あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上56歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
11/01 木 10.0   自宅界隈
極めて個人的表現で言えば、「厄払いRUN」
「要塞」から脱出成功。
11/02 金 34.0   三千院・途中・堅田
途中トンネルの手前にある県境(府境?)の看板…「滋賀県」「大津市」のはババーンとデカイが、「京都府」のは小さくて汚い…なんなんだ、この差は(-_-;)
事前のコース地図確認で見つけた「新知恩院」に興味津々。コースのアレンジで行こうと思えば行けたのだが、いまいち天候不順につき深追いはパス。
道中、ほぼ曇天or小雨だったが、三千院の往生極楽院を出た直後しばらくの間だけ「ピカーッ」と晴れたのは、印象深いものであった。
途中〜堅田は、以前バスで通った時には魅力的なコースに思えたのだが、実際はダンプがブンブン走っているだけでたいしたことなかった。しかし、「新知恩院」並びに「伊香立」という意味ありげな名称の集落には関心が残るので、今度は迷わず47号線に右折しようと思う。
北山の「道風町」しかり、「中川」しかり、田舎には「突然ふっと現れるような集落」というのがある。現代感覚で言えば、こんなに不便なところに…と思うような場所であっても、古の時代には何らかの「利点」があったのだろう。それがどういうものであったのか、当時の人々の息吹を感じるような風景に、どんどん触れていきたいものだと思う。これぞ、車や電車に頼れない、旅RUNだからこその醍醐味であろう。
11/03 土 6.0   四国に行ったことがなかったわけじゃないが
何故かハズしていた名所「コンピラさん」へ。
ただしホントの目的は庄松さんと讃岐うどんと淡路島の海鮮丼☆
「うどん県」とのサブネームを触れ回るほどに、香川の町おこしネタになっている「うどん」であるからして、どれほどのものかと思いきや、「たしかにウマイ!が、それだけのために旅をする」ほどのこともないシロモノであると感じた次第。このテの、ごく基本的かつ素朴な食べ物は、「食べたい時にそこにあっておいしいもの」であるということだろう。東神奈川ホーム・登戸駅にあったスタンド・そして京都駅ホームのうどん等を通り超えて印象深い味とまでは思えなかった。10年ほど前、「うどん食べながら讃岐を旅RUNする」計画が実現していたら、この記憶の加減も変化していたのかもしれないが…何事も、ご縁であろう。
逆に、「行くだけの価値はある!」と思うのは淡路島の海鮮丼。バスで瀬戸内を渡って、島の北端から南端までRUNして…の計画は、かなり近い将来実現の運びとなるであろう。むふ。
11/04 日 17.5   今更ながら振り返ってみると、10年以上前からさんざん「京都RUNをしてきた」と言いつつ…
「まちなか」のコースを走ったのは、早朝あるいは夜更けの烏丸・鴨川沿いくらいのものであった。
では何をもって「京都RUN」と言っていたかといえば、それは嵯峨や北山、滋賀・琵琶湖や奈良などの「近辺地域」である。
実際、京都市内(碁盤の目の内部)は、日中の空気の悪さや人ごみ、道路の事情などを考えると、決して「RUNに適したところ」とは思えない。おそらく、広い意味であまり健康のためにはならないであろう。幸いにも、「どこでもいいからRUN体制で」というほどのテンションを保つほどの目標(大会とか)はない身ゆえ、日々の走りかたには、よくよく留意し「いかに楽しくおいしくやるか」についてを貪欲に模索したい。
11/05 月 20.0   法蔵館、京都大学博物館、エルミタージュ展、府立図書館、伊兵衛さん、抹茶パフェ…魅力ある京都のあれこれを堪能するRUN
…にはなりませんデシタ!(^_^;)
すべて、営業開始時間前に通過したからです!
