あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上56歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
12/01 日 12.5  

12/02 月 7.0  

12/03 火 12.0  

12/04 水 7.0  

12/05 木 7.0  

12/06 金 7.0  

12/07 土 24.7  

12/08 日 11.5  

12/09 月 7.0  

12/10 火 5.0  

12/11 水 7.0  

12/12 木 0.0  

12/13 金 8.0   た(-_-;)
べ(^_^;)
12/14 土 18.3   造形大・春秋座
猿之助の軌跡展
いわゆる「2世タレント」「2世議員」等々なるものは、本質的には愚民のヤッカミに過ぎない場合が多いとはいえ、気の毒なまでに巷間の批判による陥れの対象になりがちであるが、「歌舞伎」をはじめとする芸事にはそれは当たらないと感じる。それは単に、表に見える芸の継承のみならず、精進・一筋・礼儀等々、現代社会が失いつつある日本古来の美意識そのものの伝道師でもあるように思うのである。南座がこれほど近くにありながら顔見世興行に行けないことが残念でならない。ちなみに、今回その席料と秤にかけているのは「語学習得用のウオークマン新調」である。裕福な御仁には一笑に付されるであろうレヴェルの内的折衝であるが、これもある意味、「我が人生における精進と一筋の固守」であると考えるならば、あながち無駄な葛藤であるとは言えないだろう。
12/15 日 13.0   近代美術館
皇室の名宝展
かつて仙洞御所で見た、水戸光圀に献上されたと言われる「透かしの石燈籠」と同じ感銘を受ける名品の数々。良くも悪くも、日本の文化というものは、「ヒトニアラズの存在」が頂点に位置づいていたことで、技芸における鍛錬とその完成度、加えて畏敬の念の籠った「傑作」というものが次々生まれたのではないか等々感じること多し。
一方、柳宗悦先生の民藝運動などによって評価された「手仕事の道具・民芸品」等、決して高みの位置には上ることのない名品があることも事実。しかし総じてみれば、そこにはまごうことなき共通性が見いだされる。それは、いずれも「そこにタマシイが籠っている」という一点において、に他ならない。
今や、各種の伝統芸能・文化が己の権威の保持に躍起となり、かたやあらゆる道具も「安ければよし」となり、すなわち、「金勘定」の価値観を第一と置くようになった時代にあって、求められていたはずの「美」は消滅への一途をたどる。震災復興の献茶、イベントとしての献花ショー…自称ハイソな人々はそこにまみえることに優越感を覚えているようだが、それらはザルやハサミを100均で買い求めようとする庶民の卑しさとなんら差分ない現象なのである。
12/16 月 5.0   「遮二無二生きる」でも「ぼんやり生きる」でもなく、「ていねいに生きる」。
…これが、人生の終盤に入った者の理想的指標だろう。
驚くべきことだ。一般には明らかに「負け組」になるであろうわたしの人生が、今、同世代の誰よりもその理想を実現できる環境を整えている。
現在47歳2か月を経過したワタクシの肉体は、時折の腰痛やひざ痛、抵抗できない睡魔、原材料や味付けによる胃腸の不調、冷えによる頭痛(元々薄い頭髪がさらに薄くなったせいだろう)等々、外的環境や負荷からの影響を敏感に受け取り反応するようになっている。記憶力、視力、反射神経もしかりである。
これは、年齢的にあって当然の変化なのであり、機能低下とも老化とも呼称するつもりは毛頭ない。むしろ、「だからこそできること」へのシフトや、「ゆえに生じる身のこなしや判断の冷静さ・上品さ」を感じるなど、新しいじぶんというものの発見を楽しんでいるのである。
しかしこれは、ワタクシの責任が問われる「コドモの養育」というものがないからこそ言えることなのであり、今まさに小学生やら高校生やらの母親業が付随しているとすれば、決して言い得ることではないだろう。旧友には、こどもがあっても既に成人独立しているとか、果てまた「孫」がいるようなひともあり、今この世代を迎える感慨には共通することが多いはずだと思っていたが、それはたまたま偶然のことであって、世間にはまだまだ自分のことなど二の次にして生活に追われる女性の多いことを知るに至り、図らずも選択した…というより、そういう成り行きになったわが身の上の顛末が、必ずしも負け組などと揶揄される状況にない幸福を個人的に感じているのである。
