あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
12/01 月 0.0   さて。
「プロローグ」という名の「エピローグ」がスタートする。
「血族が入院した」ことに「エピローグ」という表現をするからにはそれなりの事実が潜在していることは明白だろう。しかしながら、死、またはその可能性を知って約2週間の沈黙を持ったのは、決して人並み・月並みな感傷に陥っていたからではない。むしろ、「そうならないじぶん」というものに再検証と確認を行っていた時間だった。世間常識的には考えられない冷静な心境のじぶんが何故今ここにあるか。その答えがはっきりと言葉になって翻ってきた本日より先は、むしろ事実を克明に記録していくことでその証明を立てることになるであろうと思われる。
この際、「乗り越える」などという短絡的な表現は該当しない。「乗り越える」というのは、既に何かに「負けている」状態にあって使用されるものであるからだ。今現在、わたしは負けてはいない。いや、まったくその逆で、じぶんのこれまでの思考とありかたが勝利の結実を迎えようとしている感触すら持っているのだ。
12/02 火 5.0   図書館・Tsutaya・手芸店・伊勢丹・梅小路公園・まつもと
「前向きに」「楽観的に」ということが「強い・素晴らしい」として前面に出ることを人は賞賛するが、ここにはその大前提として、長い時間をかけた底知れぬ葛藤や煩悶が経由されることが条件である。それを経ずしてただ幸福のみを求め、苦難から逃避する方策のみ追うことは、精神性・理性を持って生きる動物である人間としては愚かであり、不可能なことであろう。
わたしのここでの記述は、ともすれば冷酷である。しかし、そのために踏んできたあらゆる思考と行動への誇りをもって、わたしはわたしの正論を前向きに発信する立場でありたい。
家族親族あるいは大切な人が消える・消えるかもしれないという事実は、その形こそ違え、誰にも等しくおとずれる現実である。「かくある状態があたりまえという意識が大部分を占めて生きる」「今が続くことを無意識に願う・流す=忌み嫌うべきものを現実から遠ざける」ことのできた恵まれた人間にとって、突然やってくるこの事実は究極的で耐え難く厳しい。しかしそれとて時間の経過と共に己の現実生活世界からは遠く離れた位置に移って行く。わたしはこのことについて過去数十年、「いまあるものが崩れたらどうなるのだろう」との問題から逃れることなく、常に最悪のケースを想定しては、現実に見えること以上に考え過ぎるくらいに考え思い煩い、それらを我が血肉として人生をつくってきた(生命保険をかけるとかそんなレベルと思われては困る)。言ってみれば超悲観的なものであるが、逆にいえば、そのことがここまでの一生を賭けて自らの「精神性」に対する保険をかけてきたというようなものだろう。つまりは、一般的に「何かが起こってから立ち直る」パターンを、すべて事前に想定覚悟してきたということだ。これまで、ありとあらゆる種々雑多な脳内ケーススタディを経て確立した思考回路を持ってすれば、「病気になった・予後不明」…この事実はまったくもってマトモで幸福なレベルのケースなのである。
多くの人が普通に「悲しい・つらい」と思うことが、実はよりよい「ひとの流れ」と「幸福」であるということに繋がる事実にもなり得ることを理解できる世界に生きる人は少ない。一般常識的な誰に理解されずとも、このようなパラドックスに悩みながら生きるごく少数のひとのためには、わたしの存在とこの記録の意義はあるのだろう。
別ログを立てることにした。
12/03 水 17.0   出町まで
ちょっとしたことで1時間時間をロスした。北大路までが通常コースだが、他にもやることがあるので短縮。
出かける時にカギをかけるという行為は、防犯安全上、無意識のクセになるくらいのものであってちょうど良いのだが、それも事情によってはとんだハプニングになることがあるものだ。ゴミ捨てついでにマンション下までおみおくりするのが日課となっているわたしは、ゴミ以外のものを一切何も持たずに部屋を出る。その人間が戻らなければならない部屋にカギがかかってしまっていたらどうなるか?(-_-;)
