あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
2/01 月 36.0   夜RUN☆タマノウRUN♪(玉野浦)
なんとも密度コイコイな1日であった(*^。^*)
おつとめ・しゅ〜る之助弁当づくり→職場→某図書館(1)→某図書館(2)→職場ふたたび→一旦帰宅・即スタート→イチコクズンズン→玉野浦→ホンマはキライなそのまま復路→明日のカレーつくり→パソコン前。
(図書館をボカしたのは、名称を書くとその位置関係上、職場ガチバレの可能性があるから)
 新人さんのたっての要請に応え、開けと締めの時間帯に職場覗き見をする必要があり、本日はこの2つをマスト事項としてスケジュールを割り振ったのである。約5時間を新知恩院お参りRUNにするかどうか迷ったが、切羽詰まった学生らしく昼間は図書館にて過ごすことにした。学問の論文検索を中心に、おまけとして食や健康に関する本、はては懐かしの「多変量解析」の本も見つけてツマミ読み…いやぁー楽しかった!(*^。^*)
 んでもって、夜はこれまた懐かしの玉野浦行き(御殿浜つき)をふと思い立ち、36キロをサクサク走ってまいりやした☆
 RUNに関する心身の諸要件、体重の数値以外は完全に10年前の通勤RUN・旅RUNモードが復活しておりまーす!宣言☆ヽ(*^。^*)/キャハーッ!
 
2/02 火 8.0   東寺さんコース
たまにはタイムでも計測してみるべーかと、久々にストップウッチを起動させてみた。
カップ麺その他料理用の計測以外に使うのは10年ぶりだす(*^_^*)
40'12"02
 最初の最初…7キロ弱の距離を通勤RUNコースに定めてモクモクとRUNしていた当時の平均が29分前後だったことを覚えている…あんまりペース変わってないやん(*^。^*)
 20年近くやっていることに変化ナシ…というのは、成長がないというべきか、たいしたもんだとみるべきか?まぁどっちでもええけど。
 わたしの場合、信号も人の往来もないフィールドで全力疾走した場合のタイムってのを正確に計測したことがない。1000メートルをどれくらいでいけるんだろう?てなことにふと興味が湧いたりするが、そういうことを正確に計測できる場所には「キロ5ソコソコの人が入ってくるのは迷惑」とバッサリ言い切るような人種がいることがわかっているのでやっぱ遠慮しとくわ(>_<)…と、10年以上も前のこのサイト上での「苦いやりとり」を思い出しながら翻意。
 そういや「あの人」は今もやってはるんかいな?…と、メンバー表にいってみたら消えていた(-_-;)
 
2/03 水 25.0   千本コース
桂川ぞいが一番相性がいいぞい(*^_^*)
 長年のRUNによって得られた最もありがたい習性は、「カラダと対話できる」ということである。それは外部情報や評価そして精神論の介入を許さず、ひたすら自身の快・不快による動静の判断があるのみで、外見上は「ユルイ」「怠けている」あるいは「やり過ぎ」に思われることもあったであろうが、結果として大きなトラブルを起こさずにきた結果があるのだから、「わたしのありよう」としては正解を導いたと言えると思っている。
 最近では、RUNとは別に習慣化した「おつとめ」によって、その対話能力がもっと深い部分にまで浸透している感がある。これまでは、ある現象(症状)を感じたところから対象となる各器官の状態を推定している「まわりみち感」があったが、今ではこちらの方から積極的に「胃に」「股関節に」「血管に」「リンパに」というダイレクトな問いかけをしている風になっているのである。そのうち、365個あるという各種の骨、はては一個一個の細胞と会話できるようになるんではあるまいか?…と、冗談のような世界を期待してしまう(*^_^*)
 わたしが今一番「問い」にしている課題は、柔軟性が上半身(腰から上)と下半身を境に左右逆転している謎についてである。(よりやわらかいのは上が右、下が左)。考えられる原因は過去に遡るあれこれから現在のクセまでいろいろあるが、そのどれかひとつが決定的な要因というわけではないだろう。難しいところである。何をどうしてきたからこのアンバランスが?…早く、血管や筋肉、神経からの回答を聞きたいものだ(*^_^*)マッテルゼ!
 
2/04 木 8.0   東寺さんコース
正規シフトでの国家公務バイト日であるが、月火に出ているのでなんや調子狂ってる感じ(>_<)
ミラクル?
40'12"04って、2日と「ほぼ」というより「まったく」に近いほど同じタイム!(゜o゜)
あれからゆで玉子作ったりしたから、リセット忘れとかそんなんちゃうし!ヽ(゜o゜)/ヒョェェェェ〜!
【どうでもいいクイズ】
 陶芸体験会場にて、初心者がはりきって難関コースに挑戦。集中してろくろをクルクル回していたら結構イイカンジに形ができてきた・・・「むふふ、もしかしてメッチャ才能あるんとちゃうか?」と油断したとたん「グッチャーッ!!」
 あぁ、調子乗って余計なこと考えへんかったら立派な「酒とっくり」ができたはずやったのに・・・(T_T)後悔先に立たず。雑念は失敗の元。
ところで、こんな感じでできた「つぶれたとっくり」みたいな地形の都道府県とは?
 【答え:京都府】
・・・きわめてどうでもいいことがアタマに浮かんでは消えた朝RUNでござった(-_-;)
 
2/05 金 3.0   ごく近所☆猛ダッシュモード
RUNして地下鉄通勤になるより、中国語講座聞きながらウォーキングのほうがあらゆる意味で効率的かと思い、この程度にしておいた(*^_^*)
 なにかのくじ引き?みたいな紙が何枚か並んでいて、その一枚を選ぶのにメッチャ緊張して全身ドキドキブルブル(>_<)…という夢をみた。その光景だけからすれば、「人生の選択肢に迷っている」みたいな、もっともらしい夢判断の講釈が聞こえてきそうだが、実際は…。
 うっかり半そでTシャツ1枚で寝ていたため、布団からはみ出る肩を中心にカラダが相当冷え込んでしまったらしい(>_<)当然のことながら血圧は上がるだろうし、筋肉の縮みも起こるだろう。そういう変調が脳の中で「翻訳劇場」をつくりだして見せていたということなのだ。起きてフリース着てモコモコ寝たらあとは熟睡!(^^)!
 「夢=深層心理からのメッセージ」として、なんでもかんでもそちら方面に話をもっていこうとする人も多いが、夢というのは必ずしも100%がそういう事情から起こっているものではないということがよくわかる出来事であった。考えてみれば、子供のオネショなんていうのも「トイレに行ってるシーン」と連動しているものだ。人間の脳というのは不可解で深淵なものであると同時に、極めて直接的で単純簡単なものであるともいえるだろう。
 フロイトや心理学全般に対して「それがどーした?」的な印象をもっているわたくしにとって、なんとも心地良い体験であったことよ(*^。^*)
 
2/06 土 25.4   嵯峨嵐山〜保津峡〜請田神社〜八幡大神宮〜無農薬たんぼ〜千代川
このルートは、なかなか、いろいろ、「ある」…(-v-)キラーン。
カラダの中に「電動モーター」が入ったに違いない…と思えるほどの、終始ゆるまないハイペース(*^。^*)
どういうわけだ?????マジで謎だ(-_-)
 保津峡を通るたび思うのは、金閣寺に放火した青年の母親が面会の帰途、汽車が「保津峡」に入ったところで飛び降り自殺をしたという、そのポイントはどこか?ということである。
 現在はトロッコ電車用になっている線路が当時の嵯峨野線の「本線」であったことを考えると、かなり近いところをRUNしているわけで、もしそれが明確になったのならば、ぜひ一度供養の花など供えてみたいのである。
 我が子が大きな罪を犯した時、親が死んで(あるいはそれに近い生活で)詫びる…というのはある時期まで、暗黙の裡に了承された「世間における贖罪の方法」のひとつであったと思う。そういうあり方を是とする気は毛頭ないが、昨今の凶悪少年事件の報道で、取材を受けた親の態度があまりに第三者的であり、まるで他人事の評論のように落ち着いて話す姿を見聞するたびに、「親としてはどちらが親らしいありようなのだろうか」ということを考えさせられてしまうのである。
 あーついでに…保津峡を通るたび思う(その2)は、眼下に見える川が濁りのあるエメラルド色をしている理由についてである。この色は、かつてしょっちゅう見ていた奥多摩湖のそれと同じであり、23歳のとき雲取山下山時に一緒になったオジサンから「あれは水晶が溶けている色だ」と教えられてからそのままぼんやり信じているのだが、真相やいかに?…この光景をみるたび思い出してはすぐ忘れるクエスチョン。この時代、調べようと思えば正解はすぐ出るはずだが、「宝石が溶けている」という「ステキなウソ?」に騙されていたいのかも?…なので放置しておくことにする(*^。^*)タマニハ、オトメチック♪
 
