あるくだっしゅ  
地域 : 京都    年齢 : 戸籍上57歳、精神年齢13歳、カラダ年齢34歳(タニタ計測)、体の硬さ75歳
一言 : 
ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*)           ふっふっふ…あるくだっしゅ、またまたまたまた登場しちゃいました〜(*^▽^*) 
月日 距離 内容 タイム メモ
2/01 金 54.3   京都3大聖地コース?+ちょっと比叡山まで…根本中堂の薬師ちゃんに折り入っての所信表明と相談ごとがあったので(~o~;)
《不東》…玄奘僧正の熱意をそのまま拝借しよう。
ワタクシは「京都に来た」のである。
【たといこの身は都大路の灰塵と帰すれども、発願の就実ならざれば決して東方に心向けることなかれ。俗世の薄氷のごとき脆弱な基盤に己心安住を煩悩をもっていたずらに希求することなかれ。故なき罵詈雑言の類に興じる浅き輩にまみれることなかれ。】
…かねてよりの懸念事項、ムショにて沙汰無きを拝聴(ヌゥワァァァンダ、ツマラネェ〜!)してのち、鴨川を出町まで…高野川に渡ったつもりが鴨川の対岸に下りただけのことが北大路橋で判明★アチャ〜、マタヤッチャッタヨ(>_<)、下鴨本通り、修学院・梅宮経由比叡東塔、久々の雪景色RUN。下山は危険回避のためケーブルにてワープ、坂本〜五条。ライライ亭にも寄らずにまっすぐ帰ってきたのはエライ!しかしさすがにおなかがすいたじょ〜(~o~;)
念のためコトワリガキをしておくが、「ムショ」とは「税務署」のことである。五条通には刑務所はナイ。確定申告をすれば総額何十万円もマジメに支払った住民税・国民年金・社会保険料・国民健康保険料・生命保険支払料がちょっとは戻ってくるもんだと思っていたら、まったく対象外だった。フンフン!<`〜´>
【ところで】やっちゃったらしいねぇ、あの歌手。「35歳以上は羊水が腐っている」とかなんとか(ー_ー)!!★「高齢出産」はなにかとリスクの高いことであるというのは事実だが、「そこをなんとか」と辛い努力をしている人も、何かの事情でようやくその年代になって幸せをつかんだひとも多い状況にあって、このふざけたモノイイは公の電波にのせるものじゃないだろう。プロなら、というよりその前に、女性(しかも注目度大)であればそのくらいの見識がもてなくてどうするのだ!★紀子さんだって王子さまは40過ぎにおできになったのだぞ!…「エロカッコイイ」だかなんだか知らないが、度が過ぎた猥褻なパフォーマンスや歌唱でも「売れれば勝ち」と調子に乗っている態度がダイキライだ(怪舎員時代にGALSで行ったカラオケで聞いた曲は、思わず演奏中止を押すほどのひどさだった。あれが発禁にならない現代社会が理解できない)。曲やパフォーマンスは周囲のプロデュースの問題もあることで、本人だけをどうこう言うべきではないだろうが、今回の件はまったくもって本人の意識の低さを露呈した事件だ!これを機に、ぜひブラウン管から消えてほしいものだ…って、今のテレビはブラウン管じゃないか?(~o~;)
2/02 土 19.4   「京都ラーメン革命」を標榜する3店のうち「高安」というところに
とんこつ白湯スープかと思われるスープ、しかしてその実体は「天一コッテリ系」に似た京都ラーメンだった。たしかに「革命的ドッキリラーメン」だ(~o~;)
しかし…ワタクシにはアブラが合わなかったらしい。その後起こった「胃痛」を反省すると、残念ながらリピートする気分にはなれないのであった…(-_-;)
かつて、「食事」ではなく「食餌」であると表現し、徹底した「管理食生活」を送っていたことがあるが、年齢を重ねた今こそ、あのコンセプトに配慮したあり方が必要なのではないかと反省しちゃったりした。
が、その一方で、そうした「管理食生活」をもってして無事にきた30代の数年を過ごした結果の「余生」として、少しじぶんに甘くしてあげちゃってもいいかも!なんて思ったりする。
いずれにしても…ワタクシには「いつかまた必ず食べてやる!」と心に秘めたある「おいしいもの」がある。これに再会実現するまでは、じょうぶな胃袋でありたいと思うのである。アト10ネン、マッテロヨ!
2/03 日 5.0   節分会観光
「壬生狂言」じっくり鑑賞。…こういった「地元のひとのため」という傾向の強いイベントごとは、まだまだ「儲け心丸出し」の場面が少なく、「信仰の行事・地元民の行事」として気持ちよく、かつ懐かしく眺められるものだ。
最近は、「物知り」が何かを語って得意になるか、まったく逆に「配慮も何もなく言いたいことを無神経に垂れ流す」かの両極端な言論行為をして憚らないひとが増加してきたように思う。前者は、「スゴイ」ように見えて実は、ちょっとその気になれば誰でも入手し口にすることのできる「情報伝達」のレベルを脱しない場合が多く、後者は「野放図なただのアホ」でしかない。しかし、これらは共に「じぶんはカッコイイ」と勘違いし、他者をも勘違いさせ、模倣させているのである。ちょっと抜きん出ようかと画策するとそれは「心霊神秘的」なモノイイとなり、余計に始末におえない。
怖いことは、そういった「芯なきことば」「浮遊したことば」の往来の中で、「本当にじぶんが考える本音」が組み立てられなくなることだ。じぶんの中にある確固たる根拠や体験をモトに、誰がなんといおうと自信をもってモノを言っている人間がどれだけいるか。しかしえてしてこのような部類の人は、表現にオリジナリティや厳しさがありすぎ、受容されにくいことが難点でもある。
これまであらゆるところで見聞してきた「ひとの文章」であるが、短期間に釈明反省なく都合よく急転回したり、その他大勢の共通理解するところである「美しいことば」を並べ立て、ことばをもって「連帯・共感」を感じ取ろうとする意識がアリアリと読めるものをたくさん目にしてきた。しかし、そのような傾向が強いものほど、実質的には同じところをグルグル回っているだけの流転の日々を過ごしているに過ぎないことが多いように思う。
「まずことばありき」なのではない。内面的に精一杯動いて感じて考えて、ようやくたどり着いた直感的なものが、既成の言語や概念に該当するかどうかの精査検証があってはじめて、「表に出せる自分の言語表現」というものは力強く成立するものである。ここをわきまえ、忘れることなくありたいと思う。
2/04 月 0.0   おやすみ
RUNは、筋肉や骨、心肺といった直接的な部位にだけ影響するものではないということがよくわかる…
RUNは全身運動…血行がよくなることを基本に考えれば、「調子のいいところ」には良い作用となるのであろうが、傷や炎症をもっているところには「充血もしくは出血」という悪影響を及ぼすのだろう。胃が悪いという、RUNには直接関係なさそうなところでも、走り出すとモワ〜っと熱くなりイタタタ…となる。RUNとは、あまりに原始的かつ簡単なスポーツであるがゆえに軽く考えがちな行為ともなるが、実は全身の健康をもってして初めて快適に達成できるものであろうと思う。肉体的にばかりではない。精神面でも「壊れて」いるときのRUNは、じぶんにも周囲にも良い影響はないことだ。
2/05 火 0.0   おやすみ
先日の「哲学的な夢」があまりに鮮明に残っている…(-_-;)
「やらなくてもいいことをやっている」「考えなくてもいいことを考えている」と認識できる時間があるということは、その分「やらなければならないこと」「考えなければならないこと」を置き去りにしているということになる…もし、「明日死にますよ」と宣告されたとして、それでも今現在のじぶんの行為行動は十分納得できる姿を呈しているか。そんな一瞬一瞬の積み重ねをしなければ、「もっとなにか出来たかもしれない」という、どうしようもない後悔は必ずやってくる。…はっきり言ってここ数日、ワタクシはこの「どうでもいいこと」の方に神経を奪われていたようなフシがある。正確に言えば「どうでもいいこと」というより「どうにもならないこと」について…である。ビジネス社会ではよくあることだが、それがたとえ正しいことであっても、様々な条件や思惑、従来からのルールで「不本意ながらも飲まれておく」ことが結局は「正しい」となることがあるものだ。ただし、そのような「伏せられたこと」がやがて現実に再浮上し、当初考えたとおりの結論を招くこともよくあることだ。ワタクシ自身がさんざん経験してきたこの「不思議な法則」が、いつか必ず成就することを疑わずにいること、そして今はそれを考慮から排除し、真にやるべきことを進めていくだけのことだ。そして10年後は…うまくいったらじぶんへのゴホウビに、AARON BASHAのキーホルダーを買うのだ!(…って、贅沢生活を望んでいるわけではない!今は本質的な部分からちょっと話をそらしておくのだ(~o~;))
2/06 水 11.1   京都三大聖地コース?ワイド版(三条商店街つき)
やってくるか?オバマフィーバー!…大統領選候補のおかげで、あの愛すべき「御食国・若狭小浜」が注目を浴びている!地元では、当選したら訪問されるということが当然のようにウワサされちゃっているらしい(~o~;)アリャリャ…。そうだ!東京や京都ばかりが日本なのではない!イイコトだ☆国内においても、「本当に豊かな日本」というものについて見直される良い機会になるといいが…と思うヽ(~o~)/
@近所のおばちゃんとの会話にて…このあたりのひとは、誰も彼もが「まつもと」を利用しているものと思っていたが、実は1キロほど先の「七条商店街」に足を運ぶひとが多いという(゜o゜)。「かしわなん、マツモトのは唐揚げくらいにか使われへんわ、ミンチ使うてナベしよう思たら、七条行かなエエモン手に入らへん…そのくらいの距離みゆきさんならどうもないやろ、走って行き!」…(ちなみにこちらでは「鶏肉」を「かしわ」、「挽き肉」を「ミンチ」というのが「通常語」らしい。)
