あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上56歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
6/01 金 0.0   おやまぁ
6/02 土 0.0   走るのを
6/03 日 0.0   すっかり
6/04 月 0.0   忘れてましたわ。
6/05 火 20.0   アタマはすっかり「2000年前のインド」…かなりテンパっているんである。
いやいや、ここは2012年の京都です…ということを思い知るために、最も京都らしい風景にまみれに行ったのである。
「京都たびびと」として、まちなかをウロウロしていたときは、たとえそれが単なる仏光寺通りであれ三条通であれ、「おぉぉ、京都だぜぃ!」という感慨と興奮に満ちていたものだが、その場所に日常生活を送る身となると、「は?ただの道ですが、何か?」みたいな気にしかならない。そんなわたしでも、やはり鴨川や東山界隈の寺院ウジャウジャの風景は、「いまだ京都」なのである。
6/06 水 0.0   「1年」は、年齢を経れば減るほど短く感じられるという。「1/年齢」なのだということを10年前に教授先生から聞いたときは、「ふ〜ん、たしかに!」と納得感心してヘラヘラしているくらいだった。
しかし今、そのことが常にまとわりつく実感としてあり、心は汗ダクダク!な心境である。
願わくば、しっかりお金を稼ぐために8時間、学問のために10時間、健康維持とスタミナ向上ためにRUNする4時間、十分な休養のために睡眠7時間、趣味的遊びや教養のために3時間…このくらいの長さが「1日」にあってほしい。
1日24時間のところを8時間増し…なんとかならんもんでしょうかね?って、過去にこんなことができたのは、おしゃかサマだけ。それは、天台の「教相判釈」を見ていて気が付いた謎。寿命よりも長い時間説法をしたという奇跡である。もっとも、これも伝説に過ぎないわけですが…
6/07 木 20.0   しばし阿弥陀ちゃんと遊んでいたら、いつの間にか隣にいたご婦人に「ご僧侶様ですか?」と尋ねられた。
いくら早朝とはいえ、ジャージで汗ダクのボンサンはいないと思いますが〜(-_-;)
こういう場所では、しばしば見知らぬ人から「関係者か?」という質問を受けることがある。既にわたしには「ホトケの後光」が輝いているのか!なんちゃって。
おそらく彼らがそのような誤解をするのは、仏前におけるワタクシの「作法」にあるのだと思う。なんだかんだと「この道40年」の祈りの行儀は、意外な展開を見せているものだ。ちなみにこれ、外国人からカメラを掲げて「OK?」と言われたことも何回かある。実際のところ、どんな行儀で拝むかなんて「形式」は、救いとか悟りなんてものには全く関係ないことなのだが、それまで縁のなかった人が何かを感じ、ひっかかりのきっかけとなるのであればそれはそれで有効なものとなるだろう。
6/08 金 0.0   熱いぜ!南伝大蔵経☆
「経典勉強してます」なんて言うとカッコイイが、その内容たるや、ただの物語だったり世間話だったりする。これを読んで「救われる」と思うのは、それが一般日本人にとってわけのわからん漢文だったりウニョウニョ文字だったりするからだ。
火事で火がボウボウなのに、気が付かないで遊んでいる子どもを助けるために、親が「外に来たら楽しい乗り物があるよ!と教えて外に助け出し、死なずに済んだ…というのは、有名な法華経の中にある話。「こんなの読んでイイことあるのか?」と真剣に悩んだ小3のわたしは、ずいぶんとヒネタマセガキだったのだなぁ。それがついに、ここまで関わる研究テーマになるとは、その時はゆめゆめ思いもしなかったが。
そんなお経の中で、スリランカあたりに伝わった「パーリ仏典・パーリ律」なんていうのも、これまた「ありゃりゃ」な話が多くて笑っちゃうのである。王様が痔になったとか、おシャカさんが便秘になったとか…言うか?っていうか、こんなの残すか、フツウ?というような話がテンコ盛り☆これを逆に言えば、本来の仏教というものが、いかに「人間そのもの」にビッタリ張り付いている教えであるかということである。…という真相を知らせることもせず、声明やら何やらといかにもスゴそうな体裁を整えて、一般庶民と僧侶の差を広げることにばかり注力している宗派がなんと多いことか。嘆かわしい。
