あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上56歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
1/01 水 40.0   祝☆年オンナ4周目記念
元旦極秘コースRUN
「先祖を訪ねて三十二里」
1年もてばオンの字だろうと500円で買って使っていた財布が、気が付けば3年半の長持ち。
…しかしようやく、ボロッちくなってきた。
つくづく、じぶんの「モノモチのよさ」に驚く。
京都人の習慣か、全国的な話かは知らないが、「財布」というのは年初めに新調するのがいいらしい…たまたま購入意欲のタイミングが合ったこともあって、ハナに行ってみた…が、イイのがなかった(-"-)
このまま、再び「ジップロックサイフ」に戻るのか…しかし、以前のようにそれほど「毎日がRUN中心」な生活スタイルなわけではないので、そりゃいくらなんでもはずかしいべな。
1/02 木 16.4   昨年ふと通りかかって以来、気になってしかたなかった「とある神社」へ。
「鞍馬型」「松尾型」と違う第三の種類。
しかしこれは、今年のワタクシに最も必要な「型」である…夏にまた。
数年間眠っていた「タイツさん」を再登場させた。当時はまったく普通のデザインだったものが、今やレアモノ状態のようで、2名の女子から「カワイイタイツ!」とつぶやかれたことをわたしは聞き逃さなかった(*^_^*)ニンマリ。
この「タイツさん」は何を隠そう「観往的不思議RUNアイテム」である。2001年のフジはこの「タイツさん」のおかげで登頂できたといういわくつきのシロモノ。何がどうしてかは知らないが、必要以上のパワーが出るのである。
ザクザク使用したいが、その分の劣化破損が気になる…ビミョウなところだ。
1/03 金 22.4   「きぬかけの道」は、いつなんどき走っても「トバシ傾向」になる。
それは、「トンネル」を通過するときのギアチェンジ状態に酷似している。
きぬかけの道はトンネルではないが、状況的にそれに近しい要件をそろえているということだろう。
「知識や情報」ではなく、無意識にカラダが環境に反応する…この「野生児モード」は相変わらず健在のようだ。
ゆえに、「琵琶湖1周ぶっちぎりRUN」が既にわたしの計画から消滅していることは、至極まっとうな成り行きであるということである。
暴対法がどうこう言ってるわりには、テキヤが依然ハバをきかせている。松尾でも北野でも平安でも、カミサマがギトギトになりそうな油のにおいやソースの匂いに充満して不快なことこの上なし。
通った小学校では「買い食い」が厳に戒められ、それが見つかろうものなら翌日の「朝の会」や「終わりの会」で告げ口されて、教室中の白い目に囲まれるというジョーヒンな地域で育ったせいか…というより、そもそもドビンボーでそんな購買能力のない家に育ったせいか、ワタクシは「テキヤで買い食い」ということに楽しさや魅力を感じないまま現在に至る。
昨今、これらの店の事故や虚偽表示等、マジになって怒りをぶつけるオトナが多いが、元々無法地帯のようなイイカゲンな仕組みで成り立っているこれらに正当性を求めることのアホらしさを感じてならない。逆に言えば、そういうテキトウさを受容し覚悟して楽しむくらいの余裕がないなら、近づくな・買うな・食べるな、ということである。
この程度のことに右往左往される類の人間が、やがて「財テク詐欺」に引っ掛かり全面被害者面して騒ぎ立てる年寄りになっていくのだろうと想像すると、これは小さいようで大きな問題である。
1/04 土 0.0   硯の墨がようやくなくなったので、書初め終了。
あれこれ書いたが、一番のヒット作は「色即是空 空即是色」(行書)であった。
高校の授業で、わたしの作品を見た書道の先生に「あなたはそんな風にしていても、実はとても女性らしいやわらかさややさしさを誰より持っている人だと思う」と言われたとき、自覚できないところを見透かされたような気恥ずかしさで「ガハハ!」と笑い飛ばしたことがある。
その後、ひとの書く文字というものは、その人の気質や素質というものを顕著に表すものであるということが体験的にわかるようになって以来、実際の仕事上でもその判断法は常に的確で大いに役立ったのであるが、じぶんの文字に対して言われたあの先生のコメントだけは謎めいたまま残っていた。ワタクシはいまだに、言葉づかいも態度も粗暴であり、世間一般で言われるところの「女性らしさ」などとは程遠いありようを呈している。したがって、端的にいえばあの先生の判定は「ハズレ」なのである。
しかし…
この数日、なんやかやと思いつくままにコトバや字体を変えて書き続けていくうちに、やはりあの先生は正しかったのかもしれないとの思いに至ったのである。外的な見え方・現れ方はどうあれ、「本質」としてやさしく女らしいものがあったがゆえにこうなった人生ではなかったか…と。
そもそも、人の持つ素質というものは、それが顕在化したとき良いと評価される場合とその反対の場合両方があって、それはその時代や環境等によっていかようにでも変わるものではないか。「やさしい」「女らしい」は、時と場合によって「優柔不断」「決断力欠如」「闘争心のなさ」に取って変わる。本来この本質が最も良い方向で発揮できるであろう人生のコンテンツをすべて蹴飛ばし、さりとて「猪突猛進、人を押しのけてもやり切る」力を本来的に持たないワタクシが、後者の反省や評価を感じることになるのは必定であるということなのだ。
あらゆる書体と言葉を書いてみて、最も心安らかに、自然な筆運びで、そして美しく書けたと感じた、すなわち最も素のじぶんらしさを象徴するように感じたのが「行書」であったことをみたとき、長年の「謎」が氷解したような気がしたのである。「行書体のような人生」といいながら、しかしどこかで「獲得」「勝利」「優位性」を追求することを否定できない矛盾を生き抜く中で、ここから先、どれだけの自己矛盾や葛藤、そして周囲の誤解に甘んじることになるだろう。とても今世で解決しきれるとは思えない課題に気づかされたような気がする。でも来世はない…だったらどうするよ?