Aある宅急便の配達青年との会話にて…1日に、荷物配達受け取りの際、「走って比叡山」の話をちょっとしたのだが、それが彼の営業所で今話題沸騰になっちゃっているらしい…私としては既に「まぁこのくらいは…」なのであるが…もっとも、1日中クルマを使っている感覚からすればなおさら、「ありえへん!」「どんなひとや?」ともなるだろうか。その青年、修学院近くに在住らしく、五条あたりに住んでいる人間が普通なら詳しく知らないはず自分の地域の細かい話を楽しそうに教えてくれたのであった。…特に積極的にアピールしなくても、「京都にアホみたいに走るオンナが現れた!」ということは徐々に広まりつつあるようだ(~_~;)。…嬉しいのは、ただ「スゴイ!」とか「ワカイ!」とかの「一言評価」ではなく、「RUNすることを基本にした・RUNができるからこそ」の生活情報を波及的にどんどん入手できることにある。これぞ「RUN即生活」「生活即RUN」の顕在化した実証であろうと感じるものである。RUNとは本来、「内輪だけで楽しむ」ような価値の小さなものではない、との感を改めて強くするものである。…過去には、不本意な競争や疑念をふっかけられたこともあったが、マジに相手をすることなくきて良かったとつくづく思う。
【ところで】ミスキャンパスだかの女子東大生が、旅先(留学?)のインドで、貧困層のこどものことを「こじきの"くせに"」だのなんだのとブログに書き、これまた謹慎謝罪という騒ぎがあったそうだ。先月「医者」を事例に書いたことにも論旨は通じるが、「才色兼備」を標榜するからこそ注目を集め支持される「公開ブログ」を運営するに当たってこのようなことばを書き投稿ボタンを押す行為とその心境は、もはや月並みな「謝罪・反省」を文章にすればそれでヨシとするようなレベルではないだろう。生まれてこのかたの自己のあり方をすべてひっくり返して反省してもらいたい。…「わたしは美しいのよ」「豊かな国の人間なのよ」「頭がよくて優秀なのよ」ということを、貧しい人々に自慢したくてインドに行ったのか!もしくは、そういう場所に行って「相対的自己評価」を実感したくて行ったのか!少なくともそのような「長年に培われた欺瞞」がない限り、これは出てこない話であると断じて間違いはないだろう。このアホ丸出しのワタクシでさえ、出かけたタイではもう少しイイコトを考えたぞ!(詳細は1996.11某社に提出の出張報告書「所感」の項参照のこと!…って、もうシュレッダー済みかもしれないが。)…本件、言訳・問答無用である!ワタシハ、マジデ、オコッテイル(ー_ー)!!
親から学費をもらってのびのびと高等教育を受けられる、美しい容姿という素質とそれを磨く時間がある、「日本人として」外国に行ってあれこれを見聞するチャンスに恵まれる…その成果を、「自分は優秀な勝ち組だからすべてを手に入れて当然」と帰結させ、「もっともっと」「わたしもわたしも」(もしくは「わたしだけ」)…という、自分の利益と欲望達成の道具にしかできない考え方を持っている若者が増えたのは、彼らが生まれた時代背景(お金第一主義)とその親のあり方が影響したこと、それが「真のやさしさを身につけにくい世代」となったことは間違いのないことだが、「しかたないじゃない」「それが実力社会だ」で済まされては、これからの社会というものは成り立たないだろう。「それができた・できるありがたさ」を受け止め、力にしながら、「望みながらそれが出来なかったひと、出来ないひと、知らないひと」に対していかにそれを生かしていくか。そして全体の水準を上げて発展させていくか…という大きな視野と夢を持ってほしいものである。そのための知識とリーダシップ的な応用力を大学だの大学院で学んだのだろう!責任をもって展開してもらいたいものだ。…特に昨今の花形、「福祉」だの「環境」だのの「やさしさビジネス」に、本来のやさしさも思いやりも存在せず、「自己利益追求」に終始するような人間ばかりが上に立つようになっては、そんなものは最初からなかったほうが良かったものになる。冒頭の女子大生の件はそれらの考察に資する良い事例として、「個人が引っ込めばそれで終わり」という解決で幕を閉じるべきではない、根深い「現代青年の諸問題」を包含していると思われてならないのである。
2/07 木 12.2   セイメイちゃんコース。
神社に着けば「名水」があったのに、その100メートル手前でペットボトルを買う失態!(>_<)アチャ〜★「あそこにはあれがある」という、RUNポイントがいまだしっかり身についていないらしい…トホホ。
「今までの人生の中でイチバン…」というセリフを「生意気だ」とする非難の声が、メダル獲得への賞賛より大きくなってしまった少女がかつていた。世界的レベルの快挙であろうとなんだろうと、人生たかが13・4年で何がわかる!という「おとなの意識」「対するこどものあり方」への「不文律」が、当時はまだしっかり確立していた時代だったのだろう。それが壊れ出したことを象徴的にしたのは、「SPEED」という少女グループの出現であったように思う。「かけがえのないあなたのかけがえのないひとに」「世界中でたったひとりのあなたに出会えた」…等々、小学校を卒業したばかりの「これから」の世代が、老成化したコトバを何なく歌い、それを同じ世代が享受し影響された。それ以前にも、フィンガー5や百恵ちゃんの歌詞がPTAのおばさま方のマユを吊り上げさせたようなことはあったが、今にして思えばこれは単純に「こどもっぽさ・若さ・ひいては青さ」が多分に含まれた直裁的なモノであったと思う。こどもはこどもなりに、「それなりの年齢」を迎えれば起こる恋愛感情や人生観に煩悶するものであろうが、それはまだまだ「発展途上における葛藤」に過ぎないのであって、彼らにとっての「今のスキ」「今の欲望」は、一生かたちを変えることなく継続するものではありえないのである(ほとんどの場合)。例えを示せば、このSPEEDの曲をワタクシが歌ったのは既に30歳を越えたころ。しかしそのとき「歌いながらアタマに思いえがいたヒト」とは、ま〜ったく違う、当時は想像もつかなかったようなK様を現在「スキスキ」なわけだ(#~o~#)キャピピ!…ツマリ…30でもこれだぞ!10代のそれなど推して知るべし!…要は「迷い」「執行猶予つき」の感情なのである。これに対して「かけがえのない」だの「ひとつだけ」なんていう美しく聞こえるコトバをもって結論させてしまったこと・思い込ませることが、「性行動の低年齢化」「できちゃった結婚」「簡単な結婚・離婚」という決して褒められない若者の思想形成に行き着いた一因となったのではないか?と、ユーセンから流れてきた「90's」の曲を聴いて思ったのであった(-_-;)。
それに引き換え、「80's」の方は、スレスレアブナイようなことを言いながら「やっぱりヒミツ」みたいな「神秘性」が隠されていることを是とするものが多い。おばちゃんの懐メロ回顧論といわれればそれでおしまいだが、わたしはこの時期に「少女時代」を過ごせてよかったと思う。…そんなこんなが考察できるユ〜センも、マンション管理会社の都合上、有効期限はあと2ヶ月弱!(>_<。)…懐メロはともかく、J−WAVEのミックスマシ−ン(GLOOVE LINE)が聞けなくなるのは、ワタクシにとってひじょ〜うにイタイ!(T_T)/~~~
2/08 金 0.0   おやすみ。
カラダは休んでも、アタマは全開バリバリ!ヽ(~o~)/キャッホ〜!
→のハミダシ「見出し」…【「ほら、そんなことしたらあのおばちゃんに怒られるでしょ!」という親の叱り方で、良いこと悪いことの判断基準を作られた人間の、迷える「反省」の定義…】
昨日、「例の歌手の例の発言」に対する謝罪会見が、当該放送局のグループ会社限定…どころか「番組限定」で放送されたようだ。つまりは、これから先、どこを見ても「その映像」が再公開されることはないらしい。夕方のあわただしい、よほど気をつけていなければ…といような時間帯に、どれだけのひとがそれを見られたというのだろうか?そんな「やり口」を含め、「本当に反省していない」という非難が再燃してもいたしかたないだろうと思う。コトは要らぬ方向にまで問題提起がおよび、「チェックをしなかった製作者側」「公開しない放送局」など、「マスコミのあり方」「現代のネット社会構造」批判にまで集中している。…この「大展開化」が、「それほどまでに責めなくても」という擁護論にまで発展させてしまっているのだ。日頃、主張する内容に賛同することの多い「カツヤ」の弁にも、今回ばかりは納得がいかない。
本件、「反省すべき」「改善すべき」根源的なポイントはどこにあるか?…究極的に言えば、それは「聞いたヒトを傷つけた」こと自体にも、「世間を騒がせた」ことにもない。ただ唯一、「当該人物」における「女性として、本来持たないはずの無神経な言語表現を公開できる性質とその成り立ち」についてなのである。涙を流し、「軽率でした」などと数日後に本心から言えるような素質が元々備わっているなら、絶対に出てこないことをやったのだ。(だいたい「軽率な行動」などと簡単に表現されるには値しないことなのだ。)「他人に迷惑をかけたこと」「他人を傷つけたこと」を月並みなコトバで詫びれば、それで「罪」が消えたというわけではない。どんなにごまかそうと、あるいは心から反省したつもりであってもダメである。「じぶんの奥深くに根付いた罪」というものに思いを致し、もだえ苦しみ、再起するような経過をたどらなければ、ひとは正しく立ち上がり直せるものではない。これは数日の間にこなせる作業とは違う。その意味で今回の謝罪会見など本人とってはまったく価値のないことなのである。これはこれで済んでも、同じ「罪」を発端とする言動行為は大なり小なりまた再現するだろう。
まだ若い女性であるし、そういう「自己対話」に費やす時間は本来たくさんあるはずだ。しかし、なまじ中途半端なまま「周囲から作られる自分に満足する」あり方を完成させてしまったことがそれを許さないだろう。まことに気の毒なことだと思う。「関わるひとが多いほど、見失い、手に入れることのできないものがある」…一般的に、「家族や友人・仲間は多いほど幸せ」といわれることが果たして本当に真実であるのか?ということにも関わる問題である。畏れ多くもオシャカ様は、このあたりのことを既に2000年の昔に言及され諭されております。詳細は『スッタニパータ』第1章「犀の角」の項参照(ー_ー)!!