6/09 土 10.0   チクブ島に行って歩いた分を加算しようと、しゅ〜る之助サイトを見に行ったら「ゼロ」だった(-_-;)
(13日、これを見たらしいしゅ〜る之助から、10キロとの申告アリ)
チクブ島は基本的に「無人島」だそうな。ここが、琵琶湖の中にある島でよかった。海に浮かんでいたら、また寄付を集めて買い取る事態になっていたかも…である。
ちくぶ島には、神がいて、仏がいる…昔々の人には、その「感じ」を抱かせる距離感と風景であったのだろう。それにしても、「かわらけ投げ」のかわらが、あの神護寺のモノと全く一緒なのには笑ってしまった。といいつつ、かなり真剣な願い事を書いて投げてみたら、鳥居をくぐるどころか手前の工事足組の鉄管にぶつかってコナゴナに砕け散った★(-_-;)
あまりに不吉なので、「心願成就」のろうそくを買ってそなえてきたわさ。…「代替手段」に祈りを代行させるとロクなことにならないという典型例となった次第。
6/10 日 0.0   ぶだはっへ、レポート持ち込み提出。「アタマは2000年前のインド」から、ようやく解放された。
しかし今度は、「1000年前のチベット」だ。「脳内海外旅行」は、果てしなく広く、深く、続くのである。
今もあるのか「京風ラーメンあかさたな」…と思い出すようなラーメンを「山崎麺二郎」で食べた。無論、正統派京都ラーメンとは、ハンナリアッサリとはほど遠いコッテリ濃い味なのだが、その伝統に逆らうようにして最近進出している新しい店は、いずれも「本来は誤解」であった京風ラーメンのイメージに近づけている味を出しているところが多いように思う。今後ますます「御歳を召していくラーメン愛好家」としては、このタイミング良い変化の兆候をうれしく思ったりもするのである。
6/11 月 0.0   すべての物事はそれ自体のみで成立していることはあり得ず、他のあらゆる事象との関わりの上で「仮に成立している」に過ぎない…これ、「諸法無我」のことわりなり。
チベットを勉強するに、チベットだけを眺めればよいのではなく、中国の歴史を知ることも必須の要素なのである。
「サムエの論争」というのは、チベット仏教成立の経緯にひじょうに重要なポイントであり、これまで何度か学習課題になってきたものだが、今回はいよいよその集大成といったところ。参考文献は果てしなく多く、またもやモンモンと取り組む日々が…トホホ(-_-;)
6/12 火 7.0   今日からキントレも開始!
どれだけ「痩せよう」としても、いわゆる「スレンダー」にはなれない骨格を持っている以上、ただ脂肪を減らすだけではみすぼらし「ホネホネオバサン」になってしまうこと必至。しからば、つけるべき肉はしっかりと!というコンセプトである。
半年前、「でも、やっぱり頑張りたいじゃん…」とわたしにシミジミお諭しになった学長のひとこと。
この簡単なことばが、どれほど深いところから発せられたものか、理解できたような今日この頃。
6/13 水 7.0   さっそく二の腕がイタイぜ!
昨日職場で久々に荷物をいじったせいかもしれないが。
「好きこそものの上手なれ」とはよく言われるが、社会の仕事においてはむしろ「嫌いこそものの上手なれ」のほうがうまくいくことが多いのではないかと思う。
「苦手だ」「いやだ」と思う意識が続くからこそ、定められたマニュアルへの緊張感は継続するし、自分勝手なアイデアや裁量を働かせる余裕もない分、無駄や要らぬ失敗が減る。
わたし自身「接客」をするときにつくづく感じることである。
6/14 木 7.0   松田聖子再々婚。
こんな感じで、中森明菜や華原朋美も幸せをGETしてほしいと思う…。
好き嫌いは別にして、聖子や明菜とはまったく同じ時期に「女の子」や「女性」を過ごした世代として、いろいろ考えさせられることが多い。オンナというのは、何かの才能を持って自立しているように思えても、「男」「恋愛」が入り込んでくるとその影響力は男の比ではないくらいに人生全体を覆う基礎的問題になる。この要素の扱い方ひとつで、女の人生というのは開きもすれば堕落もする…その典型例を見せ続けてくれたのがこの二人だと思う。
