あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上56歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
9/01 土 10.0   太秦あたりを&自力整体
個人的に(なんとなく感覚的に)西方面はあまり好きではないわりには、珍しいコースに。
「体内に溜まった要らぬ毒物」のようなものを、いかに早く排出するか…というのが、その後の一日の爽快感に大きく影響するというのは、少なくともわたしの場合「正しい」ようだ。
9/02 日 0.0   今流行の「カービィーダンス」は、リズムに乗ってやや激しい踊りで体型や体調を整えようとする目的。
以前からやっている「自力整体」は、スロースローでジンワリす進める体操。
しかし、両方をやってみると、「方法は違うけど、目指していること・効果のある内容」はほとんど同じであったりすることに気付く。
どちらかといえば、わたしは「自力整体」のスピードに適性があるようだ。
ダンサーへの道は険しい?っていうか、なれないわな!
「まぁこれもありか」と、ユルユルで容認してきた「中年太り」を、「やっぱしなんとかするべ!」と思うようになった。何をするにも、それなりに「締まって軽めのカラダ」のほうが軽快で心地よいと思う、その結論が出たからだ。しかし、「40を超えるとオンナはこうなる」という、誰もが普通に実感するところの体型の変化や不調を体験したことは貴重なことであった。
ただし、今後これを越えようとするにあたっては、かつて「RUN体型」を維持するために「食べなきゃいい」「ただ走ってりゃいい」でこなしてきた、その復活だけではNGであることは承知している。「気持ちはそのまま」でも確実に衰えているはずの諸条件を、着実にフォローしながらの前進でありたい。その意味で、直接は関係ないように思える「骨格矯正」や「柔軟性」であるが、わたしにはかなり重要なところとして、これまでにないほど意識を持って取り組んでいる。
9/03 月 10.0   鴨川あたりを&自力整体
802を聴いていたら、早朝から京都〜神戸間のJR線が止まっているというニュースが飛び込んできた。通勤の皆様、ご苦労様です、ペコリ。
これからわたしが働き始めることになった職場は、ダラダラ歩いても10分程度の超近距離。そういうイライラとは、無縁でありがたいことです、ペコリ。
かれこれ20年以上前、東京本社への異動を打診されたとき、「通勤も給料のうちよ!」と諭してくれた近所のおばちゃんの言葉を思い出す。それでもその時は、「花形ショールームレディ」の職場に行けるうれしさもあって、ホイホイと辞令を受け取り、その後、妬みからくる女子社員の中傷やいじめにもひるむことなく通いきったものだ。しかし今やこの歳になって、かつパート・バイト程度の仕事を考えるとき、通勤にかかる時間やストレスは、まったくもって「ムダ」でしかないように思う。あのおばちゃんのことばは、今のわたしにとっては「まごうことなき真実」なのである。
しかし一方、そうした長時間通勤にかかる「運動量」ということに焦点を当てて考えると、「これはちょっと問題だぜぇ!」ということになる。かつては「通勤」が絡んでいたからこそ早起きも長距離も当たり前だった「朝RUN」に、別の強い目的意識が必要になっているわけである。これもある意味、「新しいストレス」?なんちゃって。
9/04 火 10.0   御池・鴨川あたりを&五条でストレッチ。
鴨川沿いの、まったくどうでもいいような場所にあった「橋」がきれいにリニューアルされていた。
こんなことにお金を使うなら、双ヶ丘のボロボロ歩道橋や、町中あちこちガタガタの歩道をなんとかしよし!と思うのだが、これもまた「観光あっての京都どす」の、いたしかたないありようなのだろうか(-_-;)
朝もはよから「スゴイメイク」の女子を見た。最近のメイクは、「もともとの目を二倍以上にも大きく見せる」ほどに強調するのがポイントらしいが、あのスゴサは本人だけでなく見ている人間の目も二倍に見開かせる…たしかに、彼女らの目的である「目ヂカラ」は十分発揮されているようだ。アッパレ!
昨今、あんな感じで「素顔=正体」をなくすようなメイクをする女子が多いが、彼女らが出会い付き合う「カレシ」の心境というものに、オバちゃんはスゴ〜ク興味がある。
「草食」「軟弱」と言われる現代男子であるが、素顔と過剰メイクの差を「どちらもアリ」と受け入れているのだとするならば、それはむしろ昔の男子よりたくましいことだと思うのだ。アッパレ!
