あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上56歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
7/01 火 10.0   東本願寺・仮想浄土見学
…早い話が蓮の花の確認だっちゃ。
本日は、このあと「瞳孔拡大」につき、外出禁止(自主規制)。
まさに学問日和である!…と、「あれがダメならこれがあるさ」というお楽しみの「ハバ」があることはありがたい(*^。^*)
バシッと眼球に光を当てて写真を撮る検査…PCに映し出された画像があまりに美しいので、写真をいただいてきた(*^。^*)
ちなみにそれは、ハロウィンの夜に森の中を歩いてふと空を見上げた時の光景…そんな感じだ。本来、「わたしが外の世界を見る」ことによって成立する風景と同じものが、わたしの内部にあるという不思議。
…10年ほど前の大腸内視鏡検査以来、「人体の美しさ」というものに改めて感動を覚えたひとときであった。
人体とは、それそのものが「芸術」であり、また、「ひとつの宇宙」であるということを知らされる気がする。「生きている」ということに誇りと自信が持てる、あるいは持つべき根拠は、何よりまずはこういうところにあるのかもしれない等々思うところである。
【診断結果】
加齢による「飛蚊症」以外の異常はナシ。前回所見された「右目の血のにじみ」も消失。「視力」そのものは極度に弱いが、「視野」「反射」等の別枠の能力は水準以上(←個人的には、これが日常生活上災いしている面がアリとみたが)
脳梗塞、糖尿病、白内障、緑内障には、まだ執行猶予があるようだ。こういう部分が「若い」「スルドイ」と判定されることは、わたしにとって外見の老若を云々されることより重要であり、かつ、そのようにありたいと願ってきたことだけにうれしいことである。
7/02 水 10.0   「宗教的境地」とは。
ある意味、「自閉症気味」にまで自分を内面に向かって追い込む…他人や外部環境から刺激に即時対応することなく受け入れ、己の罪・反省としての問題意識をもって考察をすることに原点がある。
浄土宗、禅宗、キリスト教…少なくともこの3種には、求められる原点としてその共通点があるといえるであろう。
人生には、思うようにならないことも多く、理不尽な批判や評価を得ることもある。そのような数々の体験を深く省みるとき、人には「見える」ものがある…これは特定の宗教思想や団体に帰属することがなくとも、ある程度年齢を重ねれば自然に成立していた心的変遷であったように思う。かつては。
しかしながら昨今、このような「あったはずの変化」がいくら歳を取っても養成されない「ガキおとな」が増殖しているように思われてならない。ひとつには、いのちを削るほどに思い悩むネタが人生上に起こりづらくなった平和で豊かな日本社会の環境によるもの、そして、「とりあえず思いついたこと」をありきたりの言語表現で公開し、詳しい事情も知らない者の無責任な賛同を得て満足してしまえるツールが身近になったことによるものであろう。結果、「煩悶」「葛藤」を経ての「オリジナルで確固たる人生観」ひいては「人間的魅力や真の強さ」を持った「威厳ある年寄り」が少なくなっているのである。
とにもかくにも、「熟」という表現に値する年寄りが激減したように思えることは、これまでそうした人々の言行を少なからず指標としてきたワタクシにとって心細い限りである。
「悩んでいる」と言っても「人生とはそんなものだ」だの「夢はかなう」だのくらいの回答しか与えられないようなところに「道」はない。
少なくとも、その程度の考察の対象になるほど、「宗教」のレベルは低くも軽くもないということは言えるであろう。逆に言えば、軽々に宗教の理論をもって人生を語るなかれということである。
7/03 木 11.8   「なりたい自分になる」
・・・というより。
「なりたくない自分にならない」
・・・そんな心の持ちようが大切では。
むろん、まだ若い世代には前者のスローガンは有効であろう。夢や希望に向かって失敗や挫折を繰り返しながら挑戦を繰り返せばよい・・・そういう時代だからである。