…てなことを客観的に眺めながら、「プスポートゥカラーラー」「アーチクシプアー」(サンスクリット単語)の訳に昨夜から悩む45歳の私の人生も、「女」という性にある意味イヤというほど関わりながら生きた結果としてのひとつの事例である。これもまたよし、それもまたよし。
6/15 金 0.0  
6/16 土 6.0   最後のオウム犯罪者逮捕。
あのような事件を起こす根源が実は仏教経典にはしっかり「説かれている」ことは、つくづく恐ろしいことである。無論、それを強制的に現実化したことは愚かであることには違いないが。
なんにせよ、わたしのようなジャンルの「仏教研究」を志す者にとって、幹部信者にいちいち「経典上実在する仏弟子」の名前(ホーリーネーム)が付けられていたことは甚だ迷惑なことである。「アーナンダ」「マハーカッサパ」「ウッパラバンナー」…うっかりまちなかで口にしようものなら、信者疑惑がかけられてしまう(>_<)
「解脱」という、何やらスンゴイ境地に思える姿を、人々は「超人的」「神」のようにとらえがちであるゆえに、空中浮遊のような奇跡や浮世離れした風体をそれと勘違いする人間が後を絶たないわけであるが、「解脱」の真の意味とは、「二度と生まれないこと」なのであって、今ある状態が劇的に変わるとかとんでもない力が備わるなんていうこととは本来的に全く結びつかないのである。
源泉的に「二度と生まれない」という思想が発達したのは、古代インドにおいて「この世はあまりに苦に満ちている」にも関わらず、死んでも業報によって再びこの世に生まれてしまう苦しみから逃れるために…ということであった。すなわち、「この世での(相対的な)幸福」なんてものを追い求めている限り、はてまた「生まれ変わったら」なんてことを考えている限り、そのひとには「解脱」なんてことはあり得ない。(といいつつ、大乗仏教になると衆生救済のために進んで再生しようとすると説かれるようになるのだが、それはさておき。)
この元来的な意味において、人々の「解脱」を最も一般的かつ平和的に説いているのは、浄土教なのではないかとわたしには思われる。「二度と生まれない」…つまり人々が最も忌み嫌う「死の世界」を前面に出し、その安心が翻って「今を生きる」ことへの安心と覚悟を決定する仕組みは、いとも簡単に「生死を越える」教えそのものなのである。
先日、TV出演した上祐が、「誰かに依存する宗教は避けたかった」という理由で自ら新しい組織を発足させたと発言した。そこにはまだ「自我(プライド)」があり、「頼るものを間違えた」という真の反省がない。彼やその集団に「解脱」なんてものは到底ありえないことであろう。一度、知恩院さんに来たれ!…ゆっくりお話ししたいものだ。早大院卒のエリートだか何だか知らないが、わたしはそんなところとは関係ない「タマシイの会話」をあなたとしてみたい。
6/17 日 8.0   ひょんなことから、いわゆる「ギャル」の髪の毛に触る。
それは「リカちゃん人形」の髪よりもゴワゴワし、もはや「髪」という感触はほとんどなかった。
「流行」そして「キレイ」のためにやっていることなのだろうが、あまりにもひどい。
45歳中年オバちゃんのわたしの髪も、薄いとか細いとかクセが激しくなった…とか、そりゃいろいろな問題は感じているが、少なくとも彼女の髪よりは「生きている」ことを実感した。
若い世代というのは、「性的エネルギー」はさることながら、いわば「生的エネルギー」に満ち溢れているからこそ、世の中は彼らに「希望」を託すものだと思う。また、どれほど壊そうと無駄に使おうと、それを越えてなお余りある「プラスのパワー」を感じることができるのが若さというものであるとも思う。そのあたりのバランスが、最近の若者からは失われているのではないかと心配になる。
6/18 月 0.0   一度見たようで見ていないような映画(2007年の作品)をBSジャパンで見た。どうでもいいかと思ったが、ニコールキッドマンの美しすぎる姿に魅了され、最後まで見てしまった。
宇宙から帰還したスペースシャトルが持ってきてしまった「ウイルス」が、人々から感情を奪う。「世界平和」は達成されるが、そのために「個々の人間」は破壊されるという、なんだか怖い話だった。
平和や思想統一をもたらした「ウイルス」は、ある意味「神」的な存在のようにも思えるが、結局、エゴや争いがあるからこそ「人間」なのだ、という究極の結論になったところは意味が深かった。
