あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
12/01 土 10.0   FMココロから聞こえてきたCM。「ドバイの観光誘致」の内容だった。
「世界一高いタワー」だの「地下のアクアリウム」だの、出てくるのは「お金にモノを言わせてドヤドヤ状態」のオンパレードであり、なんだか気持ち悪くなった。
それに引き替えこの京都。同じ観光誘致でもそれは「いかに古いか」「いかに重いか」がポイントである。その中心は寺院等の建造物や職人技を介した物品などに集中しがちだが、その根底には、京都に暮らす人々に培われてきた「この地で生きる意地」というものがあることを忘れてはならないだろうと思う。「勝手に見に来て、好きなこと言うたはるいけど、それが何か?」的な京都人感覚こそが、ここまでの「観光都市京都」を守ってきたのであるということを忘れたとき、京都もドバイと同じ「お金を落としてくれる人にひたすら媚びる」だけのいやらしいまちになるのだろうと思う。
12/02 日 10.0   宮迫が胃ガンらしい。「北条時宗」以来、お気に入りの俳優(お笑い芸人とは思っていない)であるし、なにより同世代の病気の話として、アユがどうした・小林幸子がどうしたとは違う重さのあるニュースだ。
この時期、TV報道は選挙戦モード真っ最中なので、一芸能人のトラブルについて根掘り葉掘り追及されないのは、何より本人にとってストレスにならず良いことであろう。
しかしその選挙戦…この期に及んで「子ども手当○十万」なんてことを原発と一緒に並べて目玉にしているような政党には用ナシ。今回の選挙は学生サークルのように政党が乱立しているが、すべて終われば、結局はどこかの既成政党に吸い込まれて適当なことになる違いないことは目に見えているので、なんともしらけるのである。
12/03 月 10.0   すっかり「くまモン」にハマる。当初、キャラそのものの外観はそれほどカワイイとは思えず、なぜこれが「ゆるキャラグランプリ(2011)」だったのか理解できなかったが…
キャラが人間のように動き、そして働く。そしてその関係者のなりきり度や本気のガンバリ・情熱が伝わってくるからこそのグランプリだったのであるということを、遅まきながら知ることになった今日この頃。
ところでこの京都。「府民だより」によれば、チュートリアルというコンビが「京都観光大使」になったそうだ。と、とたんに、広報監を任命されていた「まゆまろ」の紙上露出が激減&いい加減になった。
「まゆまろ」がダメなら、チュートリアルでもダメ。何を担ぎ上げても要は「なりふり構わない営業力」がモノを言うことは、「くまモン」をみれば明らかである。
12/04 火 10.0   七条で、「選挙民をなめとんのか!」と、個人的には極めて腹立たしい選挙活動を見てしまった。
「なにあれ〜?」「おもしろ〜い!」というだけの反応として手を振ってる若い女の子に気を良くして、「お手ふり、ありがとうございます!」と嬉々としている候補者を見て、こいつはマジでアホだと思った。
数年前、選挙事務所を片付けるとき、支援者からの花束(名札付・その後晒されながら数日放置)を放り投げて捨てていたその人を見たときから、こいつは信用できない男だと思っていたが、今回さらにそれをあからさまに見せてもらって有意義だった。
そうかと思えば、福知山に引っ越して半年以上も経つオバちゃんが、わざわざ下京にやってきて選挙活動…否、信仰活動…というのにも遭遇した。遠いところから時間と交通費を費やしてこの寒空の中を駆け回る姿に、彼女がどれほど必死に個人的な幸福を求めているかという気持ちが伝わってくるようで、そのありようには頭が下がる思いがした。が、話の内容は毎度のことながらイマイチっていうか、現実社会には縁遠い論点を持ち出してきたのにはビックリギョーテンした。
この国が、ひとつの国として生き抜く以上、必要不可欠なことは多々ある。しかしそれらは一々独立したコンテンツではなく、エネルギーも国防(領土問題)も雇用・福祉も税金も、ひじょうに密接なかかわりをもって成り立っているものであるからして、「あれもこれもすべてイイカンジ!」になるような政策などあり得ず、何かが推進される裏では、何らかの大きな負担があることは当然なのである。だからこそ、そのあたりを十分に研究し、「致し方ないベストな選択」を行っていると思える政党を見つけたい。それにしても今回の選挙は、ドンキホーテの中からじぶんの欲しいものを見つけるような作業で疲れるしめんどくさい。
12/05 水 10.0   ゴン引退。普通ならカッコいいことをいう会見で、「未練タラタラ」とか「またやれるチャンスを狙う」とか、本音で力強く語る姿は、むしろスッゲーカッコイイと感動した。オツカレサン、ゴン!
