あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上56歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
8/01 日 0.0   7月はついにサボりまくりました。
別に暑いからでも、やる気がないからでもありませんでした。
理由はしっかりとあるのですが、いちいち書きません。
「ガンガンやった1ヶ月」と「サボりまくった1ヶ月」の比較を意識的に行おうとしました。有意義な結果があれこれ得られましたが、いちいち書きません。
8/02 月 0.0   ウソをつくというのは良くない。世の中、「他愛もないウソ」「必要なウソ」というのは往々にしてあるものだが、「そのヒトコト」によって自分のみが救われ不特定の人を苦しめる状態を招くような類のものは許されるべきではないだろう。
せっかく控えめになったビールが増えてしまうので、そういうウソはやめてください…ヒック。
ウソをつく人間自体も問題だが、その人に「ウソをつかせる人間」というのももっと問題である。誰にでも自己防衛本能があり、「怒られたくない/責められたくない」がために事実を捻じ曲げてしまうことがある。自分はそういう「ムダに恐れられる存在」になっていないか…特に、子育て中の親、職場の上位職にある人には大いに反省を促したいところだ。
すべての人がウソをつかない誠実な言動をとるようになれば、それだけで世の中はどれだけ美しくなるだろう…そんな時代を、生きているうちにみることが出来るだろうか…過去、何兆人の人がそれを願いながら逝ったことだろう。おそらくあるくもそのひとりとして埋没していくのだろうが、せめて「そういうひと」ではありたくない。「正直者がバカをみる」というならば、バカのままで死んでいこうと思う。
8/03 火 0.0   ほんとうに納得のいく結論(推定)を導きたいのであれば、あと1ヶ月「RUNナシ」で過ごし、比較対象のサンプルを増やすことが理想です。
何のサンプルか、は、いちいち書きません。
しかしこのままでは、体重が理想から程遠くなります。なので、ボチボチいこうかと思います。しゃぁないです。
あるくが現在目論んでいる「理想の体重」については、あまりにムボウな企てにつき、とてもじゃないが書けません。
…といいながら、すでに3日サボっているのには理由があります。先日、「執筆依頼原稿」をようやく上げたと思ったら、今度は院試願書提出時に「小論文」が課されていることに気がついたのです。申請書類のパックを開けたら原稿用紙が入っていてビックリギョ〜テン!という次第です。「ただ申込書を書けばいい」つもりでギリギリまで開封せずに放置していたらオジャンパーになるところでした。「今やるべきコトは余さずやろう」の心がけは、ほんとうに大切なことだと反省しました。残念ながらあるくにとって「今やるべきコト」が、RUNではないだけです。だから今月に入ってもサボっているのです。
8/04 水 0.0   合法的手段(なんて大げさなもんじゃないけど)にて、わが敬愛する教授大先生様のご自宅所在地情報をGETした。ご著書あとがきに「比叡山を望む寓居にて」と記されていた通り、想像しただけで心洗われる様なロケーションのお住まいにあらせられるようだ。
ぜひ、このご自宅を「新規参拝ポイント」に加えたいと思うが、やるとなると5キロ距離延長になる…ウムム、ビミョー。
「院試課題論文」は、どうしたことかアレヨアレヨという間に書きあがってしまった(8分で終了)。「物書き作業」では、たまに「何かにとりつかれた」というか「何かが降臨してきた」というような状態でサラサラ進み、スッゲーイイカンジ!のものが出来上がることがある。もちろんそれは、体調や脳(言語野)の働きのバランスがいいときにタイミングよく文章を書いた、という相乗効果のなせるワザなのだろうが…なにごとにつけ「想定外の成果」が出たとき、ひとは「奇跡=神や仏」というものを感じるものである。なので、あるくもそれに従い、「院試通過は自分の欲望だけにあらず、ホトケサマの待ち望んでおられることである。よって、力をお貸しくださったのだ!」と思うことにする。アナウレシヤ。
あとは筆記試験課題対策…仏教学の基礎事項のみ。簡単なようで実は一番ヤッカイな次元の設問がワンサカ予想できる。
あと38日☆1秒たりともムダにはできませんぞ…でも、あしたからはRUNしようと思う。これもあるくにとっては大事な「基礎」だからね。
8/05 木 0.0   猛烈な暑さで深夜1時半という中途半端な時間に目覚めてしまった。以降2時間ほどモンモンとして、結局4時起床叶わず。
RUNに出られなかったことをムウッチャクッチャ腹立たしく思うとは、ずいぶん気力も回復したものだ。
ちなみに、「根体調」(体温とか皮膚感覚とかいうコンテンツ的評価項目よりももっと深層部分で感じる体感)は、ここ数週間すこぶるヨイ。
これも、生活の細かいところにチョイチョイ改善を加えたタマモノであろう。ヨッシャヨッシャ。
作り変えなければいけない「ライフスタイル」の諸問題がある。
とりあえず「ひと通りのネタは完備した」と思える今日このごろ、あとは「どこに無機質になり、どこに有機的に動くか」のミサダメを間違えなければうまくいくことだろう。じぶんに期待。