意図的に、そのようにしたのであります。
四条大宮にお住いの某教授は、もう少し南に「中堂寺」という界隈があることを知らず、「丹波口」という駅があることを御存知ではありません…もっと驚くようなネタはあるのですが、要は、「じぶんの研究分野以外にはアンテナが立たない」、逆に言えば「じぶんの研究分野に対する集中力と行動力」には人並み以上の強さがある…ということなのであります。
そういう力が、どのような姿・結果を表すかということについては、僭越ながらわたし自身、「RUNの世界」で体験したことであります。当時「それ以外」のことがいかにどうでもよい話であったか、何をどう言われようとお構いなしであったか…だからサブ4も当たり前の話であったし、ウルトラでメダルももらったし、毎日フルマラソンの距離を走って勉強そっちのけでビール飲んで寝るのも当たり前のことであったのです。つまり、集中力とか情熱というような「素質そのもの」が欠落しているわけではない、単純に、「そこに向かう姿勢」が徹底していない、ということに尽きるわけであります。
現状のわたしが最も向かうべき「そこ」とは、言うまでもなく「学問」の世界であります。なんやかやと躓くことの多い中、思い切ってかつての「そこ」すなわちRUN世界への没頭に転換・再スタートする選択肢が許されないわけではない。しかし敢えて、わたしは厳しい方の道を選ぼうと思っているのであります。
11/06 火 21.0   ピーナツは片頭痛の誘発要因らしい。ナルホド!(>_<)イテテ〜ッ。
ちょっとしたトラブル、ちょっとした心配事くらいなら、ネットですべて解決できる時代、ありがたいことです。
それにしても、わたくしには細かいところで「苦手な食品」が多い。現段階では短時間の発作的な症状で済んでいるが、この繰り返しや蓄積が何らかの重大な危機を招く可能性は否定できない。十分留意したいところである。
昨日の京都新聞に、「中川」「小野郷」「雲ヶ畑」の過疎化が甚だしく、町おこしの努力をしているとの記事。雲ヶ畑なぞは、かつては「交通の要所」として栄えていた地域と聞く。なんとも淋しいことであるが、これも時代の流れか。ともあれいずれも、ずいぶん前からわたくしのお気に入りのRUNコースに含まれる集落であるだけに、ガンバッテチョ〜!と心から応援したいのである。
でもって、今日はさっそくそのあたりを…と企んだりしたのであるが、二条キャンパスに請求していた資料が届いているとの連絡が入ったためアウト。
ごくたまに訪れるだけの「外野の人間」が無責任なことを言うべきでないことは承知しているが、「現代的な利便性の低い場所で生きている人々」は、いろいろな意味で貴重なことを学ぶ価値的存在感があるのであって、ぜひともこのままその暮らしを大切にして欲しいと思ったりする。
11/07 水 21.0   いつものコース+タナカチョク・法蔵館・興正寺・山崎宝文堂・マツモト
(第二部は、おしゃれさんモードでオシャレ走り。道行く人には、あの人、何急いではんのやろ?という感じだったはずだ)
よごれの落ちなくなった「ナムちゃんトート」の修理を昨夜から開始。
ハイビスカス染め→ちょっと薄いのでローズヒップをプラス→ついでだからと、よせばいいのにカモミールを追加→カビが生えたような色になっちゃった→しかたなくコーヒー染め→洗ったらますますキタナイ色の袋に(>_<)アチャー。
…というわけで、「タナカチョク」に染料を買いに行ったという次第。案の定、ただ色をしみ込ませればいいってもんじゃなく、色を安定させる薬とかのステップがあったのである…(-_-;)
「何もわからないので」というと、店員さんが懇切丁寧に教えてくれ、ありがたかった。店先にもナニゲに店員がウロウロしていて、挨拶や案内も丁寧。おそらく、「一般的にイメージされる京都の老舗の対応」というものが、ここはきちんとできている感じで始終気持ちよく買い物ができた。(もしかすると初体験…K堂にもK勝にもT屋にもない良さがあった)
…で、ナムちゃんトートは、無事「京都色」すなわち紫に変身。ほか、『方丈記』を初めてしみじみ鑑賞しつつ読み、もちろんサンスクリットも。RUNしなければ独語もできたなぁ…と思うところが、以前とは生活の価値観が違うところ。20キロくらい距離を出さないと、カラダが納得しなくなっているまでに鍛えてしまった過去の行状が、今更ながら恨めしいというか嬉しいというか。
11/08 木 23.0   いつものコース+図書館ふたつ
今日の場合、第二部はワイルドに行くはずが、夕ご飯準備が必要になったため御用足しのみで6割減。
そのほかは、めっちゃサンスクリット漬け。
今まで、ここまでマジにやったことはなかったような勢いだったぜぇぃ!
