャショウシャン」と発音してしまう特性を持つわたしは、彼を同類相憐れむと扱って良いのか否か気になったことがあったが依然未解決の謎のままである。
真相やいかに?(-_-;)
『三度のメシより量子力学がスキ』とゆ〜変人、もとい、秀才が友人にいる。飲みの席でも何気ないきっかけから持論を展開するような取り憑きように、コイツの力はホンモノ(自分を威厳付けする目的でコリクツを並べているわけではない)ということを皆が認めていた。そんな彼を前に、理系なんぞウゲェ〜(>_<)!だったわたしは、そりゃサカナをたくさん獲れるかどうかの『漁師力学』だんべ!と、ふざけた翻訳をし、彼のことばのハシハシに「あ、ソレ!」「ドッコイショ!」「どした、ど〜した!」と、ソーラン節のおはやしさながらに まったく不謹慎な対応をしてきたのである。
しかし、そのすべてに馬耳東風だったわけではない。わかる限りで多少は記憶に残っている要点はある。その程度でわたしには十分だと思っていた。…ところが、あろうことかその「漁師力学」ジャナイ、「量子力学」で論じられているところと、現在学問中の『仏教・唯識思想』に類似性が感じられる点がバリバリ出てきてしまったんである!(゜o゜)ウヘェ…!
今更ながら、もう少し真剣にヤツのお説を拝聴し、蓄積しておくんだった…なんて思ったりする。
今そのとき関係ないと感じることでも、「与えられた良い情報・ご縁・環境」というものは、真摯な態度で取り入れよう・生かそうとする姿勢が大切なことなんだなぁと思う。このような反省に学び、今ここにある「良いもの・良い人間関係・良い環境」とゆ〜ものについては、その価値を十分自覚しながら大事に過ごしていきたいと思うものである(-_-)。
2/18 水 20.0   京都ゴールデンコース☆
課題征服記念!暑くて熱いRUN!しかしなんなんだ、この最近のパッションは!o(~o~;)O
奇人変人と思われよ〜がなんだろ〜が、暑いものは暑い!よって今日も半袖RUNであった。
特に上半身について顕著な傾向なのであるが、衣服で熱がこもると、皮膚が「窒息しそうでございマ〜ス!」と訴えてくるかのように苦しくなるのだ。脱げば勢いペースもテンションも即効で復活する。わたしゃ両性類か?これでも人間だとばかり思っていたのだが…(-_-;)
どっちかってぇと…というより、かなり、きわめて、わたしは神社より寺院のほうがスキだ。左遷されたまま恨みドロドロで死んでいった道真さんを鎮めることが当初の目的だった建物が、学問の神様大宰府天満宮になったり、戦争で捕らえた人の耳だの鼻だのを削いでおみやげにするような秀吉が神様になって祭られてる豊国さんとか、神社とゆ〜のは、その謂れにどうにもウサンくさいものが多いように思われてしゃぁないのである。
だから、RUNコース上にある平安神宮なんぞ鳥居をくぐるだけで十分で、わざわざ中まで入ってお参りなんて気にはゼンゼンならない。そもそもあれは、明治時代のナントカ博覧会のパビリオンってのがはじまりだって言うじゃないの(-_-;)…TDLのスペースマウンテンや、大阪の太陽の塔に手を合わせているのと同じってところ?(~o~;)
かなり前のことだが、子供の合格祈願だかなんだかで、神殿の前では神妙なポーズでお参りしてたやつが、終わったとたん境内にツバを吐き捨てるとゆ〜、あるまじき行為に及んだ現場を見たことがある(だいたい、そこが神社であろうとなかろうと、公のスペースにツバを吐くなんぞというのは最低のマナー違反行為だが)。にも関わらず、その子供はどうやら合格したらしいということも合わせて知っている。この事実を「信仰的見地」から考えると、平安神宮にはよほど心の広い寛容な神様がお住まいであらせられるか、まったくゼンゼン何もねぇ!かのどちらかであろうとの推測が成り立つのである。
…とゆ〜ようなことで、あんまり「神社系」には興味関心のない心理的前提に立つわたしであるが、このたび「日本における神仏習合について」というテーマにてミニ論文を作成する運命に見舞われた★(-_-;)アチャー。あれこれ突き詰めていくと、「神様ってスゲー!」なんて変貌を遂げることになっちゃうんだろうか?学問内容そのものより、それによってじぶんにどのような変化が起こるのか?みたいなところに興味シンシンなんである!(~o~)