1/05 日 0.0   向日市激辛商店街の「麒麟園」にて、辛味レベル2の坦々麺。2回目。体調のせいか慣れのせいか、前回ほどの刺激を感じず…今度はレベル3か?
食に関する「冒険とその限界」のバランスにおいて、ボーダースレスレでヒットした感のある料理に出会ったのである。
タイ出張時にパクチーを食べた時の「某所ヒリヒリ事件」のことを省みれば、ワタクシはそれほど辛さに強いタイプではないのだろうが、トウガラシに関しては「カプサイシン効果」が世間に謳われるようになって以来のトレーニング(?)のせいか、まぁまぁイケルくちである。
もとより、「大食い」「寄食」「激○」等々、食を遊びにしたようなことは好まないが、この坦々麺の場合、辛さを売りにしているとは言っても「しっかりした料理」の域を超えておらず、「また行きたい」と思うのも「おいしいから」の一点に所以するものであるからして、問題はないであろう。
しかし検討すべきなのは、2回目に食べた辛さが「それほどでもなかった」のは、それがRUN後でなかったから、という可能性があるということである。RUNで疲労するのは筋肉や心肺だけではないことを知る者としては、「レベル3」を試す際の環境条件をよくよく考慮せねばなるまい。
1/06 月 15.0   霊山護国や西村&山村の愛の巣界隈。
龍馬人気は衰えを知らないようだが、今ひとつ、彼がなぜそんなにスゴイのかがわからん。「意志や熱意」といった、あくまで一個人の生きざまとしては共感する点もあるが、彼の存在が世の中を変えた的な発想はちと違いやしないか。士農工商は華族や士族に名前を変えただけだし、貧しさや苦痛はかたちを変えただけだし。
死後、その在世時のあれこれが多くの人によってあれこれ語られいじられ評価され、いいように扱われる人生って不幸なことかもしれない。家康さんとか親鸞ちゃんとか死んだ場所が何ヶ所もあるし、乞食オジサンだったオシャカサンなんかもはや人間のかたちすらとどめず超人化してるし。
イイことも悪いことも世間一般並み、差引ゼロで円満に逝き、本当にその人を知っている人だけに適正+α(身内の欲目)の思い出と教訓を残し、「そういやアイツァ最後の正月にお汁粉食べたっけなぁ」…等々と明らかな史実をなぞられ、変わって虎屋茶寮のレトルトお汁粉を奮発して代わりに食べてもらえるくらいの存在感を生きることが、幸せなんじゃないだろうか。
1/07 火 15.0   山科に、気になるところがある。
しかし、レポートも気になる。
よって、本日も山越えせず。
鶴見ナンタラという学者みたいなオッサン(既に故人と思う)が、妙好人おゆきさんのコトバについてとんでもない書き間違いと解釈の間違いをしている記事を見つけた。もっと早ければ明らかに是正処置依頼の対象になったのだが、2008年版では時すでに遅し。その筋の人が読む学術書や論文ならこんなことは日常茶飯事だが、今回のそれは「雑誌」であるだけに始末に負えない。ちょっとしたことでけっこう気に入っていた人だけに残念至極。さすがに「山ポキ」ほどとは思わないが。
それはそうと、「あの時代」に課長まで上り詰め暴れまくって退職し、なおもエネルギーを持て余し中の豪傑0女史が、伊豆急ウオーキングをついに完歩したとの由。今は伊豆北川と稲梓がポイントから外されてしまったらしいが、それでもO女史いわく、「あんなところ全部走るなんてマジ信じられない」…わたしから言わせれば、トイレも満足にない釣り船にのって毎日海に出ているあなたの方がマジ信じられないっす。
でも、透明なイカは食べてみたーい(*^。^*)
1/08 水 0.0   相変わらず、ブックブク太っている…いや、これ血の話(*^_^*)
「年とったぁ」とか「パワー不足」とか言いながら、血の元気度については25年前とまったく変わらず!