それはそうと、仏教学の世界ではもはや「菩薩扱い」になっている中村大先生の著作集が、普及版になって発売され始めたらしい。今まで1冊7000円はしていたものが、いきなり3000円を切るとは!しかも、装丁も軽い感じで、扱いやすい…「高いけど仕方ない」と4冊も購入済みの身としては、なんともイヤハヤ…な展開なのである。しかし、この種の書籍は得てして早々に絶版になることが多いものなのに(だからついつい購入をアセルのである)、中村本に関してはまったく逆の展開になっていることに脅威を感じる。いかに中村本が「わかりやすく、詳しい」ものであるかの証左だろう。
しかしそれが故に、厳密な研究上には難点があることもある。現在では、その内容への批判もしばしばあり、決して「聖書」的な扱いはできないのである。…な〜んてなことを言えるくらいには、わたしのレベルも上がっているようで、ヨッシャヨッシャ。(*^。^*)ヌカヨロコビ。
11/09 金 10.0   サンスクリット休養。てか、ここのところちょっとトバシ過ぎ?なので控え目に。
「10`歩いたのと同じ効果のあるストレッチ」のおかげで、最近階段や坂道がホホホイのホイ♪状態。
よって、かつて姑息にプラスしていた大学行のダラダラ坂上りの距離は含まず。
高1時代…「数T」の定期テストは、最後の2問が文章応用題で、配点は各10点。すなわち、たとえ△でもこれを何とかしない限り、80点以上にはならない仕組みになっていた。当時、学年で1名のみにチャンスのあった「T波大」への推薦枠を取るためには、3年間通じて最低でも評定4.8以上の内申点維持が必要であった。そのためには、どうしても「数T」の80点越えは必要なことであり、わたしにとってこれは大きな壁だったのである。
しかし忘れもしない2学期の中間試験。まさに神が下りてきたかのようにその応用題がスルリと解け、95点を獲得した。この瞬間から…まさに「火が付いた」とはこのことで、やる気満々、猛然と多くの問題に果敢に取り組むようになり、以降数Tに関しては90点を下ることがなくなった…結果として、T波大の件は推薦といえど「学費が免除になるわけではない」ことがわかり、あっさりキャンセルとなったのだが、この奇跡的な体験は、ひじょうに貴重な記憶として残り続けてきたのである。
思えば、30代に本格的に始めたRUNも、ある「奇跡的な出来事」をきっかけにグングンと伸びを見せ始め、それなりの成果(レース結果の事だけでない)をぶち上げたのであった。そして今…ここで立ち止まっていてはどうにもならない「サンスクリット」にも、あの時と同じような「スイッチ」が入った気がしている。これまで、どれだけの参考書を買い込み、悶々と葛藤してきたか…何をどうしてもダメダメと思っていたこの言語・文法が、今日の夕方、たったひとつ「gerand」をもって訳文に正答したことをきかっけに、バババババーン!と「キターッ」となったのである。かくなるうえは、目標:年内。数TやRUNのときと同じような展開になることを、切に願うものである。
「何事も、あきらめなければ夢はかなう」などと、青臭い標語を持ち出すつもりはない。ただ、本当に自分の人生に相応しいことであり、かつ自ら強く望むという条件下に限定すれば、それは努力だけでないさまざまなご縁と共に、果たされていくものかもしれない。
…とは思えるくらいの、「人生のごほうび」は、愚かなわたしにも与えられているようである。ありがたきかな。
11/10 土 20.0   「くやしい」という心情を持つことは、一般に良くないこととされるが、そもそも自分がまったく関心のない物事には、そういう情動が起こることはない。
しかも、そのような気持ちが持てるのは、自分自身にその対象(事象)に興味があり、できる可能性を秘めているからだと前向きに考えれば、それは成長や向上の糧となるのであるからして、あながち全否定されるべき忌まわしい感情であるとは言えなくなる。
「くやしい」とは思わないまでも、人間、ひとつやふたつ程度の「羨ましい」対象があるくらいの方が、ハリのある生活を送ることができるのではないか。もっとも、年齢を経てからのそれは、若い世代のものとは性質が異なり、しっかり自分のありようというものを認識した上にあるものでなければならないが…。
わたしにもこれまで、数々の「くやしい」「うらやましい」があったはずなのだが、老い先短くなったせいか、いつのまにかそれらのほとんどは消滅している。唯一最大にして残存しているそれは、一切合財「千本北大路上ル」に集約されているようだ。ある意味、最後にして最大の「煩悩」である。
11/11 日 20.0   小渕首相の時代、2000円札なるものが登場したが、単なる話題となっただけで終わってしまった。
今ではすっかり忘れ去られている。
「当初はどんなに悪く言われようとも、残るものは残る」という史実に照らせば、この2000円札というものがいかに無用で無意味なブツであったかということがうかがえるところだろう。
では、最近流行の「スマホしながら歩く/自転車に乗る」という事象は、今後どのように解決されるのだろうか?現状、言うまでもなく危険極まりないこの行為を批判したり注意喚起したりする動きが強いが、この現象は、いつの日か(大事故などを起因として)消滅することになるのか、果てまた、見ながら歩いても/自転車に乗ってもOK!というような画期的なシステムが付加されていくようになるのか…どちらだろうか。
