あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
4/01 火 12.3   通勤ルートの完全ウオーキング
…RUNとは違うが効果はバリバリ。
「健康のために1日1万歩」…いつからか世間で言われ始めた話は、本当であるようだ。
効果の実感はもとより、コースの楽しさ満載ですっかり趣味化した今日この頃♪
最近は、携帯に表示される万歩計メーターが10000を超えていないと、気分が悪い☆
室町通の帯屋で、松井冬子の作品展の看板が出ていたから寄ってみようかと思ったのだが、店先にしかめ面した番頭みたいのがデーンと立ちはだかっていたのでは、威嚇されているようで近寄ることもできひん。
いわゆる「京の老舗」におけるCSは、いつまでたっても改善進歩する兆しがない。まぁ、そういう空気もひとつの文化なのかもしれないが、そんな威圧的・排他的なありようが、現在のかの業界の衰退を招いた一端であるとはいえるだろう。
4/02 水 20.3   献血センターの古本市+有名すぎる京都桜ポイントグルリン。
+光徳公園でオッチャンとプチレース(のち、デューク式ウオーキング付)
あの名著『八甲田山死の彷徨(s40、40刷)』をGET(*^_^*)
「善意の寄贈&無料進呈」のこの仕組みは素晴らしい!
京都市には「上京・中京・下京」という区名があるが、東も南も同じように…といかないのは、そうすると「東京区」「南京区」となってしまうのがマズイからだろうか?…てなことをしばしば考える。
「左京区」「右京区」も地図上、左右がひっくり返っている位置づけにあるし…たぶん、北方向ではなく御所に向かっての右左だからこんな風になったのだと思うが…(*^_^*)
…とまぁ、京都の地図や地名には、いろいろ面白いネタが思い浮かぶのだが、生活上一番に言えるのは、いわゆる「町名」というものが実生活上全く役に立たないという現象が、これほど顕著な地域もないだろうということである。わたしなど、「通り名」と「上ル・下ル・東入ル・西入ル」が表明されていなければ100%路頭に迷うし、通り名が利かないポイントに関しては至近のお寺や神社の名称が頼りである。
実際、通り名ナシにある町名をいきなり言われても、同名の町が三か所あったりするのが京都市というところである(例:京都市下京区材木町を参照)。グーグルマップがいくら通り名を拒否してシンプル化しようと企もうが、この土地に暮らすための「伝統的な知恵」を消し去ることは決してできないであろう。ザマーミロ(*^。^*)
4/03 木 22.4   こんぺいとうを買いに出て、買うのを忘れて帰ってきた…(-_-;)
なんのために、昨日と同じコース取ったんか…アホアホ!(>_<)
本日のわたくしは、緑寿庵さんとはご縁がなかったとゆーこっちゃ。
行っても売り切れとか、行列で2時間待ちとか、ヘタするとその行列に車が突っ込んでくるとか…(>_<)
とにかく、今ここにこうしてホニャララとしているわたくしが存在している根拠のひとつに、不適意ながらも「こんぺいとうを買わずに帰ってきた」という事実が関わっていることは間違いないのであって、その認識と感謝こそが重要なのである。
望んだものごとが「我がもの」にならなかったとき、「どうせあんなもの(こと)は…」と評価をすり替えることを、心理学では「すっぱいブドウの論理(合理化)」と呼ぶ。平たく言えば「負け惜しみ」というところであるが、自己の精神安定のためには必要不可欠な防衛機制のひとつである。
とかく現代は、何事においても「あきらめない」という心情が最大の美徳であるかのように喧伝され、「あきらめる」ことは逃げ・負けという一方的な価値観が押し付けられている感があるが、わたしはこの思潮に大いに疑問を持つ。少なくとも、「あきらめない」ことに執着するがゆえに見失うものの中にこそ、実はその人に真に相応しい可能性が秘められているかもしれない…ということを忘れてはいけないだろう。
わたしは、わたしに人生上のアドバイスを求めてくる若い衆には、決して「あきらめるな」などとは言わない。「望んで努力した夢がかなわないのは、それが君の人生には本当は必要ない、または、それをムリヤリ叶えたことで命を縮めたり、大きなトラブルに巻き込まれるような結果を招いたかもしれない。それを、運命の神様が寸止めしてくれたのかもしれないよ。」と諭し、現実に今健康に生きていることを起点に、可能性を広げて眺める方向性を持たせている。
ほんの一時期の、しかも形式上の「勝ち負け」で評価ができるほど、人生は短くも浅くもないのである。
4/04 金 15.0   なんだかんだと24年つきあってきた「ある現象」に、ようやく病名がついた(*^_^*)
京都市下京区は、実は「名医の宝庫」なんじゃないか?
