あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
12/01 火 21.0   桂コース(御霊神社を探せ!)
念のため地図で調査したところ、京都には「御霊神社」がワンサカあることを知った(゜o゜)
 ここのところ「おせち料理」が気になってしかたない…思えば生まれてこのかた「おせち」に箸をつけたのは9歳(40年前!)のアソウさん家での体験以外にない。もっとも、年寄りくさい甘いモノばかりで関心もなかったのだが…(-_-;)ツマリ、トシヨリクサクナッタッテコトカ?
 おせち料理は今や「外部委託」がフツウになったらしく、デパートやコンビニではクリスマスケーキ同様その商戦にヤッキになっているようでチラシはなんぼでも手に入るが、どれも目ン玉飛び出るで!くらいに高価であることが難点である。「おひとり様用」でも5000円は下らない…さて、これだけ大金をはたいて「費用対効果(最近はコスパっていうんか?)」はあるのだろうか?.届いてみたら「切れ端」だらけのセコイおせちやった!てな事件もあったしね。あれは早稲田のネットカンニング同様、その3か月後の震災で大きく騒がれることもなく収束してしまったけど。
 …となると、好きなものだけじぶんで作った方が安上がりか?とも思う。実際、調理としては楽しそうなものばかりやし。黒豆、栗きんとん、ごまめ、数の子…思い浮かぶのもせいぜいこの程度だから、いっちょやってみるべーか(*^。^*)
 
12/02 水 5.0   テキトウに流すだけのコース(うち付近)
国家公務員バイト…この職場は、間違っても民営化することはなく、サービス的要素もないので、「感じワル〜」な対応でもOKなのがエエトコロだ(?)
長年、CSだのなんだのと追求しつつ仕事をてきた者としては、その冷たさが新鮮なシ・ゲ・キ…(*^_^*)フフフ☆
 ここ数か月の間に、配達すべき郵便物を大量に隠し持っていたトンデモ郵便局員の話題が2連続した。どちらも「四国」での事件であり、さほど身近なことではないはずであったのだが…!
 たまたま「香川」発の通販商品を注文し、それが届くはずの昨日に届かなかった。今は伝票番号で状況の追跡ができるので早速調べたところ、「香川→京都」直送で良いはずの物が、なぜか「徳島」で停滞していることが判明したのであった(゜o゜)ナンデヤネン!
 あまりの不自然さに興味津々で問い合わせをしたところ、「発送主の宛先書き間違いだと思います。」という即答にブッタマゲさせられた★それなら、なぜ荷物は送り返されず、わたしの手元に今夜届くことになっているのか?状況からみて、郵便業務側の何らかのミスによるであろうことがほぼ確実なのに、その可能性にすら言及せず「わたしたちは正しい」みたいな対応には、いやー驚いた!(>_<)
 何があるのかは知らないが、四国の郵便チョットヤバイ?と実感的に思うと同時に、民営化だのなんだのゆーてもまだまだ「公務員モード」から脱却し切れていない体制を垣間見たような気がした次第。
 
12/03 木 0.0   雨だからゼロ(-_-)キリッ。
昨夜見た「これから消える仕事」のニュース。不快極まりない。
 人工知能やら何やらが代替することで、人間が追い出される…これまでにも、駅の改札員やキオスクのおばちゃんなど「誰の目にも明らかな事例」はいくつかあるが、今回リストアップされていたそれは、一度に把握できないほど多くの職業にわたっていた。しかし、「電気」があることが前提の理屈に世の中が動かされているのは怖すぎることである。
 示された一覧には、結局「庶民イジメ」になるような職種がたくさんあった気がするが、そのニュースをエラそうに語っていたアナウンサーをはじめ、歯医者、医者、教師、地方自治体の役人あたりのほうが、むしろ早急にチェンジしたら良い。まぁそのあたりの職種は、「可能を不可能にするヘリツク」で生き残るのであろうが。
 現実をみれば、どんなコンピュータでも及ばない精巧な部品を「目と手」で作り出す下町工場のオッチャン達がいるし、逆に、ヒトが踏み込めない放射能測定・処理や地雷除去が失敗しまくっているわけだから、そうそう簡単に移行するような話ではないだろうが、「ひとが働く」ということへの不安を煽るような話を予測の段階で公表するのはいかがなものか。経済学者だか社会研究者だか知らないが、延々勉強し続けて言えることがこの程度かよ!である(-_-;)ナサケナイ。
 
12/04 金 8.0   おつとめサボってもこの距離でギリギリ(^_^;)
国家公務バイトdayやし、しゃぁないわ。
RUNやウォーキングが、必ずしも健康に良いことばかりとはいえないというのは正しいことのようである。
 ある程度距離が出た日とそうでない日の差は、翌朝感じることができる。筋肉のハリ加減や水分の偏り(いわゆるムクミ)など「肉体」に対しては、RUNは明らかな負担であり疲労のモトなのであるということを、最近しみじみ感じる。
 おつとめの励行と食事の管理で、開放的な健康感はほぼ達成されることがわかってた現在、ある意味RUNは「もはやあってもなくてもどうでもいい」位置づけにあると言えなくもないが、それでもやってしまうのは、前述の方法のみでは達成できないことがいくつかあるからだ。ひとつには「心肺機能の現状維持」であり、またひとつには「RUNすることで得られるオタノシミ要素」が捨てがたい、ということである。前者は、この十数年で培われてしまった「スポーツ心臓(洞性除脈)」とのつきあいの関係でもあるが、後者は「楽しい・うれしい」という感情的なことにほかならない。
 「レースが」「記録が」「仲間が」というような間接的要因が、ムリヤリなモチベーションになっていることがまったくないこと自体、幸運なRUN環境である。
 
