あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
7/01 月 0.0   のっけからゼロ記録(-_-;)
まぁ拘らずにぼちぼちと(*^。^*)
なんだかんだと京都のまちに関わるようになってから15年になろうjかとしているが、最初のうちは「ザックしょってドタドタRUNしてる」人間なぞ、いてもわたしの他にひとり?程度だったのが、今では毎日数人の「通勤中?」と思しき人にすれ違うようになった。
7/02 火 0.0   英語でも出てくるような基本中の基本であるところの文法でオタオタしていながら、「5000回に一度出てくるか否か」という極めて特殊な文法のお料理的解釈には大正解を飛ばし…教授先生には「こいつはナニモノじゃ?」と思われたに違いない…(-_-;)
さらに言えば、仏教学を志すならば誰にも基本中の基本であるはずのSKTより、ある意味付随的で特殊なPARIのほうに相性の良さを感じる、じぶん自身、「わたしゃナニモノじゃ?」な気分である(-_-;)
しかしそれは、学んでいる言語そのものの難度等に原因があるのではなく、ひとえに「そこに対峙しているじぶん自身」の、その時々の集中力や緊迫度の高低によるところ大なのであるという実感が強い。いろいろな意味で「終了させること」「達成させること」というのが重要な課題になっている面が多い現在、その取り組みのありようがそのまま、現実的な「成果」として顕現しているのだろうと思うのである。それが証拠に、10年前なら今頃、「何を差し置いてもRUN・RUN・RUN!」一辺倒だったのは、数週間後に富士登山競走という「ゴール目標」が明確にあったからである。いくら「450`旅RUN!」という大テーマを掲げても、今のところ「まぁいずれ」という程度の心境であるから、日頃のRUNもテキトウ極まりない。
…人間、「追いつめられる」というのは、良いことではないと思われがちだが、無駄のない時間・有意義な人生というものを過ごすためには、これもまた必要不可欠なことであるのかもしれないとつくづく思う次第である。
7/03 水 0.0   「あなたより、わたしの方が重要なのよ!」「わたしのほうが、気に入られているのよ!」的なふるまい…そういうことがあからさまにわかる幼稚な言動をとる人間というのはたまにいる。わたし自身の直接的な経験としては、そういうのに遭遇して辟易したのは一人だけだが。
当人の、故意or無意識に関わらず、はっきり言って愚の骨頂であるこんな人間は「意に介さない」のが一番適切な対処であるし、できれば、お目にかかることなく過ごしたいものだと思う。
…して、そのような人間というのは、たいていの場合「オンナ」なのであって、そのように思っていたわけだが…本日、これが「オトコ」にもあることであるとわかってアングリ(゜o゜;)
概して、「社会性・協調性」とそれに伴う忍耐力や思考力に優れているのがオトコであると思うのだが、その生育環境や社会経験・家族経営において、そういうものが培われないままに生きていると、オトコと言えど「オンナのクサッタやつ」のような人間になるらしい。
ともあれ、「最後の総仕上げ」のこの時期に、かような新発見があることはありがたいことではある。
話は変わるが…昨日のことだ。
京都市北部のある観光スポット前で、関東某所から来たという中年オバサン3人組のひとりから、「写真を撮らせてもらっていいですか?」といきなり話しかけられた。あれまぁ、あるくだっしゅ、もしくは○○○(ブログHN)は、いつの間にかそんなに有名に?でも、じぶんの姿をさらしたことはないのに…一瞬うろたえたが、それは当然のごとく誇大妄想。彼女が写真を撮りたいといった理由は、なんとわたしの「ファッション」にあったのである。「センスがステキ!」「着こなし方がスゴイ!」等々、ほめちぎられて悪い気はしなかったが、このご時世、気楽に応じた一枚の写真が、どのような展開に及ぶかの危険性を考えて、丁重にお断りしたのであった。
実は、その後バスに乗った後にも同様のことが起こった。これは市内のオバちゃんであったのだが、わたしが隣にすわるやいなや、「えらい、オシャレにしたはりますなぁ」…一般に、京都人のホメ言葉はその裏をかけ!とは言われるが、その前の出来事があっただけに、この際は素直にそのまま受け取っておこうと丁重にお礼を述べておいたのであった。そしてさらに、きわめつけは近所の○○オバちゃん。「わぁぁステキやん!」…これは、もう間違いなかろう!そうだ!今日のわたしは「ステキ」であったのだっ(*^。^*)ドヤッ!