近距離にある職場に追いかけて乗り込むのが一番の解決策ではあるが、何しろヌボーとした起き抜けの状態のをさらして、これが「部長の同居人」と思われるのも憚られる…会社を出たところで受け渡しをしてもらうべく連絡しようにも、携帯すら持っていないのだ(>_<)
本日の場合、ご近所の奥さんが通りがかったところを捕まえて携帯を拝借、連絡を取ることで解決したが、無事に部屋に帰った時には、洗濯物がすっかり仕上がっていた。…よかった洗濯物で。これが何かの煮込み料理の火でもつけたままだったら、一大事になるところだった★(ーー;)キヲツケヨウ。
12/04 木 0.0   相模原行き。
【12/2記載本欄を理屈っぽく翻訳すると】
原始仏教における教え、『諸行無常』と『諦観』の体得には順序がある。まずは『諸行無常』を観じ、その後に『諦観・如実知見』があることが正しい。まず『諦観・如実知見』が先に立つというのは、単にお気楽ゴクラクに世の中を流すための行為であって、「あるがまま」を真摯に冷静に受け止める能力が絶対的に不足しているはずだ。
コナゴナグチャグチャハチャメチャのようでいて、いざとなるとすべて理路整然と解釈咀嚼できるここまでのじぶんの人生が怖いくらいだ。
学問、理論そこに登場する言葉たちは、すべてじぶんの経験の「後追い」で付いて回っている。本質や真意がわからぬままにキレイな言葉を乱用する・求めることとはまったく逆のありようが、実は今のじぶんに大きな自信を与えている。
…それにしても…宗教心・信仰心を排除しても、ブッダの教えは素晴らしいものだ。
12/05 金 0.0   またもや相模原行き。JR東海にとっては、ありがたい顧客であろう。
昨日今日の移動距離は、合わせて1000キロ。しかしRUNではないから記録できない。
長い人類の歴史から見れば、『つい最近』まで、こんなことは神ワザである…としか思われなかったようなことにあれこれと囲まれた上でのことが今の自分の背景にはある。神でもなんでもないじぶんがそんな恩恵にあずかりながら現実に向き合えるということに感謝する。
12/06 土 19.6   不安定、危機、そんな喜ばしくない状況にあるからこそ見える真実がある。
しかしそれらをつなぎ合わせていくと、いくつかの「それでも動じない」「死守したい」ものや思いというものが見えてくるのだ。
過去からの声援、現在の状況、それらをつないでできるであろう未来…
どうやら、わたしがどうしてもやりたい・やるべきことは、「そこ」にあるようだ。なにがどうあっても、見せ方を変えながら絶えずくっついてきた「それ」は、実現すること、向かうことを求めるようにこの人生を「仕向けている」のかもしれない。
よしわかった。やりましょう。…マッタクモッテ、ヨソノヒトニハイミフメイノ、ケツイ。
12/07 日 0.0   RUNはないけどお出かけはした。
20年ぶりくらいの『五目そば』。ここが京都だからか、健康志向の反映かはわからないが、記憶している味より数段薄いスープだった。
かつてはあちこちにあった「大衆食堂」。親が何を制御したわけでもないが、いつもわたしが頼んだのは一番値段の安かったラーメンだった。ビンボーがわかっている子供として、それがせめてもの配慮みたいなものだったのだろうと思う。「おいしさ」とは、料理そのものの味はもちろんであるが、「どのような気持ちで食べたか」ということがもっと大きく影響するところがあるように思う。ひごろ絶えず財布を覗いてはため息をつくような母親を前に、その財布から10円でも多く支払わせるようなカツドンや天丼を食べても、きっとおいしくはなかっただろうと思うのである。
そんなわたしでも、唯一、親戚のうちに出かけてごちそうしてもらえるときには、ちょっとグレードアップした「五目そば」を遠慮なく注文させてもらっていた。ラーメンとは違うスープ。カラフルなたくさんの具。見るのも楽しく、たべるのも楽しい、たまに出会える「ごちそう」だったのである。そんな「五目そば」からずいぶん遠ざかっていたものだ。ここ最近、「京都ラーメン探訪」ばかりだったが、それも一回りした感のあるところ、今度は「中華料理店の五目そば」を訪ねるRUNでもはじめてみようか。
12/08 月 0.0   ぶだはっ往復。
移動距離約11キロ。しかしRUNではなく自転車なので記録できない。