「それだけ長い間付き合っていて、合併症(*注)も出ぇへんときたのは幸いやったな…」なんてことを言われるあたり、けっこう厄介な病気を抱えていたことになる。人間、「知らぬが花」というが、まさにその通りでもあろう。
ただ、おりしも24歳の発症から「ちょうど2まわり後」のこの歳になってそれがわかったということ自体、これは意義深き大切なシグナルとして受け止めていかねばなるまい。寛解と悪化の繰り返しにあったとはいいつつ、比較的調子が良かった時期に何を心がけていたか…を反省すれば、「あるべきよう」は自ずから導き出される。医師の指導もさることながら、自身の経験が立派な事典であり資料集であり教科書であり予言集でもある。
「わたくしの人生は12年周期で劇的な転換期を迎える」…36歳の時にもその云々をここに記したが、その鉄則に照らせば48歳になる今年が4度目それに該当する。はてさて、何がどう動くのか?…本日の出来事も、その一端になるやもしれぬ。
…(*注) 「合併症」というと、「糖尿」とか想起されるかもしれへんので念のためゆーておくが、そうではないぞよ。
4/05 土 21.0   人間、お金にせよ動産・不動産にせよ、極論すればコドモにせよ。
一般に、それを持っていることが「幸せ」と言われているものが「わがもの」になっていればいるほど、実は「苦痛のタネ」を抱えていることになるものだ。
本日、あるひとりの「若い衆」への説教の一部。
なにがなんだかわからんが、近頃「カウンセラー化」しているワタクシ…まぁ、歳を取ったなりの役割として、それはそれでありがたいことであはる。いつまでも若いモンに迎合したり張り合ったりするようなことよりはマシなような気がする。
4/06 日 17.1   雨とか雪とか、「RUN的には逆境」みたいなシーンのほうが燃える!
(☆o☆)メラメラ〜!
これは、「そもそも」の話として、わたくしが本格的にRUNをはじめた背景に所以するものと思われ。
お天気の中、たくさんの仲間が集って、楽しくおしゃべりしながらランランラーン♪なんてスタイルは、好き嫌い以前の問題として、わたくしの対象外なのである。
4/07 月 18.1   え〜もんめっけた(*^_^*)
カリマートリム25、\13,500-、ロックオン☆
実用性、機能性、耐久性のみならず、わたくしの美的センス、安全志向、健康意識をすべて満足するアイテムとゆ〜のは、結局「山道具」に集結する(-_-;)
人生もうそんなに長くないんだからとか、せっかくオンナに生まれたのだからとか、今までは違うイメージでとか、理由をつけて「ブランドもの系」にチャレンジしようかという気にはなるのだが、いろいろ調べてみても上記の条件要素を満足するアイテムが見当たらないのである。
言ってみれば、あれこれ迷ったり失敗を経由せずに、最初の最初から「最高峰」のモノに巡り合っていたということだろう。ありがたい人生だ。
4/08 火 18.4   天気予報・地震情報よりも最近気になるのは、「pm2.5」の予報だ。
ニュース上は一時的な大騒ぎで終わってしまったが、現象は続いている。気象庁がアメダスのような予報図を公開しているのを見る限り、今日は結構ひどい。
北山がかすんで見えるのは「春霞」なんて悠長なもんやないでっ。
だからといって、何をどうすることもできないわけであるが、まったくもって厄介なものが現れたもんだ。
ただ、思い起こせば40数年前、「16号線ぜんそく」が騒がれた地域に暮らし、工場の煙突からはなにやらワカラン煙がボウボウ、川には染料工場からの色水が流れているのを見て「キレイ!」なんてはしゃいでいる子供時代を越えて、今「とりあえずつつがなく」生きている事実からすれば、あまり神経質になっても意味はないのだろうとも思う。ここまで、どれだけ悪いものを食べ、飲み、触れてきたかを考えれば、すでにオンの字のこの人生、pm2.5なんぞほんの数日、いや数分程度寿命が縮まる程度の影響しかあるまいて(-_-;)
4/09 水 13.0   通勤ウォーク♪
観往的、「京都の桜ベスト3」ポイントが決定☆
それは、いずれも通勤経路上のことであるため詳細は省略するが、「ある通り」と「ある施設の周囲」と「ある橋から北を臨む」の3か所。
おそらく、どこのガイドブックにも載っていない、あくまで「日常生活上の発見」レベルであろう。(*^_^*)ムフフ。
4/10 木 12.8   通勤ウォーク♪
「地産地消」ということばがある。じぶんの住む土地でとれるものを消費せよという、効率性や健康性を訴えているものだが、さらに付け加えるならば、「自分の稼ぎで自分で買い(食べ)に行けないようなものを欲求するな」ということも言えるのではないだろうか。