…ちなみに、この日のスタイルとは、着物でもサムエでもない。わたしの個人的感覚上、それらの2点を除いた場合に「次に似合うかたち」と思っている服の組み合わせである。上下合わせて2000円、「下」に至っては、「本来外出着ではない」類のシロモノである。それでも「似合う」「ステキ」が連発される「図らずも」のこの現象は、まっことにうれしいものである。
思えば、このようなセリフを投げられる場面はもうひとつあった…それは、主に長距離RUN時のスタイルである。かすみがうら、富士五湖、富士登山、いわて銀河、その他、ご勝手旅RUNの最中にも…若い子、おばちゃん、オバちゃんたちから「カッコイイ!」とホメられたわなぁ。せっかくだから立ちどまってモデルターンでも披露すべきであったかもしれないところ、テンションアゲアゲになってむしろスピードアップして駆け抜けてしまったり(*^。^*)サンキュー!ッテカ。
さて、これらをまとめていえるのは、少なくともわたしの場合、こうしたお言葉をいただけるときの格好というのが、「まず第一に、その機能性のみを追求し尽くした結果としてのモノを身にまとったとき」に起こるということである。ブランド品まみれのいでたちで受けるような評価を、まったく違うスタンスで表現しても得られるという事実は、服飾に関するひじょうに深い真理をわたしに示唆しているように思えるのである。
7/04 木 8.0   「ちょっと行くか」で出てみれば、いきなりの雨が降ったり止んだり…東山トレイル銀閣寺行き、あっさり撤回。
関西ではショボメなユザワヤで、チャコペーと待ち針を買って帰ってきた。
せっかく塗った日焼け止めも、こうなるとただのベタベタな厄介モノ(-"-)…はよ落とそ。
「やり始めたら…」の、ある種の呪縛によって、アホバイトを始めてから約3か月間、しっかりメイクをしていたわけだが、「顔が重い」「やらないほうがマシかも」すなわち「結局意味ナシ」の感が強くなり、再び必要最低限モードに戻したことは既述の通り。しかしながらその効果は、単に気分的なストレスを解消しただけでなく、肌そのもののそれもなくしたようである。なにより際立って明白になったのは、メイク期間、アイシャドーを取るとまぶた全体に妙に網目のようなシワシワ感が広がっていると気になっていた点が、再びすっかりツルツル平面状態に戻ったことである(^_^.)
当時は、「これもオヤジ一族の遺伝と年齢のせい」と、アミダちゃんの「そのままでよい」にすがって諦観していたものだが、ここまで回復すると話は一転、「やらなくていいいこいとやってイタメつけ、衰えさせてただけ」といわざるを得ず、したがって「そんなものはやめちめぇ〜!」という至極当然の結論にいたるわけである。
そもそもメイクなぞというものは「ある程度」を超えると、それはひとえに「見せるため」だけのものとなり、自分自身にとって、就中大事であるところの肉体的機能を損なうという犠牲を払うことを承諾しなければならない。「キレイに見せる」ことが本能的健康上必要な若い世代は、そのような負荷を早期回復ないしは抵抗する能力を併せ持っているからとりあえず問題ナシとしても、それを失った年代層には、負荷はそのまま破壊につながると考えておくくらいの方が正解だろう。わたしは、せっかくあるものを必要以上に早く壊すことを望まないし、入院や災害あるいは貧困でメイクどころではなくなった場合に、それ自体ストレスになったり、はてまた「あんた誰?」のような存在にもなりたくないのである。
結局、かつて購入したアイシャドーが8年たった今も半分近く残っているような「メイク環境」が、一番じぶんにふさわしい「健康的なありかた」ということだろう。巷では最近、「すっぴん画像」がチヤホヤされているが、わたしについては「バッチリメイク画像」こそがめったに見られない貴重品となるわけである。近々公開予定はヨイヨイヤマ。綾傘・月・菊水あたりをメインに撮影会費は肖像権放棄で3,000円です。なんちゃって。
7/05 金 0.0   大企業などで、リストラ対象になった社員が集められる「座敷牢部署」というのがあるという。ただ机に座っているだけで、電話禁止、ネット禁止、さりとて仕事に関わる資料のひとつも与えられない…それが、サラリーマンにとってどれほどの地獄であるか。
怪舎員時代のわたしは幸いにもそういう仕打ちになったことはない。今にして思えば不謹慎だが、そういう身分になってみたいと思うほど忙しくしていた。
怪舎内には実質上、似たような環境を与えられているように思われた人はいるが、それでもなにかしらの「やること」はあったように思う。