最寄の停留所から市バスを使って往復するのが一番便利…と誰もが思うはずだが、実は、自転車カットビ!の手段とバスはトントンな所要時間になるのである。…いや、待ち時間などを含めて考えると早いくらいかもしれない。一般に、時間とお金(費用)は反比例の作用があるものだが、この場合は、時間もお金も一挙両得!それどころか健康的で一石三鳥なお得感なんである♪(~o~)
今日も、「乗ったならこれだった」はずの206番は、ほぼわたしと並行し、最終ゴールはほとんど一緒だった。これも、細々やたらと立ち並ぶ信号機をバスは遵守しなければならないからであり、よほど大きな通りでない限り無視するのがあたりまえになっている京都においては、自転車や徒歩の方が優勢に立つこともあるのである。(ホントはいけないことなんですが!)
12/09 火 0.0   ぶだはっ往復。移動距離約11キロ。
しかしRUNではなく自転車なのでまたもや記録できない。
長いこと徒歩やRUNを移動手段の基本としすぎたわたしにとっては、自動車どころか自転車すらも驚異的なスピード感、すなわち恐怖を感じる物体となっていることを実感した(-_-;)。ぶだは7号館をスタートし、途中何の障害もなく進むと、ほとんど漕がずに千本寺之内あたりまで来てしまう…その間、いかに坂道を勢いよく滑り落ちているかということを改めて考えると、ちょっとゾゾ〜ッとくるものがあるんである★(~_~;)
RUNやバスでは実感できない道路の傾斜。何度も通過しながら違う道のようで新鮮でもある。…しかし、この程度のスピードにビビッているような人間に、原付など使いこなすことは可能なのだろ〜か?(-_-;)
12/10 水 17.0   京都シルバーコース☆
きたきたマスコミ★年金、後期高齢者、通り魔、母子殺人に続き…今度の集中キーワードは『知的障害』か!
5歳女児を殺害した事件の犯人が「知的障害者」であることは既に報道されたところであるが、よりによってこのタイミングで、発生からこれまで「何かにシャットアウトされた」かのように報じられなかった、大阪の歩道橋での幼児投げ落とし事件のことが出てきやがった(ー_ー)!!★ちなみにこれも犯人は「知的障害者」、その判決が懲役5年6ヶ月と確定したというものだ。たまたま判決の日が同時期に一致しただけのことかもしれないが、今までのマスコミ報道のクセを持って考えると、今リアルタイムに騒がれている女児殺害事件がなければ、たとえ判決(いちおうの収束)であろうがなんだろうが、この判決云々のことすらネタとして採用されたかどうか…疑心暗鬼となるのだ。今はまだ2件だが、今後大小問わず共通のキーワードにかかる事件報道があれば、日ごろ見聞する報道が、マスコミの「恣意的」ともいうべき流れに乗ってニュースソースが操作された結果であることが明白になるだろう。わたしたちは、本当に今知るべき情報を幅広く的確に取り入れることができているのか、本当に疑問である。
どんな人間であれ、罪は罪として裁かれるべきが当然。また、どんなことであれ、事実は事実として包み隠さず報道することは当然。問題なのは報じ方で、そこから余計な次元にまで論点を波及させ、「知的障害」に対して生半可な意識を作り出すような雰囲気を作る危険が、最近の報道番組やワイドショーにはあることなのだ。
福祉だやさしさだという名の下に、障害者理解の波は広がってはいるが、肢体不自由や精神障害として明確な様態や症状とは違う、千差万別で複雑極まりなく、一番理解され難いものを持っているのが「知的障害者」の世界だ。事件が元々「知的障害そのもの」とは直接結びつかない面がある可能性もある(今回の場合、特にその要素が強いと感じる。詳細はいずれブログで展開じゃ。)…そのあたりの深い事情と現実を知りもせずに十把ひとからげで短絡的に知的障害を扱うようなコメントが出てきたら、これはただじゃおけねぇぞ!と思ふ。何の問題・テーマでも人間を変えることなくエッラソウなご意見をぶちまけさせる番組たち、今回は何を言わせるつもりか。いつもどおりの吉川だの室井だの出してないで、今回ばかりはわたしを採用してほしいわな。
12/11 木 11.0   ぶだはっ往復。今日はRUNゆえ、堂々記録である!ぬははっヽ(~o~)v
みゆき、32歳説?