45歳で、そこまでの活動に一区切り付けるような能力をもった人間もいれば、45歳を過ぎてここまでのエネルギーを能力に変えて生きる人間もいる。多くの人々の人生をみるにつけ、40代半ばというのは早すぎず、遅すぎずの、絶妙な人生のタイミングに置かれていることを感じる。
時期を同じくして、実に7人もの旧ビジ友から推薦された『海賊とよばれた男』を入手。「その時代だったからこそ」「正論の偶然かつ幸運な勝利」のストーリー展開であるといえなくもないが、ビジネスひいては日本経済・国民の幸福というものの考え方について、出光佐三氏並びにそれを支えた人々のような存在ばかりであれば、この国は一気に回復するだろうと思うような迫力があった。近いところでは、小倉昌男先生のご活躍があるが、そんな気概をもった「男」たちは、今後この国に現れるのだろうか。
12/06 木 10.0   何言ってるかわからない歌舞伎も、けっこういいかも?…と初めて思ったのは、8年ほど前に勘三郎(勘九郎時代)のドキュメンタリーを見たことがきっかけだった。元々は庶民の娯楽…誰にも身近に楽しめるものだということを、身をもって示し続けたのが勘九郎だったと思う。残念なことだ。
その直前まで宴会でどんちゃん騒ぎをしていた人が、「人間ドックの判定」を機にわずか半年で…という展開を考えるとき、「ガン」ということを「科学的に知らされ、科学的に支配する」ことの是非を考えさせられる。少なくとも、「ガンは早期発見ならば治る」というのは、万民に当てはまる絶対の法則ではない…と思わざるを得ない。
わたしは、2006年末、人間ドックで「食道がんの疑い?」をかけられ、また、2009年に弟がガンで死んだ等の経緯から、「ガン」に関してはわりと深刻に知識情報に関わってきたと思う。誰もが恐れる病であるが、実は3人にひとりの「ポピュラーな死因」であるということを知るにいたり、最近では「ガン」こそが最も自然であり、かつ「残りの時間が許される」ありがたい病なのではないかと思うようになった。会いたい人に会い、持ち物を処分し、読み残した本を読み、見たい景色を見に行く…これは「ピンピンコロリ」ではできないことである。
わたしは、40ではじめた京都暮らしを機に、それまでやってきた人間ドックその他の検診を一切やめた。わたしにとって京都暮らしはもはや「人生の余興」という位置づけにあるからだ。早期発見や高度医療で生き延びる必要のあるほど重要性のない人生。ただ、その「宣告」がたとえ明日であったとしても、「あははっ、そうですか!まぁこれでいいでしょう!」と本気で言えるくらいの「生き方」は大切にしたいと思っている。
12/07 金 3.0   いつのころからか、わたしにとっては『日本霊異記』がメッチャクチャ腹立たしい書物である。「その時代の必要性」はあったのかもしれないが、こうしたものの延々とした流布が、日本仏教を「狂わせた一因」になっていると感じるからだ。
仏教学上、この作品は批判的に検証されることはあれ、引用して説教する材料になどなり得ない。
百歩譲っても、「サンタクロース」並みのおとぎ話レベルなのである。
…と、思っていたのはわたしだけでなく、かの水上先生がまったく同じお考えであることを知り、強力な同志を得た気持ちになった。ウレピー。
もとより、この日本の仏教は「鎮護国家」のために輸入されたものであって、そこには必然的に「身分制度の安定」や「権威の維持継続」が目論まれていたのであるから、下々の者が「貧しくても頑張る」とか「病気だけど克服する」とかいう性質を持っていることは不都合だったのだろう。しかし今や、時代は明らかに変わっており、仏教が本来の思想を取り戻して展開しないことには何らの効をなさないのである。日本仏教界はそこに真摯な反省をせず、旧態依然のありようであるから、オウムが現れ、スピリチュアルが現れ、イカサマ占い師が現れ、そこにすがる人々が後を絶たないのである。
…と、ここで熱くなってもしゃぁない…ただ一言、「元来。仏教は輪廻(生まれ変わり)を否定している」。すべてはそこから始まっている思想であることを大いに叫んでおきたい。
12/08 土 10.0   選挙に向けての各党代表の討論番組。怒りを煽るような直截的な批判、人の発言を遮る、興奮してしゃべる…結局、ザワザワ混乱するだけで、落ち着いて考える資料になどなりはしない。これが国を代表する人間の体か。下品極まりない。一般会社の幹部会議のほうがよほど冷静で知的である。
こういうのを見るたびに、わが「若草町生徒会」の運営の素晴らしさが思い出される。優等生も部活少年もヤンキーも、「話の場」ではきちんと「話をしていた」。…って、田舎町の中学校生徒会と比較されるようじゃオシマイだわな。
いわゆる「税金の無駄遣い」というには申し訳ないような気もするが、重箱の隅をつつくようなやりくりが必要な今、敢えて発言。
昨日知って驚いたのだが、日本では海外からの留学生に「国民健康保険」を与えているのだそうだ。無論、「学生の身」ゆえ負担額は最低額の月2000円程度。病気やけがをすればその費用は社会保障費(税金)から支出されることになるのである。なんか、どこか、しっくりこない話のような気がする。逆に、日本人が海外に留学する場合には、国民保健(社会保険)をそのまま維持して現地では自己負担→後に還付か、現地で所属する大学が加入している保険に便乗する仕組みだそうである。日本も同じにすればいいじゃないかと思う。少なくとも、私学においては受け入れた留学生の保険分くらい独自の組合でまかなうくらいの負担責任を課すべきだろう。そうすれば、怪しい留学生を次々呼び込んでようやく成り立たせているような大学もなくなっていくだろうし。
国に帰れば実家は裕福なのに、オバちゃんのパート賃金以上の奨学金を毎月受け(しかも生活費とは別枠)、さらに病気やケガはお安くフォローします…内輪では、壊滅的な危機を叫んでいながら、こんな甘い仕組みがまかり通っていることが信じられないのである。
ともあれ、同期生として知り合いになっている学生たちの中で、一番の「苦学生」といえるのが、この国で定年まで真面目に働きぬいてきた初老の男性と、低収入ながら年金や保険料だけは欠かさず続けているわたしであることが判明した。「だからこその仏教学」をなんとか成し遂げたい!と、モチベーションが上がったと同時に、どうにも「真面目にやった者が報われない」的な日本政治の一面を見せられたようで情けなかったりもしたのである。