2/07 日 30.0   久我コース
…のあと、鴨川コース(-_-;)
先月長浜で買ってきた梅の木。
「直立不動!」のようにまっすぐ過ぎる幹で、「あんまりおもしろくなかったかなぁ」と思いながら毎日眺めていたら…なななななぁんと!(゜o゜)
 今朝みたら、なんとなくクネっとシナをつくってるではないかヽ(゜o゜)/ウキャーッ!
愚痴めいた念が通じていたのか?(-_-;)…ネット用語でいえばまさに「ガクブル」の状態に、わずか一晩で変貌を遂げているのである!まさに生命の神秘☆(*^_^*)まぁ、盆梅展にあった秀逸な芸術作品のようなうねりには程遠いが(^_^;)
 盆梅展にいた「梅ツウ」のおじさんによると、梅の木は樹齢100年を経過すると枝が極端に歪曲したり古い幹から脱皮するように新しい幹が伸びたりと変化し、芸術的な美しさを増していくらしい。
 しかし…それを期待して大事に育て始めたところで、その完成を同一人物が見ることは不可能であるし、逆もまたしかりである。これは今回の梅の件に限らず、RUN中「樹齢○百年」の樹木に出会うたび思う「人生の刹那感」でもある。
 先月、「輪廻」とは一個人の人生における「過去・現在・未来の連続」であると書いたが、今ひとつの考え方として、「親・子・孫…の連続」も輪廻の現象であるといえる…というのは既に何回かここに記したことだが…遺伝子的に「自分の半分」を受け継ぎ生きる次世代に、自分が保有している価値観や感性そして夢のようなものを託すという意味では「肉体は滅んでも魂は生き続ける」のである。よって、わたしがこの初期状態の梅の盆栽を遺し、「大事に育てるべし」と遺言してそれが叶えば、100年後に芸術作品と化した見事な盆栽を「わたしが眺める」ことが実現する…のだが、もはやそれが不可能である今、ちと残念な気もする(>_<)
 いずれ、山奥のどこかにひっそり植え替えてやろうか…って、まだ最初の剪定もしてへんうちに、考えることでもあらへんわな!(*^。^*)ヘヘヘ。
 
2/08 月 10.0   桂川…ちょっと入り込んですぐ引き返したショートコース(^_^;)
恒例の夜RUN☆を目論んでの短縮やった…が、学問的作業オセオセでアカンかった(>_<)ヒーンッ!
 真面目を装ってどこかアヤシイ桑田より、アヤシサ全開でありながら全身全霊で生きてる感のあった清原のほうが好きだった。しかし、「アヤシサ」が本当に「アヤシカッタ」となった今、清原よ、なぜ寸止めできなかったのか?と残念でならない(T_T)
 ところで、こうなって以降ネホリハホリ報道される清原の行状のひとつとして、「密教寺院でゴマ修行」や「四国八十八か所お遍路さん」のような、仏教的修行の経緯がある。その映像と共に暗に語られているのは「こんなことをしていたのに結局アカンかったやないか」…つまりは仏道修行ないし仏教思想全般への批判が込められているようで不快極まりない。
 ぶっちゃけいえば、ゴマを焚いて真言を唱えるとか、お遍路の白装束で歩き回ること、さらに付言すれば只管打坐やお念仏やお題目…いずれも「そのもの」には「宗教的救い」や、まして「サトリ」なんてぇものはまったくナイのである。それらの手段・方法を介して、自身の内奥にある「自身の問題」すなわち愚かさや醜さ、至らなさ等々と真っ向から向き合い、のた打ち回る心の闘いを経て得られたところに真の意味と価値が生じる。与えられたスタイルや理屈をそのままにうまく真似できればそれでOKという程度では単なるパフォーマンスであり、「わかったつもり」でいて実は誤解の範疇。ひとたびそこを離れれば、三毒に満ちただらしない人となりが元通りにすぐ再現する…観る人から見れば、まったく愚かで幼稚な「修行ごっこ」でしかないのである。
 そんな「いかにも」な格好をつけずとも、人生日々の繰り返しの中に起こる細々したことについて、「どうして、どうしたら、なるほどな」を繰り返し自身に問い続ける生き方をしている人のほうが、よほど「ホトケ」に近い言動を取るケースが多い。しかも、自身でそれをそれと気づかず、他者に良い刺激や影響を与えている。誰かの引用も何もない、その人だから語れる言葉と行動で…まさに「菩薩」である。参考までに仏典から例示すれば、「もう修行やだ、寝よう」とした瞬間にひらめいちゃったアーナンダ(阿難)くんや、ほぼ知的障害でありながら掃除し続けてひらめいちゃったチューラパンタカ(周利槃特)くんなどがいるし、他にも(伝説ではない事実として)牛にワラを担がせようとしてひらめいちゃった源左さん、どこをどうみてもフツウのおばちゃんなのに、サクッとピリッと「肝要」を口にする近所の前川さんや広瀬さん…誰もゴマ焚きやお遍路なんぞしておらぬ。
 一体、宗教的救いをわがものにするためには、いかんともしがたい人生の挫折や苦悩を現身に感じることがまず第一の必要条件である。「人生とは?」「サトリとは?」「わたしって何?」なんていうレベルは哲学、形而上学へどうぞ!な問いなのだ。清原の場合、なにやら胡散臭い事情をもって巨人に入れなかったとか、ケガが続いて存分にプレーができないとか、挙句の果てにかぁちゃん子どもに逃げられるとか、わかりやすいまでの深刻な「宗教的動機」は存在した。あれほどのスタミナと根性を持ちながら、どうして「深く深く自身に挑む」ことができなかったのか。彼にとっては、ゴマもお遍路もクスリと同様、「逃げ」と「承認欲求満足」の手段でしかなかった。今後、更生してどう生き直せるのか、またできないのか、もう知ったことではない。まぁ頑張ってください(ーー゛)
 