2/09 土 7.8   おねぼうバージョン。しかしアーナンダくんおわしますお東さんはキッチリはずさず!v(~o~)v
『大日本人』ならびに題名もわかならいままに観ていた「キモイ映画」で就寝1時(゜o゜)★しかしK様は目がランラン!オトコノコって、こ〜いう血肉ドロドロモノのほうがスキなのね〜ん♪しかし、嫌わずに見通すと、テーマのシッカリした良い映画でした☆
Mという、まだ20代前半の女性がいた。色白で可愛らしい顔立ちをした彼女は、性格も素直で、なにより「なんでもいっしょうけんめい」の態度に、ワタクシはいつも好感を持っていた。ある日、たまたまいっしょになった電車で身の上話を聞くことに。聞けば彼女、不慮の事故による半身不随のハンデイを持っていた。そういわれれば…歩き方も、話し方発音の仕方も少しぎこちない。なおかつ、「記憶力にも少し障害が出てしまった」ということで、人の名前や言われたことが覚えられないことがあるという。驚愕だった。それまで長い間何度も接触がありながら、聞かされるまでわからなかったのだ。彼女は、絶望的な状況から過酷なリハビリに耐え抜き、一会社員として社会に出るチャンスを再び獲得したのだった。きれいに身づくろいし、丁寧なコトバで、いつもやさしく笑顔を絶やさぬこの人から、簡単にそんな事情を見抜ける人はいるだろうか、というくらいの「再起」を達成したのである。もちろん、なにから何まで「一般と同じ」という機能レベルは持っていない。しかし、そんなことを感じさせることなく彼女はいつもいつも笑っていたのだ。
今は亡き大屋政子女史も語っていた。「人間、つらいからいからゆうて、そのたんびヒトサマの前で泣いたりグチこぼしたりしたら、それはただそのまんまや。苦しいかて、笑ろうていくひとが、ホンマに立派なひと、いうことなんや」…たしかに、「いっしょうけんめいのひと」「つよいひと」「前向きなひと」「がんばるひと」ほど、その奥や裏にあるものを感じさせない…そんな出会いが多かった。「頑張れ!」「負けるな!」「しっかり!」というエールを本当に贈られるべきひとこそ実は、その気持ちにさせる様態を呈していないことが多いのである。苦しいと「見える・思える」人を応援すること、愚痴や悪口の同調やフォローができることばかりが「やさしいこと」なのではない。いやむしろ、そんなエールは当の本人を根底から立ち上がらせることを阻むものになることがあるかもしれないのだ。…本当にエールの必要なひとが見える目を持ちたい。その真摯な強さが生きるような世界をつくるために動きたい…そんな気持ちを具体的に実現できる、そしてワタクシに、その一端を担える日がくるだろうか…。
…「鍛えるために何でもやりたいんです。高尾山でもなんでも、連れて行ってください。」という彼女の願いを実現させることは出来ないままになったが、ワタクシがいようといまいと既に高尾を歩く彼女はいるに違いない。そんな見えない努力にこの京都の地より、心からの「ガンバレ」を贈るものである。
ただMよ、医者の指示を無視して通勤に「杖」を使わないことだけは翻意してほしい…あの激しい通勤ラッシュの中では「ふつうに見せる」ことが凶器になることもあるのだ。「ハンディをすべて見せないこと」が「強さ」には通じないこともあるのだ。…ここまでに再生を遂げたあなたにとって、杖はもはやハンディの象徴なのではない。それはこれから先を無事に生きて、生き抜くための「単なる道具」なのだ。雨にさす傘、冬道を歩くブーツと同じこと…あなたの「強さ」がいつまでも強くあり続けるための「支え」なのだから。
2/10 日 18.8   三本足神社コース!
しかし、マックのセットと「名門」のこってりラーメンで、カロリーのプラマイはゼロであろう!(~_~;)
雪が残る道には「サッカニーの靴底」が抜群の能力を発揮する!過去の経験から今日は約10年前に購入のサッカニーを持ち出してRUN。凸凹が全面にシッカリしているフラット底は、ツルリともせず道を踏みしめて快適だった☆ただし、既に路面の乾いたフツウのアスファルトでは、接触面に「あそび」が出てしまい、安定した着地感が得られない。…う〜ん、一長一短アリ、しかし、悪天候にはまたこれを登場させよう!なんて思いながら帰ってきたら、ソール全部がまるまるはがれでベロンベロン、再起不能な状態だった(>_<。)オシャカ…★
…「購入後10年」といっても、富士登山競走、その前の1ヶ月間の慣らし履きを2回、以降は山Runに数回…という程度の使用だった。「必要以上の感情移入で大切に扱い過ぎた」結果、果たしてこのシューズに「本来のしごと」をきちんとさせてあげられたのか?という反省が起こることとなったのである…(-_-;)
「もっている能力」を存分にいかしてこそ、その「モノのいのち」は真に全うされたと言えることになるのだろう。見た目はボロボロであろうと、薄汚れていようと、「あるべき姿」を呈することが、「生きた」「生かされた」ということになる…「ひと」もまたしかり。
それにしても、後生大事に保管されている「7足」の未使用シューズが心配になってきた。これだけあれば10年はイケル!なんて悠長なことをゆ〜てるバヤイではなさそうだ!全部使いまわしでドカドカRUNしなくちゃ〜だわ!(~_~;)
2/11 月 19.9   ウワサの「東龍ラーメン」へ!一乗寺は「京都ラーメン発祥激戦地」といわれているらしいが、だとすると「京都ラーメンのスープは白濁系!」という定義になりそうだ。「ますたに・第一旭こそ京都ラーメンの源流!」と思ってきたわたしには…オッカシイナァ〜??(~_~;)
半そででRUNしてちょうどいい…ってなお天気!天気ばかりではなく、去年の今ごろとは違うテンションである!という感覚☆ヨッシャシャ〜ッo(~o~)O
「みたらし団子」は、下鴨神社に流れる「御手洗川」(書くと、食べ物関連にしてはなんだか…という感じもする漢字だが、これは「ミタラシガワ」と読む)に浮かんだ「水泡のまるいかたち」を団子に見立てて作られたのが始まりとか。全国各地テンデバラバラの呼称をもつ「今川焼き」とは違って、「みたらし団子」は全国統一の見事な「固有名詞」となったようだが、これとてよくよく調べてみれば、「うちのまちの御手洗さんがつくったのがはじまり」とか「タレをたらすからミタラシ!」なんていう面白い「いわれ」が出てくるに違いない!…ふふふ。
「他愛ない雑談のネタ」「学問的追究テーマ」「雑学知識」として、このような異種雑多な「それらしいハナシ」がたくさんあることはとても楽しいが、「人のあり方・そのひととなり」というような問題について、憶測と感覚を主軸にものごとを判断し、しかもそれをあたかも「紛れもない事実」であるかのように組み立て他者に吹聴するようなことはあってはならないことだろう。世の中には、そのようなことを日常的行為として大展開するひと(オバチャンの井戸端会議に顕著に現れる傾向:考えようによってはこれもすごい「生きる知恵」の才能だ。)もいるが、これをまたウノミにして「わが評価」にしてしまうのも嘆かわしく、そして損なことである。
2/12 火 0.0   おやすみ。
今日は新しいガスコンロがくる!…しかしそれがおやすみの理由というわけではない…雨だったのだ。
学問とは、自分のステータスを上げるためのものでも、偉そうに振舞うためのものでもない。本来、「多くのひとのため」に実利的に翻訳展開するものを持てなければ、大成したとはいえない「仕事」なのであろうと思う。極端な事例だが、「軍事」という多くの人がアタマゴナシに批判しがちな分野の研究でさえ、それが応用された結果、ひとの日常生活レベルに利便性や快適性をもたらした成果はあるのだ。(衣服・食料などに多い。特にRUNや登山をする人は知らず知らずのうちにもその恩恵にあずかっているのだ。)
直接はあまり関係のないような人文分野においても、「"ひとのために"帰結する確実性」を追求する姿勢と取り組みは重要なことであろうと思う。「過去の研究実績」の中にあるセオリや定義などに事象を当てはめて解説したところで、それが何の根本的解決になるのか。…特に最近その傾向が顕著なのは「心理学」の分野。学んだ者は「それは○○というものだ」という専門用語までは簡単に口にするが、そんな「わかったような」人に限って自分の周囲にいる直接関係者への現実的応用がきちんと出来ないままに終わる人が多い…あるいは、その「公式」に固執するあまり、「一対一対応」の答えしか起こせない人が多い。「こころに関わる仕事」が日本よりずっと大きく展開されているアメリカにおいても、映画『フライトプラン』においてはこの点を皮肉るストーリーが展開されていたことを思い出す。