12/09 日 13.3   上鳥羽ジョウゼンジ。オウム施設前も通過。
同じ「京都市」でも、十条より南・北大路より北は開放感があって心地よい。住宅密集度の違いだろう。
映画『八甲田山』を見た。悲しいくらい面白くないのが驚きだった。映像は終始暗く、平清盛の画面がどうこう言ってるレベルではない。あの有名な「天は我を見放したぁ〜!」の名台詞もだれが言ってるのかわからない。たまに鮮やかな映像になるのは、本筋とどういう結びつきがあるのか理解できない青森の観光イメージ映像みたいなもの。その分、秋吉久美子の輝くような美しさがひときわ印象に残ったが。
結局、「雪の行軍でみんな死んじゃったんだってさ!」という粗過ぎるほどの粗筋だけを前提にして、あとは北大路欣也や加山雄三などの有名俳優が、過酷な現地ロケを敢行した…というその姿を「見せる」ことだけに執心した、要は完全なる「娯楽映画」になっているという感じだ。ある意味、本当に行軍で亡くなった兵隊さんを冒涜しているコンセプトになっていると言えなくもない。…作品は36年前のもの。当時は、「これだけ」で何か訴えるものがあったほど人心や情緒が豊かであったということなのか、あるいはまた単純であったのか。あの時代の映画やドラマは、ビデオやBSでわんさか流れているが、どうにも「ため息モード」になる場合が多い。
津川あたりの「老人俳優」は、しばしば昔の映画界を評価し、現在は安っぽくてメチャクチャ堕落したみたいなことをゆ〜てるが、そりゃ逆だろうと思うのである。そういう彼の代表作が『狂った果実』『ひとひらの雪』なんてのを考えると笑っちゃうんだわ。今のほうが、よほど複雑な心理や事情を巧みに表現した傑作や、それを絶妙に演じる俳優が多いような気がするんである。今回の映画で言えば、途中に流れた「出光のCM」のほうが、数倍も情緒に訴える素晴らしい作品であったぞよ。
敢えて別枠を挙げれば、「清張先生モノ」のみ、時代を経るにしたがって、その再現が幼稚で軽薄になっている退化路線をたどっている…そんな感じ。
12/10 月 5.0   見なくていいもの・聞かなくて言いものに触れてしまうことはしばしばある。その逆もまた然りで、見るべきもの・聞くべきことであろうことを見せられず聞かされないということもあるが。
まったく、小さいというかセコイというか…幸いにも、こうした人間に出会ったのはごく最近のことである。これが、例えば直接、会社関係とかで関わらなくて良かった…などと思う。
意識的に、であれば挑戦的で上等じゃねぇか!という感じだがかまっている暇はなし。無意識なのであれば単なる非常識なだけでこれまたかまっているヒマなし。まぁ今まで通り無視しとこうって感じか。
12/11 火 15.0   自力整体&秘密アイテムで、かなり骨格が改善された…単なる気分ではなく、実感として効果がバリバリ現れ始めたような…
走る時の足の軽さはもちろんだが、普通に歩くときに、いわゆる「モデル歩き」をしてもつらくなくなったのである!…パリコレデビューまであと一歩じゃ♪ナンチャッテ。
「正しいフォームで歩けば、それだけでスタイルも健康も維持できるんです!」という専門家の指導を、これまでTVなどで何回も見てきたが、そういうお手本を真似してウオーキングするよりRUNのほうが断然ラクチンだったし、運動量も大きいはずなので「わかっちゃいるけど知らんふり」をしてきた。
しかし実際にそれらしきフォームを身につけてみると、たかがウォーキングのはずが実は見事な「全身運動」であることがわかり、また見た目にも美しく見えることが判明し驚愕している(゜o゜)オオッ。
さらに、以前にはまったく意識されなかった部分の筋肉が使用されていることに気づき、現状その部分にたっぷりゼイ肉がついていることも判明。そして使っていなかったがゆえにそのフォローとして余計に酷使していたらしき部分には、必要以上の筋肉がついていることも判明(゜o゜)オオオオッ。
黒いタイツを履けば「くまモン」、青いタイツを履けば「ドラえもん」となるワタクシのボンボン体型は、つまるところ「じぶんがいいように歩き、走ってきた」一瞬一瞬の運動の蓄積がもたらしたものであったようだ(-_-;)ガガガガ〜ン!
これまでの「あるくだっしゅRUN」を続けていれば、やがて致命的なトラブルが起こるだろう…という予感が走って以来数年経過。しかし意外でごく簡単なことにその解決策はあったような気がしている。若いころにはどうあっても耐えていてくれた肉体も、もはや「やればやったなりの結果」が良くも悪くもストレートに発現する世代に至り、大切なことは、「ただ思いのままに情熱RUN」ではない、計算と意識を十分に働かせた「頭脳RUN」」であろうかと感じた次第。そういうことを意識せずともギャハハ!で行けた時代もあり、意識してムフフ!と行く時代もあり…どちらも楽しい「わたしのRUN」である。一般に、旧来のありようが継続できないことは「退化」「老化」と言われ、素直に向き合えない人が多いが、それは実にもったいなく危険なことであると思う。それらを単なる「変化」として受け止め、その時々に応じた対処やありようを楽しめばよい。「中高年の健康」とは、そういう身の丈を冷静に踏まえた上に成り立つところに評価の視点が置かれるべきだろうとも思うのである。これを仏教では「如実知見」という。人が苦から解放されるための根本的な解決策の一つの教えでもある。
12/12 水 15.0   「流行語大賞」とか「今年の漢字」とか、それほど特出したものがない年は「該当なし」でもいいんじゃないでしょうか。いつまで続けるつもりなんでしょう。毎年、ムリヤリ決めて騒いでいるだけにしか思えません。
特に「漢字」のほうは、かの「黒い話題」を持った主催者と清水寺との関係が続いていることも気になります。
この時期になると、10年ほど前に東寺で出会ったご婦人のことを思い出す。「5年前は、主人と一緒にここに来たんです。」…ご主人を亡くされてのひとり旅だった。写真を頼まれたわたしは、レンズ越しに「旦那さんが、そばにいらっしゃいますよ…」と、口から滑るように言葉をかけていた。カメラを受け取ったご婦人は、やや涙ぐみながら「ありがとう。いい旅になりそうです。」と微笑んで去って行った。
