あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上56歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
1/01 火 10.0   「1年の計は元旦にあり」とかで…
ちょこっと、やってみました。
ふふふ。やってみりゃ〜こんなもんよ!ってか!ヽ(~o~)/
…と、年明け早々ヘラズグチなスタート。しかし、やはりゼイゼイしないこのシンパイ機能はシンパイだ(-_-;)。
1/02 水 0.0   ここに「500」とか書いたらスゴイけど…
「走った」のは新幹線くんなので虚偽表示はできましぇん!
普段にも増して、お正月とゆ〜のは、くっだらないTV番組ばっかりやっているものだが、なんだかんだと見てしまう(-_-;)…自分勝手な憶測だが「ビッグダディ」とかゆ〜番組、そのうち「ヤラセ」が発覚するのではないか?と思われるシーンが散見され、「感動を与えたい」「勇気を与えたい」などという先方の思惑とはウラハラに、新年早々相も変わらずの「TVのいやらしさ」が思い知らされた。…いずれにしても、作り手、演じ手共に「プロ意識」がなさ過ぎる。大晦日の紅白だって、あの香西かおりサマの名曲「無言坂」のバックで、その曲のTPOをもわきまえず終始バックで「アイドルスマイル」を振りまきまくった「つんく♂チルドレン」のアホさ加減をはじめとして、今年も「見方によってはおもしろくてしょ〜がない」番組が目白押しになるのだろう…(~_~;)
…かつては「TBSのレコ大」との調整に忙しかったNHKも、今年はなんと「あのテレ東」との演歌歌手出演時間の帳尻合わせに必死だったようで…いっしょうけんめいがんばっていても、もう紅白は「終わりかな」と思った。
1/03 木 0.0   おそうじその他
年末年始における、新幹線くん車中での、あんじぇらんの「ヒラメキ的名言」は、今後の(少なくとも今年1年の)あり方の指標となるであろう…(~o~)
何をひらめいたか?については黙秘。こういうことを思いつくとすぐことばにするひとは多いが、「本当にわかったこと」は、簡単に言語表現できるものではないと思う。逐一カッコヨク公開できる人々がつくづくうらやましいものだ。
人間、「何事もなく・変わらずにいることが幸福である」と思うべき部分と、「何事かを起こし・変わることが幸福である」部分が混在する。えてしてひとというもの、本質的に見つめ直さなければならないところに前者を当てはめ、どうでもいいじゃねぇーか?というところに後者を求める。…がゆえに、いつまでも「流転」のままダラダラと時を流していくのだ。
今年のあんじぇらんは、そのような物事に一切まみれることなく、清々と過ごしたい。
年末年始にかけての、「これまでのあんじぇらんのあり方」を客観的に総括・激励してくれるような数々のメールに多謝…って、ここで言っても意味ないが、感謝の気持ちは今後の「あんじぇらんのありかた」で報恩していこうと思う。
1/04 金 0.0   ナースあんじぇらん稼働中o(~o~)O
K様、インフルエンザ(A型)とかでバタンキュ〜★(>_<)
K様にくっついていった病院(過保護ママみたい?)で「家庭画報」を久々に見た。料理・ファッション・文化等々、あらゆるジャンルにおいて「格が違う」情報と教養の提供がありがたい。既に「会計」に呼び出されたタイミングでチラ見しかできなかったので、図書館でバックナンバーを予約した。「興味深い記事がございましたので、購入いたしましたのよ、ホホホ…」というまでにはいかない「庶民派」である。
1/05 土 0.0   案の定うつったらしい…(~_~;)
と、思ったら、インフルエンザケンサは陰性だった。
薬の処方もなく、「ほほほ〜っ、あんじぇらんってジョウブなのね〜♪」と思ったら、夕方からドカ〜ン★
「かぜ系」症状にて病院にかかるなんぞ10年ぶりかというナツカシサ!この間に時代はずいぶん進化したようで、ハナの奥をコチョコチョするくらいでインフルエンザの種類までわかっちゃうほどになったらしい(゜o゜;)スゴッ!
待合で「家庭画報」に再会できる!とウキウキしてたのに、昨日あったはずの「1月号」が消えていた…(>_<。)
1/06 日 0.0   ゲホゲホ★(>_<)
1/07 月 0.0   ゴホゴホ★(>_<)
再度、ビョーインに行ったら、今度はインフルエンザになっていた…。
おととい「消えた!」と思っていた「家庭画報1月号」は、同じ待合のとなりのテーブルにおいてあった…(~v~)
今回、インフルエンザと正式に診断を受けて、話題のタミフルまでもらった。これまでにもこんな感じの症状はあったが、ヘイヘイホーで会社に行ってたり、家でボケボケ寝ていたりでそのうち治っていたような…なんという荒っぽい治療をしていたのだろう!と今さらアゼンとするのだ★(゜o゜;)
1/08 火 0.0   まぁこんな感じでしょう…という具合なので
阪急にのって大阪に行ってみた♪
時速100キロを平気で出しちゃう関西の電車ってスリリング!最前列に立って運転手さん気分を満喫☆
「大阪へ」というと、RUNかJRしか思いつかなかったけど、今日はハンキューに乗ってみた。「天神スジ六丁目」とゆ〜駅を「テンロク」とか略してアナウンスされるので、迷ってしまった。正確に言うのが面倒なら、正式名称を「テンロク」にしてもらわないと、よそさんにはコマリモノである。行きも帰りも最前列を陣取ってきた。ハンキュー電車は、運転席の窓が大きくて、眺めバツグン♪気に入った!