8/06 金 25.0   ストーカーRUN。我が敬愛する教授大先生様のお住まいは、あらゆる煩悩から遠ざかる生活を送れそうな場所にあり、洗練された知性の高さを感じさせる外観でありました。キャー♪…平たく言えば、それだけイナカ地域にあるってことですが(~o~;)
とはいいつつ、シクロ橋までは行き過ぎでした(>_<)
それにしても、北大路橋から北は、明らかに洛中より数度は低いと思われる気温。いいですねぇぇぇぇぇ。
久々に耳にした802。一発目に聴こえてきたのは「サダ子が〜ナンタラカンタラ♪」という歌詞。オイオイ、朝からホラー映画の主題歌かよ?と思ったら、これは広島の原爆で死んだ少女と折鶴の有名な話を歌にした曲でした。
そういえば、今日は原爆記念日でした。
日ごろ目先の欲に囚われてノーテンキに暮らしている人々には、こういった特別な「記念日」やイベントが必要なのかもしれませんが、「生と死」「平和」というものについてベッタリ考えまくっている人間にとっては、こうしたものが形骸化した空虚なものに思えて仕方ありません。
似たようなものに、「月命日」「○年忌」なんていうのがあります。その日だけ「つきあいだから」と黒い服を着て集まって、ボウサン呼んでお金使って…です。あるくはそんなものも意識していません。「死んだターボ」は今でも毎日、心のなかで生きているからです。これまでとは違ったかたちで、あるくの人生をつくる要素となっています。
「失ったもの」に学び、生かすというのは、これから先の日々の考察や言動に反映されてこそ真の意味をもつのではないかと思います。イベント参加に使う渡航費があるなら、一個でも多くの地雷除去ができるように転用してほしいものです。
誤解を恐れず言えば、戦争によって悲惨な目に遭い、供養や救済を必要としているのは「65年前のヒロシマ」だけではない。シンボリックな儀式とそれをダラダラ流し続ける報道のあり方は、そろそろ考え直したほうがよろしいんじゃないでしょうか。それを見聞しただけで短絡的に戦争と平和を考えたつもりになる(実は情報・知識として受け取っただけの)人が増えるだけです。そんなところを飛び越えて、ほんとうにできること・やるべきことの手段を、全身全霊こめて考える時代に入ったと思います。
いくら戦争の世の中にあったとはいえ、その日の朝8時15分に「自分が一瞬にして消え去る」ことを想像した人はいなかったと思います。学校に行き、職場に行き、家で洗濯や片付けものをして…という、極めてフツウの姿が消えてボロボロになったのが、65年前の今日の「ヒロシマ」です。
いくら検証をしようが反省をしようが、そうしたことが再び起こる火種は、いまだ絶滅していません。
残念なことに、なんでもないひとりがいくら願ったところでどうしようもないところに委ねられている運命というものがあるというのが事実です。
しからば、わたくしたちの毎日はいかようにあるべきか…たとえ今、「死の瞬間」が襲いかかろうとも、それをモノともしない「心のありよう」というものを、瞬間瞬間に維持し続けるしかないように思われます。
泥酔していた、トイレに入っていた、横になってぼんやりしていた、テレビを眺めていた…すべてよろしいでしょう。ただそれが、「ほんとうにそのときやるべきことをやっていると納得している姿」であるならば。
「まともに活きている(生きている、とは違う)」ことができるのもあと20数年ソコソコだろうという年齢にさしかかり、そういうことが人生の切実な課題として迫っている今日この頃なのであります。
【ところで】
「サダコと千羽鶴」の組み合わせに遭遇したのは、なんと今から28年前の横浜駅前路上でした。「原爆で死んだサダコのために、千羽鶴を折ってください。」という訴えと共に、カンパ50円で2枚の折り紙をもらい、鶴を折るというものでした。「原爆・戦争・平和」というキーワードだけで感化を受ける世代であったあるくは、迷うことなくその訴えのほうに近づき、折り紙を購入しようとしました。
ところが、折り紙を管理しているひとは、ザブトンの上に正座してヒトコトも口をきかず(問いかけても反応もせず)、薄暗い表情をしてうつむいているだけ…はっきり言って、ひじょうに気色悪い思いをしました。さては、「千羽鶴」なぞヒロシマとは何ら関係のないエセ慈善行為なのでは?と疑ったほどでした。25年後、実際平和記念公園に出かけて、「千羽鶴とヒロシマ」は深いつながりを持って続いている平和アピール活動であるということを知りましたが、それでなおさら、あの浮浪者のような無表情の女性が矛盾に満ちた光景となってよみがえるのです。あの意味不明な虚飾、オーバーな表現演出には、今でも嫌悪感を禁じえない出来事でした。
「悲惨な事実を伝える」「平和を訴える」そして、それを理解し、考察し、真に生かされることには繋がらない方向に「事実」を利用するあり方に疑問を持った原体験でした。毎年1回だけのイベントやその報道に感じるところも、これが伏線となっています。
…って、RUNすると、その時間分だけこういうことを考えるので、スッゲー長文になりました(-_-;)
8/07 土 11.4   ぶだはっまでのはずが京見峠まで。
ぶだはっまでのはずだったので缶コーヒー1本のエネルギーチャージ。
いくらなんでもこれではキツイ(>_<)
8/08 日 11.0   比叡山。帰りはケーブルという邪道RUN。
しかしなんだったんだ、あのテンションは!