2/09 火 18.0   神さんコース
「御前通」とゆーのが北野天満宮へ続く道であるからそのように呼ばれることは、wikiにも解説されている。それを知ってその道を行くのと、知らずに進んで北野さんに行き着き「あぁ、だから御前なのか」と知ること、結論は同じことだが、その違いは大きいと思う。わたしの場合は後者(数年前)だった。
これに限らず、わたしの人生における「知識と行動」の関係性は、こういう経緯をたどるケースが圧倒的に多い。当然その道のりはいわゆる秀才より長く、明らかに「アタマ悪い」の部類に属するが、今となってはそのほうが楽しかった(*^。^*)ケッシテ、マケオシミデハナイ。
 なんとなーく北野さんに足が向いて、着いた後テキトウにブラブラ足を進めていたら、今度はカイコに着いた(^_^;)意識なく導かれるように…な感じで「神さんふたつ」というのも不思議な気がする。
 仏教研究を志しているといいつつ、最近のわたしは「神さん」へ主たる興味が傾いている。実際、あれよあれよという間に集まった8つの「学業守」を毎日身につけていて、人には不審に思われないように「オバサン学生のギャクネタ」と言って笑いを取るようにしてはいるが、それがなかったときに比べてなんだかイイカンジに暮らしが流れているような気がするのだからたいしたものだ。バイトでもイヤなお客さんが急に柔和な態度に変貌したり、マンホールの蓋が外れた下水の大きな穴にあと一歩で落下する危機を回避したのも、その直前にユラユラ揺れる札が目に入ったことがきっかけだった。いずれも学業に直接関係する話ではないが、要らぬストレスや肉体的損傷を避けるということが、滞りない学業への基礎となっていると考えれば、やはりこれは立派な「学業守」の威力を発揮していることになるわけである。現実には、単なる紙と布の和風アクセサリーであって、どこの神社名が刺繍されていようと製造元はほんの数か所(もしかしたらうちのとなりの一か所だけかも)のほぼ独占状態の工業製品に他ならないのだが、真の価値内容はそれを持つ人の心持ち次第という意味では、なかなかすぐれたアイテムであるとは思うのである。少なくとも、「ここにある自分が、自分以外の力によって成り立っている」ということを常に教えてくれているということ自体、わたしには十分ありがたいご利益なのである。
 以前ここに記したことの繰り返しになるが、「神」とはその人が求めずともそこにあるもの、「仏」とはその人が強く求めた先に現れるもの…という違いがあるような気がしている(その意味でアミダちゃんは限りなく神に近い)。換言すれば、「神」とはこの世を形成する「自然そのもの」なのであり、「仏」とは人間が人間的生活を送るうえで形成された一概念(自然摂理の人格化・理論化)というところだろうか。よって、政治文化の中心にあった京都洛内に多くの「寺院」が密集し、かたや洛外並びに滋賀奈良は「神社」の力が強いのも、頷ける分布であると思われるのである。
 RUNでは、市内を飛び出して近辺をまわる旅が多いが、そこではいずれも「ホトケなんぞほっとけ」とでもいうかのような「神オーラ」をビシバシと感じる。時に強く厳しく、そしてやわらかくあたたかく…いずれも、じぶんにとって清々しいことこの上ないのである。単なる「ランナーズハイ」じゃないかと言われればそれまでだが、わたしにはそれだけの反応とは思えないほど大きく偉大なパワーである。
 …と、ここで締めると、超ヤバめのスピ系女と誤解されそうなので付言しておく。
 おそらくこれは、昔の人々ならフツウに持っていた自然への畏れ・感謝、そして融合を察知する感覚が、現代人一般より大きく再生しているゆえのことなのであろう(早い話が野生化)。遠く、インドヴェーダ思想における「梵我一如」というのはこれを定義したものであるもしれないと考えると、わたしはRUNによってドデカい世界を獲得できたことになる(゜o゜)ありがたいことだ。宝くじに当たったの比ではない。RUNしててよかった。RUNは生涯の友、教師…否、わたしにとってRUNとは「ここに至る修行そのもの」であったのかもしれない。
 
2/10 水 3.0   猛然ダッシュ。あえて無酸素運動(*^。^*)
さぁ、ここからが真剣勝負の、「RUNにおける」アタマの使いどころですっ(-_-;)ドキドキ☆
 この数か月の間に「体重が減った」と発言したその内訳は、まずは「余計なむくみ等を生じさせていた水分」そして次に「内臓脂肪」…と、おそらくは理想的と思われる順序を経てきたようである。
 さてさて、残るは「皮下脂肪」!…いわゆる「定期預金型の脂肪」と言われ、ちっとやそっとでは落ちまへんえ!というタイプのもの…これは、内臓脂肪が標準(最低域近く)に収まり、比して皮下脂肪が高めであるという、体脂肪計からのお告げが物語る事実である(-_-)
 現在の数値は、「中高年世代にはある程度(1割)の脂肪増加がむしろ今後の健康維持には必要である」という説を超えるものではない。あらゆる外的刺激からの緩衝材や免疫としての働きをさせるためには「まぁこのくらいでえーんとちゃいます?」なわけで、一般的なダイエットとしては「大成功を収めた」ケースに該当するのだろう。
が、が、が…。
 こうなってくると、「あともうちょっと減らせないかなぁぁぁ?」と思ってしまうのが人間の欲深いところで、ワタクシもその例に漏れず、なのである(^。^;)ただしこれは、「快適にRUNをしたい、し続けたい」がゆえに発露するところなのであって、決して「奥様モデル」になりたいとかいう分不相応な願望を抱いたからではナイ(-。-)スカウトサレレバ、ヒキウケマスガーハハハッ。
 …というわけで、今後の減量ポイントは「ひたすら皮下脂肪」に向けられることになり、方法として「食事と有酸素運動」が意識されることになるのであるが、食事は既に「もうこれ以上どうしろと?」という状況なので、残るは有酸素運動のみとなる。キロ5〜6以上のユルユルRUNで簡単に完成できそうでできないのが、難関なのである。
 過去の経験上、皮下脂肪の(急激な)減少が、外見に恐ろしいまでの「老婆状態」を現出することをわたしは知っている。当時、決して人を悪く言わない上司でさえ「おまえ、笑うとシワシワになるな!」と苦笑いした、あんな再現は二度としたくない。あのころはまだ取り戻せる若さがあったかもしれないが、今再びあれが起これば年齢的にも元の通りにするのは難しいと思うと、今回ほど「ビミョウな調整」を要求されるダイエット作戦もないだろう…と、緊張することしきりなのであるo(>_<)o
 「シワシワにならないようにジワジワと」…それをRUNで実現する場合、その頻度や距離・ペースはいかに?…てなことを考えたら、ついつい無酸素運動で短距離という、皮下脂肪に関わりなさそうな走り方になってしまったのであった(^。^;)
 
2/11 木 29.0   千本コース☆久御山界隈延長のあと、イチコク北上の復路。
旧約聖書の「ヨブ記」とブッダの降魔成道…結末は正反対ながら、その経緯はクリソツな不思議(-_-)
いかなる時代や土地にあろうと、人間が生きる上に起こる「出来事」というのはある範囲の枠をはみ出ることなく一緒なのであるということを示しているのか、あるいは「ええ話やしうちの思想にもチョイ借りしとこ!」がいつしか独自のものとして伝承されたのか…そのあたり、「浄土教の源泉」を探ることが有効なアプローチ方法のような気がしている…という数年来のわたしの興味をまさにそのままに問題の所在・研究テーマとして入学したはずの知人は、財テクと子育てに忙しい「ボンサン」に返ってしまった…実にもったいないことである。
なてことをいいつつ、自ら立てた「スゴイテーマ」がダラダラ停滞していることも実にもったいないことである。
…これが、本日、久御山から引き返した理由。ホンマはもっと南下することを企んでいた(-_-;)ベンキョウセ-ヨ!
 早朝から、新人さんの「ミス」に対するアドバイスをメール打ち。どんな内容でも「文章を作成する」というのはワタクシにとってめちゃテンションが上がる作業であり、本日もアゲアゲになったので、そのままRUNに突入した。そのせいか、はてまた天気がよかったせいか(別に脈絡はなさそうだが)、左欄の内容を含め、まぁあれやこれやと四方八方に「思索」が飛ぶRUNであった。
 ところで、出かける前ベランダに出たら、小さな梅の木からすごい芳香が漂ってきた。反射的に道真の歌を思い出すようなスゴサである。京都には有名な「梅の名所」がいくつかあるが、こうした香りを邪魔されることなく存分に梅を楽しむことができるかといえばそれほどでもない。それが「名所」であればあるほど見物人は多く、また周辺にはいわゆる「テキヤ」が乱立して「脂と糖」の匂いにせっかくの芳香がかき消されてしまっているからである。わたしの知る限り、「梅を梅として」全体をそのまま堪能できる場所は、梅小路公園のそれくらいしか思い浮かばない。残念なことである。
 現代人は、微細かつ期間限定の「自然の香り」を感知することができなくなっている。それどころか、本来自然には存在しない香りや健康維持上悪しき影響を及ぼしかねない匂いを好んで取り入れる傾向にすらあるように思う。どう考えても異常としか思えない刺激臭を放つ建材を使っていても「新しいマンション」を購入したがり、すれ違う程度の人にまで神経をとがらせてキツイ芳香剤の混じった洗剤を使い、トイレの水の色や臭気を即効で消す薬剤を使い、あるいはまた「副流煙」だのなんだのという科学的"知識"を根拠に喫煙者を悪魔のように嫌う…なにか、どっかがおかしくはないだろうか。もしそれが、「成熟した現代人のあるべきよう」なのだというならば、わたしは「未熟な原始人」のままでよい。
 「自然そのままの色や匂い」というものには、それが発せられるタイミングその時々に、何らかの重要なメッセージが込められているものだとわたしは考えている。社会生活上限度はあるとはいえ、いわゆる「加齢臭」や息や足、排泄物に至るまで、それが放つもの自体を感知することは自他ともに「我が身を根源的レベルで守るため」に必須の反応なのではあるまいか。「キタナイ」「エチケット違反」等々と感情的に排除しまくるのも結構だが、そのマヒした潔癖さが結果的には「肉体内部の不潔」につながるのだとすれば本末転倒も甚だしいのである。
 ちなみに、何かのトラブルでイライラしたときに出る汗(蒸気)には、いやらしい臭さがある。いささか食べ過ぎた翌日RUNすると、その汗にはべたつきとアブラを感じる。過剰な飲酒翌日もしかり。加齢臭なんてのは、その歳でそれでも頑張って働いている「お疲れさま」の臭いであり、おねえちゃんのブーツ臭は「オシャレもほどほどにネ!」の警告臭だ。変態と思われそうだが敢えていえば、わたしはそういう「人間が放ってアタリマエの臭い」に遭遇することのほうが好きである…というか、それほど不快感を覚えない。
 トレーニング(?)のせいか、RUN中の空気や土の匂いが季節・時間や場所によって違うこともわかるようになったし、最近では子供や若い世代の発する、化粧や香水とは明らかに違う「独特な臭気」を察知できるようにもなった。それもまた、自然をまるごと受けてこの世に生きる楽しみのひとつとなっているのである。