9/05 水 10.0   高辻・仏光寺あたりを&光徳でノビノビ体操
最近、RUNをしているときの「姿勢」がイイカンジ!と自覚する。あるべき位置に腰が安定し、その分、余計な疲労が軽減されているように思うのだ。
自己流の、短時間の「体操」だが、それなりの効果はあるように感じる。
さて、次なる課題は、「胸」である。用もないのに大きさだけはイッチョマエに育ってくれたバストは、この歳になってさらに無用になるどころか、大きさの分だけ「ガン」になる危険性も高くなるなどと、まったくもって厄介な存在となった。
さりとて「ある以上」は、これをいかに健全に維持するかに留意しなければならないのである。日常、位置を安定させるために必須アイテムとしているベルト付ザックを持たずに出かけた今朝は、そのことを改めて痛感した。
しかし、何らかの事情で「ザックが使用できない」事態になったうえでRUNをするシーンもあるだろう。そのような場合のために、「道具に頼らず」の自助努力すなわち「胸筋の強化」も、重要な課題となるわけである。
場所が場所だけに、自慢のようにも、卑猥にも受け取られるかもしれないが、これは、ほかの箇所の故障やトラブルを心配することと全く同様の、カラダに関する切実な悩みなのである。下らぬ想像をしてニヤニヤするようなバカもいることは承知しているが、今のわたしにとっては重要なRUN問題として、そんなことは意に介さず書き残すことにした。
9/06 木 10.0   猪熊・鴨川あたりを&自力整体
変わる変わるよ、古都京都。
かつての「南蛮寺跡」として、つい最近まで一般にも公開されていたらしい建物が、先月「危険度MAX」の宣告を受けて、信者以外の利用を停止したらしい。… 「防災・減災」の規制に便乗しているフシもないではない各宗派大寺院の改築も合わせ、今、京都では古い建物が次々取り壊されている。それは、「有名どころ」に限った話ではなく、ごくフツウの民家(町家)でも同様であることは、たかだか10キロのRUNの範囲内に「いくつそういう場所が見つかるか」を知るだけでも明白なことだ。
「外野」の人間がこれを見ると、「伝統や歴史が破壊される」という観点で、これまでそれを守ってきた主を気の毒に思うのだろう。ところがドッコイ!実際、地元の人々は、自分の家が「法の下に」という大義名分を建前にして「チェンジ&リニューアル」できることを大喜びしているんではあるまいか?…と、わたしは思うのである。
おそらく、多くの「一般ジモピー」にとって、外野の賞賛する「歴史伝統」などはどうでもいいことだと思う。にも拘わらず、築100年近くにもなるような「わが家」を維持してきたのは、「まだ使えるんやし、そのままにしとこ」という、いわゆる「シマツの習慣」によるところ大だったからだと思うのである。
そもそも、日本の都であった京都は、異国や諸国からの新しい物事・珍しい物事がいち早く舞い込み、数多くあふれていた町である。それらを次々受けいれ、生活に取り込んできた人々の子孫が、どうして保守的であり得ようか。「伝統文化保持が云々」の意識が見え隠れするのは、たまたま「シマツ」によって残り続けてきたそれらが、対外的に評価の高い資産価値を持つようになったがゆえのことであり、決して本質ではナイ!…と、わたしは思うわけである。一旦「火がつき出した」今、京都は恐るべき速度で、最先端の未来都市ともいうべきかの変貌を遂げるのかもしれない。
無論、「長年暮らした/親しんだ」光景がなくなるということは寂しい。いざ壊す、となれば、そこには「なんとかこのままにしておけないか」という思いがよぎることもあるだろう。しかしそれは、どこの誰もが経験することなのであって、京都に特有の心情でも、特別に同情を寄せられるようなものでもない。
「変わる変わるよ、古都京都」…やがて、ハード面で人心を集めることが難しくなったとき、「それでも京都へ」の魅力は、どこに求められるべきであろうか。着想のポイントはいくつか所有しているが、それはヒミツ!
9/07 金 10.0   東西本願寺と鴨川あたりを&掃除せんたく(マジでやれば、これも立派な全身運動)
近年、行政レベルでも「クールスポット」の設置が盛んだが、それよりずっと以前から、しかも24時間その機能を果たしてきたのは「コンビニ・スーパー」である。その中でも、京都において最も過激に「来客を冷やす」のは、「スーパーフレスコ」であることを認識している人は意外と少ないだろう。(ちなみに第2位は、西友三条店。ただしわたしの知り及ぶ限り)
1分も滞留すればゾクゾクするほどの冷気は、異常なほどである。
フレスコいわく、この冷気はエアコンではなく、あくまで「商品冷蔵のおこぼれ」であるのだが、ならばなおさら、「ちとやりすぎなんでは?」と思うところである。
「節電」は、人だけでなく、あらゆる物事に適正に展開されこその成果を目指すべきだろう。ブルブル〜ッ(>_<)
「必死」「真剣」「懸命」…ひとは、集中して何かに取り組むとき、簡単にこの言葉を口にする。しかし本来的な意味からすれば、これらはもはや「死語」の扱いになるべきものだろうと思う。戦国や武士の世にあっては、「それをなすことは死を意味する、しかしそれでも」の覚悟や美学を前提としての生き様もあっただろうが、今この時代に「何かをなす」ことは、「生きるため」あるいは「評価・賞賛のため」以外の目的を持っていないからである。今やそれらは「必生に」との言い換えや、「カッターナイフを突きつけられた程度に頑張る」あるいは「費命」「減命」程度の表現にとどまるところではないだろうか…つまり、何をしようとも、現代におけるそれらは、あくまで「生き続けるのはアタリマエ」の範囲限定のもとにある、ということである。
「生きている」「生き続ける」「生き抜く」ということ自体、当然のことながらそれは素晴らしいことである。そのうえで起こる諸問題に対し、様々な分野から具体的な働きかけがあることも素晴らしいことである。しかし、「生」ということに価値観を偏らせ過ぎることには問題があるだろう。「生」と共にあるはずの「死」が、いたずらに忌避され、否定され、時に差別的優劣すら語られることにもつながるからだ。
ことに、「死」というものについて最も深いかかわりを持っているはずの宗教寺院においては、このような偏重思想が展開されるようなことがあってはならない。…のだが、どうにも現実には、「生への執着」に傾く活動の傾向が強いように思われる。現在、門前に立看を掲げて宣言している東本願寺の「原発反対声明」などは、その典型だろう。
もちろん、この趣意は否定すべきものではない。しかし、「生きること」についてここまで局所的・具体的に主張を展開する彼らが、あの震災での被害については「被災者へのお見舞いと復旧をお祈りします」という誰でも言えるような一言スローガンと募金箱設置だけで事を済ましている、そこに大いなるギャップと疑問を感じるのである。仮にも浄土教の一派を名乗る団体において、「死んだらどうなる」「死んでも大丈夫」ということは、最も人々に伝えるべき根本中の根本教義である。あのタイミングで、人々に「死という現実」とそのとらえ方を伝えることは、ある意味またとない絶好のチャンスであったところをあっさり見逃しておきながら、「原発反対」にはその理由や思想を細々延々と主張する、少なくともそのアンバランスさは批判されるべきところがあるだろう。他、日常的に掲げられている「標語」も、「輝かしい生の追求」に関するものばかりであることは、そこからはじかれてしまっている境遇の人々を、考慮に入れていないと受け取れなくもない。