ところが、この歳になってはじめて、自身がそういう「ユルそうに見えてキツイ環境」を体験することになったのである。1日中「やることがないがそこにいなければならない」という状況は、はた目から見れば「極楽」かもしれないが、ネットの閲覧からメールのやりとりまで監視され、ヘタすりゃカメラか盗聴器でも置いてあるんじゃないかと思うような執拗な粗さがしをするような人間が上にいるので、「何をしても/しなくても」一々が問題視されるかもしれないという疑心暗鬼に陥り、精神衛生上まったくよろしくないのである。
わたしは本質的に「働く」ことが好きだ。だから、それなりに大変だったり疲れたりするきちんとした時間をそこでは過ごしたいと思う。そして、やっていることが直接に「ほんとうにひとの役に立っている」と実感・安心できる職種が良い。知れば知るほど「あってもなくてもいい組織」であり、やりたい放題の支出を続けて何とも思わないような職員の下で「承知しました」「お金のために来ているのだし割り切って」を繰り返す日々。おとなしくしているのをいいことに、ミスや落ち度は徹底的にこちらに振り替えられるこの状況が、異常でなくてなんであろう。
…ある意味、今さらながら新種・珍種・異質なスゴイ社会勉強をしていると思う。しかし「勉強には卒業」があるのだ。ヤスコサンやカズミさんのアドバイスや励ましも糧にしながら、早急な「飛び級退出」を目指したい。
7/06 土 14.0   壮大なスケールの夜RUNを企てたのだが…
なぜ降るか、雨!(-"-)
まぁその代りに香川照之のDVDと名門予備校教師の講義DVDを観れたしヨシとするか。
実はわたくし、香川照之はイチオシ的俳優である。もとはといえば気風のよさそうな女優・浜木綿子が好きになった、その:息子として注目していたのが始まりなのだが。何かと複雑な環境の中で生きてきた彼については、その演技はもとより人間そのものに大いなる関心を寄せている。ある意味「完成された一個人を生きる」ということの手本にもなっているのである。東大卒…というのはこの際関係ないかもしれないが、かれの発言や文章は大変理路整然として読み応え(聞きごたえ)があり、いろいろ参考になることも多い。
7/07 日 0.0  
7/08 月 0.0  
7/09 火 0.0   最近、ぶだはっで名物「ガリガリから揚げ」を食べることがほとんどなくなった。その代りマイブームとなっているのは「クリームあんみつ」だ。
それは、一般の甘味処で供されればブンなぐりたくなるようなシロモノではあるのだが、「大学喫茶だから」という背景をもって、ひじょうにウマイ一品なのである(^_^;)
そして、火曜日は朝抜き・昼抜きとなるワタクシにとっては貴重なエネルギー源ともなっているのである。
実際、本人とどのくらい深い関連があるのか定かではないような団体の会長となっているある老人を見かけた。「それと知っている人」にとっては権威と名誉のある存在なのだろうが、何も知らない者にとっては単なる「ヨボッたおじいちゃん」のひとりでしかない。
こういう人を見るたび感じることは、「その人が真に何らかの確固たる能力や経緯をもった一個人」として確立しているか、「ある時期から単に周囲に持ち上げられ煩悩の塊となった存在であるか」の違いは、いわゆる「老化・衰え」という現象の見え方に大きく影響を及ぼすようだということである。
気が付けば、ワタクシの教授先生と、アホバイト先の長は全く同じ歳であった。これを極めて冷静に見た場合にも、それは言えることである。
ところで、日本人が英語の「R」「L」の発音ができないというのと同様、外国人にも苦手な日本語の発音というのが結構あるらしい。
知り合いの韓国人留学生は、ワタクシを「サトリさん」と呼ぶ。無論、わたしの名字は「佐鳥」ではないが、正しく言おうとしてもそうなってしまうらしいのである。まぁ「サトリ=悟り」でもあるわけで、なかなか気に入っているので問題ないが、面白い。
そういえば、タイ人がわたしの下の名前を発音するときも正確ではなかった…彼らの発音をそのままにPARIの辞書を紐解いてみると、それは「死」を意味する単語に近いものであったりもする(^_^;)
しかし仏教的に解釈すれば、「サトリ・死」とはすなわち「ブッダ・涅槃」とも読めるわけで、なんだかかなりありがたいネーミングを持っているような気にもなってくるのである。
おぉ!わたしゃそやっぱりそういう人間だったのか!これもまた、生まれ持ったシンクロナントカ!…ってか(*^_^*)
7/10 水 0.0   バイト辞めました。正確には今週いっぱい。