…もちろんそれは、物理的にはまったくのウソである。しかしあれは、「見えないけど見たかった」わたしとご婦人の心が重なった瞬間が許した光景だったのだろうと思っている。あのご婦人には、今もご主人が見えているのか見えなくなっているか、それはわからないしどちらでも構わないが、今も「心穏やかなよい旅」を続けてくれていれば…と願うのである。
仏教の開祖ブッダは、「霊」が存在するか否かについて無回答の態度を貫いた(「無記」)。多くの概説書では、「現在を生きるに必要のない形而上学的問題なので排除した」という解説を施しているが、わたしにはそれだけでは少しばかり乱暴すぎるかもしれないとも思える。「死んでも霊は残る」と信じることで穏やかに救われる「生」がある現実を知るたびに、ブッダの「無記」は、万民共通の絶対の答えはないがしかし、人それぞれが答えを出すべき心の問いとして、その回答を留保されたのではないかという可能性を感じるのである。わたしは、仏教以前から日本人に内在し続けた「霊はある」という情緒を守る世の中のほうが、ある種の緊張感を介在させながらも優しく穏やかに生きられるような気がする。あるいは、「死んだらお浄土へ」という思想でもよい。
ただ、「たたり」だの「呪い」だの、脅迫まがいの商売がいつまでもまかり通るなら、「ない」としてしまった方がマシであるかもしれない…とは思うが。
12/13 木 10.0   天気も良いし…山方面を大回りして、かねてより予定していた府警本部に行こうか!と思っていた。もちろん、出頭ではない。ポリスまろんを連行(購入)しようという計画だ。
…ったが、とある先生のメールのお言葉に刺激を受け、やはり学問に時間を割くことにした。
お言葉とは…「運動する以上に仕事してる」という、極めて単純なものなのだが、そういう「自負」のもとに先生の現在のご功績があるのだと思うと、今のじぶんが見習うべきなのは、そちら方面にあるという意識が強く働くのだ。走って「かの大会」に近づくことより重要。
ついでに『八甲田山』の原作も完読できたし、結果オーライ。
尼崎事件の主犯のオバちゃんが留置所で自殺したとのニュース。警察の不手際や今後の真相解明が閉ざされたとかが大きく話題になっている傍らで、わたしは仏教学…就中、「浄土教」に関心を持つ立場としてこのことを考えさせられる。誰も等しく「死んだら浄土へ」の思想ではあるが、彼女のように「懺悔を伴わず、最後まで自己本位であった結果として自殺した」ようなヤツでも浄土往生…というのは、マジメに生きた人間からすれば至極理不尽で納得がいかない問題になる。しかしこの点、『観無量寿経』では往生の方法にも9通りのレベルがあり、一番下の下の段階での往生は、一応浄土に行っても、蓮華のつぼみに囲まれたまま、外に出られない時間が延々と続くことになっている「制裁」があるのでやはり「ざまぁみろ」という風に理解しておくべきなのだろう。
ただ、そこで新たに問題になるのは、この『観無量寿経』が、ずいぶん後になって説かれた可能性のある「原典不明」の経典であるということである。もちろん、だからと言ってこれが「ウソっぱち」ということではない。浄土教の発展に伴って、そのように細かく解説しないと成り立たない世間の事情が考慮された結果としての事のはずなのだ。
ことは、この『観無量寿経』だけでなく、いわゆる「大乗経典」に属するものは悉く、作成当時の世間事情が反映されての内容になっていることは間違いないことで、そうさせた「事情」を考察することは、同時にブッダ以後の仏弟子の資質や行状を想定するヒントになり得るのである…ウーン、いいところに気が付いた☆
今のわたくしは、論文作業において、経典を「時代ごとに追う」「内容ごとに追う」という作業を課されている。これまで、どうしてもその前者について意義が見いだせなかったところが、ようやく明白になったような気がする。
その意味で、尼崎のオバちゃんの死という顛末は、わたしにとってひじょうに有益な価値をもたらした。オバちゃんありがとう!な感じだ。これをせめてもの彼女の「ホトケの働き」として考え、往生を祈って差し上げましょう。下生下品であることには間違いはないけれど。南無阿弥陀仏。
12/14 金 10.0   この季節になると、「日焼け止め」の安売りが少なくなる…季節問わず、紫外線が気になる趣味を持た「お年頃の女性」には、寒さ以上に厳し〜い季節なのねん(-_-;)
経費節減から言っても、やっぱり早朝RUNがベスト?
芸能人がブログで詐欺行為…とか。しか〜しよくよく見てみると、「芸能人」「有名人」とはいいつつ、はっきり言って中途半端な存在感しかないような人の名前ばっかりが挙がっているのであって…。しばしばつまらないことでYahooニュースになるあるタレントのブログなんぞ、コメントすら毎日同じようなホメコトバの連発で、「コメント投稿アルバイト?」を疑うような有様だし。
一般人の中にも、まるで自分が有名人にでもなったかのような気になって文章を書いているブログをよく見かける。自己陶酔というかなんというか、やたら「今」の状態や心境をカッコよくコトバでまとめるわりに、数日・数か月単位でそれが釈明なくアッサリ覆ったり開き直ったり…みたいなものを、これまでさんざん見てきたものだ。
ともあれ、ひじょうに役に立つ情報源である一方、様々なトラブルや害の源泉ともなるこの世界、「惑わされ、支配される」ことのないよう、注意していきたいものだ。
12/15 土 13.0   「ポリスまろん」捕獲失敗。
しかし「名香・堀川」は無事GET。
警察施設ならば、どこでも年中無休&24時間営業かと思っていたら、違った(-_-;)
わたしは以前から「香り」に親しむのが好きで、お化粧はしなくてもフレグランスには凝ってきたようなところがある。そんなわたしがここ京都に来て、「香」にハマらぬはずがない!のである。わたしの知る限りでは、いわゆる大きな老舗といえるお店は3件ほどあり、その中で一番近所にある薫玉堂を贔屓にしてきたのだが、諸般の事由から「やっぱ松栄堂がいいかな」と思うようになったというわけで…。