12/05 土 30.0   雲ヶ畑、鴨川源流コース
(今回は白川あたりを歩いたのんも含む!)
そこを「ドンガハタ」と言い続けた民族学の講師は今いずこ?
…15年前、全国から集った200余名の学生には、そこが「ドンガハタ」であるまま記憶されているであろう。教育とはおそろしいものだ(-_-;)
 「天才・空海」は、真言宗の祖というより「水にまつわる不思議なオジサン」というイメージで広く人々の伝承にあずかっているような気がする…満濃池がどうしたこうした、なんていう教科書話をさておいても、渇水を救っただの洪水を鎮めただのという話は全国各地、驚くほど多く散在しているのである。その伝承がすべて正しいとするならば、彼は遣唐使に行く暇も最澄と喧嘩している余裕もなく、ひたすら全国行脚をしながら治水工事に励んでいたことになる…(-_-;)
 実際には、それぞれに空海ちゃんが絡んでいるとしてもそれはあくまで間接的なものであり、たとえば京都で空海ちゃんからそのノウハウを学んで帰った僧侶が現地指導した程度でしかないはずだ。ともあれ、何かの先行する偉大な存在にあやかり、こじつけて、その権威を高めようとする意識は今も昔も変わらないものがある。東京圏の「○○銀座」、京都圏の「○○京極」もしかり。
 ただ、本件に限って言えば、ことは人々の生活や生命に直結する「水」の問題である。仏教以前のそれは制御しようのない「カミの所業」であったことを考えると、それに人為的な手を加えたことへの恐れ、また、不幸な被害の再発を封じ込める呪力への期待が、「弘法さんの仕事だから」という風に転嫁・昇華されていったのかもしれないと思う。「弘法さんのやったことだからわたしたちは知りません」というカミへの逃げ口上でもあり、「あの弘法さんのやったことだから、もう災いは起きないだろう」という信仰でもあり…各地に散らばる「弘法さん」は、ある種の「お札」の役割を果たしているということだ。
 雲ヶ畑の志明院は、空海ちゃんがオマツリの対象に定めた「鴨川原流」のひとつである。実際「原流」は無数にあり、敢えて彼がこの場所のみをオマツリの対象にした理由は他のいろいろな理由があると思われるが、いずれにしても結果的にはそれが彼のカシコイところである。だって、「鴨川はここの水からのみ発する!」てなことを言ってた日にゃー、とんでもないことになってまっせ。今日の場合、いくら凝視しても「ポタリ」ともせずカラカラでしたもん。
 
12/06 日 31.0   まさかの嵯峨野界隈2周コース(゜o゜)
まさかの公朝先生との再会(゜o゜)
(2周目、厭離庵天井絵)
 「おつかれさま」「ありがとう」「頑張ってね」…いわゆる「やさしいことば」や「ひとを幸せにすることば」というのは多々あるが、「まずはそれを言うことがイイコト」という勘違いをしている「エセやさしい人」が、世の中にはけっこう多いように思う。サイトウ某という億万長者は、「朝起きたらアリガトウ、いつでもどこでもアリガトウ、を口にすれば、人は幸せになれる」と、宗教的な人生訓を垂れているらしいがとんでもない話であろう。「アリガトウ」に対する冒涜である。確かに、朝起きることができたこと、ご飯を食べられること、働けること、ひいては呼吸できることまでも、その一々が「有難い=ありがとう」なことである。しかしそこに必要なのは「そのありがたさを常に感じる心」なのであって、それは「コトバ以前・以外」に現れることのほうが多いものだ。
 本当の意味での「やさしいことば」というのは、相手となる人やモノを「真に理解しているか、わかろうとしているか」の素養の上に発せられるものであろうと思う。それは時に「暴言」であったり「苦言」であったり…むしろそのケースの方が多いような気がする。危険ないたずらをする子供に向かって「危ないでしゅよぉ〜、やめましょうねぇ〜」なんていうのは、かえって子供の「かまってちゃん精神」を増幅させるだけで意味がない。「アカン!ヤメ!」と叫ぶからこそのものなのだ。どちらがいち早く子供を危険から救う刺激になるかなど、一目瞭然である。かの大日如来が不動明王に姿を変えてまで教えようとした「常識」を、今一度思い起こしたいところである。
 また、「やさしいことば」というのは、どこまでも具体的で深い、語られたその人にしかわからない表現を持つものでもある。わたしの過去の経験上、それらのことばをかけられるひとというのは、自らが痛く苦しい思いを体感してきた人にほど多い。皮肉なことながら、受験や就職戦線を勝ち抜いた偏差値の高いエリートほどその資質に乏しいのである。どんな状況にでも使えるありきたりなことばがただ横滑りして、実際なんらの心ある動きも取れなかった証拠が、今の企業経営や政治には満ち満ちているではないか。。
  
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 「ここまで、走ってきたんです…」
 「おぉそれはそれは…アンパン、もろたか?」
…15年前の冬、愛宕念仏寺にて。公朝先生との会話をまたひとたび思い出しつつ、わたしは厭離庵本堂の天井に描かれた飛天の絵を眺めた。元々あった「木目」のうねり模様は、塗りつぶされることなくそのまま飛天の舞う「雲」になっていた。「石も木も、もっているそのままを生かすのが大切なんです。こちらが、じっとみつめて、それをみつけてやらなあかん。」…森羅万象をやさしさで見つめる公朝先生であった。あのとき、あの状況で、わたしだけに向けられたやさしさがことばになった、それが「アンパン」である。その甘さやおいしさはわたしにとって、単なる味覚の記憶とは別の醍醐味となって今なお残っている。
  
12/07 月 0.0   まったくやる気なし!なのでゼロ!以上(-_-)キリッ。
買い物も、市バス1日券で行くわっ!
 七条のホームセンターに培養土を買いに行く。恒例のチューリップ植えが遅れに遅れ…って、いつも通り10月ごろ植えつけてたら今頃咲き乱れてたかも?な暑さだったので、タイミング的にはむしろよかった気もする。ほか、7年使いまくってクタクタになっていたモップ、新しく漬けるユズ酒用のビン…倍の値段やけどもちろん日本製!(-_-)キリッ。
 この往復でバス3回乗車…既に乗車券のモトは取ったが、3回程度で終わるのはシロウトさんのやることや…ということで、図書館へGO、これで5回!(*^_^*)スッゲー、オバチャンコンジョウ!
 かつてこの乗車券が700円だった頃、12回乗りまくった記録には及ばないが…テヘヘ。
 