途中でハトが運転席に向かって激突してきたのを目撃してしまった。時速107キロで正面衝突では即死だろうと思うが、ハトの世界にも投身自殺みたいなことがあるのだろうか?と思うほどのすごい偶然だった。
1/09 水 0.0   たぶんいい感じでしょう…という具合なので
今日は用事のある七条に行ってみよう。もちろん「歩き」で。
日ごろの物言いから見て、さぞかしご立派なご人格なのだろうと思ってみたりしていたのだが、所詮同じ穴の狢の仲間意識に過ぎなかったようだ。あんじぇらんも人のことをいえたほど上品ではないが、不特定多数を対象にしては、とてもあそこまでの気色の悪いノリはできない。イッチャンテカはやはり存在するらしい。あわれなことだ。
1/10 木 0.0   ごまかすのはイケナイ(-_-;)
なんだかんだいってサエテナイ。
このサイトを開く気にもならないのがその証拠だ。
1/11 金 0.0   やっぱし不調だ(-_-;)
しかし、完全回復の兆しと共に変化が現れる
このサイトを開く気にもならないし、ぶろぐもやる気がないのは、体調のせいばかりでもない気がしてきた。
1/12 土 0.0   それそれ〜。(~_~;)
すごい変化だ。
名前まで変えようとしているとはすごいことだ。ただいま手続き申請中☆
1/13 日 9.7   京都3大聖地コース?
うめきちカー塗装班作業完了
…のあとは、車輪製造部が猛然とハリキリだした!資材調達のためのヒャッキン訪問で、長いこと危険を知りながらやむなく使用してきたひび割れグラスの代わりを購入できた。ヨシヨシ(~o~)
1/14 月 15.6   みてら・せんにゅうじにせんにゅう。
左欄の漢字訳…「御寺泉涌寺に潜入」。
「七福神のご利益」とポピュラーな触れ込みで人をひきつけ、実は寺院塔中9件が平等に儲けちゃおう!という作戦にマンマとひっかかる。っていうか、ひっかかってあげた。ヨリニモヨッテ、アイゼン明王と楊貴妃のご加護にあずかれるとは、わたくしの新年の決意を真っ向から押しつぶすような神様が現れなすったもんだ(-_-;)
1/15 火 0.0   ナゼかおやすみ。
しかし、ぶろぐ熱は復活、めでたい。
やれるとき、やろうすることを、やるだけだ。必要なものは、時間・きっかけ・健康。…くっだらない評価、外野のコソコソ、思惑アリの画策、それがどんだけ〜?なものであったか、わかっているが徹底的に無視する。そこでまとまっていればいいひとはそれでいい。申し訳ないが、今年のわたしゃ〜先に行くよ。
1/16 水 10.2   2年前に、「2年後は復活する」と聞いていたが…
今年は秋田内陸は開催されるのか?第5のふるさとの動きが気になる…(-_-;)
【本日付けにて】HNを変更しました!
あるくだっしゅ改めあんじぇらん、これまた改めついに本名で登場どすo(~o~)O
今年の「成人式報道」は、まじめ系の風景が中心であった。昨年までの「荒れた成人式」が消え去ったわけではないだろうに、今年の成人は「まとも・まじめ」ばっかりに見えてしまうのが「マスコミ報道操作」の怖いところだ。逆に言えば、去年までだって、今年TVに出てきたような青年はたくさんいただろうに、彼らには「生まれた年が悪かった」というしかないことだ(-_-;)。
親を猟奇的殺人する少年を報じる一方で、「青年による短歌」を流し、「日本の青年もまだまだ捨てたもんじゃない」と短絡的に評価した「みの」の浅はかさにゲンナリする。「これまでいくつの仮面をかぶってきたのだろう。本当のわたしはどれだろう。」なんていう短歌をうたうような若者・それを採用することが「健全」なのだろうか。単純な「若者モラトリアムの感性」をかっこいい言葉遣いで纏め上げることでヨシとする風潮はまだまだ続くのだろうか。実はこのような「感性の放置」こそ、顕在化する凶悪事件と同じ要素を包含していることに気づかずに。
「かっこいい」の裏では、「あからさまで汚らしい極み」な文章を、しかも感情をリアルかつストレートにぶつける効果の高い関西弁で表現するような小説が、こともあろうに「この日本」の文学賞の候補になっている。「賞」をとれば、それは「忌むべきこと」から「斬新」「芸術」という評価に変わり、模倣的表現が蔓延することになるだろう。気色悪い。いったい、「日本人の心棒」はどこに行ったのだろう。誰も彼も、「ことばにならないことばのつかいかた」を忘れ去ってしまっているようだ。なげかわしいこと、この上なし。
1/17 木 10.5   京都3大聖地コース?