無論、これは、そういう人生を歩んでいる人々を批評することを意図したものではない。ただ、それぞれ様々な人生のありように誠実であるとき、そこには幸不幸の尺度などなんら存在しないものであるということが言いたいだけである。
12/17 火 5.0   大学サボる。
レポート優先にした。
大事な自由時間は、最も大事なことに使う。
「風邪をひいてなかなか治らへん」と嘆くMさんに、「アスコルビン酸」の効能を伝授。わたしの言うことなんぞ聞かへんかった人が、メールを見るや否や早速購入、親戚の子にも教えたとな(゜o゜)
この「アスコルビン酸」、ごく小さいスプーン1杯で風邪知らず、もしくは風邪ひいてもスッポリ治ってしまう妙薬である。薬局でひとビン買えば、ゆうに1か月以上もつものが2000円弱。ちなみにアスコルビン酸とは平たく言えば「ビタミンC」の粉末にほかならず、コンビニで小奇麗なパッケージで売っている「ビタミンC2000mg配合ドリンク」がひと飲み200円であることを考えると、そのコストパフォーマンスについては言を待たないものがあろう。
さらにいえば、このドリンク剤に含有される2000mgとは、アスコルビン酸のスプーン一杯とまったく同量である。ただビタミンCを摂取したいがために、要らぬ糖分や添加物を取り込むリスクを合わせ考慮しても、どちらが優れているかは一目瞭然である。どや、あなたも?
12/18 水 0.0   先日の「名品展」では、いくつかの附属展があった。その中で一番印象深く残っているのは、八木虚平という人の「ハイザラ・ハイザラ」というタイトルの陶器である。
それは形状、色合い共にポップであり、一見して自由な楽しさを感じるものであった。驚くべきは、それが「昭和16年」の作、すなわちまさに暗澹たる戦時中の作であるということである。かの大観ですら戦意宣揚に迎合した作品を残した時代に、である。
…いついかなる時代背景の中にあっても、ひとの心や感性というものは、決して破壊・支配されきれるものではないということ、翻って、己の持つ信念や思想は、不必要に歪めてはならぬということをまざまざと教えられたような気がしたのである。同じようなことは、若い世代がしばしば口にすることであるが、47歳の主張するそれは、彼らの「青さ」や「不足」を通り超えたところにあるものと、自負している。
閑話休題…って、ここからの話も十分閑話なのだが(-_-;)
ええ話を聞いた。
今や家電販売のトップであるヨドバシが、まだ一個人企業レベルであった頃…「配達業者」を探してあちこち依頼をかけたのだが、ネコだのフンドシだのをはじめとする業者からは悉く「そんな小さな仕事は受けられない」と、にべもなく門前払いであったそうだ。そんな中、唯一引き受けを快諾したのが「T運送」。お抱え業者となって以来、ヨドバシはこの「T運送」のみを取引先とし(厳密には、関西にはもう一軒あるらしいが)現在に至るという。今さらながら、ヨドバシを蹴った業者は地団駄を踏んでいる、もしくは「あんなところのひとつやふたつ」と、「スッパイブドウの論理」を展開していることであろう。
「ひと」にも「企業」にも、可能性というものがある。今現在の状態の大小によって、恒久的な予測をすることの浅はかさや怖さを知るところである。ただし、そうした判定を受けるにあたって、「今に見ていろ」と言えるのは、こちら側に正当性や誠実さがあるかどうかにかかっているという点も重要である。その意味で、今のバイト先に「未来はない」。今このままの状態で繁盛しまくったら、3遍回ってワン!と言ってやる。
…というその一方で、ワタクシ個人に「今に見ていろ」という素地はあるか?…今一番、自身に問われる最重要課題である。バイト先がどうこうゆーてる場合ではない。やるぞ。
12/19 木 0.0   ワンメータの距離を、RUNするどころかタクシーで…もちろんそれは、仕事上の荷物運搬のためである。雨やったし。
ただし、申請しても絶対立替にはならんだろう。まぁ今日は「割増時給」やし目ぇつぶったるわ。
「こんな職場でも、ひとつくらいはエエコトがある」…というのが、たいていの場合「職場ストレスのなぐさめワード」だが、ここの場合、「エエコトだらけやけどひとつだけガンがある」というのがビミョ〜なところなのである(-"-)