市場のおじさんに引き続き、先日酒屋のおじさんにも、「ホンマの歳は言わんほうが得やで、言わへんかったら32・3ってとこにしか見えへんし!」と言われた(*^^)v。K様によれば、それは商売上のお世辞であるとの言であるが、見るからにシャワクチャで疲れている表情の人には言わないだろうなぁと思うと、まぁそれなりにウレシイことではある。ダッテ、オンナノコダモン!(*^。^*)
大学構内でも、多くの現役通学生と接触があるが、なんとなく何か『近い』ものを感じてもらえているようで、気さくに声をかけられたりちょっとした会話が頻繁に成立している。やっぱり、年齢が近く感じるってあたりがポイントなのかな〜?…なんちゃって!実は食堂や清掃のおばちゃんと思われているのかもしれないがっ。
わたしは、じぶんが「42歳」であるということを恥ずかしいとは思わないし、だからこそ見えること・言えることを楽しみ、誇りを持っている。歳をとって衰える部分をムリに維持・回復させようしてまで『いつまでも若い』と主張することが、自分の人生を真に楽しむことにはならないと思う。歳をとった分、衰えた分、獲得できているはずの強さや知恵、ものの考え方をきちんと行使したい。…例えば、「人生」「愛」「人間」「幸福」なんてところをテーマにしてあれこれ語ること…コトバ酔いしてるだけの今の若い連中は生意気に使いまわしているようだが、少なくとも10年前のわたしには、とてもじゃないがそんなコトバを用いて大きく何か語ることが怖かった。しかし、ここまできてやっとそれなりに何かを発信する資格ができつつあるかなという思いが出来上がり、表現できるようになってきた…ようなことである。
その意味で、アンチエイジングだのなんだのという思想をまったく無視し、努力もしていないにも関わらず、「若い」と評されることがあると、予想外のこととして素直に嬉しいと思うのだ。見た目がどうこうなんてレベルの話じゃないよ。「若い=わたしは今をきちんと活きている(生きている、とは違う)」ということができているのかな、と思えるからだ。…その源泉となるひとつが、『RUN』にあることは熟知している。過去の水準、今の水準など関係なく、そしてスピードや距離なんていう相対評価を一切考慮しないところで、『RUNというもの』に関わり続けたいという思いだけは、いつまでも持続させたいところだ。
12/12 金 0.0   おっ
12/13 土 0.0  
12/14 日 0.0  
12/15 月 0.0  
12/16 火 0.0  
12/17 水 0.0   い!
12/18 木 0.0   ずっと
12/19 金 0.0  
12/20 土 0.0  
12/21 日 0.0  
12/22 月 0.0  
12/23 火 0.0  
12/24 水 0.0   てた!(~_~;)
12/25 木 11.0   ぶだはっ往復。学術書7冊背負って…なつかしいスタイルだわ〜ん(~o~)
12/26 金 0.0  
12/27 土 0.0  
12/28 日 0.0  
12/29 月 0.0  
12/30 火 0.0  
12/31 水 0.0  
走行距離 80.6  km