12/08 火 20.0   なぜかお気にいりになった桂コース♪
5キロ体重が減った分カラダ軽く感じるかというと、そうでもない。
 これまでいつも不思議に思ってきたことなのであるが、わたしの場合、体重が増減してもそれがスピードやテンションに影響する感覚がほとんどない。どれだけズドンズドンな体格であろうが「調子がいい」ときにはかなりのスピードが出ていたのである。とはいえ、その負荷は重いほど大きいことに違いはない…おそらくその帳尻は心臓が合わせていてくれていたのだろうと思うと、ありがたいというか怖いというか(-_-;)
 全体として「軽い感じ」はないが一点だけ、「腿上げ」の高さが上がったような気はしている。上りはともかく、平坦な道では必要以上にモモがもち上がっていて、ムダなことしてるなぁ…という感じがするんである。つい最近まで、それくらい持ち上げる力を使わないといけないくらい足に重さがあったということなのかもしれない…と思うと、これまた「体重が軽くなった分、余分な負荷がかからなくなった」ということになるのだろう。やはり健康的なRUNには、適切な体重というものがあるようだ。ただしそれは、「軽ければ軽いほどよい」ということでは、決してない。
 いわゆる「エリートランナー」というのは、女性の場合、身長問わず体重40キロ前後、体脂肪ヒトケタという異常事態が「当然」であるようだ。一般庶民ランナーでも、このスタイルに憧れ目指すアホなおねえちゃんがいるようだが、はなから「それはアリエナイ!」とバッサリ切り捨ててきたわたしには、その時点でサブ3も国際レース出場も「アウトオブ眼中」であった。今にしてみれば、それでホンマによかったと思う。…というより、除脂肪重量が一般平均より4`増しの42キロと測定され、そこに「健康的な女性機能維持」に必要な最低脂肪量16%を加えれば、どうしても50`を越えてしまう体をもったわたしには、先天的にそんな素質はなかったということになるわけである。
 わたしのRUNは徹頭徹尾、「タマシイの解放」のためにある。それは記録のように破られるものではなく、レースのように場所と時間を設定されたものでもない。限りなく自由な空間を駆け抜ける遊びであり続けるのだ。
 
12/09 水 20.0   またもや桂コース☆
かの風水的には艮(うしとら)なわたくしにとって、この方向は「最大吉」に近い…てなことは関係あるのかないのか?
とにかく、「エエカンジ」で走れることは間違いない(*^。^*)
RUNと家事のやりくり…それは単に「時間」の問題だけではない!
「電気」との関わりも重要なのだ☆(-_-;)
 炊飯器は「保温」にいちばん…かなりの電気代がかかるという。したがって、炊けたらすぐスイッチを切るというのがマイルールになっている。しかし朝イチでこれに取り掛かると以降60分(短くて40分)、家に拘束されることになり、その分RUN出発が遅くなり…あとのいろいろが押せ押せになっている気がするのが、実はちょっとした悩みのタネであった。
 そこで発想転換ヽ(*^。^*)/キャハーッ!
「朝起きたらまずはしゅ〜る之助弁当」というプログラムを後回しにして、お米といで炊飯器に仕掛け、「約2時間後にタイマー設定」でRUN出発するのである。帰宅のタイミングでスイッチを切り、おかず作ってドーン!これで30分以上の余裕時間ができることがわかったのであった。もちろん、懸案事項の「保温時間」はほぼゼロ☆(*^。^*)カシコイ!…ッテイウカ、ナゼ、キガツカナカッタ?
 ワタクシの電気並びに水に関する「やりくり」は、エネルギーの無駄遣いを極力防ぎたい…今風にいえば「エコ感覚」に立脚しているものである。これは昨今の流行に乗じたものではなく、はるか35年も前に家事全般をこなした時の「直感的な気づき」から延々続いているものであって、そこにミスをすることはもはや罪悪感に近いほどの意識づけとなっている。
 その奥底にあるのは、
「ここで使わなければ、それは別の誰か・何かに…」ということだ。
「ご飯の温かさ」が「暗闇の災害救助の灯り」に、「食器のすすぎの合間に垂れ流す水」が「誰かの渇きを潤す水」に…同じものが、使われようによってどれだけ違う役割を果たすかを考えると、ムダは徹底的に省かなければ!と思わざるを得ないのである。また、そのような姿勢は資源の消費量そのものを減らすことにもつながるわけである。むろん、使わなければ必然的にその代金も安くなる。しかしそれはわたしにとって付随的結果論でしかない(-_-)マァ、ヤスクナルノハ、モチロンウレシイ。
 些か大げさな事例提示ではあるが、このような思考回路をもつことは今この時代、誰にも必要なのではないだろうかとも思う。エネルギーというのは元来的に、「ヒトがその生命や安全を守るために必要なもの」なのであって、「より快適に、より便利に」は二の次の話のはずである。
 「なんやかやゆーて、結局ケチなだけやん」と思われても構わない。「そんなオオゴトにせんでもええやん」と笑うのも大いに結構。ただし、ここに明言しておこう。このことが理解や意識の一端にも及ばない者たちには、「原発反対」を叫ぶ資格はもとよりない、ということを。
 