どんな「生」あれ、等しく尊重されなければならないのと同様に、どんな「死」であれ、それは尊重されるべきである。それが、老衰・病死・事故死・殺害・自殺のいずれであろうとも、起こってしまった事実による死は尊重されなければならない。仏教の仕事は、そのことを真に人々に知らしめるところにこそ意義がある。「生きる人間性の回復」は、ほかの誰にでも任せられる。「死ぬ人間性の回復」という方向性から働きかけこそ、彼らの本領であり、唯一急務の務めであるはずだ。それは、冒頭「死語」であると述べた「必死」が、本来の意味をもって人々に再認識されるための作業でもある。たとえそれが、儲けにならず、時流に乗ることでなく、人々から嫌われるテーマであろうとも。
9/08 土 10.0   三条・鴨川あたりを&ノビノビ体操
どれだけ歳をとり、多くの人に出会ってきたつもりでも、世の中にはまだまだ多くの「ビックリ人間」というのがいるものだ…。ということを、辞めた職場に新しく入ってきた人の話を聞いて思った。
ぜひ、直接お会いして、その人となりを探りたい…と興味をそそられた。
ここ1か月ほど、ハローワークでの求職活動をした。わたしの場合、じぶんで設定した条件がメッチャワガママだったわりには、とりあえずスンナリモードで再就職決定になって一安心といういうところだが、そういうチョット変わった雇用条件も含め、その気になれば「働くところ」はゴマンとあるのが事実。昨今、誰彼なく「仕事がない」ということが問題になっているようだが、それはあくまで「自分のほうであれこれと限界や範囲を決めているうえで求職している」がゆえのことであるように思われる。
中には、「人をだます」とか「不快な思いにさせる」とか、「ヘタをすると犯罪スレスレ?」みたいな仕事の求人もないではないが、そんなものを省いても、まだまだ「自分次第」でありつけるマジメな仕事はいくらでもある、というのが、軽く100件を超える求人票を閲覧したわたしの感想である。
…1か月も続けて求人票をマジマジと閲覧し続けていると、とりたて特殊な技能を必要としていないような仕事にも関わらず、いつまでも求人票が出続けているとか、いったん消えたはずのそれが間をおかずに再び現れるというようなことにしばしば出くわす。得てしてこのようなところは、経営者のセンス(人を見る目、という点も含めて)や、雇用条件のウソや矛盾、職場の人間関係(オツボネがいるとか派閥があるとか)等々、極めて基本的な就業環境に問題がある場合が多い。たしかにこれは定説的な要注意事項である。しかし、このようなことも、「自分には」我慢や納得ができることとして、その環境にうまく適応できる可能性が無いわけではない。実際、万民に不適合なのであれば、その職場は企業として成立しないだろう。…ということを考えると、やはりすべては「自分にはどうか、とにかくやってみる」のTRY精神にかかっているということになる。
とにかく、「仕事がない」ひいては「貧困日本」は、ウソである。少なくとも、国の仕組みが悪いとか、経済が低迷しているからなんていう大仰な社会問題に発展させて騒ぐようなレベルにまで堕ちているわけではない。
9/09 日 13.2  
9/10 月 10.0   鴨川
「カラダの声を聞く」
これは、本格的にRUNをはじめて以来わたしが最も大事にしてきた基本である。「キツイ」「ツライ」「ヤメタイ」と思うときには、カラダのどこかにそれを訴える「危機」があるからであり、「ヨッシャ!ガンガン行くぜぇ!」「ギャハハ!楽ピ〜!」というときにはカラダがそうすることを求めている、あるいは許容範囲であるということだ。言葉にしてしまえば至極当然のことができなくなるのは、たとえば「タイムがどうこう」とか、のべつ幕なしに大会参加をスケジューリングするとか、同好会のようなものに深く関わる等、つまりは「対外的評価」を設定し、それが優先になってしまうがゆえのことである。
厄介なことに、それらは得てして「素晴らしい取り組み」として評される。もちろん、それが悪いと言い切るものではないが、その「良さ」はあくまで一側面・一要素なのであって、固執してはならないことは常に留意するべきだろうと思う。仮にRUN中に倒れて息絶えても、そこに「悔い」があるか否かは、ひとえにその一点にかかっていることだと思われるのである。いたずらな「人為」へのこだわりに、時として「自然」は過酷な鉄槌を下す…このことは、誰にも重々認識されるべきところだろう。
世間のあらゆる「フツウ」「正しい」「理想」あるいは「禁忌」というものは、必ずしも「じぶん」にとってイコールに結びつくことではない。むしろそれらに逆らうことのほうが、真に心身の健康や充実につながる場合もあるのだ。
かくいうわたしが、その典型である。「RUNなんかしたら、いつ心不全でぶっ倒れてもおかしくない」と言われる体質を持ちながら、そのRUNを難なくこなして人生の充実感を得た。多人数でワイワイRUNするなんてのは余計なストレスがかかるだけでお世辞にも楽しいこととは思わない。ちなみに、「野菜や果物を積極的に摂り入れましょう」という一般的食事法も、かえって健康に支障をきたすことがわかっている。見事に「世間の法」に逆らっているのである。…そんな「個性」を持つつつ生きる人間にとって、「誰かが言った」ことが「わたしには正しいことではない」確率は非常に高い。わたしにとって「じぶんのカラダの声を聞く」ということは、おそらく一般の人以上に意識され続けるべき鉄則なのだろうと感じるところである。それが「わたしが本能的に選択した正しい"いのち"の全うの仕方ひいてはRUNスタイル」であるとの確信がある以上、それに関する他人の批評などどうでもよい。まさに、「人は何とも言わば言え 我がふるまいは我のみぞ知る」の龍馬のごとくである。
9/11 火 0.0   入念な自力整体
「これだけで10キロ歩いたのと同じだけ筋肉を使う」という体操は特にお気に入り。
本日より新バイト先での仕事開始。内容的にも気持ち的にも(後者は最初だけかもしれないが)ガチガチに固まる業務なので、バイトのある日はそれ以外の時間帯における「運動量」が大変重要なことになる。
が、今日は「雨の予報」にて、しからば…と、通常端折ってやっている自力整体ビデオをフルでやってみたわけだ。フワンフワン、ダランダランのモードの「癒し系体操」のはずなのだが、きちんとやると、かなりキク〜ッ!なんである。
かつて「運動」といえば、「スポ根モード」のハードなものばかりが想定されたものだが、ここ最近は、「ラジオ体操」だの「ヨガ」だの「マラソンよりウォーキング」だのというレベルの効果が見直され、宣伝されるようになってきた。ちょうど、今までのハードさがきつく感じられるようになる私たち世代には、ありがたい風潮(というか科学的証明)の出現である。少なくとも、「こんなもんで大丈夫なんだろうか?」という不安や不足感は解消され、心理的にも良い。
9/12 水 10.0   怪舎員時代のいろいろなところを、ちょっとずつつまんでまとめたような新バイト先。
EXCELの関数とか、挨拶状とか、至極当然にやってきた、かつ、わりとハマル感じでやってきたことを指示されると、燃える!