もし今日が「サンタイ」であったり「富士登山競走」であったりしたら、時間内完走どころか入賞モード?ってなコンディション。アァもったいない…ってのはジョーダンだけど、いろいろな条件がうまく整うと、まだここまでイケルのだ!という「可能性的自信回復」(~v~)ニヤリ。
【それにしても】
比叡山の「集金システム」は、日本に数ある寺院仏閣の中で一番エゲツナイと思われる状態を変えていない。「経営と宗教的畏怖の混同」はいまさら言うまでもないが、これをスレスレまで切り離して威厳を保とうとする「ニセ慈悲」のありようがなんとも理解しがたい。「日本宗教の母の山」であるという存在意味が、まったく悪しき方向であからさまに象徴化している。大いに反感を持つゆえ、いつか問答を仕掛けたいと思ふ。小屋番のオッサン!500円は薬師ちゃんに直接に渡しといたから安心しよし!
8/09 月 0.0   「サッポロ一番塩ラーメンが食べたい。」
←これが、本日午前11時から6時まで、ずっとアタマの中でフラフラしていた欲望である。
この10年、「食べたい」=「そのときカラダが要求している栄養素」であるということを言い切れるくらいには食餌管理意識が出来ていると思うあるくは、本日のこの衝動的な欲望が何を要求していたのか考える…塩分か、小麦粉か、カンスイか、脂分か、はてまた食品添加物か…マサカ!
8/10 火 0.0   「なくなってから気づくもの」
「限界まできて気づくもの」
…ひとは、"そこまできて"ようやく反省したり後悔したりすることが多い…しかし"そこまで"きてしまったときには、元の状態が回復不可能であったり、他の環境を否定しなければ生きられない状態に追い込まれがちなものだ。
「いろいろあった」という意味では、過不足なくコトバ通りのコンテンツに満ちているあるくの人生である。ちょっとばかり「フツウとは違った」からというくらいで「家庭が複雑だった」「そういう世界も知っているけれど」なんて深刻にウソブクようなヤツとは明らかに次元が違う。
ただ、そういうあるくも、どの環境にも「どん底まで埋没する寸前でなんとかなってきた」という点では恵まれていた。今後の我が人生、スベテノヒントハ、ココニアル。
あえて、神仏の存在を借りて表現するならば、「これがお導きでなくてなんであろう」
【つまらない事例だが】
たとえば、あるくは20代に「かなり本格的な登山」を愛好していた。山に登り、そして下界に戻る…この繰り返しを毎週やっていたころ、山中では60リットルのザックの底にうずめられていて何ら問題のなかったサイフを、帰りの電車の駅前に来て取り出すためにアタフタと荷物を全部ひっくり返すということがしばしばあった。
…「状況が違えば《じぶんにとって必要なもの》がまったく逆転する」「一方では《なくてはならないはずのもの》が、もう一方では《なくてもなんでもない》、さらには、そんなものより究極的に《なくてはならないもの》がゴマンと存在する」という事実を身をもって知った日々であった。そして、そのどちらにも「立場」が置けるじぶん、生きられるじぶんが存在することをたくましく、ありがたく思ったものである。
無洗米でない米を研がずに炊いてもおいしく食べられる。ほんとうに体を潤す基本は「ただの水」である。月の光でも道は歩ける。汚れていようが古かろうが皮膚を保護する「布」が身を囲んでいれば安全である。パンツのレースやフリルなんぞ、肌のストレスになるだけである。
…誰にも彼にも「登山に学べ」というのは無理な話だが、こうした「日常と違う/想定していない/マイナスの/そぎ落とされた深さに入り込んだ自分」を知る機会は、誰の日常の中にもいくらでもあることだろうと思う。RUNサイトという性質上いちおう付け加えておくと、これは「ある種」のRUNを継続しても上記に同様の直感が得られるところである(あるくの場合は30代に入って追体験したということだ)。
仏教で説く「苦からの解脱」とは「無」を意味することに等しいが、それは人間として生きることを放棄したような神秘的空間に置かれることでは断じて、ない。「苦を感じる原因を"無"にすること」すなわち「とらわれ無い」ということである。手段ではない。形式ではない。選択できない現実にあって生き抜く知恵を培うことこそが、真の「修行」であり、誇り高き「じぶん」の確立である。それがなくして何の「仏教」であろうか。