【注】いまひとつの見方に、そういう建物や像などを、あくまで「宗教が真に求めるところの、非日常的な聖なる存在の象徴・偶像」として捉えると、それが単なる赤いペンキ塗りのゲートだろうが、紅白のおめでたい色彩の建物であろうが、「そこに何かを感じ、自己を正しく生きるための何かのきっかけを得る」ことに繋がる人にとっては、非常に貴重な物体であるということになる。したがって、そのような人に対しても「ありゃなんでもない建物だわさ!」等々の否定に及ぶ意図はない。
2/19 木 20.0   京都ゴールデンコース☆
道中、「佐川急便」「井筒八ツ橋(夕子)」「おたべ(おたべちゃん)」の順に、業務用車が走っているのを目撃した!(゜o゜)。その後を追いかけられるくらいの徐行ペースだったので、最後にピッタリくっついてしばらく走った。これをイラスト的に表現すると、「みゆきワールド」にとってはヒジョ〜に珍しく、かつ奇跡的な組み合わせとなるのである。
あなウレシや!…この間のニヤニヤヘラヘラした表情の理由は、道行く人々には理解不能なものであるが、そんなこたぁどうでもいい。本日は100ラッキー!な気分である。
ところで、清水坂を下ってそのまままっすぐ行くと、それは自然に「松原通」へとつながる。はて、清水坂は清水坂とゆ〜名称を与えられてはいるが、正式には松原通となるのであろ〜か?さんざん走っておきながら今さらそんな「?」が浮かんだ。
昔々は、この松原通が「五条通」であって、京都大路小路を語るには欠かせない主要道路であったらしい。とすると、この通りは現在の清水坂も含めて、かなり遠方の人にも知られるような「清水寺への参道」としての位置づけがあったのではないか?松原通と清水坂は、昔は同じ「五条通」の呼称であったのか、それとも坂は坂として「清水坂」と別に命名されていたのか?ど〜なんだろう?
そんなことを考えながら、松原通にそれを髣髴とさせる神社や鳥居や石碑などがないかな?とチラチラ見ながら走ったが、今日のところは発見できなかった。明日も発見できないかもしれないが(~_~;)
ところでところで、鴨川には、少なくとも多摩川(川崎側)よりははるかに公衆トイレ数が多く恵まれていた環境にある。よほどの事態でもない限り、少し我慢して頑張れば、誰に何を言われることなく用をたすことができるのである。
にもかかわらず、ど〜してこんなに多いのよ?とゆ〜くらい見かけるのが、「立ちション」というやつである。過保護チックな室内犬が歩き、こどもが寝転んであそび、若いカップルが寄りかかってブチュッ!なんてやるような、清潔さとロマンチックさが求められる場所に、よくもそんなものが撒き散らせるものだと嘆かわしい限りである!まぁ、それぞれ事情があるのかもしれないし、そういう状況のひとに遭遇する確率が高いだけなのかもしれないが、もう少し「人目を意識した」感じでなさってほしいものである。今日なんぞ、壁に向かわず川岸方面に「モロダシ」のスタイルで行為に及ぶオヤジがいて、マジでびっくらこいてしまった。人間、「羞恥心」は最も退化の早い感情であるといわれるが、いくらなんでも…である。かくいうわたしも、今更そんなモノのひとつやふたつ見せ付けられたところで大げさに騒いで驚いたり、顔を赤くするほどの年じゃぁないが、やはり本来あり得ない条件下での対面には、心が硬直するような緊張を覚えるものである(チカンに遭った時、身動きが取れなくなるのと同じね)。
昨日は、自分を「両生類か?」と心配したが、こういう事態に出っくわしたときに、それが視界に入らないほど目線の低い小動物でもないし、ネコのように飛び掛ってじゃれつくようなこともしないところを見ると、やはりわたしは「人間」であるようである。しかも、いちおうは、こうした物体との不本意な出会いに、本能的な危機感をもつ女性でもあるようである。あぁ、安心した(~。~;)。
ただ走っているだけで、これだけのことに出会い、考えることがある。ほんとに、京都ってところは面白いまちだ。
2/20 金 20.0   京都ゴールデンコース☆
たとえウッカリでも、目を合わせてしまったら挨拶ぐらいしよ〜じゃありませんか、おねえちゃん!ヤバイものでも見たかのように視線をそらしちゃうなんて、カワイイお顔がダイナシよ〜ん!…って、相手からしたら実際わたしは「ヤバイもの」に見えるのかもしれないが…(本日も半袖RUN全開バリバリ!)