朝RUNのスタートは、かつての通勤RUNと同じ時間帯なのにも関わらず、いつまでも暗いままの「西日本の朝」。今まではスタートと同時くらいに直射日光の顔面攻撃を受けていたのに…この差が、「毎日特別なRUN」をしている気分をいまだに脱しきれない要因である★(-_-;)
昨夜、K様が快眠にひたっているのを観察した。左側を下に横向きになって、えびのように丸くなっているスタイルであった。いつになく妙におとなしくスヤスヤしているということは、そのポーズこそK様にとって「ベストスリーピングスタイル」なのだろうと思った。ひそかに背面から重なって屈伸の程度などを実体験してみた(端から見ればマヌケなテスト風景だろう)のだが、確かになかなかラクチンであった。ただし、ワタクシ場合はそのポーズを反転させて右側を下にしたほうが快適であるようだ。
ちなみに、「ブッダ終焉の図」として有名な『釈迦涅槃図』は、右側面を下に横向きに寝ているのがお約束になっている。実はこれ、「内臓の動きに負担をかけない理想型」として、死んだときではなく「生きているとき」に有効なおやすみスタイルとして当時から推奨されていた姿なんである(インドヨーガの一種でもあると思う。おまけにいうと、「北枕」も生きているときに有効な「自然の向き」なんだそうだ。)。実際、ブッダは腸の病気で苦しみながら死んでいったというエピソードを持っていて、「楽なかたちで寝ていてそのままご臨終」になったスタイルとして解釈するのが正しいのである☆…となると、これにカギっていえば、ワタクシのほうがブッダに近い!…てなことを言うつもりはないが、K様より健康的な寝姿を好んでいることになるわけだ。
が、実際は「そのひとがいちばん快適に感じる格好で寝る」のがいちばんイイに決まっているわけで、K様が左下で寝ていてもクルクル向きを変えようとして「オリャ〜!(-"-)」とムダに怒られるようなことがないようにしておこうと思う。寝姿いろいろ、まさに「向き・不向き」のあるテーマなのである(-_-)。
1/18 金 11.1   久々の清水坂決戦!
スイスイホイホイでまた楽勝ヽ(~o~)/…マダ、フジニイッテモ、イケルンジャナイカ?…イカナイケド。
今日はいつもの茶碗坂ではなく、大谷廟の坂道を下った復路コースであったのだが、考えてみればこれはお初だった。明らかに「南無阿弥陀仏」のお寺の墓地と思しきエリアに、「南妙法蓮華経」のお墓が建ち並んでいるのはなんともフッシギ〜な気がしたのだが…いいもの見ちゃった、なRUNコースだった。
…つまりは結局のところ、「南無妙法蓮華経」も「南無阿弥陀仏」も、「その場所」に到着するための「パスポート」のようなもので、いずれも正しく行使すれば問題のない「ツール」であると考えれば、この混在状態もカンタンに理解できようというところか。国交(規律の遵守や共通理解)さえあれば、どこの国のパスポートでも安全に堂々と日本に入国できるようなものだ。
しかし、「南無妙法蓮華経の日蓮」は、それ以外の信仰をすべて厳しく排斥し、がゆえに恐るべき弾圧を受けた。本質的には宗教にあってはならない「戦い」を敢えて展開した。…その排斥の根拠は何か、原典はなにか、理論はどのように構成されているか、学問的に非常に興味の深い分野である。「仏教・宗教考察」のネタやきっかけには事欠かない京都のまち。「RUNと学問と脳内哲学思考」が同時に楽しめる、ワタクシにとっては絶好のまちなんである(~o~)。
1/19 土 54.0   都七福神めぐり
これは、泉涌寺とは違って走りガイあり!のスケール☆
「50キロ以上の旅RUN」は今までもさんざん堪能してきたのであるが、かつて神奈川の地で楽しんできたそれは、「ゴールにすごいもの・おいしいもの」があって、それをひそかな目標にせっせと道中を楽しむ…というコースがたくさん取れたのに対し、この京都では、ゴールがどうこうというより「その途中にあれこれ」がある場合が多い。…振り返ってみるとワタクシにとっての「すごいもの・おいしいもの」は基本的に「山の景色・海の幸」であったのだということを今さらながら痛感するが、この京都…山は10キロ程度で、逆に海は100キロ以上…という立地にあっては、同様のプランは立てにくいものだ(>_<)…しかし嘆くことなかれ、ワタクシにはもうひとつの趣味があるのだ。それは、「スタンプラリーちっくRUN」。これを基本に知恵をしぼれば、この京都にはネタがゴロンゴロン転がっている!本日の「都七福神」もしかり、そして、なにも「規定のコース」に便乗するばかりでなくてもアイデアはテンコモリンに浮かんでくるのだ!