しかし、このバイトは「あくまで学問のため」を基本として選択し、限界範囲を定めたうえで行う仕事であるからして、決して夢中にならないよう注意したいと思います。
9/13 木 1.0   日本佛教学会、一部参加(於:花園大学)。午前のバイトが削られたが、一昨日・昨日と「仕事脳」になっていたところを軌道修正し、学問に対する緊張感を維持するためには有効な時間だ。
丹波口→花園(ここがケチのつきはじめ、ほんとは円町が最寄駅だった)→丸太町通をトボトボ徒歩→途中で市バスがあることを発見・乗車→「西ノ京円町」を通過してしまう(ここからなら徒歩2分だったのに!)→「太子道」で降りる→徒歩8分でようやく花園大学。フ〜ッ。
以前、「地図の読めない女」というフレーズ(本のタイトルの一部)が流行したが、まさにわたしはその典型である。今回の場合、「地図が読めない」というより単なる「ボケ」なのだが、日常どこに行くにも、「初めてのところ」にはマトモにたどり着いたためしがナイ。過去のある時期は、「いつでもどこでもRUNスタイル」であったので、「こうしたムダもまた楽し」とばかりにすべてをRUNで解決させてきたのだが、TPOを意識してお化粧やそれなりのオシャレをするようになって以来、この特性は「欠点」として再び顕在化したということである。まぁそうは言っても、相変わらず「これもまた楽し」の心境には変化がないのだが…それを解決するために「お金がかかる」ようになったのがちょっとイタイかも…ヘタすりゃタクシー代になるわけだし(>_<)
…本日も、「例に漏れず」の次第で仏教学会々場に到着。わずかばかりの時間ではあったが、のっけからエキサイティングな発表・質疑応答の場面に触れ有意義であった。贔屓目抜きで、わが「ぶだはっ」の質は高い!と実感。さらにその最先鋒の教授先生がたから直に指導を受けているじぶんの幸運を再認識した。願わくは、いずれわたしもあのような場で、「聴講者」ではなく「発表者」として参加し、大いなる「仏教学バトル」の当事者として大暴れしたいものだ!(ただしお上品に)。
9/14 金 12.0   錦小路と知恩院さん…建仁寺&安井神社界隈ウロウロ
金曜日はDJがヒロ寺平ではなくなったので、本日のお供はウォークマン。
今、わたしのウオークマンに保存されている曲の中で「最古層」にあたるのは、YMOとタツロー。特にタツローの「スプリンクラー」なんぞ、当時でも「知る人ぞ知る」だったマニアックレベルだが、なんと30年経った今でも「新しさ」を感じる…「ある個人とある音楽」の関係というのは、とても不思議なものだ。
「そろそろ選挙があるのか?」…ある程度「世間づきあい」のあるひとであれば、一般ニュースにならない時点でそんな「予感」がする時があると思う。ヘタをすると年賀状のやりとりすらないような人から、なぜか突然メールや電話がきたりする、そんな時にである。…先日、そんなメールが来たが、無視しといた。
選挙活動の一環として、そういう努力をすること自体は、決して悪いことではないだろう。問題なのは、情熱的に支援を依頼するはずの彼らに、「あくまで個人としての、また、あくまで政治的な次元での支持根拠」がないことだ。どこかから教えられた「候補者の功績」を、それこそお経のように唱えるだけなので、ちょっと突っ込んだ問いをかけると「とにかく彼は素晴らしいのよ!」的にコトを収めてしまう。そのくせ、敵対候補については「三面記事」さながらに細々した批判攻撃のネタを保持し、興奮して並べ立てるのである。ほとんどの場合、彼らのそれは、正当な「政治的活動」とはいえない行為であると思う。
こうした、極めて偏った個人活動はもとより、マスコミの大衆迎合主義的な政治報道にも注意して、冷静に「じぶんは誰を選ぶか」を決めたい…というのは、選挙権をいただいて以来のわたしの信条である。最近は、ネット情報が盛んなので、知ろうと思えばいくらでも「その人となり」の情報を自分なりに取得しつつ考える機会はあるのだ。たとえば、「マンガ好き」だとか「字が読めない」だとか、庶民レベルの批評悪評ばかりが目立った元首相、日本ではコテンパになって退陣したが、世界レヴェルの金融政策ではまさに「救世主」なみの行動をとり、海外からは絶大な評価と信頼を得ていた。最も知るべき功績を知りつつ彼を評価した日本人はどれだけいたのだろうか。…と、あるひとりの政治家の情報一つをとっても、明らかな「情報不足」が反省されるべきことがわかるところだ。
つまるところ、「誰がやっても同じ…なるようになる」というのが政治世界の実態であるようにも感じられるが、「それでも、その時じぶんは誰を選ぶか」の自由は、あくまで個人内面的に展開されるべきものとして大切に行使したいと思うのである。
9/15 土 10.0   鴨川・東西本願寺
関東で「ガキ使」をやっている時間帯、関西では「ほんわかテレビ」なるものが放映されている。「ガキ使」はかなり人気番組のはずなのにおかしいなぁと思っていたら、こちらでは土曜日17時からやっていることがわかった。しかし今や、わかったからと言って敢えて見る気にはならない番組という感じがする。…以前、毎週のようにチャンネルを合わせていたのは、内容の面白さというよりも、「また明日から1週間仕事だ」という気持ちの切替ポイントとして扱っていたからかもしれないと思う。もしかすると、関西人にとっての「ほんわかテレビ」も、そんな意味的位置づけが大きいのではないだろうか?