かなり神経質に健康管理を考えて食生活をしていた時期と、比較的に不健康モードの気がする今と、結局「それが何か?」的に変化なしの「血の健康状態」を見る限り…ひとは何をしようとしまいと、良い時は良く、悪くなる時はなるものだということが言えるような気がする。
赤血球容積とか血小板量とか、とにかくすべての血球検査項目の数値上、明らかに「成分献血者」の理想的なタイプであって、ワタクシ相当喜ばれる品質を維持しております…っていう感じだが、やっぱしムリ。一度出したもの戻すなんて気色悪すぎ(-"-)
献血センターも、400か成分かの二者択一しかない制度をやめて、その人の状態によって「取れるやつからはジャンジャン取る!」的な仕組みをひとつ作ってくれないだろうか?わたしを含め、年4回以上OKくらいの人はたくさんいるだろうにねぇ。
1/09 木 15.0   「やましいことは何もしていない」…人生を数十年生きた人ならば、こんなことを言いきれる人はいないはずだ。むろん、それは殺人とか窃盗とか、そんなレベルの話ではない。
ちょっとしたウソ、だまし、ズル…子供のころの後出しジャンケンから仲間はずれ、長じては会社や男女問題におけるかけひき、人間関係における妬みや蔑み、さらには「良かれと思ってしたことが不快に思われていた」等々…己に厳しく、微細に内省すれば、誰もが皆「やましい過去」を持っているはずである。
謝ろうとして相手なく、償おうとして行方が知れず…等々、過ちを犯したままになっている過去に気づかず、または向き合えずに、自分の正当性を主張するのみで生きられる輩こそ、人生そのものが「やましい」まま終わるのである。
…友人Tに、「いまどき、FBを開設できないようなやつはヤマシイ過去があるからだ」と、50過ぎたオッサンが放言したそうだ。まことにもって、めでたく、そしてアワレな御仁である。
Tよ、「善人なおもて往生す、況や悪人をや」の真髄はここにある…以上。
(話はまったく変わるが)
え〜、餃子の王将の社長が殺されました。
ほんの一瞬におこった出来事が、ある人の生と死の境目になったということやね。あっけないもんです。
こういう事件が起きると、人としてはまず、「かわいそう・気の毒に…」と思います。そして、事情が事情ですから「怖い」ことだとも感じます。ぶっちゃけ、「いい気味や」と思わはるひともいやぁるかもしれんけど、それは全部、人間の基本的な感情です。人間というより、動物的な本能かもしれんへんね。ほとんどのひとは、そのあたりのテキトウな思いつきを世間話やツイッターで投げて終わり…しか−し、本当に「ひとが死ぬ」とはどういうことか?ということ、その意味を知ろうとしたり、冷静に客観的に考えたり語ったりしようとするとき、そこには必ず「勉強」が必要なのです。
例えば、今回王将の社長が殺されたというニュースが流れた途端、王将の株価が下がったといいます。それが何故かは、政治経済や数学の知識がなければ正しく理解することはできません。また、肉体的に、出血して心臓が止まり脳が働かなくなり、全身の細胞が動きを止める…それを考えるとき、生物の知識が必要です。文学や古典の世界でも、死は様々に表現されています。それは日本語ばかりではなく、世界各国の言語で表されています。そして、人が死んだとき、世間はそれをどう考えてきたか扱ってきたかという問題は、歴史や地理、文化を知らなければ正しく理解できひんでしょう。さらに、「人が生きて死ぬこと」を自体をしつこく考える哲学や宗教なんてジャンルもあります。
…学校の先生は、勉強する目的を「社会に役立つため」「より楽しく豊かに」など、「生きるために」としか教えないと思います。でもわたしは、「勉強とは、じぶんが死ぬことを徹底的に納得して死ぬために必要なことである」と言いたい。逆に言えば、さっさと死にたいんやったら、早いとこ誰からも責められないくらい勉強しいやということっちゃ。しかし言うとくが、中学高校の勉強なんぞ「知るべきことの目次を眺めている」程度や。100点連発したかて、そんなんまだまだ中途半端なもんやで。15や16で世の中に絶望するなんていう奴ほど、実は世の中のことをなーんも知らへんでいるわけや。あーもったいない。
生きているのが嫌だとか、僕なんか生きていても役に立たない・価値がないなんて立派な結論持ち出すんなら、それでも今まで空気吸い、水飲み、モノ食べて、ウンチして下水に流して汚して…ジブンがおらへんかったら、その分ほかの「生きたい」と思っている誰かにまわったはずのもん奪った、その責任くらいは取っていきや。どんな迷惑をかけたか自覚して反省できるくらいの勉強してから死んだれ、っちゅーこっちゃ。