…てなわけで、今もくろんでいるのが、「京都の小学校探検RUN」「郵便局探検RUN」「交番探検RUN」である。これまで何回か話題にしてきたが、この3つ、ウッソ〜みたいにたくさんあるのが京都の特徴。クルクルウロウロ、この3つは今年中に実現させてみたいのであ〜るヽ(~o~)/
1/20 日 15.3   珍しく、二条城をまじめチックに周回してみる。
京都市民ランナーのレッスンコースは「御所」と「二条城」のようだ。しかし、二条城の一辺は、観光客の入城や駐車などでひとが多く、マジランにはやや危険。これをドケドケ!とまでやってとばす資格も権利もないのはいうまでもないことだ。
このような場所にあっても「自分第一」なランナーもたまにいるようだが…しかしこれは、高尾山でも多摩川でも見てきたことであり、改めて驚くようなことでもなかろう…(-_-;)
元々「勢いがつきすぎて止まれない」なんていうスピードは出さないし、だいたいそんな力は持っていない。…といいつつ、本日の二条城の周回はちょっとマジめにやってみたのだが、ラッキーなことに1周通して、特に何かに足を止められるようなことなく走りとおせた。1周9分38秒ってなペースだったが、感覚的に、かつて多摩川を通勤RUNしていた時とほぼ同じような感じだった。しかしこれを何キロも荷物を背負って毎日18キロやってたんだから、あれはあれでスゴかったもんだ(~v~;)
いつもどおりゼイゼイハーハーはナシ。「ぶっ壊れたクルマ・改造車」のようなRUNをしてみたらどうなるのだろう?という興味がないでもないが、RUNにおける「みゆき、危うきに近寄らず」は、気持ちに言い聞かせるより先に「カラダ」の方が先に学んでセットしてしまったようで、「限界MAXに挑戦」する機能は発達しそうにない。…しかし、「生活の中のRUN」「人生の中のRUN」を全うするには優れた能力を備えることができたように思っている。われながらアッパレなRUNスタイルが維持できてきたように感じるものである(-_-)。
1/21 月 6.8   壬生ちゃん、西さん、お東さん
若者よ、走ってみんかい!といいたくなるような映画を見た。
「アカルイミライ」とかいう、なんだかわけのわからない映画を観た。浅野忠信や藤達也サマはキライではないので、その美しいお姿をジックリ鑑賞できてよかったが、ストーリーや人間像の描かれ方は、なんだかイヤ〜な雰囲気だった。なにを「やろう」「やってみよう」でもないままに、「なんとなく」ムードの中に身を投じながら、思うようにいかないとモノを壊したり人に暴行したり…というのが現代の若者の特徴であるというような描き方をしていたが、あれが「現代の事実」であるならば、そんなものは「豊かさのもてあまし」「わがままがセーブできない暴走」以外のなにものでもなく、明らかに数世代前の若者が持っていた「若さゆえの葛藤」「成長過程における苦悩」などとは質の違うものであると思う。…「おとな」は、あんなものを理解する・しようとする必要も価値もなく、迎合したり、勢いに翻弄されて右往左往する必要もない。「そんなやつら」を育ててしまった反省は必要であるが。
この映画のおかげで、またひとつ「こんな仕事もいいかも」な選択肢が消えた。残り10以上も、何かのきっかけで消去されていくものだろうか。ナンニモ、ノコラナカッタラ、タイヘンダケド!(>_<;)
1/22 火 0.0   おやすみ。きのうちょい風邪っぽかったので念のため…っていうのもあるけど
ワタクシにはRUNを中心とする「動」の趣味と、学問を中心とする「静」の趣味が両極端に内在する。今日はその「静」の方を楽しむのである(AM11:00〜)うひょっひょ、たのしみぃ〜♪o(~o~)O
民事再生法は会社更生法と違い、経営陣を刷新することなく営業を再開できるらしい。てなことで、例の「料亭」は、あのケチマルダシの顔に思えるお母さんが社長になって再出発するらしい…が、その記者会見で彼女「二度とこのような"失敗"を繰り返すことのないようにいたします。」とやってしまった★…誰もが「本当に反省しているようには思えない」とコメントを発しているが、その根拠をこのセリフに持っていくひとはいないようだ。しかし、この”失敗”というコトバが発せられたことこそ、この事態を本質的に反省していない最たる現象であり、重要な指摘事項になるとワタクシは思う。
あの料亭のやったことは意図的・策略的な「捏造」「サギ」である。これを「失敗」というのは、「ばれてしまった」「せめられるハメになってしまった」ことへの「主体的な後悔」でしかない。最大級の緊張をもって練り上げた挨拶をすることが要求されるような会見でこの程度のことでは、その内面的な本音は推して知るべしとされて仕方ないだろう。そもそも、本質的な反省があるのなら、「法律が許しても気持ちが許さぬ」ということで、この短期間に同じニンゲンが同じステージで同じことを再開するようなことはできないだろうと思う。要は、無神経・自分至上主義でしかないのである。似たような人間は数多くいるが、それもこれも含めて今後の展開が興味深いものである。ロクナモンジャネエ(ー_ー)!!