12/10 木 5.0   東寺さんコース
2時起床…いくらなんでもRUNスタートは早すぎるので『十八史略』と某のアホな学術書などツラツラ読んでいた(-_-)
 「古典」というもの、学校で文法だのなんだのと難しい教え方をするためにかえって学生を遠ざける結果になっていたものだが(今もか?)、単にその内容だけを追っていけば、ヘタなエロチックやバイオレンス小説よりも過激で面白いものが多かったりする。時代や国が違っても、人間の本質的な欲望やいやらしさは変わらないのだなぁとしみじみ感じることができたりするんである。若いときに読めば、それは「これから自分が向かっていく人間社会の予習」になるのだろうが、この歳になって読むそれはまったくの「追認・復習」であり、これまた感慨深いものがある。
 かたや某のアホな学術書というのは、ある高学歴な科学者による「脳」についてウンチクである。頭が良くなるには「味の素の摂取が一番」という御説をはじめ、今でいう「知障」を平気で「バカ」と記述するなど、ほぼ危険書物化している内容であるのがいろいろな意味で面白い。昭和35年初版、45年に増版のこの書物は当時のベストセラーであったそうだから、その内容はごく普通に読まれ、そして受け入れられていたことになるだろう。わたし個人としては、幼少時より長年にわたって受けた「社会的イジメ」の背景とその闘いの記憶が、決して誇張されたものでも脚色されたものでもない、そのままの事実であったということを再確認できた内容でもあった。
…人格を変え、強がって、しかし、よく越えてきた。この点だけは、じぶんを素直にホメてやりたい。たとえその結果「カワリモノ」になったのだとしても、誇るべき勲章であろう。その「カワリモノ」であったからこそ、今に続くRUNの日々が始まったのだということを含めて。(-_-;)
 
12/11 金 0.0   雨やんで…でも、なんか怪しいのでゼロ(-_-)キリッ。
京都の空は美しい。今朝は、ナスを塩もみした手を水にさらした時の色だった…って、比喩が美しくない?(^_^;)
 PCの前に座ったら、足元に1本の髪の毛が…それがなんとも太くてツヤツヤ!(゜o゜;)アレッ?
 しゅ〜る之助が浮気性な男だったら「さては女が来たか?」みたいな発想になるところだが、そりゃアリエナイわなーなこと…あったらスゲーよ!なので、これはほぼ確実にワタクシの抜け毛ということだ…これはこれでスゲーよ!なのである(*^。^*)
 ワタクシの髪の薄さ・細さは、歳を取った最近始まったことではない。若い頃から同世代に比してサビシメであったし、遺伝的にも覚悟させられることでもあったので、人生半分越えて「まだそれなりに体裁が整っている」状況にあることはありがたいくらいである。数年前には「ウネリ感」や「パサつき」など、中年女性らしい髪の悩みの要素が加わりつつあったが、元々「ないよりはマシ」という次元にまで落とし込んだ認識にあったので、さしたる苦悩にはならなかったわけである。
 ところが最近、さらにどんどん状況が悪くなっていくはずだった髪に変化が…いつしかウネリはなくなり、つやが出はじめ、そして今朝の「妙に太い髪の毛」の発見である☆欲目を厳重に差し引いてみても、ワタクシの髪は「改善」されているようなのだっ(*^。^*)ウキャキャー!
 さてその秘訣は…無論、発毛エステでもないし、高級シャンプーなどでもない。最近のわたしのヘアケアは、それらとはまったく逆の「なにもしない」なのである。基本は湯洗い、たまにせっけん洗い、ドライヤーは今まで通り気が向いた時だけ…一般にはにわかに「信じられなーい!」なはずの放置状態が功を奏したということ以外考えられないのである。お金も時間もかけず、あれこれの情報ジプシーせずに望ましい状況が得られるとは、いやはやなんとも(*^_^*)
 
12/12 土 15.0   五条通ウロウロ。方向定まらずテキトウに流す(-_-;)
最近、「現代美術」に深入りし始めているが、無理なく「わかる」のは絵画であって、彫刻はイマイチ(-_-;)
西京極のんも五条大橋のんも「だから、なに?」みたいな感触。
 何年か前、藝大の卒業生の作品を特集する番組を見て以来、わたしの「美術を見る目」が変わった。それまで、ナンチャラ主義だのナントカ技法だの、脳の構造が一般とは違う人々のコムズカシイ世界だとばかり思っていたのだが、彼らにも「人としてあたりまえの主張や感性」があり、しかもそれが実に深く思考されたものであって、それらを作品に込めているのだということが分かったからだ。学者や小説家がその内容を文章・理論で表現するところを、彼らは色かたちに置き換えているだけのことである。むしろ、いくらことばを連ねても果たしきれない何かを一瞬にして知らしめる力は、美術のほうが強大であるかもしれないような気がしている。
 絵といえば、いたずら書き程度のブサイクなものしか描けないわたしが、絶えず「きちんと絵が描ける」ことに憧れてきたのは、そうした「表現の力」への羨望によるものであったのだろうと思う。とはいえ、イマサラ感満載なこのコンプレックスを解消する努力に費やす余裕は少なくとも今のところないので、せめて世に出ている優れた作品をたくさん見ることによって、世の中や人というものを眺める「別の目」についてどんどん知っていきたいと思っているところである。
 京都は「芸術のまち」でもあるが、RUNをしている最中に目に入ってくるのは、立体的な彫像や造形ばかりである。これらは、「何らかの自己表現・思想表現」というより、ある権威を帯びた作者の「見せつけるための表現」であることが多く、わたしが求めているある種の純粋性は失われているケースがほとんどである。五条の弁慶&牛若、西京極、池坊の花…等々。この際、堀川や木屋町、北山あたりに、現代美術が野外鑑賞できるような道ができたらオッシャレーやんなぁと思うが無理な話か(-_-;)
 