2/12 金 5.0   猛然ダッシュ。あえて無酸素運動…その2(*^。^*)
正直申しまして、この2週間の国家公務バイトはひじょーにシンドかったどす(-_-;)
来週は、シフト日以外ノータッチにて願いたいでござる(-_-)
 「飽食の時代」という。
 たしかに、高級食材・料理からジャンクフードまで、「食べるもの」に溢れている光景を目にすればそれに首肯せざるを得ない…ように思えるが、そこに「ある一定の条件」を加えて眺めると、驚くほどに「食べるものなどほとんどない」というのが、またひとつの事実でもある。
 しかし、この「ほとんどない」という考え方こそ、今こういう時代にはあらゆる意味で必要なことなのではないだろうか?と思う。ここには、食品そのものの安全性云々ばかりではなく、社会性を意識した食風景のようなところも含まれる。わたしが幼い頃には、「買い食い」や、家での3食以外に食べるということ自体、みっともないこととして地域全体が見ていたものだ。「セブンイレブン」が展開し始めた当初は、「一般のスーパーより割高な商品ばかり」ということよりも、朝の7時から夜11時までどうでもいい嗜好品が買えてしまう、ある種のだらしなさへの批判が強かったことを記憶している(横浜市旭区某地域のみかもしれないが)。
 「いつでも食べたい時に気軽に食べられる」ということが、すなわち「豊かな食生活」であるかといえば、決してそうではないとわたしには思われる。「食べる」ことについては、時間や内容、量などに本来制限があるもので、だからこそ、いかに条件や状態の良い「食べ方」をするかという考察を経たところに「正しい食の楽しみやありがたさ」というものが生じるのではないだろうか。
 「1日ほぼ1食」を敢行して3か月が経過した。
 朝食べたと思ったら数時間後にはまた昼そしてまた夜…という、カラダというより世間一般の理屈上の要求から離れて得たのは、「1日1回しかない貴重なチャンスをどうするか」という意味でのこだわりである一方、ユルさのようなものも良い加減で働くようになったことである。ごく限られた緊張感ある時間内に「食べたい」「食べてもいいか」と思うものについては、それがあれこれと吟味された結果のものであろうと、ほぼ衝動的に思いついたジャンクであろうと、吸収や排除(排泄)はマヒすることなく正常に機能してくれるだろう。
 「食」はわたしにとって、例えて言うなら「新喜劇」を見に行くようなイベントと化しつつある感がある。行ける回数や時間帯は限られており、座長が茂造かスッチーかが気になり、バタヤンでも内場やくまモンが共演だからまぁええか…そして、行ったからにはそれなりの面白さがあるから大いに笑える。自ずから諸々の制限条件があり、それを選択してまみえるから楽しいのだ。…少なくとも、「食」に翻弄されない支配者になったとは言えそうである。人間から切っても切り離せない欲望が相手であることを考えると、この意味は大きい。
 
2/13 土 0.0   完全休養なるものをやってみる(1)
そして、時間制付きではあるが、食べたいものを次々食べてみる。
 っていうか、これが中年おばちゃんのスタンダードな生活スタイルだわな(*^。^*)
 
2/14 日 0.0   完全休養なるものをやってみる(2)
ポッキーを数年ぶり(5年以上は経っている)を食べてみる。
昨夜見た「ジョブチューン」に刺激されて(*^。^*)
 「徹底的にゆっくり休めることも必要」…というのが、わかる翌日。朝、鏡で全身のシルエットを見る限り、RUN連続の日々よりも美しい感じで締まっている感じがする。若い頃は、「RUNさえあればバリバリ健康!」なつもりでいたが、年齢を経るにしたがって、それは絶対正しいことでもないと思うようになった。
一晩寝ただけでは回復しないいろいろがあるからだろう…このあたりの自然な変化には逆らわないほうが無難(-_-)
 
2/15 月 29.0   北コース☆
ぶだはっ図書館が17:00閉館なので、キリのええとこで早いめに脱出した(*^。^*)
今日の場合、ヘッドスパと美顔エステを、自宅でやってしまおう!とゆー実験の時間が必要なので、夜RUNにはできなかったんであるよ(^。^;)
 世の中、いろいろな美容法や健康法が騒がれては消えて…の繰り返し。最近では「炭水化物=白米」が問題視されるという異常事態に陥っているが、これもまた近いうちに過ぎ去るブームのひとつだろう。細かいデメリットはそれ自体正論なのではあろうが、この長い歴史の中で捨て切られず続いてきた物事には、それらを覆い消して余りある別のメリットがあるからこそ現在に至る、なのだと思うのである…酒しかり、タバコしかり、甘いモノしかり。ちなみに、「白米よりも玄米」と言われている昨今であるが、玄米を白米と同じように炊いて食べ続けることは、むしろ健康を害する要因になるらしい…子供に瓶突き精米を手伝わせるくらい「白米」を望んだ人々の欲求は、単なる贅沢から起こったことではなかったのだ。これを知って、ワタクシもあわてて明日の晩用の玄米を今、砥いだところである(-_-;)キュウスイ、ハツガヲ、ヒタスラマツ。
…と、それはさておき、今日は日常気を遣っている「カラダ内部」ではなく、「外見のお手入れ」なるものに注目してみようとなぜか思い立った。思いついたところは、フェイシャルエステ、ヘッドスパ、耳かき…で、いずれも「サロンの業者」行ってみるべーかと企んでみたのだが、いずれも料金が5000円以上とバカ高い。それに、そういうところはたいてい予約制で、思い立ったその日に実現というのも難しいだろう。そもそも、そんな時間とお金は学問に使え!なのだ…で、「ほなら、それ全部、うちでできひんやろか?」とゆー発想に至ったのである。ありがたくもネットには「自宅で○○」の方法がゴマンと公開されている。調べていくと、髪にも顔にも共通して挙がっている材料は「炭酸水」だったので、1本買って帰ってきた次第である。この「炭酸水」も、少し前までは誰もかれもが飛びつくように話題にしていたアイテムであったが、今はそれほどでも…であり、実際のところ効き目はどうなんやろ?…な気はするが、たった95円なら「ダメモト」の範疇。少なくとも、効いたかどうかわからへん(効いたとしても短期間)なサロンに大金を落とすよりは賢いだろうって(*^。^*)ニャハッ。
 ようこそ!「トータルビューティサロン・カンオウ」へ☆まずはじっくりご入浴ください。じわっと汗が出たあたりで、京都かづら老舗製の椿油を含んだ麺棒でお耳をコショコショ。次に、温水でよく流した髪に炭酸水を浸して頭皮マッサージでぇす☆お顔は、残った炭酸水でシャバシャバ感を楽しんだ後、298円のロゼットゴマージュでひとこすり。ぽろぽろクスミが落ちたら、仕上げに「おつとめ」して全身リラーックス☆…あぁ、楽しみ。はよ、お風呂わかへんかな(*^。^*)
 