1/23 水 0.0   おやすみ。雨なので。
昨日判明したある事実と、新たな疑問…いったいなんじゃこりゃ〜?な現象だ。
通り1本隔てて営業している2軒の和菓子店。屋号がまったく同じなので、誰が見ても「同じお店の支店」と思う。しかし実態は、まったく違う経営体制をもつ別店舗であるらしいのだ。「本店」を主張するお店のほうには、その不快感をはっきり主張した文面がHPに登場しているくらいなのだ。にもかかわらず、それぞれで紹介されている「沿革」はまったく同じ!どっちがどっち?の争いのようである。このことで思い出したのが、「柿の種」の誕生秘話がまったく同じふたつの製菓会社が新潟に存在するということ。消費者側に実害はないから大きな問題にならないのかもしれないが、これだって明らかにどちらか一方が「虚偽表示」をしているということになるだろう。利用する側としては、知ってしまった以上あまり気分の良いものではない。こまったもんだ。
「じぶんがどういう存在か」ということを示し信頼性を高めるために、培ってきた歴史や伝統といったもの、現在持っている対外的・相対的評価、「とりまき」となっているひとやモノの権威性が利用されることは致し方ない方法であるとしても、こんな風にあからさまな矛盾を露呈させる結果になるとむしろみっともない感じがするのだが…。「長く続いたお店」の悩みのタネというのは意外なところにも存在するものだと思う。
しかし、少なくとも「一個人」のレベルにおいては、「昔こうだったから」「こんなひとが味方(仲間)にいるから」「今こんな風に評価されているから」などということに気持ちを安住させたり、おかしな主張をしたりしないことが賢明だろう。「今現在のじぶんとの対話」も満足にできないままに、「じぶんへの飾りつけ」に夢中になるあり方など、愚行中の愚行だと思う。
…「われ、ただひたすらに、"只今"なり」…これがワタクシの信条である。そのポリシーのせいか、年のせいで忘れっぽくなったのか、かつて20年もいたはずの会社での記憶や実感が、スキルともども消失しまくっている(>_<)。結局、フタをあければ何にもないただのおばちゃん★だけど、「だからこそ」もてる夢や緊張感、「怖いものナシ」の冒険心みたいなものが次々沸いてくるものなのだ。むしろ「わたしは○○なので」といえるものが何一つない今の状態をつくり上げた40年のあり方に「人生の醍醐味」を感じはじめている。サァ、ジブンヘノヒョウショウシキハ、コレカラダ!o(~o~)O
1/24 木 10.3   京都3大聖地コース?
きれいなお月さまと青空が見えていながら雪がチラチラ…どれかひとつにハッキリしてちょ!(-_-;)
救急車で搬送されてもタライマワシ…というニュースが最近やたらと頻繁に報じられているが、おそらくこれはこれまでにもずっと、ぽつぽつと起こっていた現象なのだろうと思う。それをたまたまマスコミがクローズアップして採用しているがために、いかにも「最近の医療事情が劣悪になっている!」という印象を与えてしまっているだけのことであろう。このような情報を受け取る視聴者としては、簡単に目に入り耳にすることが「すべて」であるという捉え方は間違っているということを常々キモに銘じて関わっていかなければならないところだと思う。
ところで、医者になるにはまず大学医学部を卒業することが第一の条件である。国立(今は独立行政法人か)でも私立でも、学生(の親)が負担する学費だけでなく、そこには巨額の助成金が供出されている。国の税金、みんなのお金が投入されていることになるわけだ。…つまり、医者というものは、「医者になった」のではなく「医者にしてもらった」のである。その報恩の意味からしても決して傲慢になることなく、身につけた技術や知識をしかるべくして還元する責務を負っているというべきだ。…にも関わらず、「医者」という肩書きだけをとっかかりに利用して、「ゴージャスな私生活」を自慢するだけのタレント活動を展開したり、奥さんにくっついてヘコヘコバカにされている醜態を晒すような「医者」がいるということは、本来許されてはいけない恥ずべき行為であろうとワタクシは思う。「元気になれば働ける」「こどもの命を救いたい」「親のカラダを楽にしてやりたい」等々と切実に願いながら、その直接の術を持たずに苦しむ人々があふれている現状を前に、「それができるひと」が正しく遂行するべき時間を「タダのお笑い・本人のみが潤う糧」に消費してしまっていること…それをしていること・させていることを愚かなことだと考えない世の中というのはいかがなものかと思うものである。くだらないコメントを発してギャラを取るヒマがあるなら、注射を1本でも多く打って、救うべきものを救え!(ー_ー)!!その資格を持ちながら行使しないというのは、犯罪というにも近いようなあり方ではないかと思う。「主婦が掃除をサボった」くらいのこととはレベルが違うのだ。だからワタクシは安心してたまに掃除をサボる…って、そんなことを言いたかったわけじゃないが…(~_~;)
…「個人の自由」「職業選択の自由」というものはもちろんある。しかし、「学校に行った・資格を取った」という時点で、少なくともそれを標榜する以上は、その自由は制限されているという意識は持つべきであろうと思う。「自由」とは「責任・制限」が伴って初めて成立するものだ。逆に、「責任・制限」を持つから「自由」も獲得できるものである。そのあたりの自覚なくしてただ「なまえだけ」の医者であるならば、さっさとその権利を返上し、そのために使われた諸費用を償還すべき。そして、能力や意欲を持ちながらそれを果たせない事情に悩む後継の若者に、どんどんチャンスを与えていくべきだと思う。
1/25 金 0.0   休まなくてもよかったけどおやすみになった(-_-;)
そんなことより、ウヒョヒョ♪な新発見☆o(~o~)o
…とはベツの話だが、あの「堀ちえみ」がこちらの番組では関西弁でしゃべりまくっているというのを発見!デビュー当時の「…でぇ〜す♪」」なブリッコノリが刷り込まれている関東人としては、見ているだけでおもしろい(~o~)キャハハ!