ほぼ水没した出町の亀石を、勇敢にも渡っているオッサンがいた。その後を、イヌが追っていったのだが、ご主人様の後ろにいるときはソワソワドキドキ…って感じで渡っていたのに、ご主人様を追い越したとたんに元気一杯、見て見て〜!とばかりに失敗も恐れずはしゃいでピョンピョン渡りきったのであった。
一部始終を眺めていて、これは人間の親子関係にも当てはまる…そんな風景を見たような気がした。おとなの目の届かないところでのこどもゆ〜のは、ひとりで何かをやろうとしても緊張や不安でしかたないものだ。しかし、親の目が届いている時は安心すると同時に、じぶんをもっと注目してもらおうと、はしゃいでみせたりするものだ。また、もっと長期的に見ても、親の後をついて回っているうちは、親のやることを懸命になぞりながらついていくが、親を追い越す年齢や力がつくと、今度は親を誘導するかのように前に出て歩くものである。…う〜ん、なるほど!と、イヌの学習と行動に、人間様のわたしは学習したのであった(~_~;)。
そんなこんなで、見事川を渡り切ったイヌに、思わず拍手を送ってしまったのだが、それに反応してニヤニヤしていたのは、オッサンのほうだった。…イヤ、スゴイノハ、アンタジャナイッテ(-_-;)
人間、失敗やトラブルに見舞われると、「あぁ、あのときあんなことをやらなければ…」という風に感じるものだ。いわゆる「後悔」とゆ〜やつである。それはたいていが、対象をはっきりさせた大きな出来事や現象・行為(思う・行く・言う・扱う・やる・やめるetc.)に対して表現されるものであるが、実はもっと小さく細かいことに、結果的に「後悔」につながる原因ってものがあるように思う。それは、「一挙一投足」といわれるような、歩く、何かを取る…なんてところのひじょうに細かい次元のことである。
右足から歩き出すか、左側から歩き出すかによって、その先にある踏まなくて良いものを踏んでしまったり、あるいは踏むべきものを踏み外したりする。右手で取れば良いものを左手で取ったばかりにバランスを崩す(その逆もアリ)。そのとき息を吸っていたか吐いていたかで状況が変わることもあるだろう。その人に起こるあらゆる出来事は、そんな一瞬一瞬の積み重ねの結果として現れるものであると考えると、直接には何のかかわりもないように思えることが、実は細かく入り混じって影響を及ぼしているものであるということができるのである。
今、ゴロゴロと寝転んで遊んでいることと、数日後誰かとケンカしてイライラすることが、何のかかわりもなく起こったこととは言い切れない。このように考えると、呼吸をすること、動くこと、静止すること等々の、最も基本的でありながら普段は無意識にやっているようなことへの配慮や緊張、考慮といったもの、それを自覚する力というのが妙な重要性を帯びてくるのである。
「人間の不幸・災いを呼ぶ根源は何であるか?」ということを、深く追求しだすと、究極には「そこに"じぶん"がいるからだ」という結論に至らざるを得ない。でも、それを言っちゃぁオシマイヨ、とゆ〜ことで、その"じぶん"が何であるか、どうあるべきかというテーマに戻って観察する作業が生まれてくる。道元ちゃんオススメのザゼンには、「数息観」とゆ〜のがあって、じぶんのしている「息を見つめる」てな、一見しょ〜もない作業が説かれているのであるが、上記のようなところに根拠を求めると、それもまたアリだわな!と納得できるんである。また、動作にいちいちコウルサイ作法があることも納得!なんである。…しかし、わたしは体がカタイ。座禅のポーズすら難しいのだ。したがって、座ることではなくRUNによって、「じぶんの息を観察している」。以前、この日記のメンバー表の、どなたか(古株順検索ではじめのほうだった)のコメントに、「走禅一如」との名言が記されていたが、まったくもってその通りである!との思いに満たされる日々である。
2/21 土 17.0   妙見さんめぐり…善行院、本満寺
コースは違っても全開バリバリ!o(~o~)O
2/22 日 24.5   妙見さんめぐり…道入寺
ある歴史を支え、あるいは作り上げたものの権威や威厳というものが根源となって、こんにちに続く京都の文化風土を作っているとゆ〜のはわかる。しかし、間違っちゃいけないのは、それはあくまで「"そのとき"に(何らかの事由・価値観で)すごかった」ということであって、現在そこを後継したり維持したりする人までもが同じようにスゴイわけではないってゆ〜ことだ(ー_ー)!!