だからといって、年齢・体力・資格制限などにより、それがなかなか思うようにいかなくなる世代になったら「目標がなくなる」というわけではない。
「なりたくない自分にならない」ということは、これまでの経験から得た価値観や判断基準を確定し、それに矛盾なく日々の振る舞いがあるか否かを自ら問い続ける、そんな緊張感と精神力を要することである。
方向性や基準こそ違え、人間というものは「一生精進」。これは間違いないようである。
7/04 金 13.9   出町の豆餅、御所の散策などがオプションのバイト(*^。^*)
いやこれ、まったくもってもって正当で妥当な時間的やりくりの範疇ですから。
わたしの体重問題はぁぁぁぁぁ、RUN…RUNする…RUNするためのみならずぅぅぅぅ〜
日常生活ぅぅ〜、人生全体の問題じゃないですかぁぁぁぁぁぁぁ〜ウェウェ、ゲホゲホッ!ってか。(-_-;)
…同じ年齢にあんな奴がいるというのは、まことにもって恥ずかしいの極み。
7/05 土 16.3   セルフコーチング手法とでもいおうか…。
ある人と議論して、自分の意見を述べているうちに、それとは別の課題について「回答が出ている」なんてことがよくある。
去る3日、有閑マダムランチ会…もとい、学友とのランチ&ティータイムにて延々語りあった仏教・宗教論において、過去より現在そして未来に及ぶまで、宗教だの心理学だの精神医学だのをすべて包括したところにある「救済」がどこにあるかピンッ!ときてしまったのであった。
幸いだったのは、その「ピンッ!」ときた対象が、自ら取り組んできたところと決してハズれていないということである。
むちゃくちゃ、学問に対する拍車がかかる。
7/06 日 7.0   東本願寺、仮想浄土(蓮の花)絶好調☆
京都たびびとを始めて以来、なんだかんだと東本願寺の存在はワタクシにまとわりついている…最近は、かの集団の「正信偈」を読むのが日課になっちゃったりして(*^。^*)
あるボンサンいわく、「教学の東・お金の西」…むろんこれは、それぞれの特性を揶揄的に表現したことであって、内容を詳しく知ればそれは「いわれるなり」の価値や良さに転じて評価できるところが多いのである。逆に、「なにも言われない知恩院」が保守的・閉鎖的に思われたりするところがあったりするくらいだ。
いろんな意味で、「どれにしようか迷っちゃうぅぅ」な状況である…という中で、お経の読誦を「東バージョン」に選択した理由は、その「ノリのよさ」、これ一点。別に東に帰依したいとか明確なわけではない。それが証拠に、いずれ鎮西も西も、はては真言も、経典読誦に関してはオールマイティにマスターしたいと思っている。それが、生死の状態問わず、「誰かにとっては心地よいもの」である以上、知っていて損はないと思うからだ。
「腹から声を出し」「緊張感を持った姿勢で」を必要とするこの所作は、宗教的観念など取っ払っても、健康的な全身体操であるといえる。カラオケに通いつくすような趣味よりは有効で価値あるようにわたしには思える。
7/07 月 0.0   京都府議会、京都市議会の生中継というのをTVで見る限り…
この地においては、ヤジのようなものは一切聞こえることなく、文字通り粛々と進行しています。
ぜひ、議員経費の使用法についても、クリーンであってほしいものですな。
案外、京都独特の「せまい世間の仕組み」がエエヨウに働いて、しっかりしているのかも…などと期待しておりまする。
7/08 火 10.0   「趣味・歩くこと」と書いて、添削を受けた高校時代。
仕事のあれこれに「イラスト」を用いて「ふざけている」と指摘された初期怪舎員時代。
男がキャラもののアクセサリーを付けるなどあり得ないとプレゼントを拒否られた事件。
雨の日に長靴を履いて出勤したら、白い視線が集まったバブル怪舎員時代。
走って通勤することを笑われていた後期怪舎員時代。
…いずれも、「変わっているひと」という評価を免れずに蒙ってきた数々の過去である。
しかしどうよ?
今、これって全部「フツウ」じゃないっすか?