「堀川」は、20本で1050円と、今まで楽しんできた銘柄より若干割高だが、値段なりの良さは感じるので不満には思わない。まぁ、「何処の何」と、いやらしくこだわることなしに、「あろま〜♪」で「いやし〜♪」の楽しみを続けていきたいと思っている。
12/16 日 16.0   妙好人・源左の父親は、「おらぁが死んだら親様を頼め」と言い残して死んだ。このとき源左19歳。「親様を頼め」の意味を心の中で考え続け、ようやく悟った「親様」の存在は、実の父親よりももっと大きく、絶対のものであった。
100年以上の時を過ぎて今、遠く京都に生きるこのわたくしも、源左さんと同じ喜びと安心の中に生きているような気がいたします。ようこそ、ようこそ。
何を言おうがやろうが、それが少しばかり間違っていようが、「よしよし、仕方ない子だね」「それでいい、そのままでいい」と許してくれる存在が「親」というものであるならば、わたしには人生40年、それがまったく欠落していたことになる。40を超えてようやくの「阿弥陀さん」との出会いは、わたしを確実に救ったのだという思いがますます強くなる今日このごろ。仏教学の研究上の態度とは別次元の、あくまで心情的なところの問題である。
ただ、この父ちゃんは、勉強せずに怠けていても「よしよし」、RUNせずにゴロ寝してても「よしよし」の超甘々パパなので、そこのところは少しばかりじぶんで気を引き締めていかなくちゃいけないんである。「仕方ないねぇ」より「よく頑張った!えらいぞ!」と褒められる子になれるよう、ガンバリま〜す!などと、久々の知恩院さんにてお話してきた次第。
12/17 月 10.0   求職・暗黒の時代に突入か!(-_-;)
わたし的に「ブラック」な会社だったバイト先を早々に辞めて早2か月近く。
いろんな意味でそろそろ、マジヤバイっす。
仮にも「学生」に身分である以上、仕事のことなど考えずに1日中勉強しておれ!というのが、教授先生がたの気持ちであり、また理想であるのかもしれない。しかし、あくまで「通信教育」というカテゴリに属する以上「働きながら」の前提はあるのであって、さらに定年でのんびりという年齢でもないわたしには、ささやかながらでも「社会人でありながら学生である」という立場を維持することが、あらゆる点からみてひじょうに重要な意味を持っていると思うのである。
学問とはいえ、それは仏教学。「世間に生きる人々のド真ん中にあって生きる」ことを放棄して、何の成果がありや?のスタンスを守るためには、「アタマのいい人」「裕福で余裕たっぷりな人」「お寺の跡継ぎ」と同じ環境を望んではいけないのである。しっかし、週3〜4、週20時間程度、土日祝休って条件は、わがまますぎ?(^。^;)
12/18 火 0.0   見事に引きこもりモード。
っていうか、勉強して、合間に清張サマの小説を読んでいたら、「気が付けばゴハンの支度ですよ!」の時間になっていたという次第で。
ここのところ、思うに任せて目を惹いたタイトルの本を片っ端から読んでいた。無論、勉強はしておるぞよ。しゅ〜る之助によると、わたしは読むのが早いそうだ。たぶん、そのおかげ効率とバランスが取れてたんだろう。
…でもって、つくづく感じたことは、どのような時代の、またどのようなジャンルの本であっても、「あるひとつの真理」をもって、すべては同じ「学び」に資するものだということ。平たくかいつまんで言えば、「歴史は繰り返す」「人間、いつの時代も同じやね」である。究極的には、この真理に到達するための帰納的手段であり、あるいはその真理をもって様々に展開させる演繹的手段が、各種の文芸作品ということになるのだろう。同じものでも若いころに読めばそれは「戒め」となり、歳とって読めばそれが「回顧」になる。…と、総じてそんな読後感でまとまったところで、しばらくの間は学術文献に没頭することにしよう。疲れたアタマは「くまモンブック」でいやせばよい。
12/19 水 5.0   2日前「暗黒時代に突入した」と思ったら、今日さっそく脱出しました。ありがたや、ありがたや。
ちょとした行動、ちょとした勇気、ちょっとした度胸。いろんな「ちょっとした」がうまく重なっての結果です。こういうこともあるもんです。しゅ〜る之助サマの開錠とドライブ連れ出しに感謝!前川さんのドスコイ求職活動の姿に感謝!
ある意味、タナボタのような幸運でした。
それを買う買わないの問題ではなく、今の時代をつくっているモノやコトの現状を「知る」ということ、キレイなものやカワイイものに多く触れることは、それだけで刺激にも喜びにも情報にもなる。そして何気なくじぶんを明るく前向きな気持ちにさせるものだ…ということは、かつて新宿・東京・川崎・横浜・赤坂・銀座のようなところが勤務地だったり通勤経路だったり宴の遊び場だったりした時代に感じてきたことだ。その意味で、新しく働く場所は以前の庶民的な界隈とは一味違う、「中心地」であればいいなぁとひそかに思いはじめていたのだが、そうした点も含めて好条件の職場に採用していただいた。まぁこの前の職場の件もいあるし、何事も現実にやってみなければわからないところはあるが、「仕事するときはする」「勉強するときは勉強する」の良い緊張感とバランスを維持できる毎日になればいいなぁと思う。
12/20 木 10.0   おいおいおいおいおいおいおいおいおい…(゜o゜;)アセアセ。
「かたちあるもの、いずれ壊れる」
仏教学ではこれを諸行無常という…てなことを持ち出さずともアッタリマエのことなんだが、ここまでイッキにくるのかっ!イッキさん!
…スミマセン。単なるノリで意味のない呼びかけをシマシタ。もちろんお返事不要です(^_^;)
ガラケーだ何だと言われても、このまま使い続けてやる!思っていた携帯画面のド真ん中に、怪しげな黒線が入っている…とりあえず、カメラ機能に支障があるだけのようだが、カメラ撮影には支障がある。要するに、小さなようで大きいかもしれないトラブルなんである。少なくとも、「おシャカになる日は近い」ことは明白だろう。「おシャカ」に近づきたくて毎日研究しているわたしが、たかが携帯なんぞに先を越されようとしているのにはイラッとくるがっ!