最近、「社会福祉士」「臨床心理士」という仕事への人気が高く、これを志す人も多いようだ。もちろん、このような仕事をこなすには「体力」も不可欠なことであり、その意味では「若さ」が重要な要件ともなるのは否定できないが、この緻密に「ひとのこころに入り込む」仕事を、20代そこそこの「これから世代」だけに期待することで良いものかどうか…非常に疑問を感じている。大学での課程修了・試験突破を条件とする制度は、本当に「その素質」があるひとがはじかれていく危険を包含していないか。…「お金になるし」「資格を取れば安定しているし」とハッキリ口にする人の存在もワタクシは知っているし、そこまで行かずとも目の前の車椅子のひとを押しのけて我先にとバスに乗り込むような心持ちのひともたくさん見た。しかし、このような日ごろの言動や心理は、マークシートや通り一遍の記述試験の回答では見抜けないのである。(このことは「あるくだっしゅweb日記」にも書いたことがある…もう見られないけど。)
「お役所仕事」も、本来は「ひとのため」「滅私奉公」がそのあるべき姿であろう。しかし、「またか!」というくらい「自己利益追求」をしてきた事実が次々露呈している。くれぐれも「福祉・心理」の世界は、「ひとのため」が建前でホンネは「自分のため」なんていう人間が集うような仕組みにはなってほしくないものだと思う。
2/13 水 3.5   K様のご命令により、「会社サンダル」を買いに五条ジャスコへ…おっと、地元では「ダイヤモンドシティ」とか「ハナ」とかよばれているらしい…(~_~;)
雪&くもりの繰り返しは理解できる!しかし、雪&晴れとはなんともフシギな…(-_-;)
【ヨロシカッタデスカ関西発祥説!】
短期間、しかもパートアルバイトという立場であったとはいえ、ワタクシは大規模小売店舗での勤務経験を持つ(C,TならびにI)。慣れてしまえば作業自体は単調なレジなどにおいて、対お客さんへのちょっとした職業的優越感をもてるコトバやしぐさがどこからともなく発生し、使用されることやその事情はよくわかっている。釣り札を数枚数えるときに、最後の一枚をプチンとはじいて見せるなど、「うまく出来るっしょ〜?」てな気分で、ワタクシ自身バチバチやっていたことだ(練習までして(~_~;))。しかし、かつてのそれらは、「別にどうということはないこと」「そんなものか」という域を脱していない「楽しみ」であったと思う。
しかし、昨今の「こうした小売業界発」と思しき「あるコトバ」の乱発は、使用方法を間違えている上に、聞き苦しく、なんとか改善されないものかと思われならない…それが、「ヨロシカッタデスカ?」である。同じように流行したものに、「○○円から、お預かりしま〜す。」というものがあったが、これはどうやら「おかしさに気づく→マニュアル化」があったせいかどうか、下火になってきた感がある。しかし、この「ヨロシカッタデスカ?」は、一向に修正の兆しが見えないのである。
「…かった」とは、「…だった」と同様、過去の出来事を示すものである。これに照らせば、ファミレスなどで注文「した」ものを復唱後、「ご注文はラーメンとギョーザでヨロシカッタデスカ?」は許容範囲でもあろう。しかし、目の前にあるサンダルを見て、「Lサイズでヨロシカッタデスカ?」、出したお金を見て「10000円でヨロシカッタデスカ?」、大き目の袋をお願いすれば「こちらでヨロシカッタデスカ?」…って、あんた、この店にどのくらいの種類の袋が用意されているかなんて知らないよ、っての!と言いたくなる。…いちいちに見事4連発をくらってウンザリしたのであった(-_-;)★…「今ここで、お互いが認識しあっている事象」を確認するのに「…かった」の使用は明らかに不適切である。これをあまりにやられると、「あんた、ほんと〜にLサイズでいいんだねぇ?」「ホントにいいんだねぇ?」と、この商品を選んで精算に来たお客さんに対して、過去に遡る考察行為の全行程を反省させられるような「疑念と強圧的な態度」を投げられているように感じるのだ。これを不快に思う感覚の持ち主がすなわち、「ヨロシカッタデスカ?」に違和感を持つのだろうと思うのである。「みゆきさん、41歳でよろしいですか?」と聞かれれば「はい」と脳みそは即答できるが、「みゆきさん、41歳でヨロシカッタデスカ?」と聞かれると「う〜ん、昭和41年生まれだから昭和の終わりで23歳、平成は今20年だから20たして…あれ、でも昭和64年と平成元年はいっしょだから…う〜ん…」と、計算と確認を要求する「強さ」が介在するコトバになる。コトバにはそんな「感性的力学」ともいうべき「パワー」を与える効果があることを忘れてはならない。
今や、全国に蔓延中の、この「業界発のヘンなことばづかい」。これが起こり始めたのは、今から8〜9年前、しかも「関西圏大規模小売業」からのことではないかとワタクシは仮説している。ちょうど「京都たびびと」をはじめた頃のことに一致する。当時、京都の駅地下がワタクシのメインのお買い物場所だったのだが、「ヨロシカッタデスカ?」の連発を聞いたのはまさにここが初めてのことで、当初は「これが関西弁のひとつか、オモシロイ!」と感じているくらいだったからだ。その当時、東京近辺ではこれはなかった。真相やいかに?個人的には非常に興味があるテーマである。
…だからとって、関西がどうこうということではない。もはや、実生活上ではそんなことを問うレベルではないのだ。テレビ、電車バス等の公共施設同様、今や誰もが利用する「デパート・スーパー」などの言語活動や立ち居振る舞いは、幅広く人々に影響を及ぼすものであることは間違いのないことだ。「ことばは生き物」…少しずつかたちや意味を変えるものであるということを否定するわけではないが、「時制」を表す日本語の根幹的な部分にまでそれが及んでいること、ひいては、通常の会話とその共通認識が成立しなくなることまで看過されてよいものかどうか。「流行」「なんかかっこよさゲ」「丁寧チック」を排して、もう少し微細な研究と展開がほしいところだと思う。
2/14 木 10.3   K様的京都3大聖地コース
終始快調。毎日同じようにやっていることは、「微細な体調のよしあし」の起伏を確認できておもしろい。波があるのは「人間」の証拠。ロボットではないのだからト〜ゼンのことだろう…☆ヨシヨシ(~o~)
京都には大路小路が多い…っていう書き出しは既に何回かしているが、このことは同時に、それだけ「交差点や信号が多い」ことを意味する。信号がないとしても、曲がり角の多さは国内においてもピカイチなレベルだろう。このような場所をRUNすることは、川沿いをスイスイ走るのとは違うストレス(緊張感)を感じることがよくわかる毎日だが、慣れていくしかないだろう…(~_~;)。RUNに限らず、この京都道路事情によって、信号などここに暮らす人々にとっては「あってないようなモノ」の扱いをされることが多い。要は「信号無視」である。お隣の大阪でも同じような現象があるらしいが、その「根拠」の性質は違うところにあるだろうと思われる。…厳重に判定されればこれも道交法違反になるらしいが、可視範囲だけで7〜8は信号があるような風景を前にすると、そんな人々の傾向も「しかたないことか…」と思ってしまったりもする。クルマのイライラしたクラクションの頻発もまた、こんなストレスが蓄積した結果つくられた「京都人の意外な習性」なのかもしれない(イチイチパフパフされて腹立つけど)。
そんなマクロなレベルで既に日々のイライラをつのらせているに違いない京都人に、最近さらに新たなる「邪魔モノ」が現れた…それが「おこちゃま」である。先日のこと…なぜか歩道がつまって先に進めない。行こうとする人向かってくるひとが一箇所にダンゴになってしまっている。?と思って視線を前方に送れば、「ハイハイ、ブッブーでちゅよぉ〜」とかなんとかいいながら、おもちゃグルマに乗せたこどもをモタモタ遊ばせながら歩いているおばあちゃん&ママがいたのだ。「なにさせとんのや!」と、ハッキリ文句を言ってるオッチャンもいた。もっともなことである。公共のものとはいえ「歩道は歩道」であり、遊び場ではない。「かわいい孫(こども)」のことしかアタマにない、きわめて配慮を欠いた非常識な行動である(ー_ー)!!…ということに気がついていない「おとな」と、それに育てられている「こども」の行く末が、ともに恐ろしく感じる光景であった。
同じようなものに、最近よく見られる「スーパーの子供用買い物カート」の存在がある。ようやく歩けたかというような子供あたりを対象にしたサイズのものをわざわざ用意し、使わせている。不特定多数の「おとな」の買い物客を主要ターゲットにしているはずの場所で、「かわいいこども」の姿を見せる&見ることが誰にとっても「付加サービス・癒し効果」になるとでも思っているのだろうか。勘違いも甚だしい。背の低い不安定なモノがひざ下付近を気ままにウロウロすることの危険を不快に思っているひとは多いのではないだろうか。これまた、「スーパーは買い物の場所」であり、「買い物ごっこ」の場所ではないのである。こどもには、おとなの暮らす・生きる世界があるということ、今の自分にはそれに手が届かないものであるということ、そしてそこになんとか届こうと努力させる「差」を与えることの方が、その成長には大切であると思う。おとなのやり方と同じように達成したところで、それは「マネゴト・疑似体験」に過ぎないのだ。保育園でやるような「おみせやさんごっこ」でしかないのである。