どれだけ高尚でごリッパな場所に身を置こうが、自身がそこに気がつかない限りは「わかったようで傲慢」になるだけの逆効果。むしろラーメン屋や土木作業など、自他共に「生きること」に直接ベッタリ関わった、すなわち「いのちに向き合う」ような仕事生活環境に身を置き、「なんでもない人」と徹底的にまみれながら生きるほうがどれだけ得るものが大きく、また近道であるか。ちなみにあるくは現在、くっだらねぇゴタクを並べるシーンの多かった「怪舎」にいた時代より、はるかに深みと強さを感じる多くの「ホトケ」たちと働き、高速度回転で新しい学びを獲得している真っ最中である。
…虚無僧君、これが回答です。
8/11 水 0.0   あしたから、試験に関係のない書籍は近づけないようにしようと思う(>_<)
それでなくてもバイトだの家事だのと、かつてないマストコンテンツがいくつもあるのだぁぁぁぁ。
決して「ムダ」ではないのだが、『チベット旅行記』はどう考えても「今読むべき」本ではないっ!
「私がいなくなったら、この職場は回らない」「どの作業も私が犠牲になってやりこなしているのに待遇が悪い」…さんざんグチまくって辞めていたパートさんがいました。
今日は、その彼女が「私でなければこんなにできないはずだ」と豪語していたある作業があるくに回ってきたのだが、実際なんてぇことはない、それなりにきちんと収められたのでございます。
「会社・職場」なんぞというもの、「別にその人がいなくても代わりはたくさんいるし、なんだかんだ言ってもうまく回るものだ」ということは至極アッタリメェの鉄則であって、今の時点で成果や評価が高くても、それを「俺が/私が」とくくりつけて良いものではないのであります。
実はそれは、「家族・親子」についてもいえることであって、突然誰かが消えてしまったとしても、それが周囲の者にとって究極・実質的に破滅(死)を招くようなことには繋がらない、すなわち「絶対」ではないです。
「かけがえのない存在」という美しいことばがあります。ひとは誰しも、じぶんが「かけがえのない存在」になろうと努力するものです。しかしそれは得てして、「会社のため・家族のため・こどものため・恋人のため」という「外向き」に視線を置いて語られています。あるくは、ここにある種の「間違い」が潜んでいると思うのです。
もっとも根源的かつ基本に据えて考察すべきなのは、【わたしがいなくなったらどうにもならなくなる】のは【わたし自身】のみ…という、この一点なのであります。
もちろんこれは、「自分勝手」を奨励するものでも、現在ある立場から逃避することを勧めているものでもありません。だから、深く深くこの意味を考えることが必要です。その上で、「まずは"じぶん"がなくて、何があるというのだろう」という定義を送りたいと思います。
あなたには理解できるはずだ…出張くん、これが回答です。
8/12 木 0.0  
8/13 金 25.0   恒例・学校歴史博物館訪問、下鴨納涼古本市、バカ高い宇治金時等々堪能RUN。
どの時代にも、それぞれの条件下での喜怒哀楽はあった。すべての基本は何も変わっていない。
つまり、決して今だけが豊かであるわけではないし、かといって、「現代社会は何かを失った」なんてぇカッコイイ問題提起をする必要もないのである。
とにかく大切なことは、現実のじぶんを知ること・認めること。そしてそこから、「今ある喜び」や「もう少し先の希望」を見出して生きることであると思う。
「思想統制」でガチガチになっていたはずの戦時下にあっても、人それぞれの価値観はあり、そして絶望の中にあっても「いかに強く生きようか」を無意識に模索しながら体現した庶民はいくらでもいたのだということを改めて学ぶよい機会となる、「学校歴史博物館」に限っては、「ムダなハコモノ」ではないということを訪れるたび感じるのである。
8/14 土 6.5   漬物買いに行くRUN。
京都は漬物が名物…というのもある意味では、いかにこの土地独自の「食資源」が乏しいかということを示唆するものであろう。にもかかわらず、「京都にはおいしいものが多い」と古今東西に認識されているのは、いかに周辺地域の力あってのことかということである。
「京都は・京都は」の意識が強い人々は、この事実をしっかり再認識・再考察したほうがよろしい。「ここが、ここだけですばらしい」わけではないのである。