そんな威厳と権威を維持したいならむしろ、熟成された品格っちゅ〜もんを出してもらいたい!昔、皇室からの出家者がいた門跡だかなんだか知らないが、往復はがきまで使って回答を依頼している参拝依頼を返信しないわ、3度行ってもいないわ、って、エ〜かげんにせい、霊験寺!
以上、「仏の顔も3度まで」を超えると、ヤクザバージョンになると2/16予告したとおりの実例を記してみました★(-_-;)
市民マラソン・駅伝ともに、この京都がその発祥の地であるという。京都のまちの道は、あくまで「走るという行為に関して言えば」、お世辞にも走りやすいとは思えないとゆ〜のが本音であるが(旧所在地神奈川等に比べての感触)、かなり大きな大会の舞台になっていることが多いのは、そんな歴史的経緯のせいだろうか。休日にはしばしばそんな大会の勇姿の風景に遭遇するのである。
今日は、車イスマラソン(駅伝)なるものが開催されていた。全国各地からの選手が集う一大イベントである。御所付近、烏丸丸太町あたりで見かけた彼らは、おそらく後続順位のグループであったと思う。足の不自由の分を、車椅子という道具と、手で補って移動する。疲れた様子で手を止め惰性で走行する選手、こまめに手を動かし進んでいく選手…様々であったが、わたしが見たのは彼らの人生のわずか数分の流れに過ぎない。つまり、皆一様に頑張って生きてきた人生の一片を垣間見ただけのことである。
休んでも良い、疲れた表情を見せても良い、早い・遅いも関係ない。わたしには、この舞台に走る姿を見せていることそのものよりも、これまでの長きに渡って、彼らが通常では考えられない大きなものを越えてきたであろうことに思いをいたし、同じように頑張る人間としての敬意と賞賛の意を表したいのである。よくある「元気をもらった」等々に表現される感想もここには該当しないだろう(こういう表現には、厳密には差別意識があることを留意されたい)。また、応援の中には、走りゆく彼らの姿をただ「競争・勝負」として捉え、面白がっているだけのように見える軽薄さのある声援も散見されたが、そういう人間には競馬やドッグレースでも楽しんでもらいたいものだ。
…「フツウに走る」ことがアタリマエになっている一般のマラソン大会では、単にタイムの早い遅いであるとか、あるいは「○○なのに」が付された形で登場する人がクローズアップされる傾向が強すぎるような感のある発展を遂げているが、そのことが、本来、誰にとってもの基本である「動く・進む」という行為、またそこから「もっと/もう少し」の努力の中に生きる人すべてに学ぶべき場なのであるいう見方・見え方を失っているように思われることは反省すべきであろう…と、今日の風景を通じて、ふと思った。
2/23 月 20.0   京都ゴールデンコース☆
海外のともだちは、ブッダさんとアーナンダ君だけだとばかり思っていたが…
なんと最近、ヨーロッパにも友達ができたヽ(~o~)/…その名を、「カントちゃん」という。カトチャンぺッではない。これまで20年近く、何度接近を試みても、やつのゆ〜ことはまったくもって意味不明で、信仰もとりあえずわたしには関係なさそうなキリスト教徒であったこともあって、こいつとはおそらく一生気が合わないだろうな〜なんて諦めていたのであったが、なんと・なぜかここにいたって、カントちゃんの書いた『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『単なる理性の限界内の宗教』等々の著作のイワンとしていることがズルズル〜っと読み取れるようになってしまったんである!イヤッホ〜♪v(~o~)v