しっかしまぁ、ツメにさえ灯がともるかどうかの瀬戸際やりくりの最中、コンタクトは経年劣化でそろそろヤバイ、ダウンは綿が飛び出すわチャックは壊れるわで寒風取り込み放題(かろうじて見た目にみっともなくないだけ)、日焼け止めは容器割って指で救おうかってな残量、数か月のちには学費振込…と、まことにもってオーマイガァァ!もとい、オーマイブー(ッダ)!な状態なんである。
つくづく、ハロワ紹介で応募した某社から、書類審査落ちの通知が来てヨカッタ!と思うのである。もし「面接を…」てなことになったら、その業務内容上、いまどきの「黒いピチピチスーツ」を買わなければいけなかったのだから…(もしかしたらスマホも)。
…と、ちょっとビンボくさい話になってしまったが、文面からもわかる通り、実際にはこんな状況を案外楽しんでいたりするじぶんがいる。怪舎員時代の収入生活であれば、話題にもならず即解決していたことがちょっとした考えゴトになること自体、わたしには面白い出来事なのだ。そもそも、ホンマに困ってる深い悩みなら、ヤスヤス公言なんぞしますかいな。
もっとも、これが、「お米」だの「家賃」だののレベルになれば、モードはちと変わるのだろうが、対応できる根性や底力は10代の時期にしっかり鍛えられているつもりなので、ヘコタレルことはないだろう。むしろ、来るなら来てみろ!てな気合十分だ。こなくていいけど。
…あ、この状況、しゅ〜る之助が何も買ってくれないとか無視してるとか、そういうことじゃありません。いっぱい食べさせてもらって、遊ばせてもらってますので。これはあくまでじぶんのこだわりで「おこづかい生活」をしている範囲のハナシです。念のため。
12/21 金 10.0   先日、TVの健康情報番組で「わたしは23歳!」といつも思い込んで生活することが、健康と老化防止の秘訣!てなことを、医者がもっともらしく言っていた。いつもながらの「マユツバ理論」かどうかは知らないが、あれに影響されて「思いこみ」に努力しているオバちゃんオジちゃんは、意外に多いだろう…イヤハヤ。
しかし、その方法が本当に真実の一端でも担っているのだとすれば、わたしはずいぶん前からしごーくあたりまえにそれを実現させていることになるので、健康でボケないオバちゃんの見本みたいなものだろう。「気持ちが目指して」ではなく、「現実の事情」がそうだからだ。
2年前、通信教育ながら大学を卒業したのが43歳のこと。遠い昔、止むをえぬ事情から「高校生を4年間」やったことから考えると、そのあと当時の希望通りに大学に進学し卒業しても、それは23歳のことになる計算だった。「ちょうど20年遅れで、新しい人生が回り始めた…」と思ったものである。
そして今、通信教育ながら大学院に在籍し学問する日々。これまた「正当な人生経路」から考えれば23・4歳あたりをモンモンと生きている時期に該当する。
さらに別の視点からいえば…女性というもの、妊娠や出産を経験すると、その体(脳)は、ある意味「はい、お役目ご苦労さん」な用済み状態になり、そのために必要なエネルギーの使い方や蓄積の仕方をやめるのだとか。幸か不幸か、わたしの場合これにも該当せず、まだ「いつ子どもつくるの?」の待機状態で体が維持されている可能性を捨てていないのだっ。ムヒッ。
さらにさらに、結婚して主婦に収まって、どっぷり安泰…という位置にもない。これはあくまで形式上の違いの話であるが、実際、若い子がカレシと同棲して、キャッキャッワクワクとスリリングな生活を楽しんでいる…という感じに近いというか、そういう要素がふんだんに盛り込まされた日々を過ごしているのである。
…こうして、かくかくしかじかの「生活環境」を鑑みるに、わたしの脳やカラダには、あえて意識するまでもなく23歳あたりであると「誤解する」要件がタップリンプリンなのである。もしかすると、未だ白髪がなかったり老眼を感じないことも、ズバズバRUN意欲があるのも、そんなことが影響してるんだったりして…。
いや〜、実にありがたい!もちろん、実年齢は実年齢なのであるからして、外見や言動に自覚をもった注意は捨ててはいけないが…。「曲り道クネクネ」のような人生も、こんな風に言われたり、考えることができる「ネタ」を与えられると、「やっぱり人生、悪いことばかりじゃないな」と、ちょっと励まされる気持ちになるもんである。「通り一遍」ではないからこその醍醐味を楽しみつつ、悠々と生きたいものだ。
12/22 土 5.0   四条・京都駅界隈ご用足し(バキバキ市バスと電車を使ったわりにこの距離をウォーキングしていた)
四条河原町の4ポイントで、浄土宗の修行僧が募金活動。このまちではよくある「イカサマ」でないかを確かめるべく念のため、内部事情に詳しいならではの質問をしてから100円投入。
昨今話題の「僧職男子」は、法衣をまとい、読経をするのが「修行」。プラカードを高々と上げて客を呼び込む販売員の行いも「修行」。ダウンをまとい化粧をして歩き、学問計画やごはんのおかずを考えることも「修行」。それぞれが、かたちこそ違え与え与えられる関係の中にあって生きる以上、すべてみな「修行の人生」を過ごしているのである。
これは、今日のことではない。ある日、あるルートの市バスを利用したときに遭遇した、ある大学生のことである。
デップリ太ってふてぶてしい表情の、いかにもオタクっぽい学生。まわりの迷惑も省みず、大声で連れの男の子を相手に喋っていた。いわく「つまらねぇ授業じゃなかったら、おとなしく座ってるよ、寝てるけど」「○○○○(講師名フルネーム)、金のために講義してるとしか思えねェ」等々…内容から察するに、ふざけた授業態度を注意されたことに対する、明らかな逆ギレであった。まるで小学生の「学級崩壊」の主人公のような行動だ。せめて公共の「バス崩壊」はやめてくれ、と言いたかった。…やがて話は就職のことに及ぶ。聞きたくもないが聞こえてきた内容は、「一流の大企業でコツコツやっていれば、それなりに重要人物になると思うけど、まぁ、そんなつまらないことはしたくないね!」だと。