…と、それはともかく、「京野菜」というブランドが確立するほどに、野菜に限っては京都の優位性を認めるところでもある。「かぶ」「なす」なんぞ、せまいスーパーにいくつもの種類が並び、いったいどれをどのように使うのかいまだに迷っちゃう状態である。
こんな環境にあるまちに生きる人々は、おそらく無意識のうちに培われたものであるのだろうが、野菜料理に関するアレンジ力がすこぶる高い。「なすとニシンのたいたん」「きゅうりの味噌汁」など、サガミハラ人のままでは知らないで終わったであろう情報は、実行するしないに関わらず、「京都暮らしの知恵」としておもしろく、また、学ぶところ大なのである。
8/15 日 25.0   @昨日のことだが。
Aぶだはっでアレコレ。
@ある店では1冊1万円近い値がついている全集モノの古本を、ドカンと全32巻、1万3千円で購入するラッキーに恵まれた。その本が到着したのである。
A提出課題の原稿を清書しようと、原稿を取り出すとき、他の書類もジックリ眺めたら、なんと調書の裏面に「あなたが本学を選んだ理由を書いてください」という課題が隠れていた(゜o゜;)
A回答欄はB5版にいっぱい書ける量。こういう課題に関する回答は、サクッとヒトコトで終わらせるか、あるいは余すところないボリュームで仕上げるかのどちらかである。前者を選ぶなら「ぶだはっがスキだから+ハートマーク」でいいが、その真意をうまく汲み取ってもらえないと大失敗になる。なので後者を選択し、4点にしぼってクドクド書いた。じぶんで読み返してみても、「こいつを入学させずして他の誰に資格があるって言うんだ?」と思えるド迫力の仕上がりとなったが、最もカンジンな選考ポイントは「情熱」ではないことくらいわかっているので、やはり不安であるぅぅぅ(>_<)
8/16 月 6.8   願書出した。
11日試験、17日発表。
1ヶ月後の今頃は…晴れて院生か、それとも開き直ってガツンガツンRUNしまくっているか、のどちらかである。(もちろん前者希望)
8/17 火 0.0   「知らないほうがシアワセ」ということがある。知ろうと努力して知った結果、むしろ迷いや怒りを増すだけのことも多い。ムダだ。
しかしこれは「人間関係」におけることに関してのことであって、それで済ませてはいけない「分野」があることもまた事実だろう。端的な事例が「食品の産地表示」だ。
最近、ビール摂取量がイマイチ…のカラダになり、さりとて「なんとなく渇いたノド」を潤すための代替品として、「カロリー制限された缶チューハイ」を飲むことが多くなったような気がする。あれやこれやと次々登場する「味」やパッケージは楽しいものでもあるのだが、つい最近ふと気がついたことがある…。
それは、「果汁」として使用されているフルーツが、レモン・グレープフルーツ・ライム・ナントカオレンジ等々の柑橘系でほぼ占められていること、しかもそれら柑橘類の産地が「加工商品」であるがゆえに明示されていないことである。
あるくは、これらの果物を「ナマ」で」購入することはまったくない。なぜならこれらは確実に輸入品であり、かつ、そこには政治的圧力によってシブシブ国内認可された「アブナイ農薬」がバリバリに使われているからだ。このことはある程度意識のある人なら誰でも知っていることであるから、当然「ナマの売れ行き」は芳しくないだろう。それが、姿を変えてこういう商品に流用されているという推測はあながち邪推ではあるまい。
「情報」として熟知し、神経質に関わっているつもりでいながら、こうした落とし穴を見過ごすのは、それが「オサケ」であることのみに注目したがゆえの「盲点」であり、その盲点の根源はこれすなわち「欲望」である。おぉまいがぁぁっ★
制御されているつもりの「悪しき欲望」を反省するとともに、コトの真偽を明白にすべく、企業の誠実さも求めたいところではある。
8/18 水 0.0   「郷に入りては郷に従え」というコトバがある。日本に観光に来て、英語のままですべてが通用すると高飛車になっているような態度をとるガイジンは「NOサンキュー」だ。
…というのが、あるくの基本的ポリシーである。しかし…
本日は、決してそういう高慢な雰囲気を感じない米人家族の接客をするハメになった。「たまたまそこにいた」不運…★
しかし…
およそ30分、商品説明から価格(消費税までテイネイに)の説明をするという快挙あるいは暴挙あるいは奇跡が起こった!