まさに「ガン」という命名が相応しいガンは、その名のごとく、たった一つですべてを食い尽くすかのような強烈なアホなのである。イヤハヤ。
一般で言う「フルタイム出勤」。それでも、怪舎員時代のように「通勤時間往復2時間」なんてわけではないから、負荷は少ない。もし今この仕事も同じ条件であったら…と思うと、いろいろな意味で恐ろしい。かつてはその長距離の中間を「通勤RUN」に振り替えていたわけだが、「新顔」の分際で汗をかきかき職場に飛び込むなどという個性的な言動はできないだろうし、かといって、電車の中というのは思うほど集中して勉強したり本を読めたりする環境でもないからだ。
今にして思えば、あの当時「RUN」に関しては、稀にみる恵まれた環境下にいたものだと思う。ただしそれはあくまで「RUN」に関してのみのことであって、その分ほかのことは相当おざなりになっていたということも意味する。
今、「はやくその遅れを取り戻せ」と言わんばかりの生活圏の中に暮らし、その意味と意義を認識していかねばならない時である。
12/20 金 0.0   本日も、一般で言う「フルタイム出勤」。しかも仕事の性質上、休憩なし。
これは、今日に限らず…のことである。
いたしかたないことと納得(妥協)はしているが、ここまでこのバイトでまともな休憩時間をとったことはたった数回のみである。
名目上、時給はいいが、実働時間に換算すると、それはまぁまぁフツウ?なレベルまで下がり、実入りとしては「どうもない結果」になっているのが実態である。
これは、「仕事を越えた」ところでの意識づけがなければできないバイトだ。逆に言えば、それがあるからやっているということ。少なくとも現時点では。
「特別な資格や能力はないが、わたしは『わたしというものを生きる』という意味において絶対のプロである」ということをここに記したことがある。
当時、それは単に言語表現上の範疇を越えるものではなかったが、ここにきてそれが真の意味(プロ=稼ぐ)で実現していることに気づかされた。
今、ワタクシがお客様に「売っている」のは、保持資格や特技能力でも、はてまた単なる人生の時間の一部でもない。延々47年と数か月生きてきた人生すべてをそのままに解放・放出することで獲得しているものなのだ。
たとえ組織内容がブラックであっても、簡単に引き下がれないでいる日々の根拠はここにある。
一時、「これぞ天職」「神より与えられし仕事」と記したことに後悔の念が生じたこともあったが、それ自体はまったく間違いないことであるようだ。
12/21 土 0.0   緊急対応にて出勤。10時から3時間で済むはずが、指示間違いにより定時過ぎまで。
「ガン」は、お客様との約束事さえ正確に伝えられないようだ。まぁその分、時給加算やしエエけど。
どうせ今日もマトモに昼休みなどとれまい…と、「駅のうどん」を食べていった(結果は案の上)。
京都駅構内には、いわゆる「立ち食いそば」が4軒あるが、今までイチオシだった店が悪い方向に(あくまで好み的に)味チェンジしてしまったため、残るのは33番線至近の一店舗のみとなった。別皿の山菜を2つトッピングでも400円。今も昔も、ワタクシの頼りになる存在である。
資金と度胸さえあれば、どんなアホでもいちおう「社長」にはなれる…ある意味、ワタクシに大きな希望を抱かせる存在に出会ったことは貴重である。言ってることは大企業の係長クラス、ヘタをすれば何十年勤続のオツボネサマ程度のことばかり。しかもそれが二転三転の思いつき。身の程を知らずにただ「社長」という肩書きだけが空しい支えになっているだけの行く末の怖さを感じる日々である。まぁ何処にでもいそうなタイプと言えなくもないが、問題なのは、その程度の人間が「商売ネタ」にしている内容にあるのである。これなら、アヤシイサプリやソーラーシステムのテレアポの方がまだ傷が浅いと思えるほどである。…といいつつ、最も問題なのは、わたし自身が「そのような職場だから採用され、働いている」という我が身の現実レベルにあるのだろう。
しかし今回の場合、色々な意味で「これから先に向けての、何らかのとっかかり」になっているというメリットがあることは事実である。価値はその一点だけである。あらゆる面に妥協し迎合し、長く勤めるなんて気はサラサラない。そもそも、正社員並みの勤務をしたところで健康保険・年金どころか雇用保険すらないようなところでは、「社会人として長く居続ける価値」そのものがないのである。