ともあれ、道具やその機能というもの、絶えず人間主体の快適・能率を叶えるために進化・汎用化してきたものであることには違いないのだが、最近のそれは、あまりにも人間の「わがまま・ぜいたく」を満たすことに照準が当たりすぎているように思う。道具や機械というものが、時間的拘束や肉体的負担からの解放を「与えた」時代から、人間が社会的動物である以上不可欠であるはずの情緒・我慢・思いやりを「奪う」時代へ…この進化の行き着く先の世の中がどうなっているか、見届ける前には命尽きているだろうからどうでもいいが、興味はある。
11/12 月 31.0   いつものコース+ぶだはっ資料室。
最近、RUN中にラジオ(または音楽)の使用がモッタイナイ時間であるように感じられる。SKTの暗記用CDを聞くか。
誰が何をしても、あるいはしなくても、世の中はそのまま進むのみ…絶えずその中心には「若者のエネルギー」があるのであるからして、オバサンはおとなしく鴨川でも走っておれ!…と考えても良いのだが、こと仏教学に関しては、「人生寄り道だらけのオバサンだからこそなおさら、君ら恵まれた若いものだけには任せておけぬ!」の要素がある。その意味では、RUNのほうがよほど、そのガンバリやテンションは、若い人にお任せすべきであろう。
どうしても完成させたい論文2件。派生研究数限りなし。鴨川回って帰る余裕なし!まっすぐ千本を下がって帰宅。(ちょっとカゼっぽいし)
人の世のならひ、平安の昔より変わりなし。さにあらば、われこれより先、現の身と世とを思い煩うことなく、過去より出でたる世のならひなるものをならうのみなり。
11/13 火 0.0   カゼっぽいし&昨日、今日の分も走ったような気分なのでお休み。
「仏教」という言葉の後ろ盾をもって、様々な人々による「教え」が展開されているが、開祖(とされる)ブッダとそれ以降の人々の間には、決定的な違いがある。
端的に言えば、「帰納法」と「演繹法」の違いである…と、わたしは思うのである。
原始仏教分野を研究する立場には、ここまで展開を見せている「仏教を標榜する世界にある物事」を、今一度、帰納的に解釈・再構成する作業が求められていると思う。
たとえ仮説の域を出なくても、ある結論を既にもっている身にとって、それを論証する基礎力が追い付かないことはひじょ〜うに歯がゆい。ポリポリ。ゴールゲートが見えているのに、ペース良く走れないイライラと同じか。
11/14 水 26.0   神護寺・鞍馬寺
…に近々行きたいなぁと思いながら、
いつものコース+カンプリ様
せっかく思いついたのだから、明日さっそくどうっしょ?…と思ったら、雨の予報+そういやサンスクリット予習があった…(-_-;)
個人の自由・個性の尊重がいくら叫ばれようとも、それが他者の利益や財産、はてまたいのちを奪うようなことであるならば許されてはならないだろう。人間、その気がなくても誰かを傷つけていたり、何かを奪っていることはあるものだが、その可能性があるとわかっている・ないしは予測されるならば、その行為を自主的に回避すべきだと思う。「わかってはいるけど何とかなるかもしれない」といような甘さや、「そんなことを言ってたら何もできない」などという開き直りは、徹して持つべきではないと思う。
あの祇園ひき逃げ事故の加害者は、事故当時、「発作を起こしていた」…という結論に至り、不起訴扱いとなったらしい。この事件が、「業務中」に起こったことから、世間の非難は雇い主の会社にも及んだが、元をただせば、本人自身が、いつなんどきそういう危険があるかわからない制御不能なハンディを持ちながら、なぜ自動車を運転するような仕事を選んだのか。また、家族はそれを認めていたのか。「止めていた」とはいうが、実際やっていたのだからその程度の甘さが問われてしかるべきだろう。京都は「車を使わなければ暮らしが成り立たない」ような田舎ではないし、もちろん車なしでも働ける仕事はいくらでもある。
「ハンディ」を持つ人々の社会参加は、前向きに推進されていかなければならないテーマではあるが、そこには大前提として「できること/できないこと」の判別と認識が必要である。何もかもが「一般人と平等」の扱いは不可能なところを、机上の理想論だけで打ち消しながら進めようとするとこのようなことが起こるのだ。
あれだけの罪が罪にならないとなったとき、曖昧なままになる怒りや攻撃の矛先は、それこそ普通に頑張って生きている「同じハンディを人々すべて」に向かう。そして彼らのこれまでの実績を疑わせ、あって当たり前の尊厳すらも危うくなる。「ひき逃げ事故」そのものの罪が罪でないとされても、否、されてしまったからこそ、むしろ問われるべきとなる罪の重さ大きさは計り知れなくなるのである。
11/15 木 13.0   いつものコース(今日は今出川で終わり)
+第二部はシッチョウ界隈
【実験経過】
RUN中のSKTはチョイ難しいが、英語ならなんとかイケルようだ。そうとわかったからには、802の「青い歌」を耳に流しているバヤイではない!