こうした不可思議現象は、日本に海外現地法人の社員を集めてイベントやったとき、タイ出張のとき、以来3度目のこと。いかにテンパリ度MAXだったかってコトだろう。
あれやこれやと勢いに任せてシャベリまくったが、一番印象に残った会話は、「Have a nice trip!」「Oh,Tahnk you!You,too.」
あらゆる意味で「たびびと」である現在のあるくにとって、ひじょうに感慨深く、励まされるコトバとなった。月並みな挨拶表現も、人によっては意味の深い思い出となる。
8/19 木 0.0   満州引揚のとき、わが子を道端に置き去りにして(誰かに預けたのではない、捨てたのである)、自分だけ引揚船に急いだ親がいた。時代だから仕方ないことだったか?…多くの場合、人々はその視点を基準に理解し赦しているだろう。しかし…
それら、河原や道端に捨てられて呆然としているこどもたちを、「一緒に日本に帰ろう!」とわが子のように背負って歩いた兵士部隊があったという。それまで背負っていた自分の食料袋を捨ててまで…つまりは、自分とコドモのいのちを「平均化」して、いけるところまで頑張って生きていこうということだ。戦闘で銃弾を浴びて死んでいった兵士も「勇気ある英雄」かもしれないが、こうした生き残りの兵士たちも、単に日本人とか兵士とかいう枠を超えた、「人間としての誇りや希望を失わなかった勇者たち」であろう。
このことは、ひじょうに多方面からの考察の機会を与えるエピソードである。
昨今、「わが子の虐待死」の問題が大きく報じられている。マスコミは、ここぞとばかりに「現代社会の闇」とかなんとかカッコエエタイトルで騒ぎまくっているが、実はこんなのは今に始まったことではあるまい。どの時代にも、「自分が一番」という根源的な資質を同一にし、その本能の強さを振舞った人間というのはいたのであると思う。多くの場合、その被害者は、その「本能の最大なる副産物・コドモ」である。
1000年も昔から、生まれたてのコドモを谷底に投げ捨てる親もいたし、娘を遊郭に売り飛ばす親もいた。言いたかないが、ンなことは「コドモをつくらなきゃ起こらない」悲劇なのであって、つまりは「わかっていながら性欲むき出しにしたオトコ・拒否できずに(喜んで?)受け入れたオンナ」の不始末が原因。(←タジマ女史が食いつくところだ)
そうやって考えると、現在の「少子化問題」なんていうのは、実はモンダイでもなんでもなく、むしろ「人間が理想的に自分と将来・社会情勢を見据えた結果」・ひいては成熟社会の前兆として喜ぶべきことなのではないかと思われもするのである。
「そのモンダイは、ほんとうにモンダイなのか」「その肯定は、ほんとうに正しいのか」「元に戻すことだけが解決なのか」…世の中のあらゆる事象には、もっと広い視座で眺めなければいけない事柄がたくさんあるものだと思う。
★上記のコメントは、「マスコミ論」「児童福祉学」「歴史学」「民俗・風俗史」「女性学」「現代社会学」「論理学」「仏教学」「宗教学」「遺伝子学」「スピリチュアル」に通じる問題の所在を暗に提起している。ここに後者4件の「ニオイ」を感じとった人がいたら、ぜひ議論しませう。(挑んでくるメンツは想像つくが…)
8/20 金 25.0   招待も申請もしてないのに、いつしか勝手にやってきて大量にまとわりつき、ジャマでしゃぁ〜ないゼイニクさんにお帰り願うことにした。
ある種の「悪霊退散RUN」である★(-_-;)
次回からは、アポとり・伺書提出の上ご参集ください。
堀川北上にて神光院(境内入ってジロジロ眺めたのは10年ぶりか)⇒鴨川⇒ついでだからシクロ橋⇒敬愛する教授大先生様のご邸宅参拝(残念ながらまたもやお姿シルエットどころか洗濯物すら見えず…何たる洗練さであろう!)⇒知恩院さん界隈
…これでソッコー2キロ減。ドンだけ水太りしてるっちゅ〜ねんっ!っていうか、どんだけ暑いねんっ!やっぱし8月8時過ぎの京都はヤバすぎると思います!