この少子化の時代ゆえか、世間はなにかと「こども」を丁寧に扱い過ぎる傾向があると感じる。殊にビジネスで「こども」を扱う場合、「ジジババ2組&パパママ」のサイフを当て込む「シックスポケット・ターゲット」にコビを売る風潮も顕著である。要らぬお世辞を使い、「こどもとその保護者中心のサービス」を展開し、どうやって儲けようかを画策する。こどもは「貴重」な存在ではあるが、「貴重品」ではない。いつでもどこでも「ヨシヨシ」だけで関わっていたのでは、せっかくの「貴重」を「クズ」にしてしまう。おもちゃや飾りでこどもを喜ばせている一方で、もっと基本的な設備への無配慮がこどもを死亡させるような事故が起こる矛盾。サービスとはなにか、快適な買い物環境とはどういうものか、ひいては「こどもの成長に最も良い環境」とはどういう展開をするべきか…彼らが今、一番見失っているのは【原点】であろうと思う。
2/15 金 0.0   おやすみ
妙に明確な意識と風景を感じる夢を見た。ワタクシが決定的な啖呵を切ろうとした瞬間、K様の起こす声が聞こえ…ううっ、不完全燃焼★(-_-;)…ぜひ続きが見たいものだと、RUN休してまで二度寝したが、願いかなわず…(>_<)
「うた」というのは、それが流行した時期に自分がどういう生活をしていたか、何を考えていたかをアリアリと思い起こすことの出来る効果があるものである。ワタクシにとっては「80's」が中高時代、「90's」が社会人になって以降…というのが大まかに見た分類になるのだが、うたを「BGM」に過去を甦らせると、そのときの光景にある人が言ったこと、ネクタイやスカートの色模様まで思い出すことができるのが不思議なところだ…って、これはワタクシの「おかしなところに優れた記憶力(勉強に生かされてれば今頃東大卒か?てなくらいクドい覚え方)」がなせる業なのかもしれないが…(~_~;)「レミオロメン:粉雪」「タツロー:SONORITE(アルバム)」あたりは、当時の1秒毎のあれこれを再現できるくらい執念深い記憶が残っているぞ!都合よく改変しようとしてもムダだぞ!…オットット、ツマラネ〜コトヲ、イッチマッタイ!(~_~;)
…といいつつ、かなりヒットしてTV出演なども多かったはずの歌手のうたなどにも、改めて聞くといまさら「えぇっ!」というような内容に驚くこともある。そんなひとつが昨日ゆ〜せんを聞いていて現れた。「ハダカの大将」みたいなのが太鼓をたたいていたバンドだったように記憶しているが、風貌のインパクトが強すぎて歌詞をきちんと聴いていなかったらしい。それを「耳だけ」でじっくり聞く機会を得てのオドロキだったのである。歌詞から想起される風景はまことにしゅ〜るなものであり、つまるところこれは人類滅亡のことを歌っているのだと気がついたのである。飄々と淡々と「それをしかたのないこととして受け入れている」ようなコワ〜イうただったのだ!(゜o゜;)ヒョエ〜★なぜか「聞かず嫌い」を起こしていたために、彼らのうたに込められた賢さや慈愛のテーマを見ることなく現在に至っていたのであった…。
「いつ」「どんな環境で」「どのような条件で」それを捉えるかによって、ひとつのものごとはその評価をかえるものであるということをつくづく実感した出来事であった…そしてまたこれは、「うた」に限らず「人間関係」そのものにおいてもまたしかり。相手がどのような人間であろうと、自分の利害関係(条件)が一致しているか否かによって「いいひと」「いやなひと」が決まるものであるということは、その事例を自他関わらず散見するところである(なるべく、そんな「都合のいい人間」にはなりたくないものだと思うが…)。…ちなみにこれを大乗仏教的に深追いしていくと、中期大乗のアサンガ・バスバンドゥ(無着・世親)日本では薬師寺に代表されるところの「唯識哲学」という理論にいたることになる。原始仏教の次にワタクシの興味を引っ張るジャンルだ。
…ワタクシ愛用の「MP3」には、既に録音して2年以上経過した250曲近くのうたが入っている。ふつうに買い物に行くときなどにもたまに聞くのだが、流れてくる曲を聴くと、それはすべて「RUNをするじぶんの姿」に繋がってくる。実際にRUNしながら聞くときは、それをリアルタイムで聞いた当時のあれこれを思い出す。そして、曲の詞そのものよりそこにあった「じぶん」のことを考えること自体を力に変えていることに気づくことも多かった。…その意味で、ここに入っている曲たちは、ワタクシにとっての過去の日々をあれこれ彩る「かたちをかえることのない」素晴らしきBGMなのだろうと思う。「RUNのお供」としてはふさわしくないようなテンポや内容のものばかりなのだが…(~o~;)
2/16 土 11.5   桂川イマイチコース☆(~_~;)
昨日「うた」について書いたとたん、タイミングよく夜の番組で「なつかしのフォーク歌手」がたくさん歌っていた…これまた「K様の青春時代」にドンピシャ!だったらしく、いつもは途中でゴーゴー寝るはずのK様が「完全視聴」を遂げられたのであった…(゜o゜)ヨホド、ナツカシカッタノネ〜ン♪
はてさて、そのときK様のむねに去来していたものは?…「オンナノコ」が何人登場したのであろ〜か?o(-_-;)O"
【「サンジャヤのウナギ問答」よ、再び☆】
東京足立の中学で始まった「放課後塾」の話題について、コメンテーターのおばさんが「成績優秀でなおかつ1万ナンボ支払いが出来るこどもしか受けられないなんて、それができない子はどうする!ぜったいぜったい絶対オカシイ!」と息巻いていた。「公立学校の施設」でそれが展開されるということも、議論のポイントになっていることらしい。しかし…「ぜったい」とまくし立てるほど激しく否定されるような「施策」であろうかという見方もあるのではないか?というのが、これに関するワタクシの意見だ。少なくともこれは、より高額になっているはずの予備校の学費が出せない環境に置かれている「あと少しなにかがほしい」学生には道を拓いたことではないのか。「全体の水準を上げることのほうが大切だ」といいながら長いことその具現化が図れないままでいる最中に困っている学生の「暫定的救済策」としては評価されるべきではないのか。さらにはそのオバサン、「それでもそこに手が届かない子はいつまでも負け組のまま追いかけることしかできない!」と怒っていたが、実はこれこそ「成績優秀、一流学校、ひいては社会的ステータスを得ることが人間の勝利」という固定観念が底流にあっての発言であることを反省すべきであろう。きれいごとではなく、「学歴が、お金が」というのは人間を評価する「一側面」でしかないのであり、必要なこと・大切なことは他にもゴマンとある。今ここで、予備校に入れる入れないくらいの差など、その気になれば長い一生の間に挽回できるチャンスはいくらでもあるのだ。…そんなところが、長い時間を生きたおとなの持つべき「人生論の基本」でなくてどうするのか、とも思う。負けたとき・選ばれなかったとき・不本意なことがあったとき、そこに必要な強さや、知恵の働かせ方、持っている希望を自分なりにアレンジしながら保ち続ける持久力を育成奨励できるようなコメント力がほしいものだ。…と、たとえ1万円でもそこに行けなかったはずのワタクシは強く思うものである。(行けないどころか、廃品回収の山から参考書をカッパラッって使ったくらいだ。ヒョエ〜、コレッテイマナラ"セットウザイ"?…ジコウジコウ!(~_~;))
行政や法規といった、人間生活における「後天的なルール」はそれを幅広く世間に応用させようとするときに、「メリット・デメリット」が必ず同時に発生する。「否定」することがウケル秘訣・主流となっている昨今のマスコミ環境にあって、コメンテーターはギャーギャーワイワイと「デメリット」ばかりを興奮してまくし立てるが、公共の電波に乗せる見解である以上もう少し賢くなって「これもあり、あれもあり」の視座を持ち、視聴者に「考える猶予と自由、その情報源」としての役割を目指してもらえないものだろうか。何かのきっかけで「有名人」となったような(明らかに学習不足な人もいる)ひとがあらゆる件に関して許される「個人的意見」をただ流すままでいいなら、一般市民を当番制にしてギャラを払ったほうがコストが安くつくぞ…程度のことしか言ってないことも多いのである。
オシャカ様より前に古代インドにて活躍していた哲学者、後に「六師外道」と呼ばれたひとりに、「サンジャヤ」という懐疑論者がいた。このおじさん、誰が何を聞いても「それは、あるといえばある、ないといえばない。」という回答を繰り返し、「これが正解だ!」という見解を示さなかった…これは、「ウナギ問答」として知られている。やがてこれが「それじゃど〜にもならんじゃろ!」とオシャカ様に喝破されることになるのだが、「自ら答えを求めよ」という姿勢を示したという意味では非常に素晴らしい師としての態度であったと評価することも出来る。今TVで適当なコメントをしている人には、少々学んでいただく面があるのではという「歴史上の人物とその思想」でもある。