業界では「視聴率」がなによりの評価基準になっているようだが、真の意味で「じっくり見られ、楽しまれているか」という点ではかなり「アヤシイものさし」であることがうかがえるところである。
…最近、RUN中に「マスコミ」のことを考えることが多い。上記も、その一つである。
これとは別に、石原某の「エイリアン」「サティアン」報道についても考えたが、これは報道というよりも石原某の品性の問題に資するところ大のことであるからして、直接的にマスコミ批判の題材にはならないだろう。
ひとつだけ、「仏教学研究者もどき」なりの講釈を施せば、ここ数日クローズアップされている「サティアン」というのは、ほぼ仏教語といって差し支えないサンスクリットの単語である。
この語が有名になった発端は、あのオウム真理教が上九一色村に保有していた「サリン製造工場」などの建物の呼称であったので、「サティアン=建造物」のイメージがあるかもしれないがそれは間違い。
「サティアン」は、「satya(サチャ)」すなわち「真理」を意味する男性(または中性)名詞が、単数・対格の形に変化したもので、「真理を」と訳される。オウム的に言えば、「(真理を)行使する場所」という意義づけでのネーミングというところか。もちろん、やりたい放題の曲解であり、到底許される名称でないことは確かである。
したがって、このたび石原某が福島第一「原発」を「サティアン」と表現したことは、本来の語源を承知してのことではなく、また、「本・書籍」を「book」「Ein Buch」「Un livre」等々と訳したような言い違いでもなく、あの事件の「忌まわしい恐怖の存在」としての記憶を重ねて表現されたものであることは明白である。しかもそれが、既に時間の経過した事件のキーワードであり、唐突に口から出るような常用語でもない点からして、石原某個人あるいはその周辺では「原発」を「サティアン」と呼ぶことが常態化していたであろうことも想像に難くない。百歩譲って、「原発の恐怖という(真理を)見せられた福島第一」という意味合いの下に…という好意的解釈をしてやれなくもないが、彼の場合、「エイリアン事件」に伝えられる過去の軽薄さがそれを打ち消すのである。
…人々に、それまで未知のものであった国や時代の「ことば」が知識教養として広がることは良いことだ。しかし、「仏教」殊に「原始仏教世界」に付属するあらゆる言語・表現についてのそれは、ひじょ〜うにヨロシクナイきっかけとその流れの継続の中に起こっていることが、とても嘆かわしいところである。件の「サティアン」をはじめ、「グル」「アーナンダ」「ミラレパ」「ウッパラバンナー」等々、たとえそれらを純粋に研究している学者でも、居酒屋や喫茶店でそんな議論をしたらどうなることか…オウムの事件は、TVで報じられた被害のほかにもあらゆる場面に、細々とダメージを与え続けてきたのである。しかしようやくそれも下火に…となりそうだったこの時期に、また油を注いでくれたのが石原某というわけである。…「仏教学研究者もどき」としては、発言の不謹慎さという当然の追及を通り超えたところにも、彼の「罪」を感じるものである。
9/16 日 15.2   東福寺(臨済禅)の座禅会へ。
当初、「誘われてシブシブ」だったが、やってみるとなかなか…さすがに古くからの宗教修行法として持続されてきただけのことはある。
まず、「走禅一如」…これは正しいことを実感。座禅法として「数息観」は、RUNでも十分体験可能なものである。「静」と「動」の極端な違いはあれど。
結論。「座禅は、用法と用量を守って正しくお使いください」
1.「無念無想」の意味 2.座禅の適用範囲と限界 3.庶民(一般生活者)の生活と禅の関係の在り方について 4.禅のボンサンの存在意義 5.「かたちだけ」ならやるだけムダ。
…と、まぁいろいろなことがわかった次第であります。
ただ、毎日バタバタと忙しく過ごす人々にとって、たまに「そういう時間をもつこと」は、それだけでとても大きな価値と効果があると思います。お気軽にどうぞ!という感じ。
9/17 月 12.0   嵯峨清凉寺
「あるく内臓's健康担当」のシャカ如来ちゃん&ちっちゃいアミダちゃんにご挨拶
桂川(松尾〜嵐山)を久々に、「トバシモード」でRUNしてみた(*^。^*)
「あるくのRUN」は、決してゼーゼーハーハーな呼吸になるまで飛ばさない。というか、飛ばせない。…そうなることをカラダが自然に要求している感じなので、素直に従っているわけなのだが。だから「トバシモード」と言っても決して`3とか4なんてもんじゃないことは明白なのであり、今回の場合もせいぜい`6程度のことだろうと思う。体重増加分の負担を考えても、今はこのくらいを限界にしておいた方が後々のためになるようにも思う。
`6程度で「ヘラヘラ」走れるチカラがまだ残っていれば、「夢」はまだ終わっていない…「年内に超長距離を一度」目標を具体的にしてみようか?と思ったりした。
9/18 火 0.0   自力整体&そうじ
9/19 水 10.0   アマゾン払込みとか図書館返却とか郵便局とか…ほっとくと延び延びになる処理を早朝に済ます。
今後、雑件があるときは、できるだけRUNとコミコミでこなすことにしようと思う。
週3日のバイトとはいえ、フル出勤のスケジュールは何かと慌ただしいのである。