2/16 火 18.0   とりあえず、鴨川チョイ下ルコース☆…って、まだやる気か?
全ては学問と家事の進行次第(-_-;)…ホナラ、オソラクムリダワナ!
祝☆ダイエット完全勝利宣言ヽ(*^。^*)/
ドカRUN時代に夏冬で差をつけて調整していた頃の「許容範囲MAX」の数値域に突入したのである!
ちなみにBMI23チョイ☆これまさに、健康御長寿モードなりぃぃぃ(-v-)ドヤッ!
 昨夜の自宅エステの効果は絶大(*^。^*)
 図らずも…またもや仕事の件でのTELにつきあい…30分湯船にじっくり浸かることになった結果がむしろヨカッタ。史上最強のあかすりアイテム「豆絞り手ぬぐい」で体をこすり、炭酸で頭をこすり、とりあえずムダな汚れが全部とれて、新陳代謝も活発になったことであろう(-v-)ムフフ…。ふつう、じっくり入浴するとぐっすり眠れるというが、わたしの場合、血流よくなりすぎ?のせいか目がランランと冴えてしまい、2時まで読書にいそしんでしまったのであった(^_^.)
 ところで昨夜は…珍しく「外見」を細かく観察して驚きの現象が起こっていることに気が付いた。鏡を見ると、ここのところ「さりげなく後退」していた前髪が、改めて前進をはじめたようなのである(*゜o゜*)ウヒョー、ラッキー!
 およそ半年前にカットしたとき、敢えて前髪を作らずそのまま残していたのだから、現在のわたしには数センチ程度の前髪がわさわさと残っているはずがない。っていうか、年末あたりまではそんなものは確認できていなかった…それが、「ある」のだ☆
 「薄毛人生、いずれハゲ」に覚悟を決めていたわたしにとって、これはまったく想定外のウレシイ変化である。一般的な「毛生え」のセオリーに逆らっている日常を考えると、これは奇跡的現象でもある。「前髪が復活!」自体が勘違いでなければ、人間のカラダ組織の作られ方には絶対の法則など存在しないことを証明できるようで興味深い。
 …つまり、何事も、何をしようがしまいが、「なるときはなる、ならぬときはならぬ」ということだ(-_-)
 
2/17 水 3.0   猛ダッシュモード☆
この感じ、なんか好きになってきたかも???
…っていうか、ふと懐かしい感覚が甦ってくるんである(*^。^*)
 中1のとき…「女子がフルマラソン」なんてことがまだまだ一般的ではなかった時代(*)のことだ。体育の授業でいきなり走らされた「1000メートル(グランドを2周ちょっと)」は、途方もなく長い距離に思えた。それより以前に部活のランニングで校庭10周!みたいなことはあったが、授業でのそれは、まだまだ子供じみた負けん気の強い女子生徒たちの競争心を煽る、つまりは明らかな「長いめの徒競走」となったのである。
 小学校時代、リレーの選手を通してきたワタクシであったが、その自信は「元気な田舎への転校」と同時にあっさりへし折られた後のことだった。「負けたくはないが無理だろう」…と、心に燃え盛る何かを抑え込むようにしながらスタートを切ったのだが、走り出してしばらくすると、後についてくる子が誰もいない…ひとりだけフライングをしたかのような差をつけて、ひとり堂々の1着となってしまったのである。細かくは覚えていないがタイムは3分台であった。それが中学生としてどういう位置づけにあるのかまったく知らなかったが、そのことで「おめさ、ちょっと陸上部で練習してみれて!」と誘われたことを考えると、それなりのものではあったのだろうと思う。
 「先頭を切って走る」…ということの優越感や快感、そしてそれ以上に、「こんな長い距離を、こんな感じで走れるんだ!」という感動的な新しい喜び…今に続く「長距離RUN」の原体験といえる出来事であったのかもしれない。
 これがもし、「マラソン」というものがこれほど一般化した種目になった現在に起こった出来事であるならば、自他ともに大いに「その気」になったことであろう。「わたしはフルマラソンでオリンピックを目指す!」なんていう少女らしい無謀な夢を抱いて練習し、故障し、そして挫折し、「走る」こと自体嫌いになってしまっていたかもしれない。わたしの場合、「原体験」で得たあの感覚や自信が、明確な「かたち」にならずにくすぶり続けていたからこそ、ボチボチとではあるが「今のRUN」を心底楽しめているじぶんがあるような気がしてならない。つまり、わたしのRUNは「ブームだから」とか「健康のためには必要」とか、昨今のムードにおされてあるわけではない、ということである。僭越ながら、「生来持って生まれた忍耐的持久力」は確かにあり、それを発揮する手段として、過去には登山やウオーキングがあった。履歴書の趣味の欄に「長い距離を歩くこと、走ること」と書いて変人扱い&添削を受けた高校時代とは違い、今では誰もがそのまま認識する「ウオーキング」や「RUN」としてわたしの能力がふつうに顕現できるようになったということだ。要らぬストレスを抱えず楽しめること自体、幸運なめぐりあわせといえるであろう。
 【(*):注記】調べたら、「東京国際女子マラソン」が始まったのが1979年(ドンピシャ中1)だった。当時の「1000メートル3分台」をそのまま「何か」に変えようとしていれば、せいぜい中距離のレベルで留まっていただろうと思える時代である。しかし、今のじぶんを考えたとき、それは本当に望む世界ではなかったはずだ…そのときには「行き場のない素質」も時代が変わることによって具体的な力になることがある。これは、RUNに限らずあらゆる場面で言えることである。そのことを自らの体験として獲得できたことのほうが、結果的には「人生の学び」として大きいものだった。
 
2/18 木 10.0   西京極界隈をチョットねー(*^_^*)
しばしばここに登場する「おつとめ」が、「ヨガ」であると思い込んでいるらしい読者約4名に告ぐ!
ヨガとちゃいまっせー!
もっとえーもんどすえっ☆ヽ(^o^)/
 苦節3日?浸水させていた玄米がようやく発芽したヽ(T_T)/アーヨカッタ。
 玄米とは「種子」であり、その成長に必要とする養分をタップリ含有したままの状態。そのうちの「フィチン酸」なるものが実は人体には毒になるという。これを知って大いに納得したのは、数か月前に漬けた「かりん酒」のカリンのタネの扱いについても、同じようなことが注意書きになっていたからだ。そういえば「スイカのタネを食べると盲腸になる!」とかなんとか言われてビビった記憶もあるが…「タネ」というものは全般的に「アブナイもの」として注意しておく方が良いのだろうか?(-_-)…人間においても、これから進化発展する可能性のある、つまりは未熟で若い者ほど、世間に対し向こう見ずな「毒を吐く」ことが多いことを思うと、森羅万象の成長進化には通底したひとつの法則があるようで面白さを感じるところでもある(^_^;)
 玄米においては、発芽をさせて「アブナイ要素(玄米にとっては重要なんだが)」を使用済みの状態にすることが「無毒化」のポイントとなるらしい…ということで、水に浸して日光に当て、ひたすら「その時」を待っていたというわけだ。玄米収穫後の処理保存状態によっては発芽しないものも多いということでドッキドキ!だったが、これでひと安心。同時に、生産者の広告にもウソがなかったということがわかって、信頼も高まった。一石二鳥。
 玄米の常食はやがて、本来人体に必要な栄養素までを取り込んで排出してしまうことになるらしい。したがって、普段のフツウの食事を送る中で、たまに「カラダのお掃除」として食べるくらいがちょうどよいことになる…「発芽するまで3日以上」のペースは、このことをごく自然に実現することになるわけで、なかなか都合が良いのである。「本当にカラダに良いものは時間と手間をかけなければ手に入らない」ということを暗示しているようなところが、これまた深くて面白いものである(*^。^*)
 