12/22 日 12.1   そろそろ冗談抜きに、人生の軌道修正を図らねばなるまいて。
マジメにやっていてもうまくいかぬのは、何かが間違っているからだ。
ふとした偶然からようつべで『マネーの虎』を見た。TV放映当時から総じてアホらしい番組とは思っていたのだが、それでも「いちおうの成功を収めた人」の視点や言葉には、サクッとした学びが隠れているものであると感じた。
飲食業をやりたいという話を持ちこんだ中年男性に対し、ある社長はその男性の「手」について批評した。「あなたの手は、確かに一生懸命生きていくために働いてきた手をしている。しかしそれだけだ。これから飲食の商売を始めようとしている人間の手をしていない。」…人間、見た目ではないと言われるが、それでも見た目が何かを決定する側面があることは事実である。その意味において、「生きるためだけに働いてきた手」と「これから何かをつかもうとしている手」には、どんな違いがあるのか…このことは、ワタクシにひじょうに大きな衝撃として残ったのである。
コトは手の問題に限らず、「今を生きるだけで精いっぱい」のありようと「これから何かをひらこう」とするありようには、おのずからその違いが生き方ひいては外見や雰囲気に現れて来るということであろう。明らかに後者の類に属したいと思っているわたしは、今、そのように見えているか?…大きなテーマである。
この「ことば」との出会いによって、わたしはとりあえず、試供品で入手して余った化粧水やクリームを手に刷り込み、マッサージをするようになった。わたしの場合、飲食業をめざしているわけではないから直接関係はないが、とりあえずこの言葉をヒントに、明らかに「一生懸命生きてきただけの手」である今の状態を改善しようと試み始めたのである。すなわち、両者の違いはそうした「心がけ」や「努力」というところにあるということがわかった、そのささやかなレッスンのようなものである。
12/23 月 15.3   いてもボチボチ…だったはずの「RUNおじさん」「RUNおばさん」が繁殖している。
その姿を、ここまで客観的に見せつけられる時代が来ようとは。
なんだかテンション下がる。…最近、歩くことの方が自分に合っているような気がしてきた。少なくとも、京都のまちなかでは。
(そら、山ン中や林道いうたら、話はチャイまっせ!)
「いいものはみんなに知ってほしい」というのと同時に、「知っている人だけの秘密にしたい」という心理も働くのが人間というものである。例示すれば、マイナーな歌手を応援しているファンのありようがそれであろう。
このことが、「京漬物」の世界にも垣間見えるような気がする今日この頃…それは、この時期出回る「千枚漬」と「すぐき」にある。冒頭に照らして言えば、千枚が前者、すぐきが後者の扱いになっているという空気があるのだ。大手漬物店で贈答品セットにパックされているのはほとんどが千枚であり、すぐきは「どうしてもというならどうぞ」という風を呈していることが多い。ここに、「ホンマのこと言うたら、すぐきは京都人だけのモノのや」というひとり占め意識が主張されている感を抱くのである。
そもそも、すぐき漬なるものは、上賀茂の一族が「門外不出の秘伝」として守ってきた味だったところ、飢饉の際に人助けとしてその製法が開放されたというのが起源だそうだ。そんな背景から察しても、これが「知る人ぞ知る」の範囲で愛されれば良いという思いを抱かれているというのは間違いではないだろう。見た目はボテッとしているが、その味は、程よい酸味とほのかな甘さ、歯ごたえありの絶品であり、薄ぺっらい千枚の比ではない。地元民になら、その気になればそこらの小さなお店や露店でも簡単に手に入る、それが、少し枠を外れただけで数千円かけて入手する羽目になる高級品…こんな格差も、イケズ京都人のプライドをコショコショとくすぐる味わいに加わっているのかもしれない。
12/24 火 0.0   勘違い野郎撲滅を望む。
どんなに頑張ろうが、年寄りは年寄りだ。
70のバアサンが四条通の横断歩道のないところで、車に引かれて死んだとな。それでも、轢いた方が逮捕され反省を求められるっていう道交法なるものは、少年法と同様に改正されるのがよろしかろう。今日もバスの中で、明らかに図書館から借りた本にベタベタ付箋を貼りまくり、赤線を引っ張っているジジイを目の前にするに至り、注意を施したら逆ギレされた。まったくもって、「歳をとる」ということの意味と価値、そして責任というものを自覚できていないバカ年寄りが多すぎる。