「駅探」などの路線検索ツールは、なんだかんだといじっているだけでちょっとした旅気分が味わえるので楽しい♪…そんなことで、昨日の夜適当な駅名を入れてカタカタやっていたら、おぉなんと!(゜o゜)な情報をGET!かねてより、いつか必ずやるぞ!と考えていながら京都に来てしまい、「もうナイもの」と思っていた「新潟・三条市グルッとRUN」…すなわち、「三条または東三条」駅に「みゆきちっく」にたどり着くには、相模原よりむしろこの京都を基点にしたほうがラクチンにこなせることが判明したのだ〜ヽ(~o~)/
0:02京都発、明朝8時前には到着の電車アリ!スタート〜ゴール1本で8000円程度の経費をむこうで実現するには「深夜バス」しか手段がないのだ(同じことを電車でやろうとすると乗り換えアリスギで疲労困憊必至!)…こんな風に「偶然」に旅RUNネタを発見したのは4年ほど前の「サバ街道」以来だ。あれは発見の2年後に実現した。今回もなんだかんだで2年後くらいになっちゃうのか?…んでも、「ガタゴト電車」系は最近バシバシ廃止されまくっているので、あんまりのんびり構えていられないかも…くぅ〜っ、たまらん企画じゃ!o(>v<)O”
【今アタマに思い浮かぶコース】@東三条(または三条)→長崎屋跡→一ノ町とか三之町とか→五十嵐川→一中→南四日町住宅→南小→大松商店→梅田さんの貸家と電話ボックス→金属団地→田中のボロ家→土場バス停→善久寺バス停(または自転車通学コース)→栄中→中央小、おまけに大崎山・弥彦山などつけられれば尚可。A(これはちょっとゴージャス版)三条→分水町→寺泊→船で佐渡
…もっとも数年前の「大水害」で、ずいぶんまちの様子も変わったといわれているから、ワタクシが過ごしたアバラヤなどはすべて消失していると思うが、それはそれでよい。変わっていてくれるほうがいいかもしれない。
【"せまい"のはもったいない】…年末年始の新幹線の中で「ヒライメイタ」と記述した内容は、いまだ詳細に書く気はないが、【 】内のことばは重要なキーワードである。2時間の高速移動ではあったが、その景色を眺めていて、「まだまだ知らないことの方が多すぎるじぶん」というものを再認識したのだ。わたしの楽しんでいる「旅RUN」、この行動を待ち構えている風景が、まだまだまだまだたくさんあふれかえっている現実というものを実感した。少なくともワタクシには「数字を追いかけて同じ場所をゼーハーグルグル」している余裕はナイ。これはRUNに関してのことだが、全体的な人生においてもこの考え方はじぶんにとって大切だと思ったのである。
人間、自分で勝手に決め付けた「枠組み」と「先入観」に拘束されることはよくある。しかしこれがすべての「苦」の根源であるのだ。なににおいても”せまい”ことは良くない。昨日の話にも通じるが、社会的に早い時期から成功した(一般常識的軌道に乗った)人というのは、良いように見えて実は自身を”せまい世界”に追い込んでいることが多いものだ。その意味で、ギャ〜ギャ〜ワァ〜ワァ〜といろいろテンコモリンなことがあったはずにもかかわらず、「考え方ひとつ」でノンベンタラリンとできる今のじぶんというものがありがたいことだと、しみじみ思うのである(-_-)。
1/26 土 12.4   御所コース
いつも気になる「あること」が…(-_-;)
御所の入り口には立派な「門」がたくさんある。これは遠方からおとずれた観光客にとって、「歴史ある建造物に入る第一歩」の感動的なゲートであると思うが、地元民にとってはもはや意識(明確な視覚)にも入らないモノであろうかと思う。…しかし、だ。「気にならない程度」のことであればそれはそれでいいのだが、あまりにもその「重要さ」を軽視し、あろうことかその土台部分を「イヌのトイレ」として使用し何食わぬ顔で行きかう人間が多いことは看過されてよい現象ではないだろう。昨今、電柱その他の「柱」の根元が腐食し倒れるという事件が頻発しているようだが、これを加速させたのは間違いなく「こいつらのシワザ」である。しかも御所たるもの、その存在が「京都のくらし」をつくる基本ともなっているものなのだ。いくら現地人とはいえ、そのくらいの認識はもってしかるべきだと思う。犬猫を飼うのは結構なことだが、あまりに配慮なき飼い主が多いのではないかと感じられて仕方ない。ヒモをはずして歩かせておいてケガをしたら大騒ぎだとか、拾ったふりしてフンを川に投げ捨てるとか。京都に限らず、「他の動物をかまえるほど人間性が出来あがっているのか!」といいたくなるほどの非常識な振る舞いにワタクシは大いなる怒りを感じている(ー_ー)!!。多摩川でも何回「アブネ〜★」な目にあったかわからない!