12/13 日 0.0   「良性回転性めまい」の軽いめバージョン的な感(@o@)ポヨヨヨヨーン。
「一病息災」。
軽くフラフラだの、包丁で指先ざっくりだの、延々寝込むほどではないが、万全とはいえない不調やトラブルをしばしば抱える。
しかし、我が身の肉体に驕りをもたいないためには、このくらいがちょうどヨイ。
 ぶっだは、生老病死の他にあと4つ、「ヒトの苦の根源」というものを説いて「四苦八苦」とした。この中の「愛別離苦」というのは文字通り、愛する人・大切な人との別れをいうのだが、そんなことはことの大小・遠近を問わず常に繰り返されている当然のことなのであって、「ふーん、そうなんやなぁ」と受け流していくのほかは術がないことである。逆にその受け流しができれば、「愛別離苦」は苦しみとは成り得ないのだ。
 そこが「わかった」うえで、新たに「ひととの別れ」の話が生じると、それがなぜ「苦しいか・悲しいか」の理由の深層がスッキリ見えてくる…別れによる苦とは、それによって「今ある自分の状態」が崩れることへの不安や不満にほかならないのだ。
 国家公務バイトのパートナーが来月辞めることになった。もう一人の若いサポーターが「さびしいですぅ。なんとかならないんですかぁ。」とサメザメ泣いていたが、時間をおいて話を聞いてみると、出てくる内容は「彼女が辞めることで自分のシフトや待遇がどうなるのか?」の一点のみであった。なんとも利己的な不安であるが、これが人というものである。
 幸いにもここまで歳を重ねていると、「諸行無常」などということは否応なく知るところであり、それを認めないが故の苦悩はこれまで何度も経験していることであるから、それを繰り返す愚かさは重々承知している。些か冷酷であるが「さびしい」などという感情はまったく浮かばない。業務環境の変化はあるかもしれないが、それは「できればやれるし、できなければそれまでのご縁だ」と思う。どうなるかわからない先のことに全力で悩み、結局は損をしてきたことが山ほどある。あらためてそれに思いめぐらすような余裕は人生に残されていないのだ。
 
12/14 月 20.0   嵐山コース…夜も行くことになった(花灯路)。
先週に引き続き、「なぜか1日2回」な顛末となる予定である(-_-;)
ホームセンターや薬局が「コンビニ営業化」してほしい…と、しばしば思う。
それが叶えば、朝RUNで用足しできる案件がいくつもあるのだ(*^。^*)ムリムリ?
 ひょんなことから、「味噌」を手作りすることを思い立った。いつか(っていつだよ?)、衣食住とくに食のあれこれを「じぶんの手」で極力まかなう、という生活を夢に描いているので、まぁその練習というか、お試しコーナーみたいなもんである。
 材料は通販サイトの情報を吟味して調達することとして、問題なのは「壺」である。味噌作りに最適かつ、国内製のモノであり、より安価である条件を満たすのは、「陶器のツボ」なのであるが、知る人ぞ知る「久松釜」はなんと一昨年廃業していた(゜o゜)エーッ!…よって、例の「茶色に黒いアクセント模様」のツボは、今や「市場に出ているもののみで終了」な希少価値の高級品と化していたのだ!
 しかし…先日酒ビンを買ったホームセンターに、あの「茶色いツボ」はいくつかあった。あれが久松釜の製品か、もはや模造品であるのかはわからないが、一刻も早くそれを確かめる必要に迫られているのである。こんなとき、あの店が朝7時営業開始だったら、RUNコースは迷わず七条方面になるわけで…というようなことが、わたしにはしばしば起こるのである。実際、家庭の主婦とはいえ日中働きに出る女性が多くなった最近、こんな「しょーもないこと」を感じている女性は結構多いんではあるまいか?(*^。^*)
 もっとも、働く側からしてみれば、早朝営業・深夜営業の職場など「アリエナイ」ことなわけで、今後いつそういう店で働くやもしれぬ身としてはアリガタクナイ話になるわけだが…人間とは、つくづく勝手なものだ(-_-;)
 
12/15 火 20.0   桂川コース
当然のことながら「おせきもち」の店は開いていない…ここも、コンビニ営業してほしいお店のひとつだ(-_-;)
 鴨川や桂川(嵐山方面)は、「京都といえば…」の代表的風景として刷り込まれてしまっているが、「桂川下ル」の方向は全国どこに行っても「こんな感じのとこ、アルアルー!」なのが、また別の魅力である。もっともこれは、風景そのものが酷似しているということではない。全体に漂う空気・雰囲気が「かつて見た何か」を醸し出すということだ。
 わたしについていえば、それは八王子みなみ野のサクラの大木であったり、ニコ玉の鉄橋であったり、高津や稲田堤の土手道であったりする。
 同じことは、「山方面」についても言える。東山の将軍塚への登りや、保津峡の林道など、奥多摩や奥秩父のにそっくりなポイントがいくつもある…こうした場所には、「京都ブランド」が入り込んでいない、手つかずの原風景が残されているからだろう。
 …てなことをいいつつ、「京都のまち」そのものにも、そんな「原風景」チックなところは数多くある。都会ならとっくに建て替えられているような古アパート、民家の配達牛乳受け箱、横置き型のタバコ自動販売機、木製の掲示板等々…現在50代以上の人には当然であった「まちのあれこれ」が、未だ散在しているのである。
 このまちを観光で訪れ、名所旧跡を気ぜわしく歩き回る人々の目には、これらのものが意識的に入り込むことはないのかもしれない。しかし、1000年単位で歴史を感じるよりもはるかに現実的に、自らの記憶に密着して、「自分がここまで生きてきた」ことを実感できる空間は、実はこんな何気ないところにあるものなのだ。
 
12/16 水 5.0   「シャケナベイベー!」という内田裕也の口癖がアタマを渦巻いた(-_-;)
正しくは、「シャケない、ベイベー!」…あくまで、今朝のわたくしのケース。
しゅ〜る之助弁当用に解凍していたはずのシャケが、なぜか冷凍庫に入ったままだったのだ(゜o゜;)
 …というわけで、おつとめ返上でセブンイレブンにGO。ついでだから、直近のセブンイレブンを通り過ぎてグルッと行ってみたわけだ。
 シャケがないならなくてもええやん!といっても他の食材もほとんど冷凍状態なので、この際デキアイ惣菜に頼るしかなかったのである…めったにないことやしまぁええか、である。
 しかし…「焼きそば」といいつつ焼くわけではないカップ焼きそばと同様、「焼き鮭」といいながらお湯で3分ゆでて完成、というのも面白い。出来上がって袋を開けて出てきたシャケは、なんともヨレヨレで情けないシロモノであった。これはただの「加熱シャケ」であって「焼き」とは名ばかり…つくづく、やっぱりデキアイはよくない!と感じたのであった。
 セブンイレブンのCMでは、煮物焼き物ひっくるめて、食卓のおかずすべてを自社のレトルトでまかなう風景が展開されている。親も子も笑顔でそれにパクついているが、何とも言えぬ違和感である。人それぞれ事情や考え方があり、それはそれで結構だが、わたしにはそれを許容する大きさはない。「食べていけない」から仕事をすることに精を出し、今度は「時間がない」からと得体のしれない料理を高いお金で買ってくる循環は、どこか矛盾しているような気がしてならないのだ。とにもかくにも、こんなものは緊急事態に利用するのみで十分だと再認識した朝であった。
 