…っていうか、過去にはこれが当然…に加え、残業数時間、通勤4時間、なのに数十キロの通勤RUN…今更ながら、そして我ながら「ネ申」ワザだったような気がする。そんな過去は過去でそれなりに「わが人生として誇りある時間」であった、とは思う。が、それをさらに10年20年続けていていて良かったか?といえばそれは違うと思う。
9/20 木 13.0   ぶだはっ二条キャンパス→旧バイト先陣中見舞→知恩院みゆき堂→和順会館→薬やさん(1)→薬やさん(2)→京都駅(ワープ)…中堂寺交番・中信市場支店往復
まったくもってお恥ずかしい不注意により、プラス3キロ(>_<)。
しかし、心温まる顛末となり、関連の皆様に感謝いたします。ペコリ。
昨日の新聞記事で見つけた「法然上人絵伝デジタル化」並びにその展示を見に行く。文章だけでは「なんのこっちゃ?」なことも、「図解」になるとスンナリ理解できたり、自分なりの新たな疑問や感想が持てる。また、文章では読み取れない当時の風俗や習慣のようなものも知ることができ、ひじょうにありがたいところである。
たとえば、
@「お行儀のよい座り方」の基本は、現代においても「正座」であり、これは古から変わることのないお約束のように思われているが、どうやら実際は違ったらしい。絵伝で確認できる限り、女性ですら「片膝立て」の座り方が何ら問題ないフツウの様態であったようである。このことは、当時の日本における「大陸(韓国)文化風習の倣い」との関係が深く感ぜられて興味深いと同時に、これが「正座がヨシ」に変化した時期やその背景にも興味をそそられる発見であった。
A漆間時国(法然ちゃんの父上)が夜襲に遭い、まさに命尽きなんとする場面で、その部屋に掲げられた何やらのホトケサマの掛け軸に向かって合掌する姿が描かれていた。これは釈迦如来なのか、阿弥陀来迎図なのか?…いずれにしても、時国存命の時点で彼に何らかの「宗教信仰」があったということは、一般的な「法然伝」には詳しくないところであり、史実としてどうであったのかが改めて気になった(調べよう)。幼少時の思想形成においては、親のしつけはもとより、その家がもっている信仰思想の影響はデカイ。という意味において、この問題は法然ちゃんを考えるとき必要不可欠な要素であるからだ。
Bどうやら絵伝は、何人かが分担して文章や絵を描いたらしい。文字の違いはともかく、絵の方では、江戸時代の國芳よろしく「この人は、現代でもイラストレーターや漫画家として活躍できるのでは?」と思うほど、「イマドキ風」の表情を描いているものがあって楽しかった。
C法然ちゃんが、あれほど「意味ないし!」と言っていたにも関わらず、恵心僧都以来の「臨終行儀」を整えて往生した弟子信者が多いこと!…いつの世にも、宗教信仰には「なにかそれらしいカタチ」を求めてしまうものなのだ…とシミジミ。
…等々。
9/21 金 0.0   自力整体&そうじ
9/22 土 11.0   お彼岸のお墓掃除。先祖の親戚もいないお墓だが、キレイにするのは気分スッキリ、良いことだ。
「永万寺」です。「永満寺」ではありましぇん。
…と書いたら、きちんと2日後に修正されていた(*^。^*)
近所の会社で、「内職募集」の貼り紙を見た。…実はわたくし、かねてよりそういう「モクモク・コマゴマ系」の仕事に一番の適性があると思っており、これはまたとないチャンス!なのだが、幸か不幸か、新しいバイトが決まったばかりでそこまで手を出せない…というか、そういう内職というのは、あまりいい収入にはならないという現実があるのがイタイ。いろいろな意味で、まだ「そういうタイミングではない」ということだろうか。でもいずれ、一回くらいはやってみたいと思う。ほかにも、「やってみたい」と思う仕事はいくつかある。工場の流れ作業や、野菜の袋詰め、お弁当屋さんの盛り付け、仲居さん、ビルの掃除…今日みたいにお墓掃除なんかもいい。
今はその「縮小版・凝縮版」ということで、家事一般に精を出すことにいたしましょう。
9/23 日 21.0   関ヶ原のウオークイベント。
マイナーなイベント、しかも雨の中、参加者はチラホラか…と思いきや、かなり盛況で驚いた。年齢的にはほぼ中年層だったが、体力加減も装備も「マジモード」の人が多く、この国に秘められた「中高年パワー」のたくましさのようなものを感じた。
参加費1000円では赤字なのでは?と心配になるようなイベント。ゴールの会場では、「関ヶ原のヒーロー」のグッズがたくさん売られていたが、ああいう参加者層なのだから、地元野菜の即売とかやった方が良かったのに…と、ナスかきゅうりを買って帰るつもりだったわたしは思った。
それはそうと、途中、おやつにもらったお菓子の小袋の中に、「春日井の花のくちづけ」が入っていたのには感動した(きわめて個人的に)。この飴は、わたしのこれまで口にした飴の中では「ベスト1」の一品であったのだが、いつの間にかお店から姿を消し、「製造中止」になったとばかり思っていたものだ。かれこれ20年以上ぶりのその味は、当時のままであり、まさに「花のくちづけ」なるポエムな世界の世代を思い出させるものであった。…もはや旅に「ポエム」も「ロマン」もなく、「ナスやキュウリ」が目的のひとつなんていうオバちゃん世代に至っても、ウマイものはやっぱりウマかったのである。
9/24 月 10.0   ハロワ。←若い人のマネをして、略語にしてみた。職安のことです。
なんだか「タナボタのような手当」が出るというので、手続きに。
鴨川その他。