何をしても/どんな失敗をしても許される…そんな「世間の許容範囲」をとうに超えてなお、それがわからず、あるいは逆らうように生きることの恥を知れ。もしくは、それに気づかないほどボケているなら、一社会人面して世間に出るな。こうした輩は、年金負担やら何やらで若者に迷惑をかけているばかりでなく、きちんとしようと注意して生き、人や世のありようを次世代に伝えるべくあろうとする中高年にとっても、迷惑以外の何物でもない。
12/25 水 20.0   今んとこ、「そのほかのコンテンツ」をこなすためには、この距離が限界か。
…っていうか、怪舎員時代に平日30だ40だとすっ飛ばしていたんは、他のコンテンツを無視してたんだから、どちらかと言えば今がノーマル。
少子化問題が切実と言われるが、およそこの界隈にはそれが該当しないと思われるような…階下の公園はいったいどこから湧いてきてるんやというほど大量のガキンチョがギャーギャーワーワーとうるさいこと(-"-)
しかし、その光景の中には、遊具の順番待ち・譲りあい・年少者への配慮など、ゲーム機からは得られない「社会的訓練」の要素に満ち満ちている。喜ばしい騒音というべきか。
ラジカセ様の携帯電話をしょい込んでいる人間を見て「最先端」を感じたのも、今では笑い話。もはや2つ折りの携帯ですら「ガラケー」などと貶称される時代の変化の早さにあっては、板切れを手のひらに乗せて終始うつむきながら指でゴシゴシこするスマホも、「ダサイ」と言われるまでにはそれほど時間がかからないことだろう。
いずれ形状は「それを携帯しているのかどうかもわからない」ようになり、あらかじめインプットされた所持者の個人情報から、「相応しいもの・有利なものしか見せない・聞かせない」機能を持つようになるのかもしれない。他人からの批判や反論はホメ言葉に翻訳され、自らの言動の正当性の主張や釈明も機械が代行するようになるかもしれない。そこにはもはや、うつ病だの発達障害だのカウンセラーだの言ったくだらない逃げ道や職業は不要になり、致命的な病気にかかっても楽天的に過ごせるようになるだろう。あはははっ、至極愉快なことではないか!
かつて、マルクスは産業の機械化に「人間疎外」を訴え、30年前にはたかだが音楽を聴くだけのウオークマンの出現に「若者の孤立化」が問題視された。しかしどれだけエライ学者先生や運動家が騒ぎ立てたところで世の中は結局それらを看過しつつ受容しながら「もっともっと」の歩みを進めた。所詮「なるようにしかならない」ことを止めることは誰にもできないのである。
しからば、真の問いそして答えはどこにあるか?…意外にも、それは一見どうでもいいテレビドラマやCMコピーに現れることがある。気が付きさえすれば、各種人物伝、歴史書などを紐解くよりも簡単に察知することができるのである。
12/26 木 15.0   山科に行ってみようかなぁと山越え途中まで行ったがやめた。
四条大宮の本店には、献花台とかそれらしい何かがあるかと思ったらなかった。
餃子の王将は、名物社長がいなくなっても元気だ。がんばれ。
しかしまぁ、「走り去ってく車が」だの「ビデオに映像が」だの、どうでもいいような小ネタばかりチョロ出しの1週間だった。ホンマにわからへんのか、犯人あぶり出し作戦なのか。
40年近く前、山口百恵や志村けんの歌、カトちゃんの「ちょっとだけよ」等を子供が真似ることに目くじらを立てる大人がいた。20年前には「クレヨンしんちゃん」のしゃべり方を模倣する幼稚園児の未来が危ぶまれた。しかしその彼らが大人となった現在、「女の子の一番大切なもの」なんてものはそれ自体が世間の価値観から消えているし、「いっちょめいっちょめ!」などと踊っているアホもいない。「ちょっとだけよ」がこうじてストリッパーになった女もいないだろうし、しんのすけのような語りで就職面接を受ける学生もいないであろう。要は、その時々に子供が頻繁に軽々しく口にするような流行語などは、「ただ流行っているから」「なんとなく気に入ったから」という茫洋とした概要をつかんで楽しんでいるだけなのであり、本来意図される深い意味などなんら意識されていないものなのであって、大人はただ黙って見ていれば済むことの方が多いということである。いわんや、くまモンがゴミ箱に入って遊んでいる写真をや。