(時間のあるとき梅干しの話を書く)
4/11 金 15.0   通勤ウォーク♪
4/12 土 16.7   三上山…標高500メートルに満たない小山も、この付近では「近江富士」の異名をとる(-_-;)
早い話が、全国あちこちに点在する「○○銀座」(京都では「○○京極」)と同様、「本体の魅力にあやかって」のマネッコ表現のひとつである。
「富士山信仰」の思想というのは、おそらく江戸時代に発端・定着したものと思われる。それなりの衣装を身にまとい、「六根清浄・六根清浄」と唱えながら山頂にたどり着けば心身ともに清められる…今も昔も、「俗世にまみれる己の心身は穢れている」という、ある種の罪悪感は変わらないということか。全国あちこちにある「○○富士」は、本当の富士山に登ることができない遠方の人々にとっての救いの拠り所であったのかもしれない。
実際、しつこく山登りを繰り返した経験上言えるのは、信仰性を意識するとしないとに関わらず、「淡々と山登りをする」という行為自体、そこに起こる生理学的な発汗・循環・代謝の働きがあたかも「清められた感」を醸し出すということである。そこにあるのは「同じ結論を科学的にみるか神秘的にみるか」の違いだけということになるだろう。どちらの考え方も、ある限界を越えない限りは尊重すべき「真実」である。
4/13 日 21.0   佐野実が死んだそうだ。
自らの信条や薀蓄・こだわりを全力投入し、「一杯のラーメン」の価値観を「作品」の域に到達させた第一人者はこの人だったかもしれない。
このことは、ラーメン業界の水準の向上に寄与したといえる反面、ある意味「ありがた迷惑」な一面もある。
「たかがラーメン、されどラーメン」…その職業意識やプライドは素晴らしいことである。研究や努力の姿勢は大切だろう。しかし、食べる側からしてみればそれはあくまで「たかが一杯のラーメン」なのであって、だからこそここまで長く「ソウルフード」のような愛され方をしてきたものと思うのである。「ラーメンでも食おうか」の気安さで店に入り、しかしそこに期待以上の何かがあった…というようなところに客の喜びはあるはずだ。少なくともわたくしはそのレベルでのラーメンが好きであり、「わかる人にはわかる」ような域にまで達した(つもりでいる)職人の芸術品をなんとか理解・解釈しつついただくような羽目になる店は御免こうむる次第である。
始末に負えないのは、佐野のように「最初からそういう価値観を主張する」のではなく、営業を続ける中で店主のそれが宣告ナシに変貌する店である。今のところ、過去のネット評価に釣られて来客は安定しているようだが、おそらくそれももう長くはあるまいと思う店に遭遇した。
外食全般についていえば、客たる本人の好みを基準にアタリハズレはあるものであることは承知している。しかし、ことラーメンに関して私見を述べるならば、「にゅう麺よりも薄い出汁(ほとんどお湯)の中に麺が泳いでいるようなラーメンを食べさせられた」というより、「アブラや化調の盛りすぎで具合が悪くなった」という方向での「ハズレ」のほうがラーメン体験としてはありがたいとさえ思うのである。
よって、数名の読者にさんざんあの店を宣伝したことをここで撤回します。「梅小路に行くなら萬福か第一アサヒへ、もしくは公園内のホットドックをどうぞ!」
【念のためお断りしておきますが】「食べ物のことに文句を言うな」というのは、至極当然のお約束であることは百も承知。ただこれは、「食における好条件下、お金を払ってモノを食べる」という限定的なシーンでの評価・論述であります。
4/14 月 10.0   「必要以上」の物を所持したり、要求したりすることを、人は戒めるものだ。
…といいつつ、なんとなくそれを許してしまう「弱さ」は、その言語的表現に甘さがあるからか…てなことをふと考える(久々、哲学的思考RUN)。
なんでもかんでも「病気」にしてもらえるありがたいこの時代、この際「必要以上」に物事を欲する現象も「必要異常」と表現を変えて、反省(もしくは治療改善)の機会にしてみてはどうか。
こんなことをツラツラ考えうようになったのは、少し前、TVのバラエティで元若乃花が「外車を8台所有している」と自慢げに披露していたこと、そしてそれを単純に「スゴイですねェ」羨ましいですねェ」とレポーターが大げさに騒いでいたシーンを見て以来のことである。趣味・財テク…言い訳はいろいろあるのだろうし、もとより本人の自由と言われてしまえばそれまでなのだが、元来「乗る・運ぶ」の機能を果たしてナンボ、という代物をこのように扱うという精神構造そのものにわたくしは大いなる違和感と異常さを感じてしまったのである。これは「病」だ…、と。