12/17 木 5.0   サクッと東寺さんコース
「無所有」ということについて、そのアリガタサをつくづく考える(-_-)
 たとえば、わたしにはマイカーどころか免許すらない。20代のころにはそれこそ「アッシー君」みたいな存在は結構いたし、ドライブの楽しさも便利さも知らないわけではないが、それはひとつの「若かりし頃の思い出」として完結しているのである。
 RUNをはじめて、100キロ圏内の旅はほぼじぶんの足でまかなえるようになり、わたしにとってクルマというものは「まったくもって特殊な存在」と化した。今でも、「免許があったら…」という脳内シミュレーションをすることはしばしばあるが、実際そこに「生活上の必然性」はなく、浮かんでは消える程度の妄想にしかならない。聞けば、クルマというのは所持しているだけで税金がかかり、さらに駐車場代をはじめ、動かすためにはガソリン代や整備費もかかるという。これだけのものを負って余りあるような理由は、実はほとんどの人にないのではないか…と思うのである。特に都市部で生活する人々には。
 「あるから便利」「あるから楽しい」「あるからステータスが保てる」…これらのものは、そこにまつわる状況が変われば、悉く「なければよかった」「なくてもよかった」という方向に急転直下する。たまたま偶然の成り行きではあるが、わたしには社会一般がフツウに要求するあれこれをほとんど所持していない。「フツウ」ではない分、いろいろな意味で損をしていると感じることは多々あるが、それはなんとか解決しようと思うほどの苦痛にはなっていない。むしろ「それでもここまでやってこれた」事実を考えると、「あればあっただけ生じてきたはずの苦悩」がなかっただけ、幸運な人生であるといえるかもしれないと思う。逆にその分、一般のひとが「あるのに使わない、試さない」ことができているウハウハ感は、なんともいえず絶妙であるぞよ(*^。^*)
 
12/18 金 35.0   ウキャキャー♪な夜RUN☆
京都北部半周?コース(*^。^*)
千代原口→(物集女街道)→嵐山→愛宕念仏寺→きぬかけの道→金閣寺界隈→北大路遠回り→鴨川→しゅ〜る之助のとこ→自転車よりも早く帰宅!←ハイ、ココ注目!
 50も間近になって○○女子だのなんだのというのは冗談でも憚られるし、もはや「オンナです」というのもなんだかなぁ…な心境ではあるのだが、「夜道」や「不審な男」に対する警戒心や恐怖感というのは、むしろ若い頃より増大しているような気がする。
 実は本日、「夜間林道チャレンジ?」てなことを企んでみたりしていたのだが、結局またもや愛宕で「まじコワイ」な感じで引き返し、まぁまぁフツウなコースに落ち着いてしまったのである。約10年前、奥多摩系の某林道を深夜ぶっちぎりで単独RUNした実績から考えるとずいぶん臆病になったものだ…もっとも、それができたころの方が異常だったのかもしれないが(-_-;)
12/19 土 17.0   小関峠越えにて山科へ
ここから琵琶湖に行くには山中越えもえーが、一番簡単で面白いのはこのコースかもかも(*^。^*)
 佐野実系のラーメンとしては、これまで最高の味!という一品に、琵琶湖で遭遇☆軽く20年以上は経過した長旅であった…(-_-;)シミジミ。
12/20 日 58.0   @ 上賀茂神社
Aそのまま京都駅〜(電車ワープで永原〜近江今津
個人的に、
「これぞ休日RUN!」なボリューム(*^。^*)
 久々の奥琵琶湖、湖西ルートにて、ハッ、ナルホド!(゜o゜)…と気が付いてしまったことがあった。
 よほど特殊な感覚の持ち主でない限り、理解してもらえないと思うので詳細は省略。かいつまんで言えば、「陰陽説」に関することである・・・ホレ、アカンヤロ?(-_-;)
 と、それとは別に、始発で京都を出て永原あたりからスタートすれば、チョイ遅めの夜頃には自宅に到着できる旅RUNができるんでは?という実感を得た。これまで、「1度に1周」ばかりを考えていたのでなかなか実行に移せなかったが、「半周」なら季節を問わずラクラクモードやん!(*^。^*)ウヒョー♪
12/21 月 0.0   雨だからゼロ(-_-)キリッ。
使用推奨期間をはるかに超えたコンタクトの買い替え&時給も勤務時間も不明な臨時バイトの業務説明だけコマゴマ受ける(なんかヘンだが今回の場合シガラミ上今さら後に引けない★)
 わたしのコンタクトは、「旅RUNを快適に」を最優先の基準に作られてきた。今まではそれで何の問題もなかったのだが、この1年ほどそのコンタクトでの日常生活に支障をきたすようになったのである。早い話が、勝手に実態以上の老眼視力を作っているような状況だったのだ。フォローのための激安老眼鏡を併用もしんどいし、この際、日常生活用の視力に適したユルユルコンタクトを購入した次第。現在使用中のものもまぁなんとかいけそうだし、これは旅RUN専用アイテムとすることした(*^_^*)
 コンタクトの店にいるスタッフというのはホンマに看護師か?というアヤシサが漂うものだが、そこは「習うより慣れろ」というものなのか、まぁそれなりのウンチクは保持しているようで、その都度勉強になることはあるものだ。本日は、「クルマの運転をする場合、1.0〜1.2の視力が望ましい」という話を聞いた。これは図らずも、わたしが「旅RUNに必要」としてきた視力と一致することが面白かった。確かに、このくらいの視力がないと、やや距離を置いた先にある方向表示板や地名の看板が見えづらく、早め早めが望ましい進行方向の予測や安心感が得られないのだ。つまりわたしの旅RUNは、クルマの運転と同じような意識づけのもとに展開されていたということになるわけだ(*^_^*)
 今回、「旅RUN専用」に昇格(降格?)した「見えすぎコンタクト」は、間もなく寿命となるだろう…っていうか、ホンマはもう捨てるべき段階にあるのだが…しかしそれがなくなった時、「日常生活用コンタクト」を流用するのは何かとストレスがたまりそうだし、安全性も低くなりそうである。よって、これがオシャカになったあかつきには、使い捨てコンタクトの購入を検討しようと思う。実際、長距離RUNにおけるハードレンズは何かとリスクが高く、以前は使い捨てを使用していたのだ。経費的にもたぶん有効だろう。空手やテニス、ダンスにもTRYできる可能性が広がるし…って、いやいや、そこまで余計なことは考えないでおこう(-_-;)
 