・・・・・・・
過日とある場所で、十数人の若い聴衆を前に説教する機会があった、上記はその概要であるが、実はそのターゲットは「消えてしまいたいと願い続けている」という事前情報を得ていたある男子学生ひとりにあった。そもそも、「消えてしまいたい=自殺願望」をほのめかして2年以上周囲を翻弄させているというあたり、実は自殺するなんて度胸はサラサラなく、ただ単純に目的の持てない今の自分に落ち込んでいるだけのことだと断定しての話だったわけである…ゴチャゴチャ言うたが結果的に、「勉強とは死ぬためにするものだ」というトンデモネェ部分が一番響いたようで、彼はその言葉通り「よりよく死ぬためにがんばる」ことにしたらしいとの後日談が耳に入った。死を推奨しながら生を呼び覚ます…一か八かであったが結果オーライ。
死は生のためにあり、生は死のためにある。
1/10 金 15.0   「自由」ということを語るとき、それは手放しで歓迎されるべき理想であることを誰もが信じて疑わないものだが、そのことばや概念のひとり歩きは、むしろその人本来のありように対して「拘束」「制圧」を招いている側面があることを看過できない。時として、それは歴史観を歪めるものですらある。
どれほど「べき論」や「社会通念」が横行する世の中にあっても、そこを切り抜けて「新しいことをやれるひと」はいつの時代にもいた。また、その人の能力程度や趣向に従って素直に生きる人もいた。そしてそれをそのものとして受け入れ認める世間があったということは、厳然たる史実である。
常一先生らの民俗学書を読むと、男女の奔放な性関係や結婚制度、仕事のしかた、旅…等々、今では「不倫」「浮気」「私生児」「離婚」「職を転々」「放浪者」に言い換えられ排斥される位置づけにあるこれらが、6〜70年くらい前までの日本では、それほど問題視されない庶民(主として農村部)の生きざまであったことがわかる。もちろんそこには、それなりの激しい喜怒哀楽があったはずだが、そうした価値観を反転させても、今なお同様に喜怒哀楽はあることを考えれば、「人として生を全うする」という意味において、その是非は比較すべき問題にはならないのではないか、また、今より昔の方がずっと、ひとりひとりが「その人らしくあれた」ような気さえするのである。
今の世をよくよく眺めてみれば、「自由」「自由」と言いながらそれは結局のところ、「一定の学歴を収め、終身雇用の会社に勤め、入籍結婚して子供をもち、ある場所に定住し…」という暗黙かつ極めて狭小なルール内で右往左往する程度のものでしかないのではないか。これは、そうしたレールに乗れない者が、どこかで「守られるべき法」から除外されている事実からも明らかなことである。
すなわち、世に声高に叫ばれている「自由」など、実はいまだに存在してはいない。否、誰もに等しく与えられる自由など決して実現し得ないことであるということに、人々はそろそろ気づかないといけないだろう。
1/11 土 15.0   警察発表の「数」というのが、意図的に操作されている場合が多いということは、例えばメーデー参加者数における主催者発表のそれと大幅に乖離している等のケースを見ても明らかなことである。
今回、ひとりの逃亡者を確保するために「4000人の警官・850台のパトカー」が動員されたという…延べ数なのか総数なのかも把握できない報道を受け取った程度で、それが多いか少ないかなど、外野が評論すべき次元にはないのだ。
もしこれが、「10人・5台」であったら、人々は「何をやってる!もっと人を増やして真剣にやれ!」等々の非難を浴びせたことだろう。警察も、それを予想して実態以上の数を持ち出して「必死さ」をアピールしていたのかもしれない。
いずれにせよ、無事つかまって後、「たったひとりにどれだけ人員使ってるんだ」という(しかも大きなお世話の外国メディアによる)批評に迎合して、シロウトがグダグダコメントをするべきような話ではない。マジうるせぇ。
…おまわりさん、お疲れ様でした(-_-;)
強姦・強盗という最低の罪を犯しながらも、それが逃亡したときに「助ける友人」がいたという。「どんな人間にも、それを庇い、守ろうとする者がいるものだ」という事実は、ある意味で感動的なことであるといえるだろう。