一般庶民の世間でも、「あなたはいったい「何人存在するのですか?」「足が何本あるのですか?」と問いたくなるようなくなる服や靴・服飾品をタンスに押し込んでいる人は数多い。このような有様がこうじて「片づけられない症候群」だの「ゴミ屋敷」に転じるケースを考えれば、これはやはり「異常」というべき域に足を踏み入れているということにはならないか。
素っ裸で町に放り出されたとき、人は風に舞う新聞紙一枚にも救いを感じるだろう。手元に小物があふれたとき、スーパーのレジ袋でも助かったと思うだろう…前者はともかく、そんな最低路線を実生活上に経験してきたわたくしにとって、いわゆる「豊かな人々」が所有し、または希求する物事が「異常」に思えることがしばしばあるのである。正月以来、一生に一度くらい「ブランドっぽい財布を?」等々考えながら入手できずに現在に至る意識も、そんな長く深く培われた意識に裏打ちされたものと思われる(これまでの人生で一番機能的で気軽な財布は「ジップロック」であったというほどなのだから)。
一般市民として、あるいは一女性としてみたとき、わたくしのような見解や価値観もこれまた「異常」なのであり、まったく逆の意味で「必要以上」の性質を包含していることは言うまでもない。ただし、仏教でいう「少欲知足」「無所有」の概念、さらに遡れば律経典に説かれる規定に照らせば、わたくしは明らかにそれが目指すところを表現するに近い生活感覚を持っているとはいえる。図らずも「そのようになっているじぶん」ということの方に、そこはかとない喜びを感じているのである。
4/15 火 12.0   自然解凍の冷食シリーズ。買おうと思ったがやっぱしやめた。なんかうさんくさい。
おひたし程度のモノならともかく、凍ったままお弁当箱に放り込んで、お昼にはサクサクの揚げ物が…という仕組みは、わたくしの理解を越えているのである(>_<)
単なる「時代遅れ」「アホ」なのだろうが、納得できないものが口に入り、カラダを巡る恐怖の方が強い。
そもそも、そこまでして「お昼のお弁当で揚げ物が食べたい」という気持ちがわからんし、食べたいなら粉まぶしてたまご括らせて付け衣付けてジュジューッとすればえええやんか。おねえちゃんの化粧よりも時間かからんて。
4/16 水 13.0   東野圭吾あっという間に6冊読了。
小説の類をこれほど急ピッチでスラスラ読むのは、小学生の時の「江戸川乱歩シリーズ」以来と思われ。
学術書もこのくらいスイスイいくといいのだがぁぁぁ(-_-;)
4/17 木 15.0   河原町のマルイに寄る。
そのまま四条を下がってしまったので、ノムラテーラー他いろんな計画をすっ飛ばしてしまった(>_<)
「サボイ」というブランド(?)のバッグをネットで見て、「ええかも?」と思ったのがそもそものきっかけ。ネット通販で「傘マークのカーデガン」を買い失敗した経験上、未知のブランドに関してはなるだけ現物を見てからにしようと決めたゆえの行動…結果、サイトでは河原町マルイが「この付近唯一の取扱い店舗」になっているが実際のところ「なんとなく置いているだけ」のワゴン積み状態であり、商品群も「なんだかごまかされている感」がはなはだしいものばかりであった。全体として、かの「コーチ」のマネッコデザイン?の感が強く、それはわたくしが最も嫌うコンセプト上にあるものである。もちろんこれは「47歳のオバちゃんが持つ」という基準での印象であり、もっと若い世代にはこれで十分の価値はあると思うが。
「サボイではなくショボイ」という結論になった今回、つくづく「ノリ」でカートお買い上げクリックをしなくて良かったという次第。しばらく「くまモントート」を常用することで決着。
…しかし、こうして「買わないけど見ることは見る」という長年の経験上言えるのは、いわゆる「ブランド」であっても、現在のそれはかなり品質が落ちているという実感だ。高額だ贅沢だと言っても、バブル期のそれらは「しっかり作られ、しっかり売られていた」と言えるものが多かったように思うのである。そこには、かつて使っていた素材の変更や製造の場所等々の要因があるのだろう。お値段そのままでキャラメルの溝を深くしたり、ヨーグルトの容量をサクッと50ml減らしたり、ということと同様である。「企業努力」といえば聞こえはいいが、消費者側から極言すれば「サギ」にも似て。
4/18 金 22.0   ミッドナイト念仏へのウォーキング込み。
22:00ごろ行ったら、除夜の鐘よりスローペースでしか進まない大行列(>_<)
やっぱし行くなら深夜2:00あたりがベストじゃわ(-_-;)
烏丸五条に新しくできた「吉野家」は、残念ながら「もっと頑張りましょう」のレベル。京都八条口店の勝利である。