12/22 火 23.0   上賀茂神社コース
約10年前の湘南国際ハーフのタイムは、今でも出せる!な感触バリバリ(*^_^*)あんなのめんどくさいからもうやらないが。
わたしの感性が見る限り、京都の四季それぞれの風景が最も美しい地域は「北東」方面に集中している。
一般には決して公開されない、写真撮影すら禁止の絶景ポイントを含め…(-v-)ムフ。
 紅葉・黄葉を見るたび思う。
 「人」にとっては、大枚をはたいてまでその光景を観ようと右往左往するような魅力に映るようだが、当の樹木自身にしてみれば、それは「活力ある緑」の状態を維持しきれなくなったがゆえの、いわば「老いの現象」にほかならない。年齢を経た女性が、若い頃のハリツヤを失い、シミやシワを隠せないようになる、まさにそのタイミングを「美しい」と評しているわけである。
 「いやーっ!そんなに見やんといてー!」「ジロジロ見て、セクハラやわ!」というような声が聞こえてくるような気がしないわけでもない…もしそうであるならば、人々はずいぶん残酷な「老人イジメ」をしていることになる…初冬の日々をそんな風に眺めていると、紅葉だなんだとはしゃぎまわることも控えめになってくるものである。
 逆に言えば、木々の葉たちはその「有終の美」をまぶしく見せつけ、誇り高く散っていくのであるという見方もできる。木の葉にとっては「見事な一生」を全うした姿であり、崇高ささえ感じるその光景に、やはりはやし立てるような気分の高揚感は持てないのである。紅葉・黄葉は静かに鑑賞するものだ…というわたしの感覚は、このような思考を経て成立した。
 紅葉・黄葉は美しい。
 変わりゆく姿がそのまま美しく、そのまま世の中に生かされる。自然の流れにいたずらに抗うことなく流れ、落ちてゆく。青々としたコケや芝のやわらかさに身を委ねて調和する。散ってなおゴミ袋に回収されることなく、そのまま新しい命の芽吹く大地の栄養として還元される。できれば、人間の一生や老いの季節、そして死というものも、このようにありたいものだ。
 
12/23 水 22.0   遠回りして西院、ひと足お先のX'masケーキを取りに行くRUN♪
…もちろん、ケーキ受け取り後はソロソロ走りやでぇ(^。^;)
体感的に、今年初の「京の冬」。
この、シンシン染み入るような寒さ、待ってましたぇーヽ(*^。^*)/
 うちに着いたら、北野天満宮の大福茶が届いていた。ちょっとシンドイ事情を抱えた人の、シンドイ近況が記された便りと共に…その内容が、わがことのように理解できるジャンルであるだけに、シンドさが伝染して暗い気分になったが、おつとめで解消(T_T)
 世の中は、「生きていること至上主義」である。自殺者を卑怯者呼ばわりし、もはや意思表示すら正常でない者をチューブでつないで延命し、持っているハンディを無視して「フツウかつ平等」であろうとする…これらはすべて、「生きていることはそのままで素晴らしい」ということの、ねじまがった拡大解釈であるとわたしは思っている。誰にも不可避な「死」が執拗に否定されることによって、本来あるべき「生」を削り取られて生きている人がどれだけいるのだろう。
 昨今、親殺し・子殺しの事件をしばしば耳にするが、加害者となる家族は、このねじまがった概念に拘束された被害者であると言えなくもない。一般論として厳しく断罪されるべきこれらの不幸な人たちが、司法の温情によって減刑されるケースが多いことは、せめてもの救いであろう。極論すれば、これらは「死すべき者が生かされたゆえの不幸」なのであり、真の犯罪者はそれを強要する現代社会の通念なのだ。直接に手を下した者だけが矢面に立たされることで解決するようなことではない。
 「神は乗り越えられない試練を与えない」というのが、いつからかもてはやされるようになったが、こんなものはまったくもってキレイごとに満ちた浅はかなコトバであろう。換言すれば、これで胸を張っていられるような人の試練とは、「所詮その程度のもの」でしかないのである。わたしは、こういうことをしたり顔で言ってのけ、他人を評価批判する「人生の若造」を全面的に否定する。テキトウなレベルでご高説を垂れてんじゃねぇよ!である。「ならば、キサマがその人生を生きてみろ!」なのだ。
 逃れようとして逃れられない事情のために、自分を変え、押し殺しつつジッと耐え続けてなお、次々と襲いかかる不幸に見舞われるひとは数多く存在する。それらの人々の苦痛が一刻も早く解消してほしいと思う。自らが命を断ったり、罪に手を染めるような事態になる前に。すべてのひとの「人生の余裕」は、その問いに答えるために使われるべきなのではないかと思う。そういうじぶん自身、「そのためにできるはずのことをやっていない」ように思えることがもどかしい。残った人生の時間内で、少しでも何かをしたいと思う。
 