…話はぜんぜん変わるが、おそらく関東よりも採り上げられることの多いはずの「ハシモト知事」、インタビューに対して必要以上に「熱くなりすぎている」ことが気にかかる。それが事実であっても、「寝ないでやっている」「どうしようもないくらい頑張っている」と、仕事をはじめたばかりでテンパッテいる状態をさらけ出すような激しさは損をしているように思えてならない。これが30代の「若さ」か…思えば、ワタクシもそのくらいのときにはある程度の経験を元にますます「始末に負えないパワー」を放っていた(~o~;)。この勢いがカラダを壊したり、「傍らにあるもの」「視界にないもの」を見損なうことに繋がらないといいが…と思う。キヲツケテネ〜!o(~o~)O
2/17 日 26.2   嵐山+桂川イマイチ・イマニダブルコース(~_~;)
「極悪人」を成敗する夢を見た。実在の人物が「まったくビンゴ」な配役で登場してくれたおかげでヒャハハ〜♪な映像であった(~o~)オメザメ、ヨシ!…ちなみに、そのラストは、昨日スーパーからもらい損なった「牛脂」が、実は冷蔵庫に入っていた!という、昨日の買い物ミスをフォローするかのような内容。サラダ油ではじめたスキヤキが、かなり気になっていたらしい…超スケールの一大サスペンスアクションだったり、おうちの小さなネタだったり…夢とゆ〜のはつかみどころがなくておもしろいものだ(~_~;)
過酷な気候の高山地帯を、リヤカーを引っ張って歩き通す「冒険家」とゆ〜ひとの映像がTVで流れていた。ナレーションは、「たった一人で」と幾度も繰り返しムードを盛り上げていたが、いざとなればフォロー可能な取材陣がベッタリ張り付き、頭から足まで新品(最初は、しかしロゴだけは薄汚れて後もしっかり見えていた)のアシックスで身をまとい…のどこが「たったひとり」なのだろう?と思ったりした。何事も、まったくなにもかも「ひとりきりでやれる」ことはこの世に存在しない(今の世の中、ホントにそれをやったら丸ハダカ野宿生活になる)。しかし、この冒険者の「ひとり」は、ふつう以上の「誰か」が介在しているからこそ成し遂げた姿を見せているのであり、厳密に言えば「たったひとり」を繰り返されるような状況にないことは間違いないという証拠を、映像のあちこちにポロポロこぼしていた。少なくとも、ワタクシの定義するところの「孤独の挑戦」「孤独の恐怖」「孤独の涙」「孤独の喜び」を感じ取り、共感するところはまったくなかった。(だいたい、山に入るならそれはありえねぇだろ〜という装備もあったのはヤラセかマジか?)…なんだか、以前嘉門にパロられた「川口浩探検隊」のようだ…。
…誰も頼んだわけではない、そうしなければ生きていけないわけでもない、まだ幼い子供をもつ「親」としては自身の健康も含め「守らなければならない」ものは多くあるはずの中で、敢えて選んだ「冒険」をしているに過ぎない、という前提をもってやっていることなのに、道中「なんでこんなことをやっているんだろう」とまで愚痴り、しょっちゅう泣くような姿を見せるのはヨロシイことではないだろうと思う。極言すれば「好きなことをやりたいようにやっている」のであるから、それは「嬉々とした表情、困難もまた楽しい」という、夢を実現している喜びや強さ、余裕にあふれていなければならないだろうとワタクシには思えるのである。TVは「苦難を乗り越えて」ということを効果的に演出するためにあえてこれを公開しているのかもしれないが、ワタクシには逆効果に思えてならないシーンであった。
【総じて感じたこと】は、「真にスゴイ」のは、この冒険をしたヒトそのものにあるのではなく、彼の姿が「象徴」するようなあり方・生き方を、「今現実」のこの社会で歩き続けている「なんでもないひとびと」のほうであろうということである。そんなことを逆説的に感じ取ることができたという意味で、非常によい番組であった。(行程の自然の風景もまた、貴重な映像であったが(~o~))…自分を押し殺して上司にアタマを下げて働く父さん、子供を抱えて必死にパートづとめしながら家計をやりくりする主婦、病気やハンディと闘うひとびと…有名無名など関係なく、勝ち負けなど対象外にコツコツと、しかし真剣に「今あることに」向かって前向きに生きるヒトこそ、真の冒険者であり、勇者であり、賞賛されるべきひとなのであろうということである。必要なのは人から与えられる「ドラマ」ではない。自分が自身の中に感じ取る「ドラマ」を作り上げるような人生を歩めるかどうか、なのである。…昨日決定した京都市の新市長の行政も、そんな「表に見えない・地道」なひとの歩く道に、ひとつの「路傍の灯り」をともすようなものであってほしいが、と期待している。
2/18 月 3.0   雪のためおやすみ!しかし本日K様ご出張&遅帰りなのでムフフ…と思ったが、オベンキョ〜することにしたのであった(~o~)
K様ご命令による「図書館本借り出しにつき、ちょっとだけRUN(~o~)モウケ〜♪
「イチ・ニ・サン・シ、組み合わせ〜♪」というニトリの机の宣伝は、関東でやっているのかどうか…そろそろ始まるご入学シーズンを狙ってさかんにCMが流れているが、この数ヶ月ワタクシのアタマにこびりついて離れない音楽である(~_~;)。…最近は合理的というか賢くなったというか、「ピンポンパンデスク」「キキ&ララデスク」など、キャラモノのデザインが施されたスチール学習机がすっかり姿を消しているようだ。たしかに…ほとんどのこどもが12年以上は「じぶんの場所」にするスペースに、いつまでも「ウルトラマン」や「キティちゃん」でもないだろう(~_~;)。しかしワタクシたちの世代にはそのような「キャラモノデスク」は当然のようにジジババやパパママから与えられることの多かったもの。どこの友達のうちに行っても楽しそうなイラストや装飾のついた机をみることはとてもうらやましいことであった。ちなみにうちの場合は、どこぞからもらってきたシブイボロ机だった。
そんなこんなで、今でもチョイチョイ「勉強もどき」なことをしているワタクシにとって、「じぶんの、じぶんによる、じぶんだけの机」というのは憧れのモノである。いつかエライ学者サマかなにかになって、「教授、研究室の備品はどういたしましょうか?」と助手に尋ねられたならば、まずはイチバンに迷わず「ニトリの机!」と指名することであろう。それまで在庫確保しといてくれよ〜ん☆ヽ(~o~)/ムリ?
2/19 火 10.3   K様的京都3大聖地コース
カレーには、必ず「カツをのせる!」ルールがあったK様、「これからカツはいらないよ」宣言(゜o゜)★そうそう、それでいいのよ〜ん。ソロソロ、アブラヒカエメ、ノ、オトシゴロ♪d(~o~)b
この1年、K様の日々をじっくり観察してきたことになるのだが、その健康状態や精神的な抑揚などが、去年の今頃と同じようなパターンで再現されていると感じるシーンに頻繁に出会う。「人間」といってもしょせんは自然の流れのなかの生物のひとつ。自然環境などに左右される所作も多いのであろう。かくいうわたしも「激変の昨年」を越えて落ち着いてみると、それ以前に過ごした「2月」のコンディションを行動のあちこちに再現していることに気づくことがある。例年この時期は、「改めて何かを再出発させるスタート地点」にあった。具体的に言えば、かつてのそれは「富士登山競走」に向けてのものであった。現在、その目標は既になくなっていても、長年パターン化したリズムは「何かを始めること」に向けてパワーを充填させているような身体感覚を持っている。筋力は脳力に変換できるのか?ぜひできて欲しい。…たまたま図書館で借りてきた学問書が、既に絶版入手不可能なものであることが判明した。返却期限まであと3日。要点部分の抜書き作業を開始する。RUNと同様、過去に何回も経験のある、「筋肉痛までおこすような」長時間耐久ウルトラ書き取りレースの開始だ!o(>_<;)oぜひ完走したいものだ。
…といったそばから、アタマのもう一方では「新しい小説ちっくなストーリー」が泳ぎ始めた…あと3日は、記憶保存のまま消えないでいてちょ〜!なんである。(~_~;)
【ところで】何かの審議会があったから…ということらしいが、昨日からいきなり「近畿大地震」の話題が流れ始めている。大暴れを待っているのは「花脊」という場所にある断層、これが動くと京都市内は全域「震度6」の被害があるそうだ(>_<)。1200年以上ビクともしなかったはずの清水寺も法隆寺も、二条城も金閣寺も崩壊の危機とな!(゜o゜;)…「観光黒字都市」から観光スポットがなくなったらどうなるんだろう?怖いことだ…かつて、富士山大爆発の危機をマジで心配していたワタクシであったが、500キロ離れたこの京都にきてその緊張からは開放されたものと思っていた。しかし、開放どころか富士山よりもっと近い(走っていけるような距離)に、震源を抱えるような土地に住んでいようとは!(゜o゜;)ヒョエ〜!である。…「地震大国ニッポン」、どこにいても心の準備は必要なようだ…ペットボトル、たくさん買っておこ!「ハシレルゲンキ」モ、モチロンビチク!(~o~;)
2/20 水 0.0   おやすみ。K様昨夜は「ホームページビルダー」とかいうのをインストールしてあれこれPC操作に興奮モードで明け暮れる!