12/27 金 0.0   本質的に、内向的・引きこもりタイプのワタクシには、幼少のころからお正月にワイワイ騒ぐという空気がキライだった。長じてからもそれは、「行きたくもない場所に行かなければならない」苦痛があるのみであった。
元旦までまだ5日もあるというのに、スーパーでは数の子やらかまぼこやら正月野菜やらのオンパレードで、まともな日常食生活に支障をきたすような有様である。迷惑千万。
南座興行見物の代替として用意した「歌舞伎セット」の鑑賞を終了した。勘三郎の図書館本2冊、レンタルDVD2本…昨年の不幸は、カミサマが「一刻も早く」と勘三郎をご所望になったがゆえのことであったかと納得せねばと思うほどの純粋なタマシイをもった人であったと感じるところ多し。結果として、勘三郎はもとより勘九郎・七之助も出ない顔見世を見に行くより価値があったかもしれない。
じぶんの現在のありようについて反省し、また努力していかなければならないポイントを教えられたような気がする。
12/28 土 3.0   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『本当に頑張っている人は、「私は頑張っている」などとは言わぬ』
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…「私はダメだ」「僕はまだまだだ」と自己嫌悪感や焦燥感を持って悩んでいるアナタこそ、実は「頑張っている」のである。
本年の「観往・こころのひとこと大賞」は、やっちゃんはじめ、計4名様の申告により、これに決定☆
ワタクシは教師でもボンサンでもないが、ふと告げた一言が、誰かの心に届き、励みになったという便りはうれしいものだ。なぜか今年は、この一言への反応が集中したため、「大賞」を設定してみた。4名の皆様には、国産蜂蜜をスプーン一杯ずつ進呈しますのでなめに来てください。もちろん新幹線代は自分もちで(*^。^*)
いわゆるDQNネームなるものが世間の話題になっているが、それが本当に「問題になる」ほど多いのであれば、むしろそれが「フツウ」になるのは時間の問題であり、20年も経てばそこに生きる中心世代にはなんでもないことになるのだろうと思う。逆に、実は騒がれるほど多発していないのであれば、これは単なる「ブーム」あるいは「奇人変人の所行」として沈静化するだけのこととなるだろう。
そもそも、このような「奇を衒う」ような名付けというのは、現代にはじまった話ではない。日本には、一生のうちにひとり会うか会わないかというほどの「難読名字」を持つ一族がいくつもある。何らかの意図や経緯があるにせよ、基本的に「ありえない当て字」を施したような名字を付けた先人たちも、当時にしてみれば「DQN」な扱いを受けていたのではあるまいか。何事も、それが定着し、関係者に認知され長く継続することで、「歴史・文化」を語る一部と化し、珍しがられたり楽しまれたりするネタにはなっても、批判や蔑視の対象にはならない位置づけを獲得するようになるものだ。マーズ君もラピュタちゃんもミカエル君も、今しばらくたくましく生き抜いて欲しいものである。
ところで…何も知らない人間にはなんでもない名字が、「ある地域」「ある業界」にとっては、ドえらく畏まられたり一目置かれたりする場合があるそうだ。わたしの知人にもそういうのが一人いる。それが少年の悩みのタネになって、「本当のボクって何?」とばかりに中学から東京に単身出てきてしまったといういわくさえ持っているのである。現在、その作戦は成功し、親とは縁もゆかりもない業界を闊歩しているが、名字にせよ名前にせよ、「持たされたもの」に対して心理的に荷物を背負う子どもというのは意外に多いようである。同姓同名が300人くらいいそうなワタクシの場合、幼いころから珍しい名字や名前に憧れ続け、にも関わらず、「全国で500人」しかいないという母方の旧姓に変更できるチャンスをみすみす逃して今さら残念至極の感にさいなまれているわけだが、それは贅沢な悩みということか。「観往」のHNで遊ばせていただくくらいでちょうどよいのかもしれない。
12/29 日 0.0  
12/30 月 0.0  
12/31 火 0.0  
走行距離 222.4  km