【最近、裸眼状態でも近くのものがよぅ見えるようになったり、肩こりがきつかったり、なんや妙にオニクがつきやすくなってますねん…】
現在のあるくのバイト先での女性集団は、僅少差(2歳違い)で「あるくさんが2番目に若い」構成となっている(-_-;)…よって、上記のようなことをうっかり口にしようものなら「あらぁ、それ更年期やわぁ♪」と、まさに「あなたもワタシタチの仲間入り!」の歓迎モードバリバリのコメントが微笑みと共に返ってくるのである。いかようなことであれ、共に働く者同士の間で共通理解事項、同感・共感をもてるコンテンツが増えることは、生活情報としてだけでなく、業務そのものにも潤滑剤的な役割を果たすことも多くヨイことである!ムフッ!(^v^)…(更年期って、10年くらいあるんだって!そりゃ〜もう、あるくもバリバリ「該当者」でしょう!ヤッホー!ヽ(~o~;)/)
「どこそこが痛い」「なんだか調子悪い」「眠い」とプチプチ言いはするが基本的には、彼女らは決して「その事実に負けていない」生活をしているのである(T_T)…かといって、「若いモンには負けへんぇ!」だとか「このままじゃアカンわ!」なんていう気負いがあるわけでない。「今ある事実」の上に、フツウの生活を地道に暮らしているのである。雑談上インプットされた彼女らの人生背景を踏まえてはいるものの、職場ではただ電話を取り、伝票を書き、パソコン入力し、接客をこなすだけの言動を見るだけであるが、あるくはそれらにひじょうに大きな、大切なことを日々教えてもらっているような気がしている。
怪舎員時代にはほとんどが「後輩世代」だった。もちろん、若さと情熱・能力に溢れた子たちとの日々もまた素晴らしく貴重なものであったが、その分不足していた「先輩に学ぶ」ということを、ここで一気に吸収する機会に恵まれているような気がする。「じぶんにとって見えない現実的な未来像」へのヒントや緊張感をタイミングよくいただける環境をありがたく思うものである。
…43歳と10ヶ月。明らかに変化しつつあること、失われてきていると感じるものはアチコチに出始めている(このため既に2件ほど、ある”選択肢”を人生から除外した)。しかし、それは「さらに新しい"じぶん"のはじまり」であると確信する。変化や消失によって逆に現れたことを楽しみながら生きたい。っつ〜か、既にかなりおもしろがっていたりするo(~o~)oキャハッ!…ただできれば、あまりに「痛すぎたり」「苦しすぎたり」するのは避けたい。今ボテボテと続けているRUNが、その緩和に役立つことを願うものである。(⇒で、最左欄の行動に拍車がかかったわけである)
人生に「勝負」があるとするならば、それは世代や時代といった他者との相対評価に土俵を置くものではない。あくまで「現在只今、安易な妥協と怠惰に甘んじるじぶんに勝てるか否か」、のモンダイである。
8/21 土 0.0   なんともとんでもねぇ論文に遭遇する。
筆者について調査したところ、いわゆる「チョット変人」系の宗教者であって、おそらく一般的な学者たちからは相手にされていないであろうという感じだったが、ゆ〜てることには一理あって考え込む…。
歴史的にみて「原始(初期)」「部派(小乗)」「大乗」の3つに分類されるということになっている仏教であるが、厳密に言えば「原始」と「初期」は違うものであり、また、「小乗」と「大乗」は並行している。このうちあるくの専攻は「原始」なのであるが、これがなにかと厄介な問題を抱えているのである。件の「変人論文」は、タイトルにこそ「原始」を使用しているが、おそらくは「初期と大乗の連絡」について述べている。…という風に理解しておかないと、今あるくが仮説しているテーマは根底から崩れてしまうのである。これは大問題だ!