「中堂寺の大場久美子」「壬生の資生堂キャンペーンガールもどき」「杉本のオバちゃん」等々…気が付けば、フツーに日常生活を語り合い、思いやり、励ましあってたりする「トモダチ」がいる。
わたしにとって、「この京都で」という、いろいろな意味と背景を込めた前置きがある中で、むしろ前居住地より自然でディープな関わり合いがつくれていることの「有難さ」は、文字通りありがたいことです、ペコリ。
でもって、今日は、「中堂寺の大場久美子」と話が合って盛り上がった一件アリ。
偶然にも、「同一人物」の非常識さを怒る話題となったのである。
人間誰しも、「いつでもどこでもマナーや礼儀がある」わけではない。何らかの事情でそれを破るような言動というのを起こしてしまうこともある。従って、たまたま自分が接した人がその時どんな人であったとしても、その一面だけに集中して賞賛したり批判したりすることは控えるようにしたほうが良い…ということを心がけている今日この頃なのであるが、現実の事情にはもう少し複雑なものがあるようだ。信じがたいことだが、この世の中は自分が思うように動く、何か不本意なことがあればそれはすべて他者が悪い(あるいは都合よく解釈をすりかえる、またあるいは、味方になってくれそうな人に泣き落とし等々)、というような心境が「あらゆる行動の基盤」になっている人間がいるということである。こうした人には、「3分先のじぶんが見えず」「それに対する配慮や緊張がなく」そしてそれが「周囲にどれだけの不快感や迷惑をかけるか」を認識する能力がまったく欠けている、平たく言えば「完全なる自己中心者」である。
本日の場合その女は、さる大学の教師らしい(いくらここでも詳細は省いといく)。大場久美子いわく、「学のある人なのにかなんわ」。…いやいや、その女は、「学がある」のではなくて、「この時代に社会的地位を得やすい能力がたまたまあるだけの人」なのである。本当に「学ある人」というのは、世の中にもっと緊張感と礼節、寛容さと優しさを持てる人のことを言う…学問とは本来、そういう人的存在になることが目的なのであって、「○大卒」だとか「○○士」なんてのは結論でも資格でも条件でもない。それくらいなら、ただ毎日を生きている普通のオジちゃんオバちゃんのほうがよほど「到達している」場合のほうが多く、マシだったりもする。
つまり、「その点では優位性がある」とか「その場では有能者・有力者だ」とかいう事実は、「世間全般」「人生全般」においてもイコールで結びつくかというと、必ずしもそうではないのである。むしろ、本人のおかしな誤解による優越感と傲慢さは、常識やモラルを欠いた単なる迷惑行為につながることの方が多いくらいかもしれない。何より気の毒なのは、その本人が「不快に思われていること」「嫌われること」に気づかず、あるいは開き直り、何が何でも「自分が正しい」を押し通すであろうことだ。しかし世は諸行無常。やがて、それを許す環境を失ったときのしっぺ返しは、つらいことであろうと思う。
9/25 火 7.0   今朝、起床時に感じたダルさは「ナマケ系」と判定されたため、時間はやや遅かったが外に飛び出した。
案の定、ハイペースで東西本願寺界隈へ。
昨日のオバハンの愚行は、少しばかりこの近所で評判になっているようだ…あの短時間に、いったいどれだけ毒を振りまいたのか…アナ、オソロシヤ。
「ぶだはっ関係者」でなくて良かった…とつくづく思う。
「○○会社の社員」というような典型的なところから、「○○さんの奥さん」「○○ちゃんのお母さん」「○○教の信者」というようなものまで含めれば、ひとは必ずひとつやふたつの「看板」を背負って生きていることになる。それに直接拘束されていない時間であっても、ひとの言動というものは常にその「看板」と合わせて評価されることが多いものだ。よって、その是非はともかく、個人の言動がその「看板の評価」にもつながることは常に意識されるべきことであろうと思うわけである。
わたしについていえば、かつて怪舎員だったころには、会社のロゴ入りペーパーバックを持っているだけで緊張していたことが懐かしく思い出されるが、逆に言えば、それ以外のことへの意識は希薄な状態でもよかったところは助かっていた。「あの人(家)の娘」と言われるほど立派な親(家)でもなかったし、怪舎も高校経由で就職したところではなかったし…という感じだったので。
ところが最近のわたしには、この点についての注意を要するコンテンツがメッチャンコ増えているのである。「ぶだはっ卒」「ぶだはっ在学中」「○○さんの奥さん(という風に認識されている)」等々、それらはこの京都の中で誰もが知るところの組織や、特定の個人の人格の評価を上げ下げすることにも関わるものであるのだ。この京都は、「実にせまいまち」であり、こちらが気づかなくても向こうの目にはしっかり見えていた、なんていう接触が実に多い。「ぶだはっ」「○○さん」の品位を損ねないような振る舞いを心がけることは非常に大切なのである。とはいえ、必要以上に「エエカッコシイ」になる必要はない。自転車で無謀な運転をしたり、道にゴミを捨てたりするような「マナー違反」をしなければ良いだけのことだ。西本願寺でケッツマヅイテ転んだくらいのことは、別段問題にはなるまい。テヘッ(*^。^*)
9/26 水 7.0   コースは昨日とほぼ同じ
すっかりボテボテボディのオバちゃんとなっても、走るとなったら走る!モタモタでもなんでも、カッコエエじゃないか!