2/19 金 10.0   昨日に同じく…ペース早め☆
頬にできたシミについてあれこれ考えるも、結論出ず(-_-)
早い話が、ほっとけ!ってことになった。
 女性のシミやシワについては、まぁーあれこれと情報がヤマモリあって、何が正しいのか永久に正解が出ない課題なんだと思わざるを得ない。つまるところ、その人その人の素質・健康状態や生活環境によって千差万別の原因があり、結果として「なるようになる」ところをどう受け止めていくかということに尽きる話なのだろう。
 わたしの場合、「基礎」を含め化粧というものを常態化した時期がほとんどなく、もっぱら日焼け止めのみで過ごしてきた。聞く人が聞けば「そういうズボラな生活が災いしたのよ!」と言われるところであろう。しかし申し訳ないが、わたしにはそのことに対する後悔は一切ない。なぜならば、「シミがある」ことを気にしていると言いつつそのレベルは、ここまで念入りに化粧を続けてきたという女性と同じまたはそれ以下のものであるからだ。「やってもやらなくても同じ」だったならば、余計なお金や時間をかけることなく過ごしてこれたことの方が、ナンボもマシな話なのである。
 最近では、「これだけは」と塗り続けてきた日焼け止めにも、こうなった根源があったようにさえ思える。1年前「アネッサ」の常用を止めて以降、全体としてはひじょうに調子の良くなった肌感がそれを教えてくれているような気がするのである(カサツキや小じわ感消滅)。この半年は、週末の長距離RUNのときに「調べに調べ抜いた結果選んだ日焼け止め」を塗る以外マジで何もしないようになったが、肌のハリや白さは以前よりも増して維持されているように思えるから不思議なものである。今後、もしシミを取りたいなーなんて本気で思うようになっても、くだらない化粧品やサプリには手を出す気はない。そのくらい、わたしは化粧品全般への疑いを持ち続けてきている。
 なんだかんだと、もう50さね。少しくらい何かが顔についているくらいの方が自然でえーわな。っていうか、そのくらい歳をとって「生きてきた実感」みたいなものを、鏡を見るたび感じられることってすごいことだと思う。…「奥さま、シミはブローチなんです!」byキミマロ。
 
2/20 土 0.0   雨だからゼロ(-_-)キリッ。
今日が京都マラソンでなくてよかったですね☆
 何かの確固たる目標や思想をもつとき、ひとはそのよりどころを「聖地化」するものである。わたし自身、かつては年一回駆け上がる「富士山」がそれであったし、京都マラソンを心待ちにしていた人々(特に遠方の)にとってはこの京都のまち全体が、異彩を放った輝きに満ちて見えているのだろう。そもそもマラソンがあろうがなかろうが、京都というところはその存在自体を「特別視」する人々の意識エネルギーによって維持されている性質を持っているのである。数多くの仏教宗派の「総本山」を擁することが、その一端を担っていることは無論のことである。
 そういえば…と、かつて湘南への爆走RUNを楽しんでいた頃にしばしば通過したある宗教団体の「聖地」のことをふと思い出した。時折、小冊子を手に街角や駅前に出没する集団の国内における本拠地である。とあるルポタージュによれば、彼らにとってあの地こそが憧れの骨頂にある存在となっているそうだ。彼らにとっては、この京都など忌まわしい悪魔の地にほかならず、ここに住まうこと自体「呪われている」ような感覚を持っているのだろうか。実際のところどうなのか、あれこれ「信者の意識」を探りたいところなのだが、仏教系某宗分派集団のそれと同じ「激しい排他性」をその思想に包含しているらしきことを聞き及ぶに、今一歩の「踏込み」が起こせないままでいる。入信の意志などなくても「とりあえず話が聞ける」開放性があれば良いのだが、難しいようだ。
 ・・・・・・
 すべての「とらわれ」から解放されるところに、宗教の真意はあるのだと思う。その意味では「聖地」「総本山」「本拠地」などというものは必要性を全く欠く存在でしかない。実際、法然ちゃんは「念仏の声のするところに法然あり」としてそういうものを定めることを拒んだのだし、親鸞ちゃんも「ぼくの死骸は鴨川に投げ捨ててチョー!」と言い遺した…にも関わらず、知恩院だ東だ西だと競うように「場所」がつくられた結果が現在の光景である。それ自体、後に残る者のよすがとしての価値はあるが、決して「絶対の存在」ではないことは重々承知しておくべきことである。
 明日の京都マラソン参加者の中には、それを「聖地」としてトレーニングを重ねてきた人も多いことだろう。そこにたどり着きまみえるには、様々な困難や苦痛を無理してでも越えようとする強い意識も働いているに違いない。しかし、「2月21日京都マラソン、42.195キロ」は、第三者が勝手に決めた「虚像の聖地」なのだ。あるべき本質は「健康で楽しく走り切ること」なのであり、それこそがそのまま「あなたのRUN人生における聖地聖域」なのである…と、2週間前に故障して医者にかかり、注射と薬を使ってまで出走を試みようとしているある人に言ってみたが、案の定聞く耳持たずであった。ある意味、そこらの新興宗教を盲信している人々と何ら変わりない異常心理を増幅させているランナーも数多いのだと悲しく思う次第である。
 
2/21 日 35.0   マラソンコースとは全く違うエリアを。
+しゅ〜る之助ゴール見届けのためのRUN
「4時間半切りで七条のビックリハンバーガーをごちそうする条件」を満たすかどうか…ウハーッ、やっちゃったよ!(゜o゜)しゅ〜る之助、恐るべし!
見定めたように閉館期間を設けた府立図書館、アナタはエライ!…ちょっとイラつくけど(*^。^*)
 20年近く前にベストセラーとなった『話を聞かない男、地図の読めない女』という本(当時はスルー)を、先日たまたま図書館で見つけたので読んでみた。中に、「あなたの脳の男度/女度」のチェックテストみたいなのがあって、面白そうなのでやってみると、なんともいやはや…バッチリ「男度」に満ちた脳を持っているという結果になった(-_-;)
 なんでも、母体に入っている初期に受ける刺激(ホルモン)の度合いによって、その性質が決定的に偏るのだとか…「チャンバラ映画」が胎教だったと聞かされているだけに、なんとなく納得させられてしまうところである(-_-;)
 確かに、RUN中「追いつき追い越されの状況に燃えやすい」ことは以前にも記したとおりであるし、怪舎員時代にも「此奴は3割オトコ」と言われ続け、実際、その自覚もあった。自分より弱いものをみると「全身で盾になってフォローしてやろう」と意気込んでしまう面もある…おっしゃるとーり!なのである。
 しかし反面、わたしはこの本のタイトルでもある「地図が読めない女」の典型でもある。今なら誰かにツイッターで拡散されそうな「赤坂見附のスクランブル交差点ド真ん中で地図もってグルグル回転事件」は、今でもそれを知る人のお笑いネタであるし、クルマの助手席で地図を眺めて、「上へ進む!」「下へ行って!」と、天国地獄へ誘導するかのようなナビをして超ウケしたこともある。旅RUNにいたっては、「まぁこっちだろう」という直感の方が優先で、もし間違っても「戻ればいいや」で万事解決してきたのである(走力の養成には役立った)。
 結局のところ、その人の持っている後天的な特質というのは、ある一時期の些細な出来事によって絶対的類型化されることを許すものではないということなのだろう。この「脳の男女別」も、クレッチマーや血液型や星占いとほぼ似たようなもので、一定の範囲における「傾向」は示すが不変の法則とは成り得ないということである。
 …しかしながら、今回の京都マラソンのような「勝負イベント」を眺めるに、「後先考えずに全力を出し切ってしまう」のは、やはり男に圧倒的に多いことのようである。聞けば、途中で倒れたりタンカで運ばれているのは、ほとんど男ばかりであったという。これは、富士山の七合目あたりから頻繁に見かけた「男女差」にも同様のことであるから、まず間違いない「男のサガ」みたいなものなのであろう。こういう場面になると、先の「類型」がぴったり該当するように思えるのが面白いところだ。
 これは…マラソンレベルになると、そこで発揮される能力というのは実に動物的・本能的すなわち「いのちがかかった」ものに近くなるがゆえに、明白な男女差を見せる現象風景となるからなのだと思う。元来、男には「何を差し置いても人より先に立ち勝ち続ける」ことに生存における優位性があった。こういう場面では、原初以来の遺伝子の記憶がよみがえるというべきことなのだろう。マラソンレースの途中でぶっ倒れるなんてしょーもないなぁ…と思う一方、彼らの方が、引きこもりやなにやらでグズグズとエネルギーを鬱積させているような男よりはるかに自然で健康的であるとも言えるのである。
 