ヒロ寺平の声は、たまに聴きたいけど。
最近の脳科学によれば、かつてさんざん言われていた「人間の脳は全体の10%しか使われていない!だから他の部分も使われればアナタも大天才!」というのはまったくの誤りであるそうだ。結局、使われている10%の部分に分布されている諸機能が、どのように活かされているかということに尽きるのであろう。
つまり、フツウなら日本語にしか縁がなく、それだけに慣れきってダラダラしている言語野に、新しく強い刺激信号を送れば異国語もなんとかなるような努力をはじめるということだ。ここ数日の経験上、その刺激は、より強くより難しいものであるほど「負けてなるか!」といわんばかりに活発化するように思う。新規・珍奇なSKT信号を送るようになったら、少なくともそれよりは記憶と慣れのある英語はスルスルモードで運ぶようになった…という感じだ。
思えば、ろくに学校にも行けなかったであろう東南アジア系のおねえちゃんが、ごく短期間にコミュニケーション可能な日本語をマスターするのも、いかにその刺激信号が強く働くかを示すものである。…「稼ぐこと」「生きること」すなわち「いのちをつなぐ」問題上にある彼女らのそれは、「イイカンジ!」と調子こいてるわたしの数百倍の威力があるものと思う。見習いたいものだ。
11/16 金 17.0   千本を上る自転車漕ぎが、「え?それが何か?」的な運動となっている…っていうか、運動という意識すら浮かばない。汗は浮かぶけど。
なので、英語学習のウオークマンなんぞも難なく聞けちゃうのだが、自転車乗りながら両耳で…ってのは危険なので、片耳で。
来週金曜日、存命者の中では今「仏教学の巨人」であるシュミットハウゼン氏が来日講演されるという。「セイクロードRUN」と天秤にかかる魅力あり。…それにしても、某大学の名誉教授いわく「"京の昼寝"とは冗談ではない」のは本当で、京都にいるだけで、ほんの数十分の移動圏内にどれほど「仏教学ネタ」が転がっている、あるいは転がり込んでくることか。
11/17 土 9.8   ラーメンを求めてグールグル
久々、「社員食堂」のことを思い出すラーメンに出会う。
これは決して、「味のレベルが低い」ということではなく、立地環境、近隣の競合店とのバランスが考えられた絶妙な味という、最大の褒め言葉である。
自己主張しすぎてつぶれる店が多い中、この店のコンセプトはお見事だと思う。…もし、店主がこのことを計算づくでやっているとしたら、大企業の戦略マネジャー並みの諸能力を備えていることになるだろう。スッゲー。
11/18 日 28.0   山の辺の道
だいこんを背負い、2本のダイコン足で運んだ。
青いタイツであったので、ドラえもんが運んだ、という表現のほうがふさわしいかもしれない。
わたしら世代が「仁徳天皇陵」と覚えさせられた古墳は、現在「大仙陵古墳」という名称が優先的になっているらしい。なんでも埋葬された人物の科学的検証ができないので、ホントに「仁徳天皇」のものとは断定できないからだそうだ。フーン。いわゆる一般教養分野においても、世代のギャップというのはかなりあるのかもしれない。
11/19 月 15.0   そこらへん
仏教をテキトーに理解している人間、あるいはその標榜をもって適当な説法をする人間の語る「仏教」とは、俗にいう「道徳・倫理」とほぼレベルが同じである。その意味において、ごく最近大失敗の公言をしたのがあの宇宙人みたいな元首相だ。