この映画の場合、(仮にも)今ある人々の平和な状態を崩したのは「地球外生物」であったわけだが、このことは、いわゆる外来生物の繁殖や、交通網の発達によるウイルスの地球規模の伝播など、現実的にいくらでも起こっている問題を示唆しているようにも思われる。発展的には、「本来自ら解決すべきこと」を外部に依存しすぎたために崩れていくもの…方向性はいろいろある。
6/19 火 0.0   いつの間にか、女性の間で「雨の日には長靴」が復活の兆し。
10年くらい前までは、「いや〜ん、ビショビショ!」とか言いながら、フツウにパンプスを履いている人ばかりの中、長靴を履いて出勤すると「魚屋か!」とバカにされたものだが。
ことファッションに関しての「ステキ/オカシイ」の評価は、まことにもって時々刻々いい加減に変化するものだということがつくづく感じられる。
そんな儚いものに振り回されて、散財するくらいならまだしも、いのちや健康にかかわる無理をするようなひとも散見される。愚かなことだ。
6/20 水 20.0   「過保護」と「放任」は、子育てだけでなく、「女性のお肌」に関しても重要な原因・結果論が成立するようだ。
「洗顔料で顔を洗う」ことが日常化したのが23歳ころ(それまで水をピチャピチャするのみ)。職域山岳部をはじめた22歳頃から日焼け止めには神経質だったこと以外、基礎化粧も一切なし。チョコチョコとマメにお化粧に手を出すようになったのがようやく最近。…わたしの場合、究極の「放任」だった。しかし今現在、シミ・シワは「まぁまぁその歳なり」のレベルであって、少なくとも「もっときちんとやっておけば」というようなことは一切ない。
基本的に「肌の質」というのは、生まれ持った素質や内面的な栄養状態・体質・気質が大きく左右するところであり、シワやシミ、吹き出物やタルミなんぞというものに対して、「外から働きかけて劇的に変化抑制する」ことへの期待は、微々たるものでしかないように思う。
本来、人間のカラダには「己の力で清潔に健康に強く」あろうとする働きがあることは定説であって、これは「顔」についても同じことであると思う。それなのに、若いうちからあれやこれやと塗りまくりの人生を送ってしまうと、肌自体に「やる気」がなくなるのと同時に、心理的な問題として「やり続けなければ」の呪縛が生じるのだろうと思う。実際、画期的(に感じられる)効果を謳って次々新商品を発売する化粧品会社は、そうした「負の連鎖」につけ込んでいるだけのように感じるが違うか?
ここ数ヶ月「人並みのメイク」に取り組んでみたが、いわゆる「フツウのお手入れ」というのを真似してみると、顔は24時間「お面をかぶっている」ようで不快極まりなく、むしろ細かいヒビ割れのようなものが見えるようになったりして、ヤバイぞ!と判定された次第。…で、その手入れをチョイとヌルめにしてみたら、あ〜ら不思議、こっちのほうが素肌的にマトモじゃん!…な状態に回復したんである。
「ほらね、やっぱり何もしないほうがいいんだよ!」と豪語するつもりはない。大切なのは、「必要な外的ケア」は万全に、しかしその基準は、「自分で自分の肌を的確に観察する」ことにあるということだ。歳を重ねていく以上、「いつまでも赤ちゃん肌」なんていうほうが異常な欲望なのであって、ある態度の汚損(シミシワ)は許容範囲のはずである。その自覚の上で、なんらのトラブルも不快もないのに「必要と言われるから/みんながやっているから」に惑わされて、あれやこれや塗りまくる日常が、どれだけ肌から自助の力を損なわせ、負担をかけているか。あわや、そんな生活に入り込もうとするところで、軌道修正が図れたことは幸いだった。「生きている肌」が、それを教えてくれたように思う。ありがたや。
「ダブル洗顔必要」と書かれていても、クレンジングのみでOK。あるいは石けんで落ちる程度のヌリヌリならそれだけ。蓄積されているかもしれない汚れは適度なピーリング剤や顔そりでOFF。化粧水はハーブティーを飲むついでにチョイチョイと顔に塗り、乾燥を感じたらシアバターをその場所だけヌリヌリ。化粧品屋が聞いたら卒倒しそうな基礎化粧法だが、これ以上のことが必要だとはどうしても思えない効果と感覚を持つ現状である。
「言われるまま」にやるなら、「ドモホルンリンクル」が必要なお年頃だが、まともに関わったら月々5万円かかるとか。そんな出費ができるくらいなら、通学の修士課程に通ったるわ!