いつもより遅めのご就寝が影響してか、今日は6時になっても「グォ〜グォ〜」だったのだ!
実は先日、鯛を一尾さばいたときに切ってしまった指のフシが化膿してイテテテ…なんである。わずか数ミリの切り傷が、ふとしたモノに当たってウギャギャ!となる。普段気にもしないわずかな部分のはずが、全体の動作のあれこれに神経を使うポイントになってしまうのだ。
全身バランスの取れた健康状態というのは、とても大切なことだ(-_-;)
【アホか!】ある声優さんが、自身が紹介された雑誌をブログ上で紹介するのに、その発売号の表記を誤ったらしい。これを、「買った人がかわいそう」とコメントされたとたん数時間後に早々閉鎖、しかもこの指摘のコメントを入れた人間は追い討ちをかけるように「メールをくれれば、あなたの文章を矯正する指導をする」とかなんとか言い放ったらしい。
後の校正や読者の指摘により「正誤表」が発行されることは、どんな高額で権威のある学問書にもあることだ。今回の「アヤマリ」は、ウッカリ単純な「思い違いによる数字の間違い」くらいのことだろう。それを指摘されたくらいで「閉鎖」までするのもどうかと思うが、「矯正」というコトバまで使ってエッラソウに指導者ぶるってのもおかしな話だ。世の中には、おかしな人がいるもんだと思う。こういう人にかかると、先の「軽率発言」の数々など、怒りバクハツで卒倒しちゃうようなものになるんだろうなぁ。タイヘンダ。…しかし、これこそがホントの「重箱のスミツツキ」ひいては「イジメ」っていうことになるんだろうなぁと思う。つまらない。
…今日は、朝RUNナシだったけど、いい天気♪ちょいと東山あたりにrunrun?とたくらんだが、「学生の本分は…」というK様のご意見により翻意。今日もたくましく学問しようo(~o~)O…イイコンディションが整うと、すぐ「RUN」に心が動く「みゆき」には、K様の「矯正」は必要らしい…(~o~;)
2/21 木 17.8   京都3大聖地コース?+鴨川方面ちょっと
お東さん近く、1000年の歴史を誇るという仏教書店「法蔵館」にて、心境的タイムスリップ。…いつしか「我がスタンス」をやや捻じ曲げようと画策している自分に気づく。そうだ!今こそCHANGE MY MIND!(ー_ー)!!ヤルド!
お米とぎの水は、1回に約3リットル弱使用している…ということを、焼酎の空きペットボトルに入れてお花の水遣りに使っているワタクシは知っている。「使えば資源、捨てればゴミ」とはよく言われるが、お米のトギ水の場合、「ただの流用」どころか、そこに含まれている「ヌカ」がお花には栄養タップリンのおいしい水に変貌していることになるのだ。なんという一石二鳥♪o(~o~)O「もったいないのココロ」が意識せずとも作られてきたビンボー生活をありがたく思う。念のためゆ〜ておくが、ワタクシはスグに「お金・値段」を会話に持ち出すようなケチではない。ちなみに「お米」が水を吸い始めるのは研ぎ始めて「1分35秒後」からだと聞いたことがある。ペットボトルに水を入れる作業は、ただザザッと流すよりは時間がかかるものだ。「節約」が嵩じてお米の味を損なわないようにしなければ。これまたお米サマに申し訳がないところだ。「すべてのいのちを精一杯生かす」あり方、これが仏教において大切と諭されているところであります。…「一切衆生悉有仏性」は、この意味において正しい見解となるのだ。…って、またブッキョ〜ネタになっちゃったい!
【ところで】房総野島崎沖で遭難した親子がまだ見つからない。まちの人々が海に向かって祈る姿、家族が現場近くの海上で泣いている姿は正視に堪えない辛いものがある。かつて房総RUNを含め、幾度となく訪れたあの場所と出会ったひとの記憶が、「ヒトゴト」でない感情的なものをワタクシに与えている。…(あくまで映像上の話だが)、彼らのこんな必死な「いのちへの思い」に対して、当該防衛省の面々の冷酷に見えるほどの事務的な無表情の態度はなんだろうと思う。同じように動揺せよ、というのではない。万全の救助が出来なかったことを責めるのでもない。ただ、せめて「起こったこと」に対しては正直に、誠実な姿勢を持ってほしいのだ。「補償しろとかそんなことは言わねぇ、早く兄弟と甥っ子を返してくれと言ってるだけだ!」…この、究極のタマシイの叫びが、彼らには伝わらないのだろうか。「たかがふたり」という軽視がそこにないか?学校を辞めてまで海の世界に入った清清しい青年のいのちは、ひとつであってひとつ以上の存在があるように感じている。どうして、そんなやさしいたくましい精神の若者がこんな目に遭うのだろう?板切れでもなんでもいい、しがみついてでも生きていてほしい。
2/22 金 15.6   京都3大聖地コース?+高辻御幸通上ルにちょっと。
カラダもアタマも絶好調!3年前に一度行って、また是非!と思い続けていた「学校博物館」へ足を延ばす(~o~)。なんだかんだと土地勘も出来てきたようで、展示物がリアルに見えるのは楽しかった。
今にして思えば、「新生活順応」にメイイッパイだったらしい1年を越えて、再び「かつて見た・感じた京都」のリズムと探究心がよみがえってきたらしい(*^^)v
「100%ではいけない」「一歩でなく、半歩先に行くくらいでよい」…怪舎員時代のわが師匠から与えられた訓示であるが、これはビジネスだけでなくRUNにおいてもまた同じ。120%も力を出し切ればトラブル間違いなしであるし、一歩を少し控えめにするところでより長く、より周りがよくみえることになるのだろう。「観光ガイド」にも大きく載っていないような、道を歩いていても小さな看板が目に入らなければ訪れる機会を得ることがなかっただろうというような施設が、今になって「多くのひとの語らぬ京都」の知識を深めてくれる。ありがたいことだ。この師匠の訓示…ひいては人生全般における教訓のようでもある。「120%」「一歩先」を理解してくれるひとに出会うことは難しいが、そんな「経過」をわかってもらうために右往左往する時間はムダだ。おかしな「わき目」をふらずにいこう…今に見ておれ。…ト、ジブンヲハゲマスタメニ、ヤヤツヨキハツゲン(-_-;)
【教訓・毒矢の喩】
ブッダ(お釈迦サマ)の弟子、マールンクヤとゆ〜のが、ちょっと理屈っぽいって言うかバリバリの哲学者で、「この世に終わりはあるか」「魂は不滅か」という、誰も科学的証明を出来ないような形而上学的な質問をバシバシとブッタに投げかけた。これに対し、ブッダが答えたのが【毒矢の喩】として有名な説話である。いわく、「今ここに、毒矢に打たれて苦しんでいる人がいる。人々は、この矢を抜いてやろうとするが、打たれた張本人が『この矢はどこからどのように放たれたのか』わからないうちは抜いてはならぬと巌として応じない。やがて、毒は体内をめぐり死んでしまった」というものである。
すなわち、重要なのは「今ここにある事態状況をどうするか」ということが一番に考えられ、講じられるべきことであり、それを取りまく環境理由はそのあとになる、当該緊急事態における「理屈」は後回しだということだ。この説話は、「いのちとはなにか」「人生とは何か」などと理論を求めるより「生きている現実そのものについて考察する」という仏教の根源的な教えに帰結する内容を語っているのだが。
…今TVをにぎわしている漁船事故についての「政治的見解」を述べる方々と、それを「今はそれどころじゃないだろう」と一蹴したヤスオちゃんのやりとりに、この説話がどこか似ているような気がするのはワタクシだけか?今は、何党が何省がという責任論を展開するには、それこそ「何歩も出すぎ」な行為であろう。ひとのいのちの危機が解決もしていない問題を、なんでもかんでも自分のポリシーの展開に「利用」するようなやり方でしか動けないのはいかがなものか?これは政治政党がどうこうのハナシではなく、「こういうとき、ひととして何をすべきか・どうあるべきか」ということを基本にしているもので、べつにヤスオちゃんLOVE☆とか、ハトポッポキライ!とかゆ〜てるわけではありません(-_-;)。
2/23 土 24.6   夜鳴きやラーメン探訪のたび
こりゃ傑作!なラーメンでございました。
蹴上の坂道は、「希望の道」。京都行きの深夜バスは、山科で最初の降車客を降ろすので、実質ここまでが安眠タイムだった。まだほの暗い景色の中のバスが、蹴上を越えるころいつも、「また来たよ、京都!」という気持ちにさせたものだ。今、「寝てもさめても京都」な日々の中で、あの頃「ここにずっといられればできるのに」と思ったことはどれだけ遂げられているだろうか。今一度、フンドシを締めなおし(おっといけない、ハチマキにしとこう(~o~;))、キリリといきたいものだ。
2/24 日 13.3   今日は午後から六斎念仏の会鑑賞なのねん。
でも、お昼にはまたまたおいしいラーメンを食べちゃったのでした。ついでに夜もタワワでゴージャス♪
昨日の夜鳴きや、ならびに本日の「大王老麺」の話は、下記アドレスのぶろぐ記事にて。
http://blog.goo.ne.jp/since20070214/e/4e53ff414336de8adc78efb2b7e72a6e
2/25 月 0.0   おやすみ
「自分の言ったこと、やったことにはキッチリ責任をもちましょう」…そのときそのとき自分の都合の良いように正論を主張したり、同情を引くような言動をとる偽善者は徹底的に否定する!そんな関係でしか結べない人間関係ならば、そんなものはハナからいらねぇ★のである!(ー_ー)!!