ガハハハハハッ。
怒りを通り超えて、メッチャクチャおかしくなってしまった。ザーンネンながら君の大学には、そんな一流企業からの求人などナイ!あっても受かるわけがナイ!まかり間違って採用&入社できても、出世も重要人物になることもないだろう!…まったくもって、「おとなの目をナメるな!」の極みであった。
おとな(年長者)に対して、反発したり攻撃的になることは、いつの時代にも変わらず若者にはあることだし、それ自体、社会の改善や発展のエネルギーとして必要なことでもある。しかしそれを表面化するにあたっては、それなりの手段やルール、配慮があってはじめて正当性をもつものと思う。そもそも、そういう訓練(忍耐力・思考力)をするのが若い者にとっての大学というところだろうが!それらを経ずして、イザというときだけ取り繕っても、よほどのアホでない限り「オトナ」はそれを見抜くものなのだ。いわば、「準おとな」であるか「単なるガキのまま」であるか、「見どころアリ」と認められるのは当然のことながら前者のほうである。
「だれでもかれでも大学生」になれるこの時代、そんな身分や学歴は、何のステータスにも保証にもならないというのは、わたしたち世代が「学歴重視批判」をしていた頃のそれとは異質の、実に低レベルでの展開に至っているようである。「大卒就職率」が低迷の一途をたどっているということが、なにやら危機的な社会問題のように取りざたされているが、やめたほうがイイだろう。それは、そもそも資質も資格も伴っていない「大学生もどき」をますます増長させ、別の側面にも及ぶ悪い循環を繰り返すだけのことにつながると思うからだ。
12/23 日 12.0   奈良グルットウォーク計画改め東大寺のみ。
法隆寺&薬師寺は来年にオアズケ。
毎年年末恒例「るしゃ君にご挨拶」にて、今年もありがたいお言葉を頂戴する。これはもちろん、エバラその他の霊感師よろしく「仏像の声が聞こえる!」なんてことを主張するつもりはなく、あくまで個人のイマジネーションの問題。ただ、るしゃ君の前で1年を総括して報告し、来たるべき新年の心構えを整えるということを、この15年続けてきた中で、ここでなんらかの「キーワード」を直感することは、わたしにとって極めて神秘的なひとつの儀式になっているというだけのことである。
ご挨拶としばしの会話を終え、出口付近でなにやら視線を感じたので注目すると、そこには「るしゃ君がメンチを切っている」写真を配したクリアフォルダがあった。それは実際、斜め向こう方向を見ている位置で撮影されたるしゃ君の上半身の図なのだが、見ようによっては「こっちをジロッと見ている」ように感じる、まるで「錯視図」のような構図になっているのだ。そうだ、今年はこの目ににらまれながら過ごしてみよう!と、350円で連行した。
ちなみに今年のおことばは、「見据えよ」「見つけよ」…いよいよ、わが身のこれまでをしっかりと反省・把握し、それらをもって何かを作り出す、そんなタイミングが「待ったなし」状態で訪れたのかもしれない。
12/24 月 5.0   プチ介護。モードを合わせたおかげで食事がごく軽くなり、からだが清められたような気分。
…とかいいつつ、夜には「菓子職人のケーキ(2人分)」をほぼ丸ごと完食。ゲップ。
いくら名店の名品でも、しばらくはもうよい。
クリスマスプレゼントは、ダウンジャケット。「じぶん買い」なら絶対こんなの買わない!というような高額なものをもらってウッキキー♪お返しに同じくダウンを買ったが、それはわたしの半額程度のモノ…どこの家庭でも、筆頭の稼ぎ主ほど虐げられているというが、それはうちでも同じことのようで、相スミマセン(>_<)
それはそうと、最近こうした「被服類」を選ぶにあたって、「ちょっと前なら絶対手を出さなかった」色合いのものが対象になることを面白く感じている。以前なら、迷わず手にした「無難な黒」が、どうにも安っぽく薄暗い印象になっているのだ。今までは単なる「家庭科の教科書の知識」であった「服は着る人の気持ちや印象を左右する」という理屈を、つくづく実感として感じるお年頃。流行や値段だけに惑わされず、「いかにじぶんに合うか」の吟味や選択の力をつけて、意識していくことが求められるのだろう。
12/25 火 10.0   この際、野党の代表などどうでもいいような気がするが、状況が違えば「これが総理大臣」となる…と考えると、なんとも情けない。
そういうのを選んじゃう「有権者(党員)」が集う政党だっていうのも、重ねて情けない。
元来、「オトコは人前で泣くもんじゃない!」とか「女みたいに泣くな!」とか戒められたものだ。今は時代が違うとは言っても、このオッサンは「そういう時代のしつけ」を受けていたはず。あぁ、何とも情けない。
いつぞやここに書いたことの繰り返しになるが、ナントカ大臣に任命され、「娘からもメールで頑張って!とメッセージが来て…」とニヤニヤして抱負を語ったアホがいた。仮にもこの一大国の、また不穏な空気の流れる海外各国との駆け引きも含めたスケールのデカイ責任を背負わされた人間の第一声がこれかよ!と心底あきれ果てたものだ。
しばしば選挙では、「女性の…」「子どもの…」というキーワードが採用され、じぶんも「女性」であり「母」であることが何よりの主張の原点になっているような人を知らされる。一般庶民からの親近感や好感を獲得するには一番の手段なのだろうが、わたしはあれにもある種の抵抗感を持っている。
たかだか一般企業の一事務員としてではあるが、20年の会社員生活において感じてきたことは、「会社」という大組織を動かし維持するという大仕事を成し遂げていこうとするとき、それは成員の一人一人がいかに「自己事情」や「自己都合」を排しあるいはやりくりしていくかの積み重ねにあるからこそ、「ようやくできる」ものなのだということだ。バブル期にとち狂って「なんたら休暇」だの「なんたら制度」だのを次々つくり、「自己本位」を許す仕組みがハバをきかせるようになった結果、現場は大迷惑と停滞を余儀なくされた…このご時世、決して表には出ないが、企業の本音は実は変わっていないのだろうと思うし、実際それらのヒズミが障害になっている側面が多々あるのではないだろうか。