おそらくそこには、「その時の自分自身の体調その他の条件」そして「店舗の仕込みや作る人の状況」が絡んでいるものであるから、絶対不変の結論とはならないだろうが、それを差し引いても、「統一マニュアルのファストフードでもビミョウな違いが…」というのはありそうな気がしている。
過去に、「長距離RUN後なのにそれしかない」状況で「モスバーガー」を食べたことがあるのだが、富士吉田のそれが「絶品・絶賛」であったのに対して、小浜はイマイチ、相模原はサゲサゲだった…という体験もある。なかなか面白い研究テーマだ。
4/19 土 23.0   日にちまたぎ…すなわち、昨夜出かけたミッドナイト念仏の復路分を含む。
東福寺は、秋の紅葉のために桜の花をバッサリ切り落としたという。
しからば、あの巨大スペースをもつ「イオンモールハナ」が、婦人用のスポーツウェアを一切扱わなくなったということにも、なにかしらの理由が存在するのだろうか…???
そのくせ、コーチだのなんだののブランドバッグを置くアンバランスさ。前々からなんとなく使いづらい店とは思っていたが、これで徹底的に縁が切れたような気がしている。あっ、夏になったら例のサンダルだけは買うかもしれないけど!(*^_^*)…夏まで、サヨウナラ。
4/20 日 0.0   学問・東野圭吾・少年犯罪に関する論文。
「常識だ」「フツウだ」と思い込んでいても、「本当は違う」という現実があることの面白さ。
なんら脈絡のないジャンルの本の乱読の中にも、共通した真実というものが見い出せることがある…それに感心するだけでなく、自らその論証を求められているのが「学問」の課題だ。ガンバロー(-_-;)
だいぶ前のことであるが、「いろいろな事情を抱えた青少年」が集まり、彼らの苦悩や思いに対して芸能人がコメントを垂れるバラエティがあった。「生まれてこなければよかった」と心境を吐露するある少年に対し、大竹まことが「おまえ、ハンバーグ食ってうまいと思ったことあるだろ?そんなこと言うもんじゃない!」と号泣しながら説教こいていたシーンがひじょうに印象深く残っている。というか、ひじょうな「違和感」をもって記憶されている。件の少年も「ハイ」と一応は返答していたものの、納得したわけではないことは明明白白であり、わたしもその気持ちに大いに同感したものである。
「生まれてよかった」もしくは「産んでくれてありがとう」というのは、「頭ン中お花畑」の結婚式ほか、何か大きな成功(転換)を成し遂げた人間が美しく語るセリフであり、実際のところ「この世で最大の詭弁」であるとわたしは思っている。百歩譲って「生きててよかった」という言葉はコトの大小高低を問わずアリかと思うが。
ともあれ、世の中には「なぜ生まれたのか」「なぜ生きているのか」という点において、「批判するなら俺と同じ人生を歩んでから言え」といいたくなるような重い事情を抱えている人間が数多く存在する。それは、ハンバーグを食べたごとき、ふと人から励まされたごときで翻るようなものでは決してないのである。
この余裕のある時代、仏教界における各宗派も「生まれてよかった」的なスローガンを掲げ、あたかもそのような心境に到達することこそ至上の目的であるかのように語るところが散見されるが、由々しきことであると思う。極言すれば「生まれければよかった」「しかし生まれてしまった以上どうするか」ということが仏教思想の原点であり目標であるはずである、その基軸の「ブレ」こそが、「宗教がしょせん宗教のまま」でしかないことの根源悪であろうかとさえ感じられる昨今である。このことを、ある一定の「権限」をもって訴えるためには、ボンサンになるのが早道であろう。しかし敢えてそれを「学問的」に追求しようとしてモタモタしているのが現在のワタクシのしょーもない実態である(>_<)
4/21 月 15.0   慈恵医大・東京医大・専売病院その他モロモロの専門医院…20年以上の診察歴を問診票に書いたが、そこに「聖マリ」を記入するのを忘れていた2週間前。
「そういえば、聖マリも行きました」と先生に言ったら、「あぁそう、それはぜひ書いておきましょう!」とニコニコしながらカルテに記入していた。
それは、「治療歴」として正確さを期すため…というより、「そこまで一流レベルの病院にかかりつつ、今の今まで的確な診断が下されなかった、でも、わたしはわかっちゃったもんねぇぇ!フフフ…」という感じの、つまりは医師としてのプライドをくすぐるネタが追加された喜びのようなものがあったように感じられた。医師も人間…おもしろいやりとりであった。