無論、仏教とは道徳や倫理となどとは同等のモノではなく、本質的にもっとラディカルであり、ある意味、既成の倫理道徳なんてものを破壊する方向性すら持っているものである。しかしだからこその救いがそこにあり、倫理道徳に対しても発展的展開としてつながりを作るものなのである。おそらく、そのあたりのところを最も平和的理論に完成させたのが「浄土教」であろうとわたしは推定している。「原始仏教」を研究しつつ、まったく関係ないようなジャンルである「妙好人」の存在に興味が尽きない理由は、そういう「原点の一致」にあると思っている。
…というエラそうなことを論証するために、タットプルシャやらバフブリティと格闘する日々。
11/20 火 15.0   たまには日暮れRUN
100均買い物つき。…ここ数か月、「お試し大変身」のために入手したいと考えていた「ツケマ」だが、現物並びにその使用方法を見て断念した(-_-;)
近隣住民から「強盗通り」の異名をもって恐れられている…「あそこは通らへんほうがええで!」とさんざん言われている通りを敢えて通ってみた(-_-;)
たしかに、それと思しき雰囲気…必要以上に「暗さ」を感じる不思議ロードであった。
テレビでは、一食に七味唐辛子をひとビン使う女性、1杯の皿うどんに酢を1本使う女性を紹介し、「刺激物は胃がん・食道がんのモト」とか「酢の摂りすぎは歯を溶かす」などの警鐘は鳴らせても、「1粒でイワシ100本分」とか「1杯でホウレンソウ20把分」とかいうそれこそ常軌を逸したサプリのことは野放しのまま、ただ効能だけを垂れ流すCMは看過されながらヒートアップの一途をたどっている。
いずれも「過ぎたるは及ばざるがごとし」では共通しているはずが、扱われ方にこれほど差がある理由は明明白白であるのであって、今更どうしようもないことなのであろうが、願わくば、そうしたサプリを「子どもも喜んで口にしている/できる」ような広告は避けてもらいたいものである。
60・70にもなった人間が、それらを摂取したことによるトラブルを起因として寿命を縮めるような羽目に陥ったとしても、そんなことは微々たる時間差として諦めれば良いことだが、「これから」の子どもたちに何かが起これば、それはとんでもない社会問題となるのだ。就中、CMにおいてその傾向が強い「青汁」については、「やりすぎるとマジヤバイ」の現象が顕在化する危険性が高い(体験的に)。総じて、「食べ物を摂取する」ということは、「いのちをつなぐ」ことである同時に「いのちを壊している」行為であるという表裏一体の真実を、よくよく肝に銘じていきたいものだ。
11/21 水 15.0   明日から(というか特に明日は)かなりバタバタ動き回る予定があるので、今日はヒカエメ。
いわゆる「DQNネーム」なるものがしばしば話題になる。名前が社会的(対外的)記号であることも考慮されずただ難解であるだけなのは困ったもんだが、過去の世の中が理想とした「個人主義」のなれの果てとしては当然の現象であるかもしれない。まぁどうでもいい。
独創的・独善的ということとは反対に、その時代のヒーロー・ヒロイン的な存在の名前にあやかって似たような名前を付けるというのも一つの傾向ではある。なんとなく、今の20代に女性に「アキナ」だの「サヤカ」だのがしばしば聞かれるのも、その好例なのではないだろうか。これもまた、まぁどうでもいいが。
今、名前というものについて、わたしの興味を惹いてやまないのは、あのオシャカサマの生母マハーマーヤー、継母マハープラジャーパーティーという名称である。共に仏教より以前に成立していた『リグ・ヴェーダ』の中に書かれている「神のチカラ」や「神の名称」をそのまま引っ張り込んで使っているようなフシがあり、な〜んか意味深なんである。
@単に、現代にも通じる「あやかり」として借用したものなのか(この場合、2人とも実名であったことになる)。
A「オシャカサマは神の子(的存在)」と言いたいための、後代のこじつけ(この場合、実名は不明ということになる)。