このようなことは、デキの良い学生であれば、20歳そこそこで理解し、40にもなれば教授のイスを争うネタにすらなっているレベルのことであるから、それが今更わかったところでなんということではない。つまりは、「わかったこと」が、権威や収入に繋がるということはありえないのである。しかし!だからこその価値というものがそこにある。この時期、このタイミング、そしてこの現在の自分が読み取ったからこそ、カントちゃんがきちんと向き合ってくれるんである。…と心底思えることが、書いてあったのだよ。フフフノフ…(~v~)
これまで、こと学問に関しては、まったく無理のない、そのままそのときの自分のレベルに呼応したように新しい書物やひらめきのヒントが現れている。実に恵まれているこれらの出会いを大切にしたいと思うのである。
2/24 火 0.0   雨だ…しかも、明日はもっと雨らしい…★(-_-;)
かつて、「バックシャン」とゆ〜ことばがあった。後姿の美しい女性が、前に立ってみたらたいしたことなかった、だまされた…という場合に使われた、オトコ側の非常にシッツレイなことばであった。
えてして、「おめぇには言われたかねぇよ!」とゆ〜ようなダサイ男に限って、このようなくだらない俗語を乱発していたものだ…。
…と、そんなことを思い出したのは、下校途中の女子小学生の姿を後から追って歩いていたときのことだった。まったく最近の小学生は成長が早いとゆ〜かなんとゆ〜か、わたしと同じかもっと大きな身長の子がランドセルを背負って歩いているのである…(-_-;)
ちなみに、小5〜6のころのわたしは、身長153センチをもって「この調子で大オンナになったらどうしよう」と、親が真剣に心配するほどであったのだ。今じゃこんなのフツ〜どころか、小さいほうかもしれない。背後から身長だけで判断すれば、これぞ「バックシャン」ならぬ「バック小学生」ではないかっ!(~o~;)
…わたしは、ここでハタ(゜o゜)!とひらめいた。このサギ的外見を有効利用して、わたしもまちなかでランドセルを背負い、アニメキャラの洋服やグッズを持って歩けば、昨今世間を騒がせている「少女誘拐・拉致・ワイセツ」などの卑劣な犯罪防止に役立つ「おとり捜査官」になれないであろ〜か?いくら憧れても既に正規の選択基準外になっている「おまわりさん」の仕事に関わり、じぶんが役立つチャーンス!ではないか!…オ〜、グッド゙アイディ〜ア♪ヽ(~o~)/
変質者が、「おねぇちゃん、ちょっと」と声をかけたらすかさず「なぁぁぁに?」とニヤ〜リ微笑んで振り返り、ギョウテンさせる。やや腰の抜けた逃走くらいなら、追いつくくらいのスピードはあるだろうし、たとえ亀岡や福知山まで逃げようとも、ひたすら追いまくる持久力もある!(海に飛び込まれたらろくに泳げないからNGだけど)……オ〜、グッジョ〜ブ♪ヽ(~o~)/
こんな企画書を、京都府警にもっていったらどうだろうか?少なくとも、おまわりさんとお話できるチャ〜ンス!だし、まかり間違っても事情聴取か何かで警察署内見学のチャ〜ンス!もしかしたら、留置所のご飯試食会もできちゃうかもしれないチャ〜ンス!