2/22 月 47.0   烏丸から北コース☆
思えば、丸太町以北の烏丸通にはずいぶんゴブサタしておった(*^_^*)ヒサシブリブリー!
・・・・・・・・・・・
【夜RUN】やっぱし、行っちゃいましたーヽ(*^。^*)/
エネルギー充填したし、献血後でも問題ないっしょ。
烏丸通は7時台になるとRUN不可能です…少なくともわたしの心理的には。
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【なぜ夜RUN?】ちと思うところあって、醍醐寺へ。
明日の分やってしまったので、明日はお休みドス。
 今日は献血行くから夜RUNできひん…っていうか、「魔のモーリ-レポート」さっさと出したいのでそっちに集中しようと思ったり(*^_^*)
【で、献血の話】 
 今回は、半年前の「超絶まるぷく体型」での献血以来、それを脱して初ということで、いろいろ期待ワクワク(チョイ心配含む)なのであった(*^。^*)
@まずは何より、事前検診をクリアできるかどうかの問題。しかし、朝昼抜きでもOK、血圧いつも通りでOK、比重測定バッチリOKであった。 
Aそして無事400ml採血開始。わたしはいつも採血されていくじぶんの血を「ガン見」するのだが、今回の血の色はこれまでのドス黒ではない、鮮やかな赤みを確認できたことには驚いた。この数か月の諸般の取り組みによって「汚れが少なくなった」ということか「単に薄くなった」ということかはわからないが、印象としては極めて「健康的な変化」のように思えたのである(後者であれば、比重検査で引っかかったのではないか?と推測)。余談であるが、今回採血した看護婦は針の刺し方ちょっとヘタピーであった(>_<)
B実は献血で最も楽しみなのは、最新型の「タニタ体脂肪計」に乗れること♪体重が減っているのだから当然いろいろな組織が改善されているはず…という予想通りであった上に、体内年齢は34歳ですと!(*^。^*)ウヒョヒョー♪
C京都の「献血ありがとうグッズ」は、いつもいつまでも「歯磨き粉と歯ブラシ」。今回の特別プレゼントは「アタック3包」(マジ不要)…このあたり、サランラップやジプロックみたいなのに変わってくれないかなーと思ったりする(-_-;)ついでにいうと、ロビーに設置されているお菓子は常にカントリーマァムとボンチ揚げ、飲み物は合成添加物や砂糖バリバリのソフトドリンクばかりである。「健康礼賛」の施設なんやから、おにぎり味噌汁ゆでたまご、牛乳とか野菜ジュースとかにならへんかな。いくら「たくさん飲んで食べていってくださいネ」と言われても、わたしにはコーヒーかお茶しか選択肢があらへんのどす(>_<)
…てなわけで、「1日3食をしっかり食べないと体調を崩すという定説」は、少なくとも現在のわたしには当てはまらない、というよりむしろ逆効果でありそうなことが証明されたと思う。また、ここのところのRUNモチベやRUNペースの回復は、すなわち「体内組織の若返り」であったようだ。しかも一番ノリにノッていた34歳くらいの時期に相当しているというのは、わたしにとって実に説得力のあることである。残る体脂肪(皮下脂肪)をうまく調整できたアカツキには、さらなる好転変化がみられるのだろうか…半年後の献血日を目標に、ジワジワ攻めてみようと思う!…って、今度の献血日は、センターに「体脂肪計壊れてないか」の事前確認は必須やなっ(*^。^*)

2/23 火 0.0   お休み(-_-)
今日の分は昨夜走ってもーた(-_-)
****
朝一で見た「渡部篤郎30代女性と結婚へ」のニュースは衝撃であった(゜o゜)
秒読みの相手は中谷美紀だとばかり思っていた…ナンダカナァ。
 昨日、「献血後に運動」をしてみたわけだが、別になんともない…もっとも、5時間も経っていてなにかが起こることの方がふつう(献血できるほど健康な人)にはほぼアリエナイのだが(-_-)
 今日は醍醐寺の五大力さんで、例の餅上げ競争が開催される。「今年こそは…」と企んでいろいろ情報収集してみたのだが、まずは女性部門で持ち上げる餅の重さが90sもあるということを知らなかったことを知った(-_-;)せいぜい4〜50s程度だろう、それならボッカでさんざん担いできたもんねー!工場でスペアナやオシロをさんざん持上げて運んでたもんねー!背筋だって130近くあったしー!v(^_^)v…というのが、これまでわたしの勝負心をくすぐってきた根底にあったのだが、実際はその2倍!完全なる未知の世界である(゜o゜;)ウヒャー。
 さらに、昨年の優勝者はその前年に2位であった屈辱を晴らすために、1年間「専門の道場」に通って鍛え上げてきたツワモノだという。こりゃもはや、単なる縁起物の飛び込みイベントなんてもんやない、立派な重量上げ競技大会やん!ちょっとばかり人より力持ち程度、の自信だけでは話にならへんわ…というわけで、そもそもの認識の甘さが続々発覚するにつれ、「餅上げで優勝」はおろか、その参加の意思自体を永久封印した方がよさそうだという結論に至らざるを得ないこととなった次第(-_-;)
 かくなるうえは醍醐寺に未練なし。あくまで個人直感的感覚としてであるが、「あのお寺には既に何もない」という空気を感じているので、祈祷もお札も観ることに魅力を感じないのである。それならば、人の多いところでイライラストレス貯めて走るより、今日のうちや!と思い立ったのが昨夜のRUNの理由。
 今日は黒豆たいて、おつとめを念入りにして、お昼にビックリハンバーガー買いに行って(しゅ〜る之助へのごほうび)、そして「魔のモーリーレポート」をやるのだー(*^。^*)
 