8/22 日 19.1   六斎念仏(鳥羽地蔵)
いつ始まったかは知らないが、「六地蔵めぐり」という行事が京都にはある。今まで2回もグルグルしておきながら、この6つのお寺さんがすべて「浄土宗寺院」であるとゆ〜ことをいまさら知ったのであった。
うちの近所に「中堂寺六斎」の拠点があり、知り合いがいることもあって親近感はMAXなのだが、「お盆に」というタイミングで奉納されるにしては、あまりにキンコンカンカンンピーヒャララ♪で、これでは帰るはずのお精霊さんたちが長期滞在しちゃうんじゃないかと心配になるほどの楽しさがあるんである(>_<)
その点、鳥羽の六斎は、鐘とわずかな太鼓だけの地味なもので、それゆえ静かに霊が空に上っていくような神聖さをかもし出す、ここが気に入っている。
もっとも「六斎念仏」そのものが、もともとは「死者」だの供養だのには直接結びつかないことを発祥にしているのだし、後天的に民俗的芸能と結びついて念仏普及に資した性質があるものであるから、どっちもアリなんだが…この種々雑多な変容も、ある意味では仏教の「広さや深さ」を象徴する現象であって意義深いことではある。
…と、それはともかく、その「文化」をワガモノ顔でエッラソ−に仕切っているおじさんはもう少しオトナシメに振舞ったほうがヨイと思います。意外と評判悪いらしいです。でも、そうはいってもこういうのがなにかとチヤホヤされちゃうんだよなぁ。世間とは、げに不思議なものなりけり。
8/23 月 0.0   3000万円あったら何をする?
宝くじ当選をマジで願っている職場の仲間に影響され、ふとそんなことを考えました。
しかし、同じ人が持ってきてくれたフリーペーパー巻末の占いコーナー「てんびん座」に、「将来に過大な想像をめぐらすより、足元をしっかり見つめて!」と説教され、目が覚めました。
たしかにその通りです。今のあるくに3000万円が舞い込んだら、それは煩悩にまみれた使途に消えるでしょう。実際、思いついたのはそういう内容でした。もう少し先なら、かねてからの理想を実現できそうな気がします。「お金は、正しく使うべきときにあればいい」のです。なさ過ぎるのも困りますが。
8/24 火 0.0   ターボが「ぞうりで靴ずれ」を起こして座り込んでいたので、「そこにRUNシューズあるんだから履きなさいよ」と、手当てをしながら説教していました。
もちろんこれは夢の話です。
RUNウエア&RUNシューズのターボが入ったお棺をいよいよ荼毘にふすとき、「きちんと焼けるように、靴は脱がせてください」と業者が言ったことに少々抵抗感を持ちながらも言うとおりにしてしまったことが悔やまれました。そんなのには逆らって、履かせたまま送ってやればこんな夢は見なかったかもしれないと思います。
「先に逝った者」への思いというのは、100%以上のことをしたつもりでも、その是非について追究されるかのように想起させられるものなのかもしれません。
あるくの場合、たかだか「靴」くらいのこと、しかもすぐそこに履かせるものがある程度のことでよかったと思います。もしあのときテンパって「解剖してくれ」だの、形式にこだわって白い着物なんぞ着せていようものなら、目も当てられない姿で現れたかも知れない。そう思うと、たとえ医学の進歩が遅れようが、風習がどうであろうが、そういった外部の「かくあるべし論」に惑わされないあり方というものが、どのような場面にも大切なことであるということが感じられるものなのであります。
…「あはは、そうだった!靴があったんだねぇ!」とターボはニヤニヤ笑ってまた歩き出してくれたので、それでよかったと思います。おかげですっきりお目覚めできました。
それにしてもやつぁ、いったいどこをウロウロしとるんじゃ?相変わらず歩き回るのがすきなやっちゃ★(>_<)
8/25 水 0.0   暑いので。
宇治金時にハマってます。
その第一弾は、烏丸の「虎屋茶寮」のバカ高いやつだった。これはこれでイイモンであったが、次回行くのは「よほど記念日的なことがあったとき」という感じであった(雰囲気も値段も)。なので、も少し庶民的レベルで…と、第二弾は同じく烏丸蛸薬師の「鼓月」に行ってみたわけだ(先週金曜日の話)。虎屋と逆にあずきが底に収まっているタイプで甘みも少なく、食べた直後は「やっぱし虎屋?」と思ったが、後々になって鼓月のほうが「程よい甘さの余韻と腹持ち加減」がいいと感じた。今夏中に「都路里」「甘春堂」「祇園小石」等々をクリアして比較したいと思っている。今日は午前中にツジリに行きたかったが、暑さMAXでついついギリギリまでうちでノンベンダラリン。「暑いからカキ氷」なのに「カキ氷だけど暑い!」なのである(T_T)
8/26 木 0.0   肩こり改め首スジ痛3週目に突入★
イイカゲンアタマにきたので、薬局へGO!
気のせいか、飲んで3分で効いた。
あはは、こんなことならとっととやればよかった。
8/27 金 0.0  
8/28 土 0.0  
8/29 日 0.0  
8/30 月 0.0  
8/31 火 0.0  
走行距離 154.8  km