…って、RUNしないと、ついくだらないことを考えてしまう…しても考えてるけど!テヘッ(~o~;)ヾ
2/25 水 21.0   京都ゴールデンコース☆
しかし東山三条付近で回り道(おまわりさん♪に止められたので☆)
「得意技の道迷い」にて、なぜか四条まで行ってしまったが、知恩院さんまで意地と根性で(?)引き返し軌道修正したのであった。
ちなみに、おまわりさんが制止したのは、東山三条から知恩院さんに向かう区間。
ここは、東山の各観光ポイントを直結で結ぶコース。朝は雨だわ、夕方は通行止めだわで、本日の京都観光者にはフンアダリケッタリの受難の日であったことでせう(-_-;)
それにしても、おまわりさんがわざわざ出動して交通規制をかけているにも関わらず、その理由が「作業」(しかもモゴモゴしながら)のひとことであるとゆ〜のはどうにも怪しかった…本当のところ、いったい何があったのだろ〜か?(-_-;)???…ちょうど青蓮院さんあたりに青いクレーン車みたいのが見えたけどそれ以上のことはわからなかった…。
朝は大雨だったが午後から晴れるとゆ〜予報に期待しつつ、本日まずは「にはち尼さん(マイHPコンテンツ)」のところで1時間半ほど遊ぶ。その後、カントちゃんとしばし会話(文献研究)。やっぱしイイ人と友達になったなぁと感動しつつ、カントの次はナント(南都六宗)のことを末木先生からジックリ学ぶ…この間、ほぼ移動なし。好きでやっていることとはいえ、今までこんな風に静止状態での集中をもって何かに取り組んだことはあったかいな?といゆ〜ほどのスゴサである。いやいやしかし、RUNも買い物も…と思い起こし、外に出てみれば…
@となりのセイ坊ママにばったり。なんと、セイ坊一家が27日で大分に引っ越してしまうとゆ〜ショッキングなことを聞かされたo(>_<)o…年齢の近いセイ坊ママはもちろんのこと、なんともかわゆいセイ坊、リョウちゃんの成長を今後も見られるものと楽しみにしていただけに、ちょっとガックシした。
Aリカマンでやっているアルミ缶回収、バラでもっていくとポイントがつかなくなるとゆ〜ショッキングなことを聞かされたo(>_<)oケース買いしたときの箱に詰めていけば従来通りということなのでまぁいいが、その理由とゆ〜のが、「アルミ缶回収の価格暴落のため」だという。本音でよろしいといえばそれまでだが、「企業の社会的責任」だの「環境保護」だの「リサイクルの精神」とかゆ〜ておきながら結局それは大義名分、その裏は、理念理想の本質とは関係ない「利益=金銭」に関するところで云々することが先に立っているじゃないか…。「わかっちゃいるけど」なんだけど、なんだかガックシした。こんなアカラサマな対応が続々当然のこととなって、教育福祉にまで「しかたないじゃん!」が及ばなければいいのだが(-_-;)。
2/26 木 23.0   京都ゴールデンコース☆+お東さん、イセタン、ウメコージ経由にて。
ここのところ数日、鴨川「出町の亀石」や、荒神橋直近の「とうふ石・クッキー石(一部、亀)」が、水を浴びずに完全に渡ること不可能な状態に水没している…五条地点での水量も、かなり多い。確かに、ここのところ雨が続いてはいたが、これは数年前、大学の授業が中止になるほどの騒ぎであった「台風」のときの鴨川の風景とほぼ同じように思える…いったい、上流の山のほうでは、どれほどの雨が降ったのだろう…?
このコースをRUNするときは毎度、知恩院さんの門前(またはみゆき堂という名の阿弥陀堂)でお参りするのであるが、それをドコカから見ていたらしい外国人観光客に、茶碗坂を下りたあたりで声をかけられた。最初、おっとまた来たか、「みゆき風めちゃくちゃイングリッシュ」の出番が!(~_~;)と、身構えたのであるが、相手は、もしかするとヘタな日本人より「あるべき日本人」らしい美しい日本語をもって、アナタが先ほど行っていた参拝の手の動きを教えていただきたいのデスガ…と、拝みながら頼んできたのである。(ちなみに、最初の一言の中に、「あまりに美しかったので」というものが含まれていたのだが、それは容姿に対するものではなく、ア・ク・マ・デ、手の動き、ダ・ケ、だけに対するものであったようだ…(~_~;)チョットザンネン?)