2/26 火 0.0   おやすみ
グリム童話が、実は18禁・15禁のようなドロドロした物語であったということは有名になった話だが、同じようなものは日本にもコッテリ存在する。『東海道中膝栗毛』もそのひとつで、同性愛者をホウフツとさせる放蕩男が、地に足のついた生活ができなくなった挙句のこととして東海道を旅する、入れ込んだ男を供にして…という発端から始まり、道中にもオンナあさりといたずらのテンコモリである。現代的にいえば、裕福な親の財産を食いつぶし、ウソやイジメでひとを小ばかにしながらオンナあそびにふけっている男…ということになる。サイテイだ!…こんな低俗な物語も、やがては文学・歴史上に代表的なものとして取り上げられるのだから、人の世というものはおもしろいものだ。ってなことを今さら知ったのは遅すぎる?もうちょっと本を読んだ方がよいかねぇ?(~o~;)…しっかし、「橋にも棒にもかからないような男」っていうのは、いつの時代にもいるもんだってこともよ〜くわかった。
ただし!この男たちが歩いた行程には注目している。伊勢神宮を訪ね終えたあとの「京見物」のコースが、RUNコースにはいい感じ!だからだ。こうして物語になるような旅物語は、当時「観光ガイドブック」の役割を果たしていたというから、多くの人がこの内容に類似したコースをたどったに違いない。そこをなぞりたいのであって、もはやヤジキタの足取りをおもしろくなぞろうなんていうことではない。
2/27 水 29.5   「センロは続くよどこまでも」…じゃない「センボ(ン)は続くよどこまでもなRUN。
千本五条〜羅城門〜うっかり桂川沿い〜納所〜淀駅周辺ウロウロ〜桃山泰長老〜伏見〜五条
北から南まで「これが昔の朱雀大路か」というような変貌を遂げた道であった。途中、かつての風景をホウフツとさせるもん、な〜んもナシ(-_-;)。伏見鳥羽の戦いの跡とか、二条城の石とかがあっておもしろかったけど☆でも、アタマの中では今日のコース、あるスンゴイ仮説が浮かんだんである!行ってよかったぞいヽ(~o~)/
今日はくもりがちな天候だったが、みぞれまじりに強めの降りになったのは、既にRUNを終えたあとのことだった。こんなタイミングで間一髪ラッキー♪な現象は、不思議なくらい今まで何度もあったことだ。仮に、「旅RUNの神様」のようなものが存在するなら、ワタクシはまだ彼には見放されてはいないようだ。ヨシヨシ。(~o~)
2/28 木 11.8   京都3大聖地コース?+鴨川
東寺脇の壬生通りと鴨川は、京都には数少ない「気がねナシまっすぐコース」!ゴキゲンナノダ〜♪o(~o~)O
なぜ今さら…?とみんなが思っているに違いない「ロス疑惑事件」。あれからもう27年か…って、その当時の報道映像がシッカリ記憶されているのがコワイ★(-_-;)ちょっと前まで「え〜、生まれてないからわかんな〜い」ってなことがたくさんあったはずなのだが…★
思えば、真相が解明されきっていない事件の内容を、根掘り葉掘りほじくりかえし、いろんなひとがコメントを加える「一億総評論家・一億総探偵」のような風潮を作り出したのは、このロス疑惑に関する報道がはじまりではなかったか。今や、事実を事実として述べるのがニュースの本業…を乗り越えて、あれやこれや私見を述べる番組があたりまえのようになった。メイクのせいかストレスのせいか、青白い顔色で病人のようになってしまった「F」の番組を昨夜久しぶりに目にしたが、何でもかんでも「否定的にかっこよくコメント」すればそれでいいというような雰囲気がますますひどくなったようだ。くだらない意見を言ってる暇があったら、もうひとつふたつニュースを増やせるのではないか?と思うのだが…はっきりいって、「F」にはこの分野の才能はないと思う。プロレスや野球の実況に戻ってまたイキイキと復活した方がいいと思う。
2/29 金 11.0   清水寺コース♪
坂道ヂカラはまだまだ健在!(~v~)ムフ。
生活保護を受けている人間が「仕事探し」を理由にTHAILANDへ。んで、保護費を削られたら違法だなんだで訴訟とな…昔から、「やくざのオドシにはビビリまくって保護費を大放出」する役所の体質は知っていたが、コトはこんなばかげたワガママを相手にしている次元にまで及んでいるらしい。何をどうしたか知らないが、飛行機代と訴訟の費用が出せるような(ひいてはそのようなエネルギーを持っている)人間に、生活保護費など必要ないのは言うまでもないことである。最近、こういう保護世帯が飛行機やタクシーで何百キロも遠方の病院に行っただのなんだのという怒り心頭な行為が次々報道されるが、こんなことが「社会保障の見直し」の理由にされたのではたまったものではない。本当に、困って困って「わらにもすがる思いで・恥を忍んで」受給するひとの首も同時に絞めるようなことがあっては、断じてならない(ー_ー)!!。
生活保護というのは、「健康で文化的な最低限度の生活」を送るために、それが満たされない世帯への「補充」を行う現状救済緊急処置的な保障制度である。廃品回収から拾った冷蔵庫や「叩くのがスイッチ」の14インチのテレビ、裸電球、擦り切れて床が見えるどころか隙間から地面が見えるような畳に暮らしてもイヤミ交じりに訪問検証されなおかつ、今ではあたりまえの高校ですら「義務教育じゃないんだから働け」と言われても、同世代がマックやミスドで友達とおしゃべりするような時間に使うような、こどものバイト代10円100円単位の小銭まで「差分計算の対象」にもって行かれても、「それでもなければ生きていけない」と、怒りと恥を押し殺していただくようなお金なのだ。これは、どこぞの裕福なコメンティーターが又聞きしたような事例ではなく、ワタクシ自身の過去の経験に基づく実証性の高い主張である。最近マスコミが「これは問題だ」と喧伝するような報道取材に延々と愚痴をまくし立てる人間に、そんな切実なムードが漂っているのを感じたことがない。本当にひどい状況にあったひとが出てくるのは、殺人事件になるような究極の事態になってからばかりではないか。…「本当にできないのか」「もう少し頑張れないのか」「甘えではないのか」…役所に言われてキレる前に、まずじぶん自身が問いたださなければならないようなやつに限って自己主張ばかりが先に立っている証拠だろう。(本当にダメなら何を言われてもアタマを下げ続けるしかない。キレることも余裕のひとつと役所は見ている。)
今朝は今朝で、TVはあいりんのホームレスの報道をやっていたが、「落ちるところまで落ちなければわからねぇよ」と嘯きながら、自らは身を持ち崩した原因であるギャンブルをいまだやめられず、3万稼いでも2日でなくなるなどと、一般サラリーマンでもやらないような生活を続けている。こんな人間が「選挙権がないのは違法だ」などと立派なことがいえるのだろうか。税金を納める住所確定者でも、転居のタイミングだけで選挙権がなくなる人間もいるのだ。そもそも、社会構造的にこの国に永久的なホームレスは成立しえないものである(と、高校時代に出会った大恩師は言われていた)。「どうしようもない」状態から一時ホームレスに堕ち、そこから這い上がった浅田次郎先生の存在など、その顕著な実例だろう。見舞われた現実にどう立ち向かうかの心持によって、人間は雲泥の差のありようを示すものなのだ。
このような「考慮対象外」の人間たちの騒ぎに追われるためか、本当に疲れて弱気になっている人々は、逆にお役所のストレス解消の的にでもなったかのようにイジメられている。ナスを3本買って1週間、ヘタまで焼いて食べるような生活を続けた身寄りのないお年寄りが亡くなったときに、「これでまた(保護費予算が)減った」と暴言を吐いたケースワーカーの存在をワタクシは知っている(私的に成敗した)。そんなせつない矛盾をなくすためにも、報道する者は「画像になる話」を優先して取り上げるようなあり方を一刻も早く改めて欲しい。本当に苦しい人、極限に悩む人は、決しておいそれと表には出てこないものなのだ。(できない相談とは言わせない。最初期の「24Hテレビ」はそれをやっていたのだから。)
豊かになったこの現代、「生きていくため・暮らすため」に求めるレベルが高くなった。さらに、ほとんどの生活要素が「外注化」できるようになったことが影響して、あらゆるものごとは「まわりに助けてもらえる」「まわりのせい」という意識をもつ人が多くなったようにも思う。「本当はじぶんがしなければならないこと」「今の状況で取捨選択しなければならないこと」が見えなくなっている。そんな人々にわたしはRUNを勧めたい。ただし、ひとりでモクモクと、自分自身に語りかけるRUNを。呼吸を知り、心拍を知り、孤独を知り、そして「自分を知る」。できることをできる喜びを知り、できないことに素直になる。それが自身の生活全体に波及的に活用されるようになる。…RUNがその場限りのお祭り騒ぎや、美辞麗句の応酬に終始する「軽い行為」として以上の価値をもつのはこんな部分にあると思う。
走行距離 336.9  km