決定打となった内容はもとより、その処置の仕方まで、やはりここはマトモなところではありませんでした。
しかしこの期間、「自らの展望」のようなものが緊張感を伴って具体化したことはなによりの収穫でした。
7/11 木 8.0   働かざる者、食うべからず
…によって、朝昼抜き!が、ここ数日経過…っていうか、昼を食べる時間がなかったり精神状態でなかったり、というのが実際のところなのだが、結果的に胃腸の調子はすこぶる良く、日中作業のパフォーマンス向上にもなり、なおかつ体重が3キロ減で定着中。一石三鳥いいことずくめ。
「地球温暖化」が広範に叫ばれるようになってから30年以上、富士山爆発&東海地震を脅かされ続けて40年以上、「親と弟を面倒見ろ」と言われ続けて40年以上…日々、心に不安と苦痛を感じながら46年が経過した現在、夏の暑さも火炎放射器ほどでなく皮膚ガン罹患率が顕著に増えているわけでもないし、富士山は優雅に世界遺産とかになって世界の耳目を集める存在であるし、弟は死んだし、親の面倒ももはや「人並みレベル」のテーマとなった。
いったいわたしは、何を気に病んできたのだろう。何を考えても考えなくても、起こるものは起こる、起こらないものは起こらない。そういう悠長さと情緒の安定が決定的に欠落した人生は、いたずらに不安や苦悩をひきよせ、そして覆われ、結局何の役にも立たないクズ人間をひとり作り出してしまっただけのことになった。
今ないしは間もなく命が尽きるならば、この状態でも「それでよし」とアミダちゃんはお導く下さることであろう。しかしそれが、あと数年〜数十年続くとしたならば、「もうちょっと、なんとかなったかもね?」と、「お迎えは代理人」だけになってしまうかもしれない。それではちょっとサビシイ。
「欲」「無謀」ではなく、あくまで自身の能力や持ち分を十分に発揮できているか否か、その問いと回答を出すための努力というのは、「そのままでよい」あり方とは矛盾するものではない。「もっと頑張ってもよい」のであるし、しかし「失敗してもよい」のである。あれこれいろいろとある中で、「それでもへこたれ切らない」じぶんが今ここに存在しているその背景にあるのは、「若さ」でも「意地」でも「見栄」でもなく、「大安心」にあるというところが、10年前のわたしとは大きく異なるところだ。
7/12 金 0.0  
7/13 土 15.0   山鉾組立まだボチボチ
そういえば、放下鉾のコンコンチキチキは、例年通り実施されると…
伝統芸能だ世界遺産だと言われていながら…いや、だからこそか?…こうした形式美には、水面下のグダグダが数多く渦巻いているようですな。
とかく「入り込んでいる」ことを自慢したがる中途半端な京都人も多いようですが、実のところ「わは〜、祇園祭だ!」と、その都度キャッキャッ言って見ている程度が幸せなんでしょうねぇ。
7/14 日 20.0   ついにワタクシを本気で怒らせましたね。
では勝負です。
こちらには、恐るべき「味方」がたくさんついて回っております。
7/15 月 0.0   「Welcome toubule,Welcome stranger」は長いことワタクシのモットーっちゅうか、ポリシーっちゅうか、座右の銘っちゅうか、まぁそういうものだった
(記憶する限り20歳時点で怪舎に提出したレポートに明記していた)
のですが…
やめることにシマシタ。
おおよそ「コマが出そろい」、最高レベルから最悪コースまで想定の固まった現在、もはやトラブルはトラブルではなく、あるいは「関わること自体が人生のムダになる」、そういう年代に至ったと思うからです。
このような類の「強気の名言」というものは巷に数多く存在するものですが、それらは所詮、「誰かの人生の結果論」を自身に当てはめてカッコつけてるだけの場合が多いものです。
換言すれば、そんなものを寸借して人生を語っている人は、まだまだ「現実に、具体的に自分を生きる」ということに真に向き合い葛藤していないといえるのではないでしょうか。
「No.1よりオンリーワン」というのがその典型のひとつです。誰しも一個の人間として生まれ出たからには、その形状・環境ほかあらゆることが「はなからオンリーワン」なのであります。その究極の真理を差し置いて、まるで競争に負けたときの言い訳や慰めのように、「オンリーワン」は「No.1」ということばと比較的に引用されているわけです。このあたりの思想が、怠慢やわがままをそのままに「オンリーワン」であると人々を誤解させる誘因となってはいないでしょうか。
「No.1」と「オンリーワン」は、そもそも同じ俎上にある事柄ではなく、さらに、「No.1」がいたずらに賞賛・自慢されることが醜いのと同様、「オンリーワン」もやかましく主張されることは醜いものであるとワタクシは思います。