いや、これは別に知恩院さん(浄土宗)の流儀に則ってどうこうじゃなく、じぶんが勝手に考えた阿弥陀さまに対するオリジナルの拝み方なんですよぉ(~。~;)…と言ってみたのだが、それでもよろしいのデス…だって。んなわけで、こうしてこうこう、これはこんな気持ちを表現してるんです、てなところを教えたのだが、そしたらその一部について、「では、ソートー宗やリンザイ宗では、この部分は要らないのデスネ?」と、するどいツッコミを受けてギョ〜テンした。ご指摘は確かにごもっともなものであり、いったいコヤツは何者じゃ?と、チョイ怖くなってしまった…(>_<;)
このやりとりのせいで、外国人に「知恩院ではこんな風に」「曹洞宗や臨済宗ではここは省きます」てなことが広まったらど〜しよ〜?ってのは、余計な心配であろうが、万一広まっちゃったとしても、そんなものはあくまで形式なのでかまへん、かまへん、だろう。
それにしても、今回の外国人がお見事な日本語を操ってくれてよかったとつくづく思う。これだけのことをわたしのイングリッシュ?で説明したら、不本意に曲解された挙句、京都のあちこちで「五体投地」するヘンな外国人が増えていたかもしれないのだ(~_~;)…そして、「泣き虫道元ちゃん」に、ここ最近少なからず接近していたことが、日本仏教における「ふたつのかたち」を自信をもって的確に伝えることに役立った。まさにナイスタイミング!v(~o~)v…何気なく過ごす一瞬一瞬が、どこかで不思議なつながりをもって生かされる…細々グチャグチャあるようでも、嗚呼素晴らしき哉、わが人生☆(T_T)
2/27 金 20.0   京都ゴールデンコース☆
う〜ん、スッキリしない…天気もそうなんであるが…★(-_-;)
大学へ提出するミニ論文とゆ〜のは、与えられた課題に対する成果報告書のような性質がある。すなわちそこには、キーワードとなる用語等が暗に設定されており、それに対する理解とその説明が適切になされているか、ということが評価の重要ポイントのひとつになるのである。それを失念していたわけではないのだが、あまりに長年ゴチャゴチャ考えたあとの作成には油断があったようだ。初めてわかった時点では「なるほど、そうか!これは大切なところだ!」等々の感触を持っても、逆にそれが必須基本の概念であるばかりに、あってあたりまえ・わかってあたりまえの前提をもって扱われ過ぎるために、一言述べてさらっと流してしまうような失敗を犯す。
化学の論文で、「空気は水素と酸素の化合物である」と言わなければならないところを単に「空気」と言い切り、他の説明に移ってしまうようなものだ(>_<)…ここにきて、立て続けに出しているミニ論文であるが、仏教系科目に関しては今回はじめての『B』をくらってしまった★(>_<)。数十件提出のうちたったの一つ、別に要再提出でも落第でもない、合格ではあるのだが、なんともドヨヨ〜ンとなってしまう。指摘コメントを見たとたん、それがなぜ『A』にならなかったのか即断できるようなものだっただけに、余計に惜しい!(>_<)
今からでも再度京都ゴールデンコースの北大路から西に折れて千本に向かい、先生を捕まえて不足部分を口頭試問してもらい、「なんとかAにしてちょ〜だい!」とお願いしたくなるような気分だ。RUN距離も二倍に膨れ上がってちょうどヨイ!…でも、やらない(って〜か、できないし、やってもムリ。)
「学問とは、虚心坦懐・真摯な姿勢が求められるものだ」とは、常々心に戒めていることではあるが、今後は更にもっと厳しく心得なければならない。ひいては、日常の暮らしのあらゆることについて、「あたりまえ」「ふつう」と思っていることについて油断することなく、その意味や意義について緊張感をもって接する日々でなければならないことを反省した。論文評価のB判定は、過ぎ去ってみればただの話のネタに過ぎないが、人生における『B判定(まぁいいか)』はそうそう笑って済ませる話になることばかりではないからだ。
【注】わたくしは決して『完璧主義』ではないし、誰に比べても負けない評価や身分を目指したいとゆ〜てるわけではない。今のじぶんに、必要なこと・与えられたことを過不足なく活かし一瞬ごとを過ごせているかどうかが重要だという基準をもっているだけだ。むずかしいけど、頑張っている。
2/28 土 23.0   京都ゴールデンコース☆+α
と〜じの薬師ちゃんにちょっとがあったので追加したのねん♪
往復共に堀川五条の「めんどくっせー歩道橋」を利用したのだが、今日はここで、おまわりさんの「ねずみとり(原付対象)」ガ」実施されていたよ〜だ。
行きに「こんにちは!」と挨拶をかわしたおまわりさんに、帰りは「ご苦労さんです!」とコメントをいたいた!(~o~)…いや〜、おまわりさんに「ご苦労さま」なんて言っていただくよ〜なことしてわけじゃぁないのに…なんて思うと、キャピキャピ!感が倍増なんであ〜る!(*^。^*)
走行距離 437.3  km