そもそも、イヌを飼うには相当な経費がかかるようだ。「それができる」ということは、ある程度「くらしにぜいたくが許されている」という言い方も出来るだろう(じぶんが食べていくのに精一杯ならできることではないはずだ)。であるならば、飼育中に生じる「その他大勢へのひと・まち」への影響を及ぼすことに関して野放しにせず、飼い主から「イヌ税」などを徴収し、「公衆トイレ棒」や糞尿の共同廃棄ポットなどを創設してはどうかと思う。梨木神社近くの「御所への門」、絶えず「湿ったような色合い」を見せるその根元が目に入るたびに、そんなことを思うのだ。
「動物のやることだから仕方ない」という言い訳は通らない。仮に、「仕方がない」ような扱いしか出来ないのであれば、はなから取り入れるべきではないのである。
1/27 日 0.0   『ダンマパダ』は、原始仏典ではあるが、その一々はブッダ自身の直接のことばではないといわれる。
しかし、彼の教えを元に、後続の賢人が文章化したものとしても、これは普遍的な真理・真実を集めたものである。…この異国でこれだけの時代を経た存在である「ワタクシ」にも、じゅうぶん理解納得できる基本中の基本たる指針となっている(-_-)スゲー。
Atta hi attano natho | Ko hi natho paro siya ‖ 
Attana hi sudantena | natham labhati dullabham.‖ 
…これに「じぶん自身が体験的に行き着いた」のはわずか10年前の出来事であったが、以降、現実的に非常におおきな意味をもち続けている…(-_-)
1/28 月 0.0   「静なる趣味」第2弾。
これしか食べない!とこだわっているようなモノのヒミツを何ひとつ知らずにいた…(~o~)ビックリ!
あらゆる物事の「楽しみ方」は人それぞれでよいと思うが、「"何か"をするときに"ほかのこと"を交える」ようなことは、「集中したい者・関係のない者」にとっては迷惑なことであるし、今ここでやろうとしてる"こと"そのものに対しても失礼なことであろう。…以前にも幾度か感じてきたことではあるが、これ以上の言及は今回は避けておこう。( ..)φメモメモ…である。
【ところで】朝青龍が負けて、今場所は終わった…元々相撲にはあまり興味はないが、今回はそんな人もなんだかんだで「引き込む」効果のあったシーズンだったと思う。一夜明けて早速始まったのは、「朝青龍がどうだこうだ」という評論の嵐!…バクの番組ではまたもや、「その世界を逃げ出したはずの元親方夫人」が相撲道を語りまくっていた。イヤハヤ…(-_-;)★それだけならまだしも、例の「医者」が登場し、これまたあ〜だこ〜だと取り組みの批評を…オイオイ、キミにはその前に「誤診?」と疑惑の高い「医者としてのアノ診断」に関する説明責任があるだろう!…何でもかんでも「うつ病」「心身喪失」にすればヨイという風潮の如何を問われ始めているこの時期に、その顕著な事例を呈したことをウヤムヤにしたまま、相撲の勝負だとか婚約破棄だとか、意味のない見当違いな話題にコメントしている場合ではないだろう。本当の「うつ病」「心身喪失状態」に悩む人々にどれだけの迷惑と困惑を与えたのか…彼を出演させる以上は、バクもいつものように「正義感ぶって」重箱のスミをつつくべきだ。
1/29 火 0.0   みゆきの読書傾向には、かねてよりややモンダイがある(-_-;)
そもそも、大学生が読んでウンヌンカンヌンと何かを論じるようなテの文学などまともに読んだことはない。
(ひとの人生・違う時代を読み砕いてユラユラするほどの余裕はなかったようにも思う。無教養だといわれればそれまでだがね(-_-;)しかし、高卒実務タタキアゲ系には、個人体験そのものが「小説」であることが多いのだ★)
わずかに、確実な記憶と感慨を覚えたのは江戸川乱歩の『少年探偵団シリーズ』、ちょっと高尚なところで言ってもオウガイの『高瀬舟』、芥川の『地獄変』くらいのものだ。世界文学にいたっては、登場人物名で早くも混乱をきたし、先に進んだためしがない。これまで読んできた本といえば、もっぱら実用・雑学系で、短文の寄せ集めのようなものがほとんどだ。(最近、これは一族の遺伝形質の発現であることが判明した。)
しかし、こと「仏教系」に関するものについては、それが全集モノであろうと難解な学術系であろうと意味不明の言語使用のものであろうと喰らいつくように「読み干す」ことができる。不思議なものだ。…思うに、このジャンルの書物に関しては、学校や受験の勝利に必要である「読解力」だの「理解力」なんていうものとは別のところで要求されている要素があるのではないかと思われる。むしろ、一般的な能力が「真の理解」を阻害する側面があるようにすら思われるのである…その意味で、数々出版されるいわゆる「仏教書」のジャンルは、スゴイモノとトンデモナイものの両極端な評価に分かれる世界であるといえるだろう。「ことば」が理解でき、それがうまく流用できることが「仏教学」の完成なのではないし、まして仏教を修得したなどという次元に至るものではない。そこを「勘違い」していないひとの著作は非常に理解しやすく、受け止めやすいのである。中村元先生、長尾雅人先生、平川彰先生、西村公朝先生…等々、「この道」に深く入りこまなければ出会うことのなかった諸先生との出会いに、今さらながら深い感銘を覚えるものである。かたや、とんでもない系の方は…いや、これについての言及は避けておこう(-_-;)
平川彰先生著『律蔵の研究・上』読了。
1/30 水 9.0   京都3大聖地コース?