「そやけど、これだけ東京の病院ばかり…東京で働いていたんですか?」という質問に、「ハイ、20年」と答えると、「なるほど、それでたまに標準語が出はねんな…」と…クククッ、それは「誤診」ですがな!と心の中で笑いつつ、わたくしにとって「第二日本語」であるはずの京ことばがマスターされてきたことを実感したのであった。べつに何弁をしゃべろうがかまったことじゃないが、この町の排他性や地域への帰属意識の強さに付き合う上ではなにかと有利な語学力である。湘南弁・新潟弁・ハマッコ弁・秋田弁等々、日本語圏内ではバイリンギャルであるのだから、この調子で外国語(3種)もイケイケドンドンになればいいのだがぁぁぁぁ(-_-;)ソウハウマイコトイカヘンネン
4/22 火 12.0   龍谷ミュージアム・チベット展。
中沢のような変わり種を除いて、後期密教は日本仏教と関連のないジャンルとなるせいか、インパクトいまいち。
開館30分前に家を出て、ロイホである実験を試みた。
最近、ドリンクバー並びに「東野圭吾」と関わりだしてから気づいたある変化を追認するために。
怪舎員時代の後輩に、ひどい弱視の男性がいた。それは生まれつきのものであって、世の中が「そういう風に見える」ということが彼にとってはアタリマエのことであり、親が「おかしい」と気づき騒ぎ出すまではその見え方が「他の人も同じ」と疑いなく思っていたそうだ。
つまり、いわゆる「障害」「先天的異常」というものは、あらゆる意味において「他者が客観的・相対的に決定し認識させるもの」であって、その経緯を踏まない限り本人には「それが普通」であり続けるわけである。仮に他者がそのありように違和感を持ったとしても、「おかしい人」「変わっている人」という、曖昧かつ蔑視的な評価をするに留まる。逆に言えば、それを受けた者は単純に「性格が悪い・おかしい」という自己嫌悪感に苦しむだけに留まっていたのである。
かくいうわたくしも、いろいろな場面・いろいろな意味で「変わっている」「おかしい」と言われることの多い人間のひとりであった。それら数多くの事例の中には、単に「世代間のギャップ」や「生育環境による価値観の相違」「趣味の特殊性」など、どちらがおかしいのか判別不能なものや、時代の変化が解決した問題もある(10年前までは通勤RUNを変人と言われていたことなどはその典型例であろう)。しかしそれを省いたところで、「明らかに一般人とは違う」と自覚させられた特徴を2点ほど抱えてきた事実もある。簡単に言えばそれは「聴力」と「記憶」に関することである。
ところが、そのうちの「聴力」について、この2週間ほど変化の兆しを感じるようになった。それを実感させてくれたキーポイントが、「朝のドリンクバー」と「現在のバイトのマニュアル」または「東野圭吾」の組み合わせなのである。本日も、それを確認するため(…っていうか、200円程度であれこれガブ飲みできる面白さもあって)、ロイホに出かけたのであるが、状況は同じ。余談ながら、昨日ビックリドンキーにチョコパを食べに行った実験においても同様…つまり、もし「フツウと違う=ビョーキ・異常」ということなのであれば、わたしにとってその治療薬が「東野圭吾」や「バイトの資料」だということになるわけだ。いやはや、なんという自己治癒力。いや、偶然のラッキーな出会いというべきか。
このテーマについては、書きたいことがテンコ盛りに残っているが、このまま続けると3000行くらいになるのでここで終了する。本気で書いたら、これは医学界・心理学界・教育界・社会学界等々が買い取ろうとしてくるかも?な「臨床論文」になるかもしれない。…あっ、わたしが書かなならんのは仏教論文だったか(-_-;)
4/23 水 14.0   通勤ウォーク☆
もちろんRUNほどじゃないが、これでも適度にカロリー消費されている(*^_^*)
意図的にか単なる思いつきかは知らんが、結果としてに相手に不快感や衝撃を与えることになるセリフを吐いておきながら、後にそれを指摘されると、反省・謝罪をするどころか、泣く・逆ギレする・歪曲を含めたとことんの理詰めで正当性を主張する、ひどくなると「そんなことは言ってない」と事実そのものを否定する…総じてこれを「先天性無神経」と呼びたいと思う。こういうのに限って、いざ自分がそのような類の仕打ちを受けると、人一倍大騒ぎするものだ。世の中には案外こういう輩が多いので気を付けよう。
得てしてこのようなタイプは、テキトウに裕福な家庭に育ち、大した挫折や軋轢を感じることもないままに、ほぼ自分の思い通りにこれまで生きてこられた人間に多い。
新入社員の取り扱いに悩む諸君、ガムバリタマエ。家族や親せき、姑とかが相手でないだけマシだと思いなさい。
4/24 木 13.0   通勤ウォーク☆
怪舎員時代、経理のヤマちゃんが現在のわたしと同じ症状(の一部)を呈していたことを思い出した!