誰もが憎むべき罪(オウム事件)を犯して服役中の男にも、母親は差し入れをもって足しげく面会に出かけるという。かの東条英機ですら孫娘からは「素晴らしいおじいさんだった」と思われ続けていた…今回の事件を含めたこれらは、法律だの道徳だのいうものを越えたところにある「ひとの情」というものが、決して失われてはならない「ひとのよるすべ」なのであることを、不幸なかたちで教えてくれる事例であるように思えるのである。
医師が、どんな極悪人でもその傷病を治療すること、また、その「職業倫理」を排して安楽死の処置を施すことも、「ひとの情」というものがどういうものであるかというところを端的に表す様であろう。ドラマや世間話では、常にあたたかくやさしいばかりのものであるとされている「ひとの情」というものは、実は本質的に悲しくつらい業を重ねるものなのかもしれない。
ところで…
ニュースに出てくるキャスター・識者なるものが「コメント=イチャモン=カッコイイ」と勘違いして久しく、それはいつの間にか一般庶民にも浸透しつつある嘆かわしい中にあって、それ一掃するかのような清々しさ、たくましさを感じる一報道があった。
先日の大雪の取材にて、黙々と雪かきをしている男性にマイクが向けられ…その男性は、「雪、すごいです。たぶんまた明日も雪かきでしょう…でも、これが但馬に生きる人間の宿命です。みなさん、頑張りましょう!」と笑顔で答える映像が流れたのである。おそらく取材は複数人に向けて実行され、中には「異常だ」「どうしようもない」「行政の対応が…」等々の不満をあらわにした人もいたはずである。それを差し置いて、昨今の人々が想定する展開を裏切るような姿を映したあの局は、まさに「あっぱれ!」である。
1/12 日 28.6   どこにでもある「○十○ヶ所」めぐりと同様、どこにでもある「七福神めぐり」…亀岡編。
しかし、一番というか唯一「すげぇ感」があったのは、七か所に数えられていない出雲大神宮だった。
五感が冴えわたる…境内で、目がナナメ後ろについてんのか?という位置関係で「あるもの」を見つけたことには我ながらビックリ(゜o゜;)ウヘエ〜ッ。
1/13 月 29.0   レタスを噛んでいたら、砂みたいなものがガリガリした。
洗ったのにおかしいなぁと思いながら気にしないで飲み込んだ。
食後、奥歯の詰め物がポッカリ取れているのに気がついた(゜o゜)
うひゃー、金属食べちゃった!とビビって調べたら、別に問題ないらしい。よかった(*^_^*)
「いつ治療したものですか?」の想定質問に対する回答を導き出すために、これまでの歯医者履歴を顧みる…直近は3年前(京都)、それ以前は橋本(相模原)の歯医者、その前は東京歯科大、その前は三田(東京港区)のインチキ歯医者、しかしいずれも虫歯治療ではなく、ではその前は…と辿った結果、今回のポロリ事件の治療は「鴨居」(横浜)であろうという、きわめて曖昧な記憶に行き着いた。なんと25年前のことである(゜o゜)
つまりその間、わたしは虫歯を発生させなかった…そのことにもついでに驚いた(゜o゜)
最近、そこに喜怒哀楽を交えない「単なる事実の掘り起し」をすることが多いのだが、つくづく思うのは、「10年」「20年」「30年」と、コトバにするとエラク長さを感じるこれらが実に「あっという間」のことであり、ひいては「人ひとりの人生」というものがいかにあっけない瞬間であるかということである。発明・発見・商売の成功等々、何かを成し遂げた人の方がある意味「奇跡」「異常」もしくは「偶然」なのであり、むしろ「なにもしていない」「なにもできなかった」というほうがノーマルなのではないか…この京都の地で、そういう「なんでもない人々」の暮らしぶりの中に多くの魅力や学びを得てきたわたしの思いを追認するかのような実感がフツフツ沸いている今日この頃。
少なくとも、「何かデカいことを成そう」と努力することと、「なんでもない中を生き抜こう」と努力することの価値は等しく、どちらも尊いありようであるということは間違いない。
1/14 火 15.0   ウガガガガ…アガガガ…その型、デカすぎてイタイねん!(-"-)
日頃、ビッグマウスのワタクシの口も、物理的にはお子ちゃまサイズなのであった…(-_-;)
最初、ムリヤリ大人サイズをはめ込まれ、口が5ミリくらい伸びてしまったような…マジ、口角が口内炎みたいになってるし(>_<)アワヤ、イリョウジコヤンカ!