…と、そんな無駄話をアミダちゃんとしていたら、すっかり帰りが遅くなってしまった。
6/21 木 2.0   ハッピーミュージック?
♪ポポポポポーッ、ポポポポポーッ♪…文字ではお伝えできないのが残念(>_<)
ポポポポ…といっても、ネズミ先輩の一発ヒット曲とは違いますぇ。
この曲に合わせて、まさに「思わず一緒に口ずさむ」ような感じで「ポポポポポーッ♪」とうたっている人を見かけたのは、今日で7人目。しかもそれが、子どもではなく「すべて中高年のおっさん」という共通点もなんだか楽しく興味深い現象である(ちなみにそのうちのひとりはしゅ〜る之助である☆)
これは、スーパーまつもと五条店に入るとすぐ耳に入る。もともと「ヤキイモ売り場PR曲」のつもりのようなのだが、同じ場所にカゴやカートが並んでいることで、さながら「楽しいお買いものスタート!」のBGM効果にもなっているような気がする。
曲名もよくわからないメロディーだが、ひそかにファンを増やしている魅力はどこにあるのだろうか…(-_-;)
6/22 金 10.0   「朝、ちょっとキツメの運動をして、牛乳を飲む」
…これが熱中症対策のカラダ作りに有効だと、数か月前TVで言っていた。
牛乳はどうだか知らないが、朝いちばんに運動をして汗をかいておくというのは、熱中症対策に限らず、「意欲」や「行動力」等、もっと大きな次元で有効であると実感してきたこの十年。最近は、朝RUNがやや断続的であるだけに、余計にその差がわかるところだ。
いずれにしても、あれこれ言われる「理論」が、実体験の追認のようなかたちであらわれるのはうれしいことではある。
人体リズムとして、老廃物を体外に排出する「排泄」は、午前中が一番活発だという。
巷には、「脂肪を分解!」とか「燃焼パワー!」をPRするサプリや食材の話が後を絶たないが、そうしたものを取り込んだところで、それらを「出す」作業を怠っていれば元も子もないだろう。
わたしの場合、ここ数か月飲んできた「あるお茶」が、RUNとの相乗効果を醸し出し、「ただ飲んでいただけの時期」とは違うカラダのスッキリ感が現れ、実際3キロほど減の状態になっている。もともとダイエット効果を期待して始めたことではないだけに、まさに「タナボタ」であるのだが、この調子でベスト体重へまっしぐら!となるように「双方継続」のままガンバロウと思うのである(*^。^*)
6/23 土 0.0   わが敬愛するぶだはっは、今や「仏教学の東大」と言われているそうだ…と、教授陣が言っているだけなので単なる「手前味噌」なのかもしれないが。
しかし実際、院生と接触してみると、かなり名門の四大や海外留学経験者などがワンサカいて、「意外にホントかも」なんて思ったりもする。
そういう視点からみると、わたしゃとんだ「風変わりモノ」なのだが、だからこその成果を出さねばならないのだろうという使命感だけはギラギラしている。
といいつつ、設備や資料・組織力、そして「仏教」を標榜するからには、の「一般へのPR力」というのは、どうにも龍大のほうが優れているのでは…と、チラチラ羨ましかったりもする(これが明らかに財力の差であることがカナシイ)。
深草キャンパスの施設で公開されている「妙好人」に関する展示を見に行って感じたことだ。
内容的には、「死と超越」なんてスゴイテーマを掲げている割には大したことなかったが、わたしにとって「隠れた第二テーマ」である妙好人が、本家本元でどのように扱われているかの現状をつかむことができてよかった。
6/24 日 0.0   蓬莱山
関西の山はまだいくつかしか登っていないが、おそらくここが一番ではないかという気がする絶景。
こういう体験を、「思い出」にすることなく、いつまでも現実に楽しめる健康と心境を維持したいものだと思う。どうすればよいかの方法はガッチリ承知済み、あとは実践のみ。
6/25 月 0.0  
6/26 火 0.0  
6/27 水 0.0  
6/28 木 0.0  
6/29 金 0.0  
6/30 土 0.0  
走行距離 117.0  km