…まぁ、そんなボディにも近々お別れだが。ムフッ。
「カッコイイ男になりたいんです!」…これが、就職の面接で言うに適切なコトバなんだろうか?詳細を聞けば、「前向きに、下を向かず、ほかの人よりも一歩先に出ている人間」なんだそうで。では、具体的にどんな目標があるの?と聞かれたら「・・・・・特にありません」って、オイオイ、そこが一番肝心なんじゃねぇか?っての。
まぁ、最近の若者によくあることなのだろうし、じぶんでは「キメタ!」つもりになれる台詞なんだろうけど、彼の定義が根本的に間違っていることは、歳をとるとよ〜くわかるんであるよ。
いいかね、「カッコイイ男」ってのは、役職をもって人の先頭に立つとか、有名になるとか、そんなことじゃない。仮に、どれだけ上司から理不尽な扱いを受けようとも、無能呼ばわりされていようとも、「家族のために」「生活のために」と、黙々淡々と日々の仕事をこなす、世にゴマンといる男たちのほうが、よっぽどかっこいいのだ。少なくとも、そういうのが「イヤダ」とか「みっともない」とか思っているようでは、まだまだ君も子どもダネ。…という風景に出っくわした。
9/27 木 10.0   なんだなんだ、メッチャ暑いやん!
やっぱ、朝RUNにすればよかった。
暑さのあまり、サラサと鉄アメを買うのを忘れた。あちゃ〜。
っていうか、忘れたのはホンマに暑さのせいか?…ヤバイ。
本日は、おとなりの「ビューティプリティちゃん」としばし談話。彼女、ある場所でのバイトが数年続いているので、さぞかし楽しい職場なのかと思いきや、実情は人間関係ドロドロで、辞めたくてしゃぁないらしい。
途切れることなくパート募集の広告が出ている理由はそのためか…というほど、クルクルクルクル人が変わるそうだ。さぞかしオッソロシイおばちゃんが仕切っている様が浮かんでくるようだ…が、わたし自身、彼女とは20近く年齢が違うオバちゃんであるからして、「わたしが行ったらどうなるか」という興味はないでもない。ニャハ!
しかしそんな中を、なんだかんだと毎日マジメに勤め続けているのだから、エライ!…何につけ、「イヤなら辞めればいい」が、最近の若者スタンダードと言われるが、中にはこんなに忍耐力がある子もいるもんなんである。人間、「イヤならやめる」も「イヤでも頑張る」も、どちらが正しいとか悪いとか決めつけられるものではない。ただ、「世の中がよくわかるオトナ」になるには、後者の生き方のほうがやや有効かな?と思うのである。
9/28 金 10.0   東寺さん界隈。
着ていたTシャツにプリントされた「それらしきデザイン」を目ざとく見つけたオバちゃんから、「ぶだはっで格闘技関係の部活やっている学生がトレーニング中?」との問いかけを受ける。
先日(25日)にも記載した通り、やはり「看板」のチカラは恐ろしい…格闘技系と誤解された体型も恐ろしい…でも、「現役学生=20代」と勘違いされたことはウッキキ〜♪(*^。^*)
でもまぁ、「格闘技系」とはいえ、「ただ太ったオバちゃん」と思われるよりはまだイケテルってことか?…と、あくまでポジティブ思考(^_^;)
「基礎力がついた」…ボテボテRUNの続く日々でありながら、かつてのRUN三昧の時代より「底力」や「可能性」を感じるようになった。
これが「気のせい」でなく事実であるとすれば、その要因は明らかに「自力整体」にあると思う。以前にはついつい看過していた「柔軟性」や、無視していた箇所の「筋力」を、しっかり鍛える仕組みになっているところを、それなりに継続してきた成果であろうと推測されるのである。ヨッシャヨッシャ。
中でも一番に感じるのは、「階段の上り下り」がマジでラクチンになったことだ。かの富士登山競走において、イマイチふんばりがきかなかったのは、こうした小さなことを見逃してきたからなのでは?と思ったりする。既に富士への思いはなくなったが、旅RUNにおいてこれが有効に働く場面は多々あるだろう。「あいまいだが確かにある目標」に向かって、さらに地道に努力していきたい。
9/29 土 6.0   思うようにいかなかったことはすべて「縁がなかった」と考える。…わかっていても、若いころはじぶんの行動として伴わかったことだが、最近ではごく自然にそういう発想に至るようになった。
歳をとるということは、それだけでイイコトがたくさんあるものだと思う、そのひとつの現象である。
一度目はあまりの行列だったために退散したラーメン屋、二度目の今日は、なんと「臨時休業」とな!…ある意味、ここまで奇跡的なめぐりあわせで拒否られるのも珍しいことではないか…わざわざ嵐電に乗ってまで向かった「ラーメン紫蔵」は、今、ラーメン通の評判がひじょうに高い「名店?」だが、わたしには何らかの事情で「合わない」がゆえに、ホトケサマが近づかせないようにとのおぼしめしをなして、このような展開になっているのかもしれない。
同じく、巷で好評価のさるラーメン屋の一杯が、食中毒さながらの症状を呈したように。
9/30 日 7.8   しまさこんのサワヤマ城界隈を歩き回るイベントに参加する予定が。
台風接近の情報により中止。
これもまた、「今回はご縁がなかった」ことのひとつであろう。しかしここは、機会を改めて訪れてみたいところだ。
走行距離 266.2  km