詰め物充填ついでに、数年来気になっていたマウスピース(再)新調を決めた。
歯の掃除もしてくれるっちゅーことで、また来週☆
「まずはレントゲン」が歯科初診時のお約束…今日もその映像を眺めることになったのだが、それが紛れもなく「オヤジの輪郭」であったことに胸中さまざま複雑なるものあり。見た目の面からのみいえば、女の子が男親の骨格DNAを継承するってのはちと悲運か…てなことはさておき。
かつて、奥歯のインレーと言えば「銀色」と決まっていたものが、最近は一律「白」になったらしい。アルジネートは相変わらずピンク色だったが、ネリネリ作業は機械化。バキュームのチップは細くなり、スケーラーは完全電化。助手もゴム手をして…等々、かれこれ30年近く前、歯科助手さんだった記憶と比較すると、今はずいぶん良心的・省力化・衛生的になったものだと思う。昔なんか、血だらけのエキスカや短針を素手で洗って、「きゃっ、刺さっちゃった!」なんてやってんだからねぇ…(-_-;)「助手でも手袋」は、エイズ騒動以来のこと。それまでは、口の中いじるのも素手でやってることだってあったのだ。
そういえば、あの当時は床屋のクシや髭剃り刃なんかもギャーギャー騒がれたわな。今はどうなっているんだろう。
さらに遡れば小学校時代、出席番号7番前後だったわたしは、予防接種で「サラピンのハリ」が刺されたことはなく、たいてい3人目くらいだった。
それでも、エイズにも肝炎にもなっていないあたり、ラッキーだったというべきか、そもそもそれほど神経質になるような話ではないというべきか。
…しかし、歯医者の椅子に横になった途端、歯科医療に関する「業界語」が次々脳裏によみがえる不思議。どうでもいいことばかりシツコク覚えていることにイライラするわ。
1/15 水 8.0   かの神社に預かってもらったもの…逆にいえば、それがあった昨年までは、どれだけ重くしかしどうでもいい荷物を背負っていたのかということを実感する…本日、遅まきながらの初出勤にて、ずいぶん「感覚」が変わっていることに驚く。
じぶんとその在り方、ありように対する考え方に関して、前向きかつ戦略的な発想がポポポポ−ンと次々浮かび、怖いくらいだ。
かたちや程度の差こそあれ、親は子供に期待をかけるものだ。特殊な技能を持っていればそれを継承してほしいと願うものだし、あるいは、自分がやろうとしてできなかった夢を実現してほしいと託す場合もある。それほど具体的でなくても、「健康で自分より長生きしてほしい」ということはもはやコトバにするまでもない当然の願いでもあろう。
これらはしばしば、「無償の愛」「捨て身の愛情」等々と美しく語られてやまないが、実は結局のところ、「自分が理解許容できる範囲で生きてほしい」というセコイ思想を根源とし、かつ、「いかに自分(の1/2)をこの世に留めるか」という遺伝子上の欲求に他ならないということが言えると思う。DNA鑑定で親子でないことが判明したとたん、十数年もの間深いつながりをもってきた子供に対し親権がどうの戸籍がどうの、はてまた「これからは友達として…」とまで意識が変貌してしまうのは、それが「自分ないしは自分のものではないから」というところを根拠にしているものであるからに他ならない。つまり、「親子の愛」として崇高に語られる複数形の概念の正体は、「ただの自己愛」という単数形なのである。
…「夫を愛するがゆえに夫を愛しているのではない、汝のアートマンを愛するがゆえに夫を愛するのである」…古代インドのヤージュニヤバルキヤという哲学者の言。アートマンとは、近代的には「遺伝子」と翻訳してもいいだろうとわたしは思っているのだが、オシャカサンが現れるより前の時代、既に上述のような「真相」が明かされていたということになる。驚くべきことだ。
以下、明日へ続く。
1/16 木 15.0   ロジが好きだ。
「路地」ではない。「ロジスティクス」である。まぁ、京都のロージとかもスキだけどネ…(^_^.)
思えば、わたしを旅RUNに誘った要因の一端は、この歴史への憧れにもあった。
それとは別に、市場のトラック、宅急便、貨物列車、はてまた電車の運転手まで…おそらくそれらを見るわたしの目は、常に「羨望のまなざし」であるに違いない。その時のじぶんの目つきが検証できないことが残念だ。
「人やモノを運ぶ仕事っていうのは、すごい尊敬できる、素晴らしい仕事だと思う。ここまで、心からご苦労様、ありがとう、と言える仕事は最近珍しいんやないか…」
と言ったら、大の男にジワジワ泣き出されてマイッタ…これ、昨日の宅配業者とのやり取りの時の話。
労いでもお世辞でもなく、単に日頃から思っていることを口にしただけで相手が予想外の反応を示す事案が最近多い。
「自分はこんなことしかできないと思っていたんですが…メッチャうれしいです」とまで言われると、こちらが反応に困るんであるよ。
…というわけで、右欄は昨日の続き。
幸か不幸か(…といいつつ、じぶんでは相当「幸」であったと思っているのだが)、わたしにはコドモはいない。
つまり、「自己愛」を行使する上において、いたずらな言語表現で期待や言い訳けを託せる「他者」というものが存在せず、したがって、今世限りのこの身ひとつの中で「自己愛」の追求と解決を試みなければならないのである。
…というようなことを、これまでにも折に触れ考察してきたことは、表現こそ違えここにもしばしば記してきたとおりであるが、その具体的理解のための発想(こじつけ)が、先日ポポポーン!と浮かんだのである。