B旧来の思想を"越えて"新しく誕生したということ示唆するための、後代のこじつけ(Aに同じ)。
…2000年以上解けない、おそらく永遠のナゾナゾであろうが、あれこれ考えるのは実に楽しい♪
いずれにしても、「これまでの思想をぶち壊した仏教」といいつつ、「過去の権威」「過去の習慣」というものは確実に意識され、多少なりとも継承された中に成立したものであるという、その一端を垣間見るところなのである。ちなみに、この種の議論は、富永仲基の説も参照するとより楽しい♪
…「ぶち壊し」つながりで余談…ここのところ、「ぶち壊す」をキーワードに果敢に活動しようとする政治家の叫びをよく耳にするが、「ぶち壊し」についての限界…すなわち全否定の上にまったく新しい物事が成立した史実はないのだということ、やもするとそれは、簡単に回帰現象を起こすのだという危険性についての謙虚さは持ち合わせた落ち着きを求めたいものだ。このことは、インドの仏教が結局どういう顛末を迎えたかを調べるとメッチャ納得で楽しい♪
11/22 木 10.0   新祝園界隈ふたたび
11日、ここの欄に書いた2000円札の件について「前言撤回」。
無意味なんてとんでもねぇハナシでした。ゴメンナサイ。
日本人は、「三大ナントカ」が好きだったり、御祝い金に「割り切れる数はタブー」など、なにかと奇数で物事をまとめる観念が強く、形式的な面については偶数に慣れていない傾向がある。かの2000円札も、そんなところが災いしてあまり積極的な関心が持てなかったのか…という気もする。ともあれ、「日常的な価値観」としては定着しなかったことは確かで、そのようなところから短絡的にあのようなコメントを発したのだが、「なぜそれが作られたのか」という深い事情は、一般庶民のオバちゃんが「買い物に不便」なんてグズッている次元とは違うところに存在したことを知るにいたり、「何事にも事情がある」ことへの注意力というものについて反省を促された次第。
この際、2000円札を尖閣諸島の意匠で復活させたらどうか…。
11/23 金 10.0   オシャレRUN(ほぼウオーキング)
若いころ、「太宰は…」「漱石が…」等々と枕詞をつけて語る人々をカッコエエ〜ッと思っていたが、この歳になってそれらの著作を読んでみると、「え?」「だから?」「で、何か?」な内容でしかないように感じるのはわたしだけか?…ソレデモカマワンガ。
…と、少なくとも『人間失格』『それから』あたりからは、そんな感じしか受けなかった。「そういう時代(環境)だったから書けた」「こういう時代だから、読める」…要は、「生きていることから発生する二次的な諸問題」を取扱うような感じで、その底流には「余裕」があるところが、骨肉に響くような読後感を与えないのだと思う。
わたしゃ水上勉の『飢餓海峡』とか、清張モノのほうが好きだ。また、もはやこの現代、太宰や漱石よりも「東野圭吾」あたりの心理描写のほうが深みがあるんじゃないでしょうか。
あ、でも、芥川龍之介はけっこういい感じです。『地獄変』とかサイコー。…以上、「○○主義」「○○派」「○○的」に捕縛されない自由感覚(平たく言えば無教養)のオバちゃん的文学評でした。
11/24 土 40.9   湖東三山並びに永源寺
お寺だから残っている紅葉の絶景。しかし紅葉の絶景を残したからこそ残らなかったお寺。…コノイミハフカイ。
11/25 日 20.1   人々もすなる「京都名所紅葉狩り」を、われもしてみんとてすなり。
しかし昼に食べたラーメンの店名は「ひまわり」。
11/26 月 0.0   雨っす。
所用で歩いた分は足しません。
19日、ここの欄に書いた件について、追加。
宇宙人首相のほかに、たぶんコイツもそうだ…と思っていたある人が、やっぱりそうだった!