7/16 火 0.0   何を、どうお料理するか。
メニューが多すぎて、大変。
もちろん、お弁当や夕食の支度の話ではない。
7/17 水 12.0   とても不思議なというか、当然というか…な現象。
世界ナンタラ遺産にもなったという「祇園祭」は、ある意味「京都の代名詞」ともいえる大きな行事あるはずなのだが、そのメインイベントである「山鉾巡航」の当日にあっても、ごく限られた「該当地域」以外は、まぁぁ〜ったくもって何ら変わりない日常風景が展開されているのである。「祇園祭、なんでっか、それ?」みたいな。
認知度や見物人の規模からすれば、市中いたるところに幟が立ったり、コンチキチンが鳴っていたりしておかしくないほどなのに。そういや、京都駅にも「祇園祭」の「ギ」すら感じる要素がない。
わたしはそこに、「見物人=観光客がたくさん来る」ことを胸のうちではニンマリ喜びながらも、それ以前(それ以上)に、祇園祭というものが本来、八坂神社を中心とし、その神のチカラの及ぶ界隈にのみ関連する「神事」でなのであるという精神的支柱が厳守されている「プライド」を見たような気がしている。
もっとも内輪では、地元民ではないアルバイトやボランティアを雇ったり、女子を加えたりと形式の維持に四苦八苦している事情はあるようだが、それはあくまで「アヒルが水面下で足をバタバタ」の次元であろう。
良くも悪くも、古き良き伝統文化というものは、それを古来のままに守り抜こうとする「意地の維持」によって成り立っているものだ、とつくづく思う。しかし結果として、これはこれで美しいことであると言えるだろう。
信者や地元民に気を使いすぎ、あるいは「ありがたく拝まれたい」と勘違いしたボンサンらの欲望が渦巻いて、「母子晴れ着ショー」ないしは「エライ順ボンサン行列」に変貌したかのような「迎講」よりも、威厳もありご利益もありそうだ。
7/18 木 12.0   来た来た。
彼らは、売りたいものがある時だけやってくる押し売り商売人。
まだ話してはいないわたしの正体を知れば、彼らはわたしを鬼畜呼ばわりすることであろう。
はい、その通り、鬼畜です!ヽ(*^。^*)/
7/19 金 10.0   ♪年に2回のオタノシミ♪
♪け〜ん・け・つ♪
…これ、本日作詞作曲の、実にポップなテーマ曲。お聞かせできないのが残念どす。
今や200mlは「やってもほぼ廃棄になっちゃう」らしいし、それに検査レポートの項目数も少ないしであんまり意味ナシ。
かといって、一度体外に出してチューブを通った血が、また元に戻るっちゅう成分献血もなんだか気色ワルイ…したがって、残される選択肢は400mlしかない!のである…しかし♀の場合、400mlは年2回が限界…この規則、なんとかならないっすか、赤十字はん。
…と、調子に乗って書いたら、ワタクシの体重が常に「50`以上」であることがバレバレやん!…まぁいいけど(^_^;)
☆外見上「らしさ」を失わず、しかしデブでもなく、パワフルな活動のできる女性の体重は、「身長−102」がベストだという自論を持っているワタクシ(むろん、自己流ではあるがそれなりの研究を経た結論である)。したがって、身長153cmのワタクシが50`を越えていることには、何の問題も感じないのである。今は越えすぎ&肥えすぎだけど(-_-;)ダイエット、ダイエット。
これまで20年くらいの間に10回以上は献血をやっているが、その都度看護婦さんから言われるのは、「楽しそうですね、怖くないですか?」という問いと、「フツウより採血の時間が短い」ということである。
前者についていえば、わたしの場合、採血の過程のすべてをワクワクしながら「ガン見」し、採血直後のナマあたたか〜いレバーの塊のような血液パックを「触らせてぇ〜♪」とプニプニしながらニヤニヤする習性があることがその理由であろう。もしかしたら相当な「ホラー&スプラッター好きの変態オバサン」と思われているかもしれないが、もちろんそんなことはない。
また、後者についていえば、およそ一般平均の半分以下の時間で400mlがしっかり採血できてしまうということである。今日もその理由を尋ねるのをうっかり忘れてきてしまったが、これには血圧が関係しているとは思えないし(最高108)、脈拍も60を切ってるくらいだから関係ないだろう。唯一、わたしの血管は「非常に太くて丈夫」であるらしいあたりが影響しているのか?と想像はできるが。