「今のじぶんの状態」をよくよく眺めてみれば、それは図らずも、自らの人生が生み出した「コドモ」のようなものを育てている状況とまったく同じではないか?…と。一般で言えば、47歳くらいの女は現在高校生・大学生あたりの子供に「自分を投影」しつつ期待をかけ、お金をかけ、不安を感じつつ「共に生きている」ケースが多い。「自身が院生」であるわたしの場合、それが二元的に捉えられないだけの話ではないかということである。
すなわちわたしには、肉体的にではなく、あくまで精神的に分離した「もうひとりのじぶん」が存在し、今まさにそれを育て、一喜一憂しながら生きているということである。これまで、「一話完結やしタイヘンだ!」と思ってきたがそれは大いなる間違い。わたしの人生は、その反省を生かし可能性を試そうとする、まったく新しい「もうひとりのじぶん」を生み出していたのである。「ここまできたきたじぶん」と「これからのじぶん」の価値観等における内面的葛藤は、巷によくある「親子の諍いや葛藤」と同質なのであって、そこに特異性があるものではないということに安心をおぼえつつ、さりとて、ある意味「二重人格的人生」ともいえる面に注意しつつ、大らかな気持ちでじぶんを育てていきたい。一般論と比較しての焦りや悲観、それを覆そうとするような気負いや虚勢など、全く必要なかったのである。
これは、わたしにとって大きな発見なのであった。時期がこのタイミングから少しでもズレれば言い得ないことが、わたしには起こっているという事実は、あらゆる意味で貴重なことであるとえるだろう。
また、現在学ぼうとしている種々のテーマが、少なくともわたしにとっては決して「老後の余興」ではないという自覚も新たにしたいところだ。
紛れもなく、わたしは「花の女子大生」なのである。キャピッ(*^。^*)
1/17 金 8.0   「アタマのいい人」…子供のころから成績優秀で高学歴なひとというのは、気の毒なものだなぁ…と思うことがしばしばある。
これは決して負け惜しみではなく、心の底から思うことだ。最近は、いよいよますますその感を強くする。
人より多く「知っている」「記憶している」ことは確かに優位性のあることである。しかし彼らの欠点は、それらの情報知識の蓄積そのものが、あたかも自ら導き出した考えであるかのように勘違いすること、また、その「引用」によって常に全てを語ろうとすることにある。
「なぜ、そのように考えるのか」…そこにはまず、喜怒哀楽すべてにおける自らの体験・経験があり、そこから生じる問題の所在に対して、葛藤や煩悶を経てようやく生じる「結論」である必要がある。そこには必ず「タマシイ」があり、どんなに不器用な表現であろうと真髄が宿っているものである。そして不思議なことに、古くから残されている哲学思想などにも繋がるものがあるのである。
「ことば」など、本来なんとも言えないはずのものを敢えて表現しよう時の不完全な記号に過ぎない。これを丸覚えし復唱できたところで、それが「自分にしかわからない事情を抱えた問題」に対してどれだけ役立つかについては、危ういところ多しなのであるぞ。
1/18 土 15.0   お汁粉マイブーム。
ターボのせい。
虎屋レトルト(1人前609円)。対して250グラムの小豆(298円)+和三盆200g(525円)で、負けず劣らずの4人前ができたことを考えると、軍配はどちらに?
ちなみに次回は、798円の丹波大納言でTRY。
不思議ちゃんワールドの話…でも、石原真理子モードとは違うので正常範囲。
わたしは本日、「ある人」と交信した。ここまで鮮明な会話は、9歳以来のことだから約40年ぶりか。…現実的に言えば、過去のある時期、確かに「存在していた人」の記憶の蘇りとその空想ということである(ちなみにターボではない)。
「その人」は、しきりに「今、自分がこの世に存在せず、あなたを助けられないことが申し訳ない」と言う。たしかに「そりゃそうかもね」と言えなくもないような気もしたが、さりとて「その人が本当に存在していた」とした場合どうなっていたか?ということをよくよく考えると、「やはり、それでよかった」という結論に至らざるを得ないこととなった。
最終的に、わたしが「その人」に何を頼み、「その人」はわたしに何を託したか…それは省略しておくが。
〆として、平たく言っておこう。
人間、「生きること」にも「死ぬこと」にも、等しい価値がある。
1/19 日 15.0   あれこれの要因でカラダの調子が悪くなったとき、それを「元に戻そう」とする働きがあるのと同じようなことが、遺伝子伝達レベルでも起こるのではないか…という大胆な個人的仮説。
1/2、1/4、1/8…と進めば、やがて「原型」はその形を失う。
… 「いや、そんなんじゃねえんだよ!」的な反発が、ある世代に至って発生し、どうにかして「元の状態に近い」ものを再生させようとする働きが起こるというのは、ありえない話じゃないだろう。
一族見渡して、最もキミョウキテレツな人生を歩んでいるわたしは、まさにその典型なのではあるまいか(゜o゜)
親そのものは、都会に憧れて田舎から出てきたイカレポンチな青年と住み込みで働いていた女工が単なる恋愛でくっついただけの話なのだが、父方の元の元の元の…と、同じく母方のそれを遡り辿っていくと、実に奇妙な符合点があることに気付く。構成員の寿命の傾向、体格や体質ひいては性質はさることながら、もしかしたら二者が発生した土地も至近であったかもしれないぞっ、という可能性。しっかり調査したわけではないからあくまで想像の域を出ないのであるが、それでも十分ロマンに満ちたものである。ちなみに、父方は「京都出」もしくは「京都経由」で現在の地に落ち着いた可能性が濃厚である。あはっ、親が京都住みでそこで生まれたからってエラそうにしているどっかの誰かより、こっちのほうがよっぽど「京都人」かもしれへんわ。っていうのはどうでもいいことだけど。