ヤマちゃんの原因=わたしの症状(の一部)の原因だとすると…っていうか、そのほうがまったく妥当な判断であるように思われてきた。
すなわち!かの「下京の名医」も実は誤診?の疑いが…!考えてみれば「そのこと」はあの医者に言ってないし。
まぁ、なにがどうだろうと今処方してもらっている薬には違いないはずだしエエけど。ほんま、わたしってデリケートでか弱いんやわぁ(*^_^*)
4/25 金 13.0   通勤ウォーク☆
往路は中国語、復路は英語…RUNのテンションだと気持ち悪くなる「ながら勉強」も、ウォーキングだとイイ感じ(*^_^*)
一石二鳥とはこのこっちゃ。
今年は白パンツが流行らしい…ということで、数か所の店で試着にトライしてみたのだがぁぁぁ…プクプクの足にはちょっと難あり、という結論(>_<)
…っていうか、ワタクシの外観やイメージには、ここまでサワヤカな配色は似合わないようだ(-_-;)
そもそも、「仕事用」として考える場合、白というのはなにかとヤバイ色であるかもしれない…ということも鑑み、今夏は既存のパンツまたはスカートにて越すことに決定☆
4/26 土 12.0   気になりながら遠ざけていたものに挑戦!シリーズ
第一弾は「道場破り」
思ったよりたいしたことなかった…あくまで今回の場所は、という範囲でだが、わたしにはあんまり必要性がないような気がした。
だって、「基本」を通り超えて最終地点に到達しちゃったしぃぃぃ〜(*^_^*)
スタッフに驚かれたあたり、まさに「道場破り」大成功、というところか。
4/27 日 44.0   朝一・桂川run&山辺の道
『Happy』
Pharrell Williams
@21日にびっくりドンキーで耳にしたBGMのワンフレーズに一瞬にしてハマる。
Aわたしがここまで「ピン!」とくるからには、これは懐かしの「Wham!」や「a-ha」あたりの曲だろうと思う(…平日午後の時間帯の飲食店は、80s'の音楽をかけているところが意外と多いこともあり)。
Bとにかく気に入ったので、あとでヨウツベやmo-raで探したいと思い、懸命にヒアリングに努めるも、「happy」を連発している以外のポイントつかめず(>_<)
C「Wham!」、「a-ha」、「happy」をキーワードにネット検索を試みるもヒットせず。…もはやあの曲をフルで聴くチャンスは失われたか、仮に再会できたとしてもそれまでかなり長期戦になると考える→ここでいったん終了。
Dところが本日、山の辺の道でサイクリングをしているカップルあり、その男性が取り付けていたi-phone(スピーカー)から控え目に流れていた曲がかの曲にドンピシャであることを認知。
Eどう見ても20代前半と思われるその男性が、わざわざi-phoneで80s'を聴くか?という疑念から、これはもしかすると最近のヒット曲ではないかと思いつく。
F帰宅後、ネットで「洋楽」「ランキング」にて検索→ビルボードチャートで第1位になっているのが、まさに『happy』というタイトルであった(゜o゜)
Gヨウツベで再検索。あるわあるわあるわ!…しかも同じ曲のプロモビデオが「時間帯を変えた背景」でいくつも!…聞きまくった(*^_^*)もち、みなさんに宣伝開始(ってか、もうみんな知ったはるか?)