…先月だったか、「ご先祖ネタ」の記事において、「わらわは上流家系の血統」みたいなことを書きまくり、一部の熱心な読者の方々の笑いを誘ったが、実際そんなことはあくまでジョーダンの範疇であり、現在を生きるワタクシに何のメリットが生じる話でもない。「血筋が良い」とは、文字通り、献血のような「ガチで血が勝負」みたいなステージに立つとき、それが問題なくクリアできるか否か、というようなところに現実味のある尺度が立つべきではないか?…てなことを考えたりする。その意味では、わたしゃ紛れもなく「優れた血統に生まれた子」なんだわなぁ(*^_^*)
7/20 土 8.0   かめちゃんクイズ&ようやくの「保津川下り」(*^_^*)
カヌーとか、ボートとかがやってみたくなった(*^_^*)
一般にいう「才能」とは、「それがお金になるかならないか」によって価値が判定されるものである。棒で糸をゴシゴシこすったり、穴ン中にボールを命中させるのが上手というだけの個性も、それが「バイオリン」「ゴルフ」であるから「素晴らしい」のであって、それ自体が「イコール生きる力」とは言えないという本質には留意しなければならないだろう。逆にいえば、人は誰しも、「評価や賞賛の対象にならないジャンル」を含めれば、確実にひとつやふたつの「才能」をもっているということである。さらに、その「才能」は、時代のタイミングや要請によって、いつ「花形」に持ち上がるか未知数なのである。
かくいうワタクシの現状は、小さな町のクイズイベントで、即座に回答を導き出し悦に浸る程度である。
7/21 日 0.0   「それで生きている」と「それでも生きている」…「も」が入るか否かだけで、その意味は大きく異なる。
思うに、「戦中戦後およびそこに付属する世代」vs「まったくの現代人」、もしくは「お金持ち」vs「ボンビー人」の価値観やそのギャップというのは、そうした生き方の根底から起こっていることかもしれません。
「モノに依存する」「制度に依存する」ことで、人は、豊かに/強くなった気がしているだけ。
だれもが忘れている真実、換言すれば「誤解への憧れ」は、どこかで正されなければならないだろう…と本日はふと考えたのであります。きょうの選挙の結果、再始動するこの国の政治が、それほど理想的な展開をみせるとはつゆほども期待しておりませぬが。
7/22 月 12.0   「あのミュンヘン」と「このミュンヘン」は違うモノと思っていたが。
松山のミュンヘンと京都のミュンヘンはメニューが一緒でした。チェーン店?
それは、いうなれば「おとなのケンタッキー・フライド・チキン」みたいな店。KFCが「四本足のニワトリ」を使っているというウワサと同様、ここも「実はカエルの肉」というウワサがまことしやかに流れているところである(10年以上前に松山市民から聞いた単なる都市伝説)。
…とにもかくにも、「またあれが食べたい」という目的のために、わざわざ「松山ぼっちゃん旅RUN」を決行する必要はなくなったというわけで、いよいよ「秋の標的」は一本にしぼられたということだ…ムフフ、マジでやるぜ!ヽ(*^_^*)/
7/23 火 0.0   今朝、うちの前で、京都で(全国で、か?)ウワサの「永ちゃんタクシー」を見た!(゜o゜)
なんとなくラッキーな1日になりそうな予感…☆
…というのは、あながち単なるゲン担ぎでもなかったような気がする。
「saroruham」の解釈について…ついに、教授先生のお考えと違う点について、「自論の正しさへのある程度の自信」をもって食い下がり、プチ議論となったのである。ある意味「学者のケンカ」のようなものを初体験したわけであり、その理論性と爽快さに快感を覚えただけでなく、「いつの間にかそこまでイケテルじぶん」というものが確認できたということなのである。
7/24 水 8.0   気が付けば、すっかり中年おばさん体型(-_-;)…この数年続いた「更年期もどき?」の不調期にあっては、それもいたしかたないことと諦めていたが、最近上昇気味のテンションでみると、「緊急事態のデブ」そのものである。可及的速やかに改善せよ!(-"-)
とある場所に公開されたわが写真を見て、つくづく思った次第。(あまりにひどいので、どこかは言えない)
と、いってるそばから、本日もパーリ漬けな一日(-_-;)
しか〜し!…いずれも今後約2か月の短期決戦期間を設け、必ずや善処の方向にまい進する!ことを固く決意したのであった。
たかだか正味B5サイズ80枚程度の容量の文法にメゲて、「仏教学もハイここまでよ」とはしたくないし、たかだか8キロ程度の体重を落とさずにブヨブヨモタノタしているのは、RUNはもちろん人生全体にとって良いことではないからである!