2/24 水 20.0   桂川コース☆
淀まで…と思ったが、ふと「毎日20以上はちと多いんじゃないか…?」と、思ってしまう今日はどこか調子不良なのだろうと感じて引き返してきた(-_-)ヤルコトハ、テンコモリニアル。
 30年も前には、「マスク」をしてまちを歩いている人なんてのはよほどの重病人か変質者か…というような印象で、どちらにしても近づかないほうが無難だろうてな印象をもったものだが、今ではそんなことを言っていたらすべての人を疑い怖がらなければならないほどで、ある種「季節のファッション」化したようなきらいさえある。色柄の入ったそれがふつうに店頭に吊るされているようになり、「口ばしでも生えたんですか?」というような立体型をつくる形状の物もスタンダード化した。いやはや…世の中、変われば変わるもんである。
 しかし、ここまで誰もかれもが…となってくると、そのマスクが一体何の目的で付けられているのかというのが少々気になるところである。「花粉症・アレルギー」や「乾燥予防」なら問題ないが、インフルエンザや風邪ならば「危うきに近寄らず」が賢明であろうし、コンビニ強盗や変質者はてまた口裂け女なら「逃げるにしかず」だ(>_<)。
 話は変わるが…今日冷蔵庫を覗いて、3か月以上前に入手した「スギナ茶葉」のパックがまだまだ大量に残っていることに気が付いた。なにかのきっかけで「解毒、骨粗しょう症予防、ミネラル満点」と、言うことなしの効能を知り、惹かれて購入したものだ。リピート1回、都合4袋消費をしたのだが、ここへきて「意識の外」になるほどの存在になったということは、たとえどんなにキキメがあろうと「わたしには必要ない」あるいは「相性が悪い」ものであるということなのだろう。もったいないから残っている分は使い切るが、改めての注文はないと思う(広告メールは止まないだろうが)。
 このお茶の煮出しや保存はやや面倒であるが、それが「停滞」の理由でないことは明らかである。なぜなら、黒豆を炊いたり、茎わかめの佃煮を作ったり…という、お茶以上に手間のかかるものについては、常にワクワク楽しくこなし、パクパクと食べきっては繰り返しているからである。1日1回はかき混ぜるヌカ漬けや、年1回の梅干しつくりも同様の範疇に属することであろう。
 「カラダに良いモノ・必要なモノ」は、その人にとって「食べたい・食べておいしい」ということだけが基準になるのではなく、それを入手しようという段階から「十分に興味があり、楽しみがあり、あらゆる条件(制限)を看過容認できるかどうか」というところからが重要なポイントになるのだと感じる。無意識の中に起こるそういう取捨選択の行動を察知し、「個人情報」として蓄積・記憶していくことは、巷に氾濫する健康情報に右往左往されることよりもはるかに価値と効果の高いことであるように思われるのである。念のため付言するが、これは「肥満や病気があるのに止められない」ような病的資質がある場合を省いた話である。
 これに照らして鑑みるに…京都マラソンを完走し、どう考えても疲労困憊しているはずのしゅ〜る之助が、丹波口から家に直帰せず七条のビックリハンバーガーをGETするためにモクモクと歩いたことも、それが叶わず今度は家とは反対側のモスバーガーに歩いたことも、「ワシにはどうしてもハンバーガーが必要なんや!」というカラダの芯からの欲求行動であったと理解できて興味深い。しゅ〜る之助の場合、それが常時100%「肉&アブラ」に向いている、一般には決して推奨されない2016111200
2/25 木 0.0  
2/26 金 0.0   40'12"03…信号や人の往来かわし込みなのに、毎々さほど変わらない数字が出るのはキセキ?(^_^.)
まー今月は、ガッツリとバイトの対応に食われた1か月となりましたわ。しゃーないけど(-_-;)
 こんな風に、小さな会話のやりとりにおける齟齬なんてレベルは、まぁまぁよくある話でどうってことない。わたしが今一番憂いている(怒っている)のは、こういうイケナイ関係性が「職業化」して世の中にデデンと居座っている…いわゆる「カウンセラー」みたいなシステムがジャンジャンバリバリ台頭していることだ。実は昨日の記述も、暗にそのことを主張する意図があった(^_^.)
 人の悩みや考えている「心の中の問題」が、日頃まったく接点のない(少ない)第三者によって対応されることをヨシとする…「スクールカウンセラー」だの「臨床心理士」だの、とんでもない資格が氾濫していることに、わたしは大いなる疑問と危惧を感じている。そこにまったく意味や効果がないとは言わないが絶対ではない。型にはまった教育訓練を受けただけの「有資格者」ができることには限界があるからだ…だいたい、教本にしがみついて勉強した理論だけでマトモに解釈できるほど「ひとの人生」は単純なものではない。おそらく、そういう相談の場では「それは発達障害ですね」「PTSDですね」「トラウマですね」「共依存ですね」等々、ヒトをやっている以上アタリマエの範疇でもある現象をいかにもな学術用語で言い換え断定(推測)し、言われた方も「フツウではないことを理解してもらえた」ことで満足する程度のやり取りで終わってしまっているのではないだろうか。
 まぁ、その程度で「気分スッキリ」になるケースも多いのだろうからそれはそれで結構なのだが、「ひとのこころの問題」がすべてその方向で処理されていくようになることだけは絶対に避けなければならない。近々「企業における社員のストレス管理」が法令化するらしいが、ここにも、今後増加する「そのテの資格者」の居場所確保の策略を感じる。仕事・家庭・健康その他モロモロの事情が複雑に絡み合った上で起こるはずの「その人100%のありよう」に全責任を負わされるとは、企業もとんだ福祉団体に成り下がったものである。
 「ひとのこころの問題」は、結局はそのひと自身でしか解決できない。その手段を迷いながら、時に失敗しながら手繰りよせ、ようやく行きつけるところに真の「解決」があるのだ。その方法が、引きこもりであったりニートであったり、SNSであったり音楽鑑賞や読書であったりRUNであったり、はてまた宗教であったり…経緯は千差万別のはずである。
 願わくは、これからエラそうにはびこっていくであろう「社会的対応システム」に対し、「オレの悩みは、そんな単純なもんじゃねぇ!」と、自ら発奮する「たくましき苦悩人」が増えていくことを。…っていうか、そういう風に思える人だけが、「本当に悩める人」だといえるのだと思う。「ビジネスとして成立した仕組みの中でやさしくしてくれる人」に我が身を委ねることなかれ、である。
 かつて大教大池田の事件で、スクールカウンセラーの導入が報じられたとき、ある教育研究者が「あんなものは必要ない。子供の動揺など、親がしっかり抱きしめてやればそれで済むはずだ」と怒った発言を、わたしは「専門家でも、わかっている人はわかっている」と感動的に聞いたことを記憶している。ひとの哀しみや恐怖を本当に癒してやれるのは誰なのか、何なのか…一番人間らしい体温のある道を作ってやれる方法は、実は何気ない日常を共に生きている者同士の中にある。不器用であろうと賢くなかろうと、「生きようとして生き続けている」わたしたちひとりひとりがその対象者なのである。
 
2/27 土 18.0   城南宮。
この界隈にきたらお約束…の「おせきもち」もGET(*^_^*)
 えー!休日なのにこの距離デスカー?と思ったが、帰ってきてベランダから遠景を眺めたら空気真っ白!(゜o゜)
 調べたら、案の定PM2.5どっさりやん!(-_-;)…本日はこれで正解?
 お昼の某ラーメンは大失敗?
 
2/28 日 10.0   今日もPMバリバリっすよ(-_-;)
なので、魔のモーリーレポート、今月中に終える!終えなければ!が優先。
っていうか、これはPMに関係ないノルマや!(-_-;)
 京都マラソンは地方局KBSでしか放映しないのに、なぜ東京マラソンは全国放送?(-_-;)トウキョウバッカリ、プンプン!…と、思ったら、このレースは「リオ五輪代表選考レース」やったんですね(*^_^*)
 地方人のとんだヒガミでした。しかしまぁ、男子は早よおすなぁ。フツウ人の2倍て…(-_-;)
 さて、昨日残した洗濯(ほぼわたし分)をしまひょか、と、洗濯機に行ったら、洗濯層の中にもカゴの中にも、新たなしゅ〜る之助分がドッサリと…(゜o゜)ウヘーッ!
 せやし昨日「着替えて洗うもんはよ出して!」ゆーたやんか…しかし、ホントなら女のほうが多い気がする洗濯モノが、うちでは男の方が2倍て…(-_-;)
2/29 月 0.0   雨だからゼロ(-_-)キリッ。
よって、
「しみけんチップス」は祇園花月で売っているのか?…の解決RUNは来月に持越し。
…っていうか、今日はどのみち休館日やん(-_-;)
「ひとは100日で変わる」
…そのコトバをどこかで聞いた当初は半信半疑であったが、実際本当だった。
思い起こせば、そんなことがこれまでにもいくつかあった気がする。
 「諸行無常」…人間は時々刻々と変化するものであるとは厳然たる真理である。「10年前と今」「3分前と今」、どのタイミングをとってもそれは言えることなのであるが、あるひとつの明確な意識づけをもってそれを捉え、無理なく達成しようとするときには、「100日」は実に適切な時間であるように思う。
 今回、「これ以上は健康問題に関わる」という最悪の体重から7キロ減をするまでに約100日、カラダの柔軟性をそれなりに維持できているようになるまでにも100日。過去、体重10キロ減並びに「10キロ以上のRUN」を難なく達成できるようになるまでに要したのも約100日であった。むろん、それ以上の時間をかけても成果はあるはずだが、劇的な「自身の実感」として大きな喜びや自信を伴った変化を感じるには、この程度の時間内に達成できる努力加減を実践することが必要ということだ。
 「時間は無限大」に思えた若い時代とは違い、至極当然の成り行きとして「人生にタイムリミット」がかかった今、それでも「やりたいこと」「やってみたいこと」については、この「100日ルール」というのが大いに意味のある指標になるように思う。「できるかできないか」を考える前に、気になるならばやってみよう。そうすれば「100日後」には達成できているか、できていないとすればそれは「捨てるほうがよい」ものであるかもしれない検討事項となる。
 また、あれこれ雑然と「浮かんでは消えて」きたことについては、真剣に「100日考えて」みようと思う。そうしてみて動きひとつ取れずに過ぎたものは、もとよりわたしの人生に必要のないことであったとして忘れることにしよう。
 ちなみに、今時点で「捨て去ったもの」を列挙しておけば…生け花、日本舞踊、茶道、社交ダンス、テニス、詩吟、柔道、剣道、日本そば(アレルギー再確認)、どじょう、あん肝、フォアグラ、あらゆる楽器演奏(小指短すぎてそもそも先天的にムリ)、楽譜読み、餅あげ、クラブ(ディスコ)体験、モデル、女優、歌手、弁護士、医師、各種士業、アメリカ・ヨーロッパ旅行、囲碁将棋、妊娠出産、圧力鍋、株、財テク、歴史の丸暗記、太宰の理解、成分献血、がん検診、骨髄バンク、アイバンク、パンお菓子作り、サブ3、書道、珠算、SMAPコンサート、ジェットコースター、サプリ、タクラマカン砂漠、などなどなどなどなど…(^_^.)
 ・・・・・・・・・
 が、そんなことより無謀な「あれ」が記述されていないことに要注意☆
(-v-)ニヤリ。
走行距離 400.4  km