4/28 月 20.0   城山三郎先生いわく、
「小説というのは、その風景や言動を淡々と書き連ねるところにその魅力が秘められているのである。そこに作者の思想や見解が込められるようになるとそれは小説とは呼べなくなるのであり、実際そのような手法を取る作者の名声は長続きしない。」
先生によれば、不朽の名作として名高い『星の王子様』のサン・テグジュベリがその失敗をした典型例であると。
…まさに、「目からウロコ」のご教示であった。このポイントさえ踏まえれば、わたしも小説が書けるかも?な気になった名言であった(*^_^*)
よって、その習作として、昨日は「起こった出来事」をサクサクと列記するにとどめてみたのである。
…といいつつ、「小説家」というより「思索家」に近いわたくしは、昨日の顛末に「我が輩なりのコメント」をさしはさみたくてウズウズする(>_<)…てなわけで、公開。
@結果として、これが「ヒット曲」であったことを鑑みると、「一瞬にして人の心(耳)をつかむ音楽」というものには、なにかしら一定の法則が存在するのか?という疑問。今回の場合、「これが流行っている」的な前知識なく、しかも「初めて、さりげなく耳に入ってきた一瞬」がすべてのスタートであるので、秘訣があるとすれば、それはあくまで曲自体に込められているリズム感やイメージにポイントがあるはずである。
A「気に入る」という直感の根源を、人間は「過去の知識や経験やから探り出そうとする」とする、すなわち、ひとはあくまで「自ら"それ"であると認められる範疇でものごとを予測・認識・判断しようとする」傾向が強く、新規・珍奇なものを排除しようとするものであるということ。今回、この曲を知ろうとする糸口を「a-ha」や「wham!」に似ている等、背景をこじつけ、回顧的に探ろうとした意識がまさにそれである。仏教学的に「唯識的モノの見方」と呼ばれるところの典型例であろう。
Bさらに、ひとはものごとを「自身のもつ能力程度」の範疇でしか判別・確定できないという事実が加わる。仮に現在、わたしがTOEIC800スコアの保持者なら、この曲の歌詞はセンテンスレベルで把握され、調査の方法や可能性も広がったことであろう。
C上記ABのようなこだわりや限界の下にあっては、「真実」は判明しないという事実。これまた、唯識学における「遍計所執性」の言わんとするところである。
D「縁の不思議」…山の辺の彼に遭遇、かつ、その時の彼のi-phoneが同じ曲だったのみならず、まさにわたしが「ピン!」ときたフレーズに完全合致していた奇跡的偶然の不思議を思う。人には、「それがその人に必要なものごとならば、時や状態は不確定ながら必ずわがものになる」という、運命的…ある種、超能力的な「吸引力」が備わっていることを経験上認識している、ささやかながら今回もその一例となるであろう。今回の場合、「ただの洋楽」に何の必要性や意味があるのか?と問われそうだが、その意義は後述の通り、「あった」のである。
E上記FG外部の状態から得られる知識や情報を取り込む、すなわち、「自らのこだわり」を排除することで「真実」に近づくという、至極当然でありながら見失われがちな「仏教の真理」の一端を体感する典型例。
【さて、この件のどこに意義があったか?】
さらに検索を進めると、この曲の日本語訳のサイトがあった。それだけなら「英語の曲は日本語訳を知らない方が楽しめる」という日頃の私的セオリーを越えるような内容ではなかったのだが、このサイトでは訳者の解釈コメントが付記されていたのである。いわく、「この曲はとにかく幸せで幸せでしょうがない!」という歓喜を唄っているのだが、その「歓喜」の正体が不明である、と。「子供が生まれてうれしいーな」的なものなのか、「神との合致」なのか…換言すれば、それは「俗的快楽の達成」か「宗教的エクスタシー(法楽・法悦)」かということであろう。どちらにするかでこの曲の意味は大きく異なるというわけである。
英文からは読み取れないというその真意、敢えて曖昧にしたという意図があったのかもしれないが。
わたしとしては、バックコーラスのイメージや、しつこいほどシーンを変えて展開しているビデオの構成などから見て、また、個人的期待感からも「後者」であってほしいと思う。その前提で、この曲は「宗教感」「宗教観」が旧来のカラを破って新時代に展開を見せ始めたその一例になっているのではないかと推測する。
いずれにせよ、この「たかがドンキーで聴いた曲」は、そこに付随する顛末の一々を含めて、わたくしのもつ「テーマ」に小さな一石を投じるものとなった。「時代は、たしかに動いている」という実感とともに。
4/29 火 13.0  
4/30 水 13.0  
走行距離 487.1  km