認識できる血縁がいるわけでもないこの京都に「なぜか」わたしはやってきた。それは、「呼ばれた」という表現が最も近いであろう感覚をもって…京都暮らしの直接のきっかけが「会社出張」であったとはいえ、それ以前から何かと「あれはこうなることを予感してのことだったのか?」という出来事はいくつか経てきたのも事実である。それらの心理的な変遷は、もしかすると遠い祖先からの、「原点に帰れ」というタマシイのメッセージであったのかもしれないなどと思う。親類縁者はほかに何人もいる中、敢えてわたしにそれが降りかかったのは「一番ヒマそうだったから」。言い換えれば、家庭も子供も持たず、「それ」を探り出し認識するに最も相応しい素養があったからということになるだろうか。
…最近、父方の本家が所在する集落の名称が、京都府内にかなりの曰くをもって現存する集落名と一致することが判明した。「もっとあってもよさそうなのになぜか日本に5か所しかない地名」である。これまで注目していた「やたらと同姓の多い集落」とは違う関連がなにかあるかもしれないと思うとワクワクする。RUNで行けない場所ではないので、近々出かけてみようと思う。
1/20 月 5.0   この冬、3度目の「同じダウン」を着ていた…捨てた。
薄ピンクがグレーになり、洗っても落ちない汚れが染みつき、エリが「フランシコザビエル」になり…着ていてミジメな気分になるほどにまで着れば、もういいだろう。
ヨレ・スレ・ダラシナサ…それらもひとつのオシャレポイントとして飲み込んでしまうほどの若さは既にない。
しばらくは、アシックスのRUNウェア(ウォームアップジャケット)代用。
今年はじまってすぐに購入を目論みながら、まだ購入せずモタモタしている…財布もしかり。
こうしたところにも注意を払えないうちは、わたしは「変われない」。あかん。
考えてみると、何のストレスもない「お気に入り」のまま、10年弱の冬をそれ一枚で越すことのできた「マムート」のジャケットはスグレモノであった。山関係のウェアや道具というものが、いかに流行りすたりなく、そして頑丈にできているものであるということを、改めてしみじみ感じるところである。
同じ商品がカタログに掲載され、リピート可能であったのも数年前まで。たいへん残念である。
もはや、かつてのように「ドカRUN」を連発するライフスタイルではないが、新規購入は山道具屋の商品を中心に検討しようと思う。
良いものがみつかるといいのだが。
1/21 火 12.0   19歳の時に「40過ぎレベル」と言われた歯茎が、「年齢より若い良好状態」に。虫歯はもとより歯石もナシ…1時間以上かかると予告されていた処置が10分で終わってしまった。
発展的には、長年悩みのタネだったある現象も回復するはずとの診断まで受け、ウヒョヒョーな気分(*^。^*)
先週の「口さけ事件」のクレームはなかったことにしてやろうっ。
庶民生活界隈の町家歯医者が、わたしにとって史上最高の名医になろうとは☆
虫歯を治療に行ったのに、ホワイトニングの説明を延々された○さんの歯医者とは大違いだ。
場所や評判を詮索するほど余裕がない「詰め物ポロリ」事件を契機に、大ヒット歯医者との出会い。これもまた、気運の高まりのひとつか。
「今やっておかないと、歳とってからとんでもないことになるよ」…というセリフを、医療や美容の関係で何度聞いてきたことか。
そこには「だからこの処置を…」ということばが引き続き、高額な治療や商品を押し付けようとする解説を聞かされたものだ。
「矯正しないと…」「しっかり基礎化粧しないと…」「いぼ痔を切らないと…」等々、これらをすべてスルーして20年後、いずれもそれを後悔するような「とんでもない事態」には至っていない事実から、彼らの告知が単なる脅し、もしくは証明のできない仮説であったことは明白となっている。
結局、どれもこれも、日常の一挙一投足・仕草・食生活など、基本的には意識しない細かい所行のありようや積み重ねによって、「自ら・内から」改善もしくは悪化の制御ができるものであるということなのである。
ところで…本日の歯科技工士のおじさん曰く、
「人間は、生きものなのですから絶えず変わります。年齢など関係ないです。生きているのですから。」
は、けだし名言であった。ボンサンの説法でも聞いているかのような気がした。歯科技工という一芸を全うする中にもこれだけの実感と説得力を備えたことばが現れるのである。ことばの意味を越えたあらゆる面で実に感動的なことであった。
何をどうしようといかんともしがたい物事に対する「諦観」を、「妥協」や「看過」に置き換えて全てに対応させることは間違いである。「やれば間違いなく変われる」ことは誠実に見極め、邁進していこう!
1/22 水 0.0  
1/23 木 0.0  
1/24 金 0.0  
1/25 土 0.0  
1/26 日 0.0  
1/27 月 0.0  
1/28 火 0.0  
1/29 水 0.0  
1/30 木 0.0  
1/31 金 0.0  
走行距離 304.4  km