しかも今回は、「倫理・道徳レベル」でウロウロしているくらいの方がまだマシだというような最悪バージョン。
忘れもしない2005年の春、あの尼崎事故の際に「JR西日本は上から下までバカばっかりだ!」とまくし立てたヤツのことを、わたしはこのサイト(ただし旧あるくだっしゅページ)で激しく糾弾した(ここでしてもしょうがないのだが)。ソイツがのちに、「わたしは仏教者だ」とかなんとか言い始め、例によって「多読の効」をもってそれらしいことを語りだし、それらしい場に招かれたりそれらしい書籍を出したり、イイ商売をし始めたことを、わたしは内心ウサンクサク思っていたものだ。
さて!案の定、ついにその「ボロ」が、あろうことか「タカジン」で露呈されてしまった。仏教としては危機的な展開を視聴者に押し付け(刷り込んで)てしまった感のあるあの展開を、視聴者がアッサリ聞き逃してくれていれば良いと思うが…。あのシーンは、ある意味、オウム思想を批判しようとして、むしろ正当化するに資してしまった大罪にすら値する。
マスコミや各種寺院は、一刻も早くあの人物の「仏教者的扱い」を排除すべきである。そして敢えて極言させていただこう。かつて、毎日の仕事を真面目に地道にこなす社員すら十把一絡げにして「バカ扱い」した君こそ、自惚れの強い大バカ野郎である。乞猛省。公の場でもっともらしく仏教を語るなら、基本的な原典もしくは精緻な研究書くらいきちんと読め!否、仏教とは本来「読む」「語る」ものではなく、己のタマシイで思い知ることだということを思い知れ!
11/27 火 10.0   四条(錦界隈)
東京でいえば銀座…というと、双方共に気を悪くするかもしれないが、新宿とも横浜とも違う。要は例えようとするのがいけないってことか。
伝統・風情・気取り・低俗・庶民・外向き・内向き…あらゆる「まちの顔」がこれだけの狭い範囲に凝縮しているまちは珍しいと思う。
かなり前からごひいきにしている「スワロブスキー」もこの界隈にある。贈り物専門でじぶんではひとつも持っていないが、いずれ「それなりのステータス」を得たアカツキには、あの店の「ロータス」をじぶん買いして、「単なるペーパーウエイト」として贅沢に扱ってみたいものだ。ウッフン。
11/28 水 0.0   胃が痛い。ダラニスケを飲んでみた。運動は、「くまモン体操」のみ。
そうだ!新幹線でくまモンを見に行こう!と思ったら、なんと片道2万円弱(゜o゜;) ヒョエ〜!飛行機とほとんど変わらないお値段にぶっ飛んだ。
とはいえ、さすがにこれだけはRUNで行こう!とは言えまい…。
…っていうか、くまモンにはこのまえの「ゆるきゃらサミット」で遭遇したのであった。今は、ヨウツベ見ればかなり楽しめるし、グッズも通販でなんとかなるし…の時代だから、わざわざ行くこともないわな。
熊本に行ったからと言って、必ず遭遇できるわけでもないだろうし…オチツケオチツケ。
11/29 木 7.0   本日は、夕方からが忙しい…
北海道停電、大変ですね。まさかとは思いますが、何らかの思惑のために復旧が遅れている(遅らせている)なんてことがなければいいが…と、心配です。
「原発」をどうするこうするを何よりの争点に掲げている選挙戦モードのさなかに、このようなことが起こり、かつ、いつまでも長引いていることが、偶然の一致であればよいですが。震災以来、電気に関しては半ば脅迫めいたあれこれを供給され続けた側としては、なんか疑っちゃうんであります。
それはともかく今回の選挙、「原発の行方」ばかりが注目される傾向が強いように感じますが、その点だけをじぶんの意見に合わせて一票を投じることのないように注意したいと思うところです。誤解を恐れず言えば、「今ここにある危機」としては、原発に並んで…ないしはそれ以上の課題があるようにも思うからです。ある方向に耳目を集中させておいてその隙に、本来俎上に上がればとんでもない騒ぎになるはずの課題を都合よく運んでしまうというのは、情報操作の基本手法。ごまかされることのないよう、短い期間ではありますが、しっかり勉強したいと思います。語学・研究活動の妨げにならない程度に。
11/30 金 10.0   なんだかんだ11月はけっこうRUNしたのぅ。
旧あるくだっしゅ以前から親しくしている方々(オジイサマ)によると、ガシガシRUNでぶっ飛ばしていた時代より、それ以前のほうが、またその当時より太って老いたはずの今のほうが「断然イイ!」との由。どういう趣味じゃ?…といいつつ、その主旨は十分理解できる。
過去20年にも遡ろうかというあれこれの話題によって、気が付いたことがひとつ。
「もはやワタクシにあのようなRUNをする芯はない。」…現在望んでいる旅RUN・長距離RUNは、明らかに性質の違う「完全なるお遊び」だ。だからこその油断やハジケがないように重々留意したいものだ。
走行距離 480.3  km