一企業のレベルでさえそうであることが、もっと大きな国単位の問題になるとき、そこに働く者に「家庭」をはじめとするプライベートな事情が表出して「よい仕事」ができるはずがない。あるときには感情を押し殺し、事情を隠し、時に罵倒され憎まれても、「やるべき仕事」をやる。その骨頂にあるのが政治というものだろうし、また国民は、それを汲んで冷静に評価することが必要だと思うのである。
まぁ何はともあれ、ちょっと指摘を受けたくらいであからさまにメソメソするような男が総理大臣に…という危険がないだけよかったことだと思う。「ミサイルが…」と脅されて、「うぇ〜ん、カァちゃん、どうしよう!」なんてのじゃ、困っちゃうからね。
12/26 水 10.0   「出不精」と「デブ性」。
同じ音で、原因と結果をそのまんまやん。おもしろい。
…って、これ、オヤジギャグ?(-_-;)
最近の、じぶんの「MUST事項」「WANT事項」は、ほとんど「ひきこもり系」のことばかりなので、「その気」になるのにタイヘンだ。
体重を考えると「その気になる」なんてバヤイじゃないくらいヤバイ事態なんだが…(>_<)
人間のカラダは正直だ。ここのところ、ほとんど炭水化物しか摂取していなかったら、「ビタミンCの水」の画像が頭をグルグル駆け巡り、一度並んだレジを外れてまで入手&ガブ飲みした。わたしには、この他にも、キャベツ・トマトなどに同じような現象がたまに起こることがある。
「ビール」ならアル中、ケーキなら血糖値を心配しなければならないところだが、まったくなんでもない食材が要求されるというのであるから、これは単純に「その時明らかに不足している栄養素」をカラダが要求しているものとして、そのまま素直に従うことができるのがありがたい。
「カラダの声を聞く」ということが、特にヨガなどにおいて重要なテーマになっているらしいこともあって、なにやら特殊で神秘的な行為のように感じられるところだが、実際のところ、それはごく自然に誰にでも起こっていることだとわたしは思っている。むろんそれは、本当に声をだしてしゃべりかけてくるということではない。ふとした直感をはじめ、痛み、かゆみ、つらさ、だるさ…そんな風に「感じさせる」方法で訴えてくるのである。そうした「声」に、しっかり考え、応えていけば良いだけのことだ。
12/27 木 15.0   本年最後の「カンプリ様」参り。お世話になりました。
明日で閉まる図書館へも。DVDやら水上先生やら、気づけばいろいろ借りてしまっていた。
状況的には、「新春ドカンRUN」など画策しているバヤイではない。あくまで「状況的には」の話であるが。
★★★本日のビックリ&ガックシ、その1★★★
毎年楽しみにしている「警察署ポスターカレンダー」。昨年までそれぞれ発行されていた堀川と五条が統合されたこともあるし、さぞかし今年は立派な「下京署バージョン」ができているのだろうと思いきや、ぬぬぬぬわぁぁんと、「今年は作ってへんのですぅ。」だと!(゜o゜;)アチャー。
わざわざ警察署に立ち寄ってまでもらっていこうとしているのはわたしだけでなく、近隣住民からの問い合わせ&落胆の声は数多いとか。「中京、東山あたりは今年もあると思いますぅ」とは言っていたが、「わが地元の管轄」からの発行がないことは至極残念。
★★★本日のビックリ&ガックシ、その2★★★
うちに直近の郵便局にいるはずのサワヤカ局員に、まったく別の某郵便局で遭遇した。いくらなんでも、こんなに似ている人物がいるはずは…と思って尋ねてみると、ぬぬぬぬわぁぁんと、わたしの知らないうちに転勤していたんだって…(゜o゜;)アチャー。
それにしても、「イヌも歩けば郵便局にあたる」というほど飽和状態にある京都の郵便局事情の中、たまたまヒョイと入りこんだ局で再会を果たすとは、なんという偶然というか確率というか…若い娘なら「これも運命?キュン♪」となりそうなところだが、オバちゃんなので「ガハハ」なやりとりで終わった。しかし、初めて会って以来、お気に入りの好青年だったので、ちょっと残念。
12/28 金 11.0   京都駅&七条界隈・西本願寺界隈・大宮五条界隈…雨なので歩き。フーッ…なぜかRUNよりシンドイ。使う筋肉が明らかに違う!って、朝昼抜きで献血したからかも?
20日記入の「欲しいモノリスト」、なんだかんだいって本日にて完結。
金欠でフラフラ、献血でフラフラ…ということもなく、まぁヨッシャヨッシャな1日だった。
ケータイ、ダウン、コンタクト…本来考えるべき優先順序とはまったく逆の入手になったが、来たるべき新年を清々しく迎える準備がすっかり整ったような気分だ。コンタクトは使用開始以来26年にして初めて「メニコン」以外のメーカーになった。かつて「コンタクト品質の最高峰」といえばメニコンであって、その意識ゆえにバカ高い価格にも甘んじてきたのだが、時の経過とともにほかのメーカーのガンバリも追い付いてきたようだ。ここでなお「メニコン」を指定するのは単なる「執着」である…と、ブッダの教えを学ぶわたしはHOYAに乗り換えたのである。(そういえば、ケータイもauからdocomoに乗り換えたのだった。)…ともあれ、かれこれ半年ばかりゴロゴロ感やクモリ感でうっとおしかった視界もようやく改善されるだろうと思うとウキウキする。
ところで、今回は年齢も年齢なので、「老眼入ってますから一般商品はNGです」といわれはしまいかとヒヤヒヤしていたのだが、超ラッキーなことにそれはナシ!ヽ(^。^)/
また、献血のほうも、朝昼抜いて臨んだにもかかわらず、比重は基準を大幅に上回る状態でノープロブレム!ヽ(^。^)/
「さぁ、元気よくいきましょー!」がまだまだ許されたような感じでウレピー♪のであった。
12/29 土 0.0  
12/30 日 0.0  
12/31 月 0.0  
走行距離 273.3  km