小学校探索RUN計画、準備着々…。
日本で行政的に始まった小学校の設置と整備は、京都市のそれが最初であるという。上京・下京に分かれてそれぞれ33ずつという大量の「番組小学校」が開設されたことは、当時としてもややハリキリスギ?な数かと思われるがそんなことも含め、現在の少子化現象に伴い、その存在は次々と消失し続けている。しかし興味深いことは、これらの校地校舎が「あとかたもなく」消えてしまわずに、なんとか原型を留めようと画策されて再利用されている傾向が強いことだ。これは、学校が「ただその意義」だけに留まらず、「校区=地域コミュニティ」の境界線として親しまれてきたことに大きな関係があると思われる。つまりは、この地域にとっての学校たるもの、「卒業したらハイおわり」ではなく、そこに暮らす以上延々続く「ひとびとの連帯のシンボル」なのである。
「官報ちっくな地域新聞」でも、ごみ収集、リクレーションの集いの募集案内、高齢者の表彰など、いまだに「町名」よりも「校区名」で表記されているような状況がその証拠、「校区」は京都市民にとって定着と愛着がある「カテゴライズ」のようである。…この、他に類を見ないような興味深い現象の今昔を「RUN」でどれだけ探検できるか。楽しみでしょ〜がない。
1/31 木 9.7   京都3大聖地コース?
六道グルグルはマズイだろう…本日締め切りの件はやっぱりやめた(-_-;)そのかわり強固な熱意をもって復学決定(-_-)モーレツニ、ヤルノダ!
次から次へとよくもまぁオッソロシイ食べ物が出てくるもんだ★(>_<)例によって「中国攻め」のムードの中、「みの」は「中国がどうこう言う前に、この国の政治の責任を正すべきだ」とかなんとかモットモラシイけど的外れに怒っていた。ヤツは先日の訪中で、よほどの歓待を受けていい思いをしたに違いない…としか思えない。
ところで、今回問題となったのは「冷凍食品」。回収騒ぎになっているのはギョウザだのハルマキだのという惣菜モノである。折りしも最近、うちでも餃子や春巻きを食べている。ついでに食中毒風の症状に襲われたこともあるので、この際「うちも被害者!」と便乗すればお見舞金が稼げるか!などと思ったりするが、残念ながらうちでは餃子も春巻もワタクシのお手製であったし、食中毒的症状もインフルエンザ罹患によるものであった。ゆえに、そんなことを言い出したらただの脅迫罪でおナワにかかること必至なのでやめておくことにする(~_~;)
さて…「みの」は中国を責めず日本を責めたが、ワタクシはもう少しマトモな指摘をしたいと思う。…「材料からじぶんでつくる」という、かつてはアタリマエであったオッカサン・オカミサン・もしくはカノジョの「うちでのお仕事」が、生活スタイルの変化に伴いドンドンと「外注化」されているのは今に始まったことではない。掃除・洗濯・料理、家庭生活のほとんどは、「お金さえあればすべてまかなえる時代」となった。お弁当はめんどくさい・揚げ物はめんどくさい・料理そのものがめんどくさい…等々、世の女性が最もその能力を発揮できるステージを放棄した結果膨らんだのが、外食産業・中食産業・惣菜産業なのであるとワタクシは常々考えているところである。この意味で「最初から責任と知恵を持てば避けられるリスク」が大きくなったのは致し方ないという見方はできなくもないだろうということである。「私だって働いているのよ!」という主張とスリカエにして、家事というものを安っぽい価値に変えてしまっている女性は増殖の一途であるのは嘆かわしい事象である。料理だけならまだしも、「育児」にまでその意識が及んでいることは恐ろしいとさえ思う。だいたい、家事を犠牲にしてまで得たお金が「ギリギリ生きていくのに必要」であるひとはそれほど多くはないはずだ。30インチのTVを買い、エアコンを何台も取り付け、車を転がすための「ぜいたく」を勘違いしているだけの場合が多いのだ。家事を気分次第に放棄し、簡便な手段に頼ることが、いざとなれば「家族の命にかかわる危険性」を引き換えにしている本末転倒な言動行為となり得ることを重々認識し、緊張していくべきであろう。メザシ1匹でもおなかを満たす立派なお弁当になる。エアコン・クーラーがなくても1年を過ごすことは可能だ。自家用車がなくても代替手段はいくらでもある。それでもやっていけない究極の状態にあって、はじめて「働かないといけないから家事をこなす時間がなくて…」は許されるセリフであろう…という極言を敢えて呈しておきたい。そのくらい「家事」の軽視が甚だしいと思うからだ。
いつ始まったことか、「女性の社会進出」「女性の社会的自己実現」という美しいスローガン。このコトバに世の女性は大きな誤解をした側面があると思う。古来より現在まで、文化的にも能力的にも払拭し否定し切れない「女性の特性・役割」というものを完全に生き生きとこなしきることが、本来の意味での「女性の自己実現」なのではないか。だとすれば、それは会社やビジネス社会で成果をあげることばかりが問われるテーマではないだろう。今一度原点に返らなければ、女性はむしろ誤解され、存在意義を見失っていく「さまよえる性」として迷い続けるに違いない。
【注意】これは、現在のワタクシが「家事おばちゃん」だから自己主張の一環としてゆ〜たものではない。外見上「キャリアウーマン」と呼ばれていた頃にもゴウゴウ言っていたことである。育休産休に心情的疑問を呈し議論を交わした総務部長はたぶんまだ存命中だろうし、この日記(改名前)、その他ブログ等のバックアップデータにもそれは展開されていた証拠が残っている。その時々の「じぶんの立場擁護」ために奔走するようなひととは違うぞよ!
走行距離 184.6  km