時代は「動いている」のである。
もはや、女性が妻・母・社会人の三立を目指すこともフツウであり、契約で成立したはずのサラ金の借金をチャラにしようとすることもフツウであり、年寄りや病人が生命保険に加入できることもフツウであり、ただの年寄りが自らを「弱者」と呼んで恥じないこともフツウとなった…。
わたし世代が「これからをどう生きようか」と模索する時期とは、まったく違う価値観が世の中の「フツウ」になりつあるのである。
つまり、「フツウでしょ」と簡単に口にしつつ絶対であるかのように思われる価値観というものが、いかにもろく、そしてくだらない「一時の仮説」であるかということである。
「かわりもの」で大いに結構。自らをフツウと思い込み、それが中心となって展開する無神経な言動をふるまうよりはなんぼかマシじゃ。
しょせん、「同意者・擁護者が多い人が勝ち」でしかない暴言にはフタをして先に進む。わたしはホトケではないから許して忘れるわけではない。フタをして別の場所での「素材」として活用するために保管しておくのである。
7/09 水 13.5   若い女性は、後々子供を産み育てる必要性のために体脂肪が多く、丸みを帯びた体をしているものだという。
そういう意味では心配なほどガリヤセ女子が多いがそれはさておき。
しからば、そういう用事が済んだはずの中年女性にブヨンブヨンぜい肉がつくのは何ゆえか?
…それはわたしにとって長いこと謎だった。
しかし!
最近、近所や職場で出会う「子連れの若いパパママ」と、ちょっとした会話をする機会がしばしばある。
そういう時のわたしは、かわいい子であればほめ(ただしお世辞を言ったことはない)、「たいへんやね」「がんばってや」等々、一般的な文言を口しているにすぎないのだが、相手はそれらを「心から」受け止め対応していると感じるのである。
思うに、彼らはこのわたしを「すでに何人かの子育てを終えたおばちゃん」すなわち「経験者・先輩」として見ているようである…もちろんわたしは、子育てはおろか妊娠すらしたことがないのだから、それはまったくの誤解なのであるが、なぜそういう誤解が生じるかの原因が、この「いかにもな体型」によるところ大なのではないかと気がついた次第である。
…左に記したように、中年おばちゃんのブヨンブヨン体型には、健康的に害がありこそすれ意義や利益はないように思える。しかし一転、「社会的存在」としての価値に視点を投じるとき、それは「先に生まれた者として、若い世代に説得性や安心感を与えるために有効な姿かたち」であるということが言えるのではないかと感じたのである。換言すれば「細かいことを心配せんと、どーんと生きや!」のメッセージを象徴する姿というべきか。だとすれば、中年太りのカラダを世間に晒すことそのものは、あながち無意味なこととはならないだろう。ヘタをすると必要以上に「ふてぶてしい」「ずうずうしい」と思われることが多い面にはよくよく留意しなければならないが。
ともあれ、歳をとったなりの肉体的変化による社会的位置の獲得ととその楽しさを体験できているようなこの感触はなかなかうれしいものである。
とはいえわたしの場合、事実上は「サギ的行為」になってしまうことになるので、もうちょっとシボルべか。どっみみち「スレンダーなマダム」にはなれへんが(-_-;)。
7/10 木 10.0   長刀鉾、月鉾等の組み立て作業の風景に遭遇。
その神的存在への畏敬の念と、作業そのものへの緊張感、そして祭に向かっての高揚感…そのすべてが動いている風景というのは、巡行を見ることよりも貴重なことであるように感じた。
通勤途中なんぞにそれが見られてしまう…これぞ京都在住民のオイシサである(*^。^*)
少なくとも彼らには、今夜から明日にかけてこの地に台風の甚大な影響があるかも?…なんていうことは念頭にないようである。
それにしても、「50年に一度の」だとか「これまで経験したことのない」だとかいう、ポエムのような表現の気象予報を憚りもなく公言するようになった最近の気象情報は笑止千万。いつから数えて50年なのか?誰を基準に体験の有無をはかっているのか?…ただいたずらに脅威と恐怖をあおるだけの物言いは即刻改めてもらいたいものだ。
7/11 金 5.0  
7/12 土 0.0  
7/13 日 0.0  
7/14 月 0.0  
7/15 火 0.0  
7/16 水 0.0  
7/17 木 0.0  
7/18 金 0.0  
7/19 土 0.0  
7/20 日 0.0  
7/21 月 0.0  
7/22 火 0.0  
7/23 水 0.0  
7/24 木 0.0  
7/25 金 0.0  
7/26 土 0.0  
7/27 日 0.0  
7/28 月 0.0  
7/29 火 0.0  
7/30 水 0.0  
7/31 木 0.0  
走行距離 107.5  km