12/24 木 8.0   東寺さんコース
正直に申しまして、今回の時計は失敗でございました(-_-;)
…という心持ちで使っていると、気持ちが通じて結構早い目に壊れたりする…ちょっと期待☆(T_T)ゴメンネ、トケイサン!
 今回の時計は、TIMEXという有名メーカーのモノであるらしいのだが、買ったその日にしゅ〜る之助から「おっ、百均か?」と言われるほど安っぽい外観すぎた(-_-;)・・・と、それはともかく、やはりデジタル表示だけの画面にはなかなか馴染めないし、第一、時刻を見ようとするときいちいちライトを点灯しないと見えないなんていう致命的な欠陥があって、残念ながら「末永くお友達な時計」とはなりそうもないのである。カップめんやパスタやゆで卵の時間計測のための「ストップウオッチ機能」にさえ拘らなければ、もう少し選択肢は広がったのに・・・大失敗である(T_T)
 それもこれも、同じモノを5回買い換えて使ってきたくらいお気に入りだったカシオの時計が廃版になったせいだ!(>_<)
 
12/25 金 15.0   鴨川コース
ぜひとも、このまま出勤したい!なポイントを通過(-_-;)
BGMは久保田CD1本分☆
ノリのいいとこ数回リピート付き(*^。^*)イェイ、イエイ♪
 デビュー前、「日立ミュージックinハイフォニック」(ラジオ番組)に出演していた頃から「ムムッ、これは☆」と注目していた久保田とは、既に30年のつきあいになる(むろん、彼はこっちのことなど知らないが)。以降、CDが出るごとにレンタル屋に走ってダビングしていたものだ・・・買えよ!ってか?(^_^;)
 今の若い人すればとんでもない「懐メロ」が、本人にとってはいつまでも新鮮で刺激的なものであることは多い・・・といいつつ、わたしの好きなミュージシャンには久保田をはじめ小田やタツローや教授など現役モードの人が多いので、今でも十分通じるだろうが・・・(*^_^*)
 いつまでも心に残っている曲というのは、何か劇的な出来事や思い出に絡んでいて、曲を聴くとその記憶がよみがえって「きゅん☆」としたり「ウハハハ☆」となったりすることが楽しさのひとつであるが、わたしの久保田の場合、それは伊豆半島をぶっちぎりRUNをしたこととつながる。今日走っているのは鴨川なのに、「脳内劇場」は完全に伊豆半島!(^o^)・・・熱海・川奈・富戸・伊豆高原・大川・北川・熱川・稲取・今井浜・河津・蓮台寺・・・・と、とんでもないくらい明細に、そのとき聞いていた音楽と地名とテンションが思い出されたのにはビックらこいた(^o^;)スゲーッ!
12/26 土 34.4   恒例☆るしゃ君に年末のご挨拶RUN☆run
城陽(すべり台つき)〜東大寺・春日大社
カニマン寺ちょっと越えたあたりに。
(個人的メモ)
 20年弱ランナーっぽい日々を続けているにもかかわらず、ランナーらしき用語にはとんと疎いままである。「ビルドアップ」とか「ペース走」とかいう各種トレーニング方法の名称はある程度知ってはいるが、実際それがどういうものであるかの体験はまったくないままきてしまった。もっともこういうノウハウモノは時代によって、時にはその功罪が大逆転するようなこともあることだから、わたしが知っているそれらが今でも有効なものであるかどうかすら不明である(-_-;)
 しかしながら、そんな中で唯一、「それはアルアル!」として実感&納得しているのが、いわゆる「ランナーズハイ」というものである。走ってしばらくした後の「ウハハハ感」は、調子が良い時の長距離や旅RUNではほぼ確実に訪れる。走っているのだが、走っていることそのものを忘れているような感覚というのは、実に不思議なものだ。
12/27 日 14.4   桂の上御霊神社へ、しゅ〜る之助さま、ごあんな〜い(*^。^*)案内
ウマウマラーメンつき(*^。^*)
 めっちゃ身近にあったラーメン屋が、めっちゃウマかった!…という、まさに「灯台もと暗し」な遭遇。
 ここは今後、わたくしの「秘密ラーメン基地」となることであろう…(-v-)ムフ。
12/28 月 0.0   国家公務バイト仕事納め☆
年末は、必ず何かが起こる!…って、まだ2度目やけど(-_-;)
 帰着30分遅延。モタモタしててこうなったわけでもないのに、元締めたちはさっさと納会やってるし。まぁえーけど(-_-;)  
12/29 火 0.0   城陽の滑り台でぶっこけた際の、オケツ打撲養生のため休息。
まさか仙腸関節に?…の懸念アリのため、様子見。
…とかいいつつ、「臨時バイト」にせっせと出かけるくらいやから、どうもないやろね(*^。^*)
12/30 水 13.3   蚕ノ社不思議体験&広隆寺弥勒ちゃんと年末の語らい&恒例☆警察ポスター回収(*^。^*)
城陽滑り台のオケツ打僕は、2日後とんでもない状況に(゜o゜;)
 いくら来年がサルドシやからって、じぶんのオケツまで赤くするこたないやろ!な展開に…見た目、相当な重傷(>_<)
 …が、それをしゅ〜る之助に指摘されなければ気が付かなかった時点で、これはやはり「どうもない」状況なのであろう。厳密に言えば、背骨や肩や足の関節にジンワリ影響があるような感覚はあるが、これだけ歩けて走れてガーガー眠れる状態に、医者は必要なし! 
12/31 木 25.0   上賀茂神社&なぜか気になって東寺さんプラス。
知恩院さんの大梵鐘、おけらまいり、ともにスルー(一応眺めたけど)。
 「今夜、味噌作り」の計画であれば、おけらさんの火を使って豆を炊いて…という、いかにも神妙な行事になり得たのだが、それがかなん以上、火をもらっても用事がないので700円の出費は控えたのであった。そのかわり、南座の松葉そばセット買っちゃったもんねー(*^。^*)カシコイ!
 鴨川沿いに、おけらの縄をクルクル回しながら歩いている近所のおばちゃんを見て、なんだか和んだ…どこもかしこも「観光イベント化」している京都の風物詩を守っているのは、結局こういう地味に暮らす人々なんやわ。
走行距離 470.1  km