10月のココに書かれているのは、やっぱりダメダメな言い訳か、それともちょっと進化した名言か…さぁ、はじめましょー!ヽ(*^。^*)/オーッ!
7/25 木 5.0   「思いやり」「やさしさ」ということ自体はとても大切なことだが、それがまったくの一方向から、さらに「単なる現時点での一般論」に則って行使されることの恐ろしさを再考すべきである。
ある意味それは、戦時中の「かくあるべき論」に人々が翻弄され、それを基準に善悪を判断されたことと何ら変わりはないのである。
「老人・コドモ・障害者・女性は弱者」であるという概念をはじめ、骨髄ドナー・臓器移植・出生前診断等々、それらの正否は、まったくもってケースバイケースなのであり、他人や世間がグダグダ評価を下すべきことではないし、まして、一元的な結論を導くべきことでもない。
そもそも、そんな奴らの主張の根源は、ポテチをかじりながら見ている架空ドラマや、ほんの一握りの「特殊成功例」を報道するドキュメントの影響に端を発することが多いのである。現実には、一見、極悪非道に思えるようなこと、冷酷残酷に思えるようなことが、深い意味で「やさしさ」にも「思いやり」にもなることも多々あることを知るべきである。
7/26 金 12.0   京都の高校生がコンビニのアイスケースに入っている写真をツイッターで公開し、大騒ぎに。
おおかたの人は、そういう「度が過ぎたイタズラ」を批判する資格をもった生き方をしてきているのだと思うが…
その時代にネットがあれば、同じことをしていたであろう、「現在ジイサンバアサン」というのも少なからず存在するだろう。旧制○高のあくどい所行、学生運動…伝え聞くところはゴマンとある。
つまり、こうした事件について、「今の若い者は」「偏差値の低い高校生は」…等々の、カテゴリ特化を枕詞にした批判は適切ではないのである。
今日のRUN距離の理由を説明しよう。
わたしは市の図書館である本を借りた。読み進めていくうちに、あるサブタイトルの記事部分だけがそっくり破り取られている事実に出っくわしたのである(-"-)
元々、その本は、ぶだはっ図書館にもあることがわかっていた。ゆえに、欠損部分を修復してもらえるように、該当部分をコピーに行ったのである。
その本は、出版年や内容からして、そしてコピーや写メがこれほど当然の時代に「本体を切り取る」という原始的な行為をするあたりを考慮すれば、これは「中高生」というより「中高年」の仕業とみる方が妥当であるように思われる。
すなわち、「人の迷惑を考えない」「社会性が欠けている」「自分本位」という性質を持つ人間は、年齢・世代・性別を問わず点在している、という良い証拠を実体験したわけである。おとなに怒られるべきコドモがいると同様、子どもから叱られていたしかたなしのアホオトナも、同程度いるのだ。
よりにもよって、欠損していたのは、今回わたしが一番見たかった「迎え講」の項。近々、龍谷で関連する展示会があることもあり、興味を持った人が同じように落胆するのは忍びないことであるとして、わたしとして「できる対処」をこうじた次第。
しかし…その旨を伝えた図書館職員から、一番先に出たことばは、「こんなしてもらっても、こちらからはお金は出せません」…とな!(-"-)
関西人は、なにより先にまず「お金・金勘定」の話が出る傾向が強いことは既に十分承知済みだが、まさかこのケースでそれが出るとは…一瞬、プチ切れ気味になったが、経緯説明に「ぶだはっ学生」と述べた立場上、ホトケのように黙っておいた。お金って、コピー代のことか?そんな気、最初からあらへんわ!と、至極残念に感じたのであった。ちなみに、コピー代は50円。
7/27 土 12.0   木津加茂の石仏めぐりに行ったわけだが。
今回の場合、そこよりも「ぴぴっ!」と来たのは、「恭仁大橋」の風景。
京都御所しかり、長岡京しかり…「天皇は神である」などと右翼チックあるいは前時代的思想を持ち出して根拠にしようなどとは毛頭思わないが、「それなりの人が住まうために、それなりに選ばれた場所」というのには、何かしかの神秘的な「気」を感じさせる、地形・地質や空気の流れなどがあるのだろうか?…などと不思議な気持ちにさせるものがある。
7/28 日 12.0   天一本店は、数ある支店の味を超越したウマサがあると聞き及んでいたが。
きわめて個人的な感覚からいえば、二条店か八条店のほうがウマイ☆
ある友人からの紹介というか強制というか…で、とある美容飲料のモニターをここ2週間ほどやっていた。それはいわゆる「お肌に大切なタンパク質」系成分が、尋常でない量含有されている商品であった。いわく、「爪がきれいになった!」「シワがなくなったような…」という「あるある効果」が刷り込まれての実験だったのだが、わたしの場合、残念ながら効果というより副作用の方が強かったようである。なんだか一日中体のあちこちがムズがゆくてしゃぁないという状況が、やめたとたん元通りなのである。
考えてみりゃ、元々これといって気になるシワはないし、爪なんぞ生えてりゃオンの字程度の認識しかないのだから、むしろ副作用が出てくれたことで「この商品にはプラシーボ以外の何かがある!」の確信が得られたわけでもあるが…そんなネガティブなコメントを発信したところでソッコー削除されることだろう(-_-;)
「食べログ」や「ヨシムラの口コミ(個人的情報源)」などの評判も、これと同様。
たしかにその通り!と納得する店もあれば、誰もが高得点で絶賛しているラーメンで食中毒まがいの様態になったこともあるし、「ヨシムラ、コノヤロー!」と叫びたくなるような、マズイ店もあった。
「人が何をどう言おうと、自分は自分」…このことばは、たかがラーメン一杯から人生観まで、幅広く正しいことである。
7/29 月 10.0   「人間、いつかは死ぬ」という事実。
そして、「歳老いた者が先に死ぬ」という自然常識論。
それらはすべて、
「人間、誰もが一瞬先は死の可能性」の事実によって、覆される。
明日ではない。今夜でもない。
今、このPCにグダグダ打ち込んでいるこの瞬間に、心臓が止まる可能性を誰も否定できない。
だから、「何をするべきか」という「今の考え方」が重要なのだ。
何を選び、何を捨てるかは、個人の趣味や思想、環境によって様々だろう。誰がヘンだと思うと、ムダと思うと、あるいは怠慢だと思おうと、わたしはわたしの選んだ「今」を生き、そして積み重ねていこう。
7/30 火 10.0   東寺毘沙門天堂で、朝からゴマ焚きの行。うわっ、あっつそ〜(゜o゜;)
しかし、この光景を、オシャカサンが見たらさぞやお嘆きのことであろう…(-_-;)
なんてったって、オシャカサンが一番先に破折した宗教が、「拝火教・カッサパ三兄弟」なのであるから…。きわめて素朴で簡素であったオシャカサンの教えが、再び世俗化・呪術化した結果が密教修法。学問的にいうならば、真言密教は仏教というより仏教文化の部類に入ると考える。
粛々とボンサンがゴマを焚いていると思えば、境内ではジイサマバアサマたちがアヤシイテンポの体操を。大師堂ではこれまたジイサマバアサマたちが御詠歌を朗々と。おじちゃんおばちゃんはお好みの仏さんの前で拝み、観光チックな若者は写真をバチバチ。このような光景を見るたび、東寺という場所は「開かれた聖域である」との感を強くする。この光景が存続する限り、オシャカサンも「まぁ細かいことは大目に見るか!」的のお許しを下されることであろうと思う。
現在、京都のあちゃこちゃのお寺で「仰天講座」なる「現代版夏安居」のイベントが開催される中、この東寺だけは「何それ?」状態、いつも通りである。その「なんでもない感」こそ、仏教における究極の「信仰的下地」あるいは「たどり着くべき真理」であるようにも感じられるところである。
7/31 水 0.0   7/30の記録は、実は本日分。(記録する場所間